第一章31 『助けてあげて』
あの後忙しい中で時間を割いてくれたフェリクスの迅速な指揮のもと、サンドラ令嬢は拘束された。
ちなみに彼女が指摘されたのは公爵令嬢への不敬行為――、ではなく、精神異常が疑われる異様な行動であった。そういう訳で、彼女はしばらくラミレス伯爵邸に軟禁されることになった。
「――うん。これは、黒魔術だね」
珍しく灯りのつけられていない執務室で、鈍い銀の光を放つブレスレットを弄ぶイリヤが、そう宣言した。
父の正面に立つアデリナも、机の隣に座るアナスタシアも、はっと息を呑む。
黒魔術。
それは、かつて各国を滅ぼした魔王の力であり、禁忌の力。魔王が封印されてからはその力が使われる可能性はなくなったので、研究は一気に衰退したが。
「グラナートの方針転換で魔物や瘴気の研究に切り替えたけど、私はもともと唯一の黒魔術の研究者。絶対に、間違いはないよ。特徴も黒魔術のものに適合している」
「特徴、とは?」
「相手の精神に侵食する。その上、精神を歪めるだけでマナに一切手は触れないからか、使用痕跡が被害者に残らない。痕跡があるのは、媒介だけだ。黒魔術にはその主の持つ主媒介と散布できる副媒介があるが、これは副媒介だね。黒魔術の効果は、主媒介だけでなく副媒介も含め破壊しないと消えることはない。ちなみに主媒介は移動することができるから、全てを破壊して初めて効果が消えるとも言える」
「なんですかそれ、デメリットがないじゃないですか」
「ある。それは、黒魔術には即効性がないことだ。副媒介を相手に装着させることで一時的に相手を操作することもできるが、今回私達に露見したように、媒介には黒魔術の痕跡が付いているから見つかりやすい。だから普通は少しずつ相手に黒魔術を浴びせて、徐々に精神への侵食と操作範囲を高めていく」
迷いない父の言葉に、アデリナは沈黙した。彼の言葉には痛いほどの心当たりがたくさんあったからだ。
前回の人生も、そうだった。ゆっくりとだが周りの人間がみんな狂って歪んで変わっていく恐怖は、時が戻ろうとも心に染みついて簡単には消えてくれない。
――そして、今回も。前回と照らし合わせても、確信を持てた。
でもその確信は、あまりにも深くアデリナの心に傷をもたらした。
俯く娘の様子が変だと気づいたイリヤは、彼女が口を開くのを待った。
「拘置所で、サンドラ嬢に聞いたんです。そのブレスレットは……オークションで手に入れたと。だからマリアとエリカに、そのオークション自体を調べてもらったんです」
顔を伏せて、震える声でアデリナは続ける。
オークションの隠蔽工作は、ずさんなものだった。グラナートで黒魔術が分かる者がイリヤしかいない以上、露見するとは露ほども思っていなかったのだろう。
そんな頭の緩い人間がしたことを、今の今まで知らなかった。
「――セリーナなんです」
ぎりっ、とアデリナが奥歯を噛む。
あのオークションの裏に居たのは、セリーナだった。あの女が黒魔術の主媒介を持っていて、副媒介を拡散し、不当な方法で支持者を増やし手駒にしていた。
さらに言えばレナートに調べてもらった結果、例のブレスレットはミラも所持していた。これで、あの女の犯罪は確定した。
でも問題はそれだけではなくて、もっと根深いところにあって。
「だから彼がファンドーリンで反抗できなかった理由は、黒魔術で」
震える声を叱咤して、アデリナは必死に言葉を紡いだ。
ヴィクトルとファンドーリンの現状は、とっくにイリヤに話してある。セリーナの暴行も、公爵家の沈黙も、彼への理不尽な処遇も。
でもあれは、ただの暴行でもなく、ただの沈黙でもなく、ただの理不尽でもない。
暴虐で、凄惨で、吐きそうになるくらいの地獄だった。
「たぶん、三年、黒魔術を浴びていたから。だからもう、反抗の手立てが、なくて」
最初は、どうだったのかは分からない。知らぬ間に浴びて気付いたら遅かったのか、それとも何かで脅されていたのか。アデリナには、知る由もない。
――知ろうと、しなかったのだから。
サンドラは今も自宅に軟禁されているが、恐らくは遅れてやってきた黒魔術の後遺症なのだろう、朝から晩まで怖い怖いと泣き喚いているらしい。
仮にも上級貴族の伯爵令嬢が、たったあんな少しの時間影響を受けただけで狂乱してしまう程の威力を持つ黒魔術。
それ以上の苦しみを、彼は三年も受けてきたと。
三年も。
「でも、気付かなくて……っ!」
気が付かなかった。一ヶ月も一緒に居たのに。異変に気付くきっかけなんて、いくらでもあったのに。
そもそも最初からおかしいのだ。公爵家全体がセリーナに服従し、強大な力を持つ彼らが手も足も出ないで良い様に使われているだなんて、有り得なかったのだ。
暴力や暴言なんてものじゃない。もっとおぞましい、虫唾が走るような環境に、彼らはずっと浸されていたのだ。
でも、彼は何も言わなかった。
アデリナが来る前も、来た後も。
彼はこの三年間を、一体どうやって過ごしてきたのだろう? ああやって全てを諦めるまでに、一体どんな日々を耐えてきたのだろう?
