第二章6 『精神の解放』
「わたしは何ともないわ。少し誤解とすれ違いがあっただけなの、許してあげてちょうだい」
胸に手を当てて、涙さえ浮かべながらアデリナが訴える。さながら映画の聖女系ヒロインの如き清純な言動に、演技する本人が吐き気を催しそうだ。
ジェシカはアデリナが演技をしていると分かっているのだろう、ぎりぎりと奥歯を噛みしめている。やはり彼女は聡明な少女だ。こんな男に尽くして死ぬのはあまりに惜しい。
怒りと焦燥感に、アデリナを憂う表情を足したリチャードが眉をひそめて反論する。
「君の安全が脅かされたんだぞ! まさかこの女を無罪放免にする気なのかい?」
「そうだと言っているの! いいじゃない、わたしは死んでいないもの。それに話せばわかるし、きっと仲良くなれると思うわ、お願いよ。ふたりきりで話をさせて。わたしに勝てる人間なんてほとんどいないんだから、良いでしょう?」
うるうる、とリチャードを見上げるアデリナ。
しばしの沈黙の末、手をこめかみに当てて、仕方のない人だと言うように深く息を吐いたリチャードが、厳しい顔でジェシカに向き直った。
絶対零度で憎悪の滲んだその表情に、ジェシカの肩がびくりと震える。
「……アデルの優しさに免じて、見逃してやる」
「ぁ、リチャ……」
「――君には心底失望したよ」
「あ」
リチャードに伸ばした手は誰にも取られることなく、彼の足音が去っていくのと共に力なく下ろされていく。
冷徹にジェシカを見下ろすその瞳が、彼女の脳裏に刻みつけられて離れない。
どうしよう。嫌われてしまった。失望されてしまった。これでは愛されない。間違ったことをしたのだろうか。でも婚約者は自分なのに。でも。
ぐるぐる、ぐるぐるとまとまらない思考が回転する。
涙を垂れ流したまま、頭を両手で抑えて震えるジェシカに、アデリナはかける言葉を慎重に選んだ。
――そもそも、ジェシカにアデリナを殺せるはずがない。
彼女だって本心ではこの暗殺が成功するはずがないと分かっていたはずだ。
前回の人生でアデリナがリチャードと結婚まで行った時も、ジェシカは何度も暴力に訴えることを試みたが、アデリナが反抗しようとしなかろうとそれが成功したことはない。
この子が、人を殺したり傷つけることなんて、そう簡単にできやしないと知っている。
リチャードの非人道的な命令に嘔吐するほど苦しみながら、彼に尽くすために実行し続けたその哀れな背中を見てきた。
「――ジェシカ、わたしには好きな人が居るの」
「なんっ……の、つもり……」
「その人は不器用だけど優しくて、勝手に部屋に入って一方的に告白しまくってあちこち付きまとったりしても怒らないで真剣に話を聞いてくれるのよね」
「いや何やってんのよ!?」
「うん今わたしもちょっと自分の行動をまとめてみてドン引きしたかも。でもこれで完璧に分かったと思うけど、天地がひっくり返ろうとリチャードのことではないわ」
「……そのようね。リチャードのこと好きじゃないのに、どうしてアタシから彼を奪うのよ!」
幾度も訴えてきたその問いに、今度もアデリナが答えることはなかった。ゆるゆると首を振ってから、まっすぐにジェシカを見つめる。
黒い瞳の中に、弾けるような強い光を放つ太陽が、見えたような気がした。
全身を射抜かれるような感覚に沈黙したジェシカを見つめて、アデリナは自分の話を続ける。
「――わたしはそんな自分でもドン引きするような行動を受け入れてくれるような優しい人を、自分の目的のために利用しようと思っているの」
「ハァ……?」
「たくさん傷つけるわ。約束は全部反故にするし、思いつく限りの酷い言葉を言うし、最も手ひどい裏切り方を選ぶし、事情も知らないふりをするし、そのうえで責め立てる。でも全部わたしの目的のためには必要な事なのよ」
「告白しといてそんなの、自分勝手すぎるじゃない……!」
