第一章27 『君のいなくなった日常』
「日常」とは、特別なことなく繰り返される毎日、という意味だ。
要は決まりきった事が繰り返されていればいい。――だがもう、どこからが決まりきった事で、どこからが打破された部分なのか、判別さえつかない。
彼女が、ここにいない。
そのことがもたらす違和感の大きさは、自分が思っていたよりもいっそう大きかった。
しかし、今までの日常と、どこが変わったのか。
その境界線を探そうとすると難しいから、不思議なものだ。
「……ふぅ」
今日の任務を終えて、ヴィクトルは椅子の背に体重を預けた。細やかな白髪がふわりと動く。
ふと、部屋の明かりが目に入る。
彼女が来る前は、そういえば電球は非常に暗い照度に設定してあった。だが、いつの間にか照度を上げたのだ。それがいつだったかも思い出せない。
――その割には、彼女が居た時よりも部屋が暗いような気がした。
「……それも、当たり前か」
温度差の問題だ。情熱の塊のような少女がおらず、日々雪と氷の具現化のような自分がここで過ごしているのだから、自ずと雰囲気が暗くなってもおかしいことではない。
ただ、その沈黙の静けさが、今は何故か部屋に圧迫感をもたらすのだ。
「十一時……」
時計を見て、時間を口にして――、ハッと気づいた。
彼女が執務室に突入してくる時間は、何故か毎日決まっている。だからいつしか自分も決まった時間に仕事を終えて、時計を見て、彼女が来る時間を確認するようになっていた。
――でも、その少女は、もう来ない。
「……」
時計を見る癖ができてしまっても、別に彼女が来るわけではない。
もう帰ったのだから。もうこの家には住んでいないのだから。
どれだけ執務室の扉を眺めようと、勢いよく扉を開いて突入してくる人間は、いない。
静かだ。その静かさが、かえって耳にうるさかった。
「はぁ……」
自分は彼女に大きな影響を受けている。それはもう、認めざるを得ないのだ。
止まった時間を、閉ざした心を、凍った今を。
動かして、開いて、溶かして、――去っていった。
〇
そういえば、久々にセリーナに呼び出されている。まあ言いたいこと、というより八つ当たりは大量に積もっているのだろう。それとなくやり過ごして、終わりにすればいい。
いつもと大して変わらない。――でも、少しだけ、心持ちが違う。
『――先生、本邸へ行くんですか?』
ひとり、廊下を歩いていると、唐突にその声を幻聴した。
振り返る。
情熱を秘め、しかし凪いでいるような静けさを持ったその声は、この一ヶ月と少しの間に聞き慣れてしまった。
でも、振り返ったとして。
「――」
――何を、期待したというのだろうか。
彼女は、もうここにはいないのに。
〇
「――ミラが死んだのよ」
セリーナの第一声は、驚くほど意外なものだった。
扉を開けた瞬間にアイスピックが飛んでくるのではないかと一瞬思いもしたが、案外今日は彼女の機嫌はそこまで悪くないようだ。
ホーネットに援助でも貰ったのかとも思ったが、別の考えも浮かんだ。
少し前アレクセイに、セリーナがあの日ラヴィルを新聞社の前にお披露目したと聞いた。
もしかしたら、そのことですり寄られ、ラヴィルの後継者の地位が確定して気分がいいのかもしれない。
アレクセイはあの行為に憤慨していたが、自分は思っているよりそのことを淡々と受け止めた。
――彼女が、恐らく自分の何倍も憤怒していると想像できるから。
セリーナも空気の読めないことをする。彼女の地位を借りてラヴィルの権威性を証明するとは。お門違いにも程があるのだ。
「ミラと、その弟が死体で見つかったと、報告があったの。せっかくこの手で探し出した駒なのに、もったいないわ。お前は何か知らないの?」
「……何も」
知っているか知らないかと言われれば、知っている。
彼女とその護衛騎士によって精密に行われた偽装工作は、やはり上手くセリーナを騙しきったようだ。
「ハッ、まぁそうよね。――そんなことより、命令があるわ。聞きなさい」
セリーナの腕から、見慣れた光がきらりと輝く。
ぞく、と体の芯から戦慄する感覚を覚えながら、意識が靄がかっていく。ぐるぐると脳漿をかき回される嫌悪感は、いつまで経っても慣れない。
足元がぐらつきかけるが、何とか踏みとどまる。少しでも彼女の思う通りでない動きをすれば、何かしらの武器が飛んでくるだろう。
「次の宴会も、ラヴィルを連れて行くわ。でも今回は、あの子を前面に出す予定よ。後方事務はお前がやりなさい」
「……」
「この宴会はラヴィルの大事なお披露目の会になるわ。全ての視線をあの子に集める必要があるの。リチャード卿からも支援する旨を貰っているわ。――だからお前は宴会への出場は厳禁よ。いいわね?」
「……了解」
まさか本当に、セリーナは今回の宴会は自分が主役だとでも思っているのだろうか。勘違いも甚だしい。
今回の宴会は、間違いなくカレリナ公爵家も参加することだろう。その光を差し置いて全ての注目がホーネットの傀儡に集まるなんて、そんなことがあるはずがない。
――次の宴会。何もセリーナの思い通りにはいかないだろう。
ふと、自分の思考がいつに増して活発であることに気づいて自身に驚いた。
これも、彼女の影響だろう。間違いなく、何かが自分の中で変わっていっている。ただ、恐れていたものとは違って、この感覚は嫌ではない。
積極的な活動を行っていた、かつての自分が思い出されて。
「――そういえば駐在人も変わるのよね。誰になるのかしら……」
ぶつぶつとつぶやくセリーナの声は、もう耳に入らない。
――これからの未来のことを、考えた。
今日たまたま機嫌がいいだけで、今後も通常通りセリーナの折檻は続くし、自分は当然アレクセイも反抗は出来ないし、ラヴィルは扇動し嘲笑してくるだろう。
だが、何故だかそれらを鼻で笑うような感情が湧き上がる。
あのブレスレットが光るたびに消えていく何かが、今日は。
「――何よ。何を笑っているの!? 思い上がるな! お前の『外務代表』は名ばかりよ。お前に実権が与えられることはないわ! すべては、私のものよ!!」
「――」
「――!?」
何故か笑みを浮かべていたらしく、セリーナに指摘された。甲高い声が部屋中に響き渡るが、前ほど耳を通り越し脳まで突き刺してくるような威力は、感じない。
そして予想通り、アイスピックが飛んでくる。その位置は明らかに殺しに来ているが、ふいっと頭を傾けて避けた。
避けるなと『命令』されればそれまでだが、痛みを黙って受け入れるのは――、変ではないか。
「~~~~!! ~~~~~!? ――――!!」
セリーナが何かわめいているが、真面目に聞く気はさらさらない。
人に八つ当たりしかできないのか。嫌いな人間だろうが利用する必要があるから、どうせ殺すこともできない。それを上回る能力がこの女にはないから。
だから自分には、外務代表としての実権を取り戻し、元老院に要求をし、討論をし、勝ったり負けたりしながらよりよい社会のために努力する権利があると。そう、彼女は語っていた。
――お前を愛する人間なんかこの世界には一人としていないのよ!!
不意に、かつて心の臓に叩き込まれたその言葉が蘇ってきて、しかしそのまま横切って通り過ぎて行った。
セリーナ・ファンドーリン。残念だが、それは嘘だ。この世界でたったひとりだけれど、この目を見て愛していると語った人が、いるのだ。
――どうやら僕は、愛されている。らしい。
そうだろう?
アデリナ。