よく考えれば、アデリナが策を講じる前にもセリーナの折檻は何度もあっただろうに、彼はそんな素振りは何一つ見せなかった。
毎度いつ治癒魔術を使っているのか、アデリナは一切知らない。屋敷の人間もきっと、知らない。彼はきっといつもひとりで。誰にも、気付かれないように。
そうやって、三年も。
気付かなかったなんて、そんなの全部言い訳だ。
自分勝手に踏み込んでいったくせに何も知ろうとしなかった。これは、アデリナの罪への罰に違いなかった。
無知なくせに人の心に不躾に踏み込んで、闇の深さも知らずに引っ張り出そうとした。人より一度多く人生を歩んでいるからといって、何でも知ったようなつもりになって。
その無責任が、自分の罪で。この痛みが、自分への罰で。
「わたしは、大馬鹿者です……!」
「アデル……」
瞳に涙を浮かべて、アデリナは自身の心情を吐露する。
罪の意識にさいなまれる娘の涙を前に、イリヤは何と言葉をかけたらいいか分からずにいた。
しかし、横に座っていたアナスタシアが、静かに立ち上がる。
――暖かな体温が、打ちひしがれるアデリナの身体を優しく包んだ。母の抱擁と彼女の香りに、アデリナの潤んでいた瞳からついに涙が零れ落ちた。
「……アデリナ」
「はい……」
珍しく、母が彼女の本名を呼ぶ。
優しくも威厳のある声が、絵の具を水に溶かすように耳に染み渡っていく。
その愛が、今はアデリナにとっての唯一の救いで。でも彼にはそうやって縋るものが無いと考えると、余計に。
「それが真実なら……」
ぎゅっ、とアナスタシアの抱きしめる手に、力がこもる。
「――その子をきっと、貴女が助けてあげてくださいね」
その暖かな声は、まるで部屋にそよ風を吹かせたかのようだった。
アデリナはその言葉に目を見張ったかと思うと、ついに防波堤が壊れたかのように、ぽろぽろと涙を流した。
そうだ。知らなかったから。無責任なことをしたから。その罰を受けたから。
――だからこそ、絶対に逃げちゃいけない。
「……反対、してたんじゃないんですか? わたしの、恋に」
「アデル。あなたの選んだ子が、酷い子だとは思いません。社交界の評価よりも、私の可愛い娘の目を信じているわ」
「そうだ。それは私も保証する。あれは純粋に母さんの心配性だよ。でもおまえが本気なら、当然応援する。万人の幸福を一手に担うカレリナが、自分の娘さえ幸せにできずしてどうする?」
アナスタシアの信頼が、イリヤの自信が、両親の愛情が。アデリナの動力と覚悟に変わる。
自分がどれだけ疾走しても、どんな挑戦をしても、どんな壁にぶつかっても。
この背中の後ろには、必ず愛して支えてくれる人たちが、いる。
アデリナ・カレリナ。
中立穏健にして平和主義。肥沃にして繁栄を謳歌するカレリナの大地に生まれ、人々を幸福に導く責務を持つカレリナ公爵家の外務代表にして次期当主。
であればこそ。
「――父上、母上、わたしは必ず」
カレリナに、敗北はない。この道の先には、勝利あるのみ。
――その精神を持ってこそ、カレリナの名を背負う人間に相応しい。
「この運命、ハッピーエンドで終わらせてみせます!」
――毅然とした目で、少女はそう運命に宣言した。