ジェシカの心を動かすために、アデリナは自分のこれから犯す罪を並べ立てる。
言葉一つ紡ぐたびに、自分の心臓が矢に貫かれるような痛みに襲われた。ジェシカの言う通り、アデリナの行為は最初から最後まで自分勝手だ。
この計画が成功した暁には無数の賞賛を受けるだろうが、最も大事なものは永遠に失ってしまうだろう。それなら賞賛など何の意味も成さないと分かっている。
――ジェシカに伝えたいその言葉たちは、アデリナが『彼』に伝えたいことでもあった。
誰より優しい人。どうか、どうか、わたしを許さないで。
「そうよね。だから彼はきっとわたしを嫌いになるわ。そしてわたしはそうであって欲しいと思っている。人の心を操り利用するような人間と、優しい人が仲良くなんてしてほしくないと思ってる」
「当たり前じゃない、というかあんたはなんで好きな人にそんなことするのよ!」
「――だったら、貴女は? 貴女は、どうなのかしら?」
不意に、アデリナの瞳が昏い光を灯す。
真実を見抜くように、一片の嘘も許さないように、心の内全てを暴かれるようなその目に、ジェシカは背筋がひやりとするのを感じた。
逃げることは決して許さないと、彼女の目は語っている。
冷や汗が流れる。分かっていたことからずっと目を背けてきた人生が、その道をずらすような感覚。
「貴女はそれでいいの? したくないことをして、利用されて、使い捨てられて、罵倒されて、裏切られて。愛されていないと知っていながら、まだ続けるの?」
「アタシ、は……それでも、いいと、確かに……思ってて、だってアタシ達はいつか必ず愛し合うって……ずっと決まってた婚約で……」
「リチャードはセリーナと……まあこれからは一時的にわたしと共謀して、世界を手中に収めようとしている。彼の視線の先はいつでも自分の利益といつか被る王冠よ。わたしに愛を語るのも、あれは愛じゃなくてただ狂ってるだけ。あの男が愛するのは最初から最後まで自分だけ」
アデリナの声は毅然としていて、強くも落ち着いたものであり続けている。
それなのに、ジェシカは何だか自分を圧し潰す壁がゆっくりと迫ってくるような窒息感に満たされていた。
真実から目を背けるための欺瞞が、強制的に剝がされていく。
見たくないと目を閉じても、聞きたくないと耳を塞いでも、離してはくれない。
リチャードはジェシカがホーネットを名乗るのを許したのでもなく、癇癪を起こしても咎めなかったのでもなく、ただ無関心と無視を貫いていただけだと知っていた。
いくらジェシカが彼の腹心でも、いざとなればすぐに切り捨てるのだと初めから知っている。
愛を乞うて稀に応えてくれるのも、それこそ気まぐれであると分かっている。
その言葉にもその行動にも、一度も心がこもったことなどないと、理解している。
ただ目を背けてきただけで、真実から本当に逃れられる人間は、いない。
「やめて、やめて。もう言わないで。放っておいて、アタシに構わないで……!」
「貴女の精神が、その束縛から解放される日を心待ちにしているわ。……そうしたら、わたし、今度は貴女とちゃんと仲良くしたい」
何か言いたげな、少し気まずそうな、なんともいえぬ儚い微笑みを浮かべながら、アデリナがぱちんと指を鳴らした。
魔力がさらさらと消えていくような気配。いつの間に防音魔術なんてかけていたのか。
手を伸ばしても届かない光。どうしようもないほど輝かしく遠い場所にいる目の前の少女から、ジェシカは目を逸らした。
自分の罪から逃げずに向き合うのが彼女なら、加害者の罪を隠し擁護し続ける被害者の自分は一体。
「――また、会いましょう」
去っていく彼女の靴音が遠ざかるのを聞きながら、ジェシカは俯いて拳を強く握りしめた。
自分の中で何かが動いて壊れてずれていくのが、あまりに恐ろしかった。




