第一章37 『"あのひと"からの手紙』
切迫した口調のユリアーナの手紙は、同盟の現状への異常を訴えることから始まっていた。
『書類上は履行されたと記されている多くの約束が、反故にされてきています。精密機械は質の悪いものが増えてきており、専門家も多くの技術を提供してくれなくなりました。このままでは、対等な同盟足り得ません』
自室の執務室で手紙を読むアデリナが、ぎり、と奥歯を噛みしめた。
やはり、セリーナはあまりにも不安要素が過ぎる。あの女より上のところで何が起こっているか全く分からない以上、この先を予測する事なんて無理だ。
順調のように見えていた同盟としての交流に、亀裂が入りつつある。
(宴会で――、目立ち過ぎたか? でも、目立っただけで二大公爵家を敵に回すだろうか。彼らの実質的な勢力はわたし達よりもずいぶん上だ。リチャードが手を回したんだろうけど……何を考えているのか、心底分からない)
リチャード・ホーネット。彼は権力と利益の権化のような男なのに、絶えず愛をささやいてきた前回の人生を思い出した。
愛していると言っておきながら、その相手の自由の翼をへし折ったあの狂気。今回も、何かが彼の琴線に触れてそれを発動させてしまったのだろうか。
(どんなことが起こっているにしろ、事実、同盟が危うい。やはり、セリーナを頭に据えたまま同盟関係を続けるのは危険か……!)
ひとつ方法があるとすれば、セリーナを打倒し、ヴィクトルを当主に据えてリチャードに剣を突きつけるという流れを、一瞬のうちに終わらせること。
このうちのひとつでも工程が遅くなれば、ホーネット公爵家に全ての作戦が押しつぶされるに違いない。
加えて、本当に黒魔術の首謀者がリチャードなのだとしたら、彼には世界を操作する術があるということだ。
彼を刺激せずに、黒魔術を使わせずに、味方を失わせて無力化する。
さらに言えばこの過程で貴族同士の激しい対立や、当然戦争などを起こしたり起こさせてはいけない。合理的な解決方法が、求められる。
黒魔術の摘発はダメだ。汚職もはたけば出るだろうが、どうせ芋づる式に出てきて対立に繋がる。カレリナの名の下に正面から対立すれば、戦争が起こりかねない。――つまり『家』単位で解決を試みるのには、現実味がない。
リチャード本人を抑えられるような、何かはないのか?
(作戦を、立てよう。急がないと……)
これだけの利益を前にセリーナが結局リチャード側に回ってしまったのなら、彼女を篭絡することは恐らく不可能に近い。
誰を、どうやって動かせば、正解なのか?
誰も犠牲にならず、みんなが幸せに笑って迎えられる未来は――、どこにあるのか?
〇
宝石や高級家具などの輝く煌びやかな一室。ソファの上で足を組み、ワインを傾ける女性の視線の先には、机に置かれた一通の手紙があった。
手紙の印に刻まれた家紋は、――ホーネット公爵家のものだ。
「そう。やっぱり、利益があるのはこちらの方ね。新たな関係も魅力的だけれど……長年の相手の方が、余程やりやすいもの」
ファンドーリン公爵家当主、セリーナ・ファンドーリンがにやりと口角を上げる。その表情は、アデリナの前では見せられないもの。だけれど、リチャードの前では常時本性を出していられる。同じ泥船に乗っているのだから。
――それがそのまま、セリーナがカレリナ公爵家との同盟を裏切り、リチャードと表面的にも手を結ぶことを選んだ理由だった。
『セリーナ当主。今までオレたちは水面下で協力し合い、表では敵対している様相を周囲に見せつけていたが、それはもう終わりにしよう。これ以上カレリナの発言権の増大を、見過ごすわけにはいかない』
カレリナは常時蚊帳の外。ならば、貴族の中心にいたのはファンドーリンとホーネットだ。
この両家がどんな形で外交をしていたかと言えば、当然敵対関係だ。
セリーナが当主になる前は、裏も表も徹底した敵対関係だった。だが現在は、セリーナが頭を下げる形で水面下で手を結びあっている。
良いことも、当然悪事も、あまりに多く彼と合作しつつやってきた。
今更、正常な貿易と交流でほかの領地と関係を深めることで発展していこうだなんてことは、考える余地がない。
あまりにもずぶずぶに関わってきたリチャードと対立してまで、カレリナと『公明正大』な関係を結ぶのは、無理がある。
「確かにあの座は私も欲しいけれど……今彼と対立するのは危険だし、カレリナが私に迎合する可能性だってほとんどない。むしろ……」
手紙に書いてあった『その言葉』は、たった一言でセリーナに選択の決意をさせた。
『カレリナの強大化と、その精神の強さと正しさは、貴族界にあまりに大きな影響を及ぼす』
かつてファンドーリンの精神がホーネットにとって脅威であったように、そうした悪事に手を染めず誰とも利益を共有せず混濁した関係を持たず、信念を貫き各勢力から独立して光り輝く存在は、存在させておくことさえ危険だ。
アデリナは気付いていないかもしれないが、カレリナは固定した勢力を持たず誰とも駆け引きをしていなかったとしても、そうであるからこそ、その姿に憧憬を抱く者が出てくる。
現状に疑問を持つ人間の出現は、ホーネット公爵家の勢力圏にとっては大問題だ。
暗闇に差し込む光は、暗闇にとっては、罪になる。
だから。その光が世界全域に及ぶ前に――、可能性ごと、潰しておかなくては。
「残念ね、ファンドーリンを利用して何かをしようとしていたのか、どうなのかは分からないけれど……」
くい、とワインの杯を傾ける。のど越しの良い酒が香りと共に喉に流れていく。公爵家当主として、当然の如くワインは最上級品を揃えさせている。だから味は、素晴らしいものだ。
だが、それ以上の甘美さを持つものを、セリーナは知っている。
そしてどうせアデリナ・カレリナには分からないことだ。
――それが、あの少女の明確な敗因になるはずだ。
「――もう終わりよ、お嬢さん?」
手紙の隣には、カレリナ公爵領と同盟を結んだことによって得られた利益がリストアップされた紙がある。セリーナは実務をこなさないので、これは当然ヴィクトルがまとめたものだ。
同盟の効果は、著しい。この数ヶ月だけでも、ファンドーリンにとって成果は十分だ。
だから、あの恐れ知らずで純粋な少女に、社会というものを教えてあげよう。
約束というのは、破るために存在するのだ。
相手に絶対に約束を破れないように、制約を持たせない限り。
「数年分の食糧はもう問題ない。領地が死ななければ何だって良いわ。生きてさえいれば私の地位は保証される」
大規模な餓死や戦争さえなければ、領地の人間は怒りこそあれセリーナの地位を脅かすことはできない。
そのために、前当主が設立した学校を始めとする教育制度を、この手で打ち壊したのだから。異論と疑問を持ち、それを行動に移せる人間は、もうそうそう現れはしない。
「あなたの言うとおりね、リチャード卿。――この世の何よりも、力の味は美味しいわ」
ワイングラスを持ちあげたセリーナは、恍惚とした表情で杯の中を流れる液体を見つめる。
いや、見つめているのはワインなどではないだろう。
全てだ。そして全てを手にしたその先で、きっと見えるはずの景色だった。




