第二章1 『転向』
「――なんだ、アデリナ」
蕩けるような甘美な声色が、静かに室内を満たした。青年の狂うほどに恍惚とした光を湛える瞳が、手紙の文字を撫でるように追っていく。
紙を握る手が、ふるふると震えた。心臓の奥から迸る激情を抑えきれていない証拠だ。だが、もはや構うまい。
彼女はやっと正解の選択肢を選んだ。
セリーナと手を組んだのは元はカレリナを没落させ、彼女の選択肢を狭める目的だったが、その前に彼女はついに間違った道を歩くのをやめたのだ。
「やっと、オレの手を取る気になったんだな」
上ずりした声が、押さえられぬ口角が、鼓動の速い心臓が、恍惚とした目が、一切、全てが、自分と彼女の来るべき蜜月を祝福している。
そうだ。
それでいい。
この手を取って、そして。
――オレのいるところまで堕ちて来い、アデリナ!
〇
駐在人と外務代表としての事務を両立するのは、アデリナにとって大変な任務だった。この日々はまさしく疾風怒濤と言っても差し支えない。
というのも、駐在人として参加すべき催し物は思ったより多く、相変わらず日々移動だらけなのだ。
とはいえその移動も基本的にファンドーリン領内に限られるという点では、まだマシというところだろうか。
「はぁ。抜け出させていただきますよっと」
セリーナが壇上でぺらぺらと聞こえの良い口上を並べ立てているのを背景音に、アデリナはこっそり会場から抜け出した。
――彼女は今、ファンドーリンの主要都市デルトフスクで開催された、『各領文化会合』というイベントに、『駐ファンドーリンカレリナ代表』として参加していたのだ。
互いの領地の文化や言語などを交換し合い、貴族などの間から芸術作品も募集して交流を促進するという名目のようだ。
「……という名の、勢力拡大の場、ってところかしらねぇ」
アデリナは呆れた声でそう言いつつ、鼻で笑った。彼女がここにいても、現在会場の注目は全てセリーナに集まっている。
何せ、情勢は明らかに傾きつつあるのだから。
これまで敵対関係にあるかと思われたファンドーリン公爵家とホーネット公爵家が手を結び、カレリナ公爵家を封鎖する動きを示した。
貴族たちは、予測される大きな情勢の変化に備えるため、今や身の振り方を再確認しているようだ。
当然、薄い付き合いしかしたことのないカレリナ公爵家の味方をする者は、そう多くはなかった。
公爵家の『封臣』たちは当然味方ではあるのだが、例の二人の前では些か戦力に欠ける。
「とんでもないことになった。――でも、負けない」
そっと扉を閉めて、アデリナは外へ出た。夜の静けさが耳に心地よく、肌寒いそよ風も自然を感じられて快かった。
大きく息を吸うと、冷たくも美味しい空気が胸に充満する。
緑の茂る庭園を、月の明かりに照らされながら歩いた。
ここには誰もいない。自分を害そうとする人も、自分を嫌っている人も。この夜闇を歩くときだけは、ここには自分だけだ。
――どうするかは、もう決めた。
すべきことは分かっていて、既にそれを進めている。後には引けないし、今更変更だってできない。
だけれどどんな未来が訪れるかとっくに分かっていて、その未来は自分にとってあまりにも心痛くて。
来ると分かっている痛みをこの手で作り上げて、そしてそれを待つ。
なんと滑稽だろうか。
「――」
いや、訂正だ。
ここには誰もいない。そうだ。それは正しかったが、先ほどまでの話だ。
「――そろそろ出てきたらどうなの? 取って食いやしないのに」
息を呑む気配が伝わってくる。
先ほどから隠しきれぬ気配と抑える気のなさそうな緊張が肌に刺さってきて、苛立ちさえ覚えてきたところだったのだ。
もちろん公爵家でない人間にそれほどの技術を求めるのは酷だが、こそこそ隠れて機を伺うくらいならさっさと出てきて欲しい。そうでないなら、暗殺でもしようとしているのかと疑ってしまう。
――つくづく、自分が嫌な人間になってしまったのだと感じる。
「……も、申し訳、ありません」
「あら、貴方……」
がさ、と音を立てて出てきたのは、アデリナも見覚えのある顔だった。
端正な顔立ち。深い青の髪。首の付け根辺りで少量の髪が結われている。そして茶色の瞳。パーティにしては控えめな執事服。
一応、見たことのある顔だった。
「ディラン・ガルシア。ガルシア侯爵家外務代表でございます。ホーネット公爵からの伝言を預かってまいりまして……」
「そう」
ふわ、と風が吹き抜ける。恭しく手紙のようなものを差し出すディランと、毅然と直立するアデリナがまるで対比のようだ。
――ディラン・ガルシア。
ガルシア侯爵家は、ホーネット公爵領において最も有力な『植民地』だ。暫定的に外務代表の『いない』ホーネット公爵家において、部分的な外務事務を肩代わりするくらいには。
「公爵様より、公爵令嬢のホーネット公爵領訪問を求め、両公爵家の交流を歓迎するとのことです。この封筒の中には、ホーネット公爵領への列車のチケットがございます。一度首都まで赴いていただいてお越しいただく必要はありますが、最高貴賓の待遇でお迎えするとのことです」
「……分かったわ。どうもありがとう」
「ええ。あとこれは公爵様から渡すようにと。薔薇の花です。どうぞ。では私はこれで……」
「ねえ」
手紙と薔薇を渡して足早に去っていこうとするディランを、アデリナが呼び止めた。彼はぴく、と肩を揺らして、くるりと振り返る。
感情を閉じ込めてしまったかのような目。ずっと、その目がアデリナは気になっていた。
たくさん見てきたから。きっとホーネット公爵領で生き抜く彼もまた、そういうことなのだろう。
「セリーナにこの催しを開かせたのは、リチャードなんでしょう」
「……」
「貴方にこの手紙を渡させるために。わたしの推測は間違っているかしら」
呼び止めたはいいものの、口から出たのはそこまで良い話題ではなかった。確認したいことであったのは確かなのだが。
でも――、何か訴えたところで、今の自分には何もできやしない。
ヴィクトルとアレクセイの時と同じように。もっと根底からひっくり返す力がなければ。
アデリナの言葉に、ディランは悲し気に目を伏せた。
「……いえ。お話に聞く通り、公爵令嬢は大変聡明な方でいらっしゃいますね。願わくば……」
その瞳が何か言いたげに微かに震えて、アデリナの姿をとらえる。先ほどからできるだけ彼女を視界に入れないようにしていたが、心境の変化だろうか。
それとも、真摯に伝えたいことが、あるのか。
「――願わくば、公爵令嬢が世界の希望とならんことを……」
聞き取りづらいほど小さな声でそう囁いて、ディランは今度こそ止まることなく歩き去っていった。
ファンドーリン公爵領で起こっていたことは、当然ホーネット公爵領でも起こっていておかしくない。そもそも大抵リチャードの指示だろうから。
負けずとも劣らないどころか、何倍も悪い状況であるとさえ予測される。
その混沌とした環境の中で、リチャードの腹心として生きぬいている彼は、一体どんな苦しみを日々味わっているのだろうか。
「前回は、何一つ知らなかった。何一つ救えなかった。でも今回は」
目を閉じて、強く見開く。
もう迷わない。もう逃げない。もう焦らない。
――今回は、失敗しない!




