第一章20 『好きな人を釣る方法』
アデリナ・カレリナは幸せな気分でいっぱいだった。当然時間が戻って愛する人にもう一度会えて、もう数週間一緒に暮らしているので、もともと半分キャパオーバー気味で幸せなのだが。
それでも、今日は格別だ。明日はセリーナとの会談があって苦痛だけど、昨日はついに彼に自分の好意を信じてもらえたのだ。
(いや、でも、まさかそこからだったなんて……)
最初の数回ならともかく、言動で愛を示したはずなのに、一歩も進んでいなかったとは。
だからこそ、もっと頑張らねばならない!
「せんせいっ!」
ばーん、と勢いよく彼の執務室の扉を開いた。
彼は扉付近に立っていて、急な事だっただろうにもはや驚いてももらえない。
「何だ」
「お菓子を作りました。手作りです。食べてくれませんか?」
「……書類を、取りに行くところだったんだ」
そそくさ、とヴィクトルは退散しようとする。こういうところは、信じてもらえても変わらない。
だが、当然この程度でくじけるアデリナではないのだ。
「逃げるんですかっ!? 外務代表! 女の子の、作った、お菓子から!」
「っ……。君の騎士にでも食べさせろ」
「嫌です。好きな人に食べてもらうからこそ意味があるんです」
たぶん、ヴィクトルはそういうことに理解がない。だから、アデリナが一個一個解説するのである。
好きな人、という単語が逆効果になったのか、彼はドアノブに手をかけてしまう。
――ならば、ダメ押しの一手。
これさえ言えば、もはや逃げることは不可能だ。
「――『共和とはなにか』」
「!」
ぴたり、とヴィクトルが手を止めてアデリナを振り返る。両手を後ろに、神妙な顔つきで立つアデリナは、続ける。
「『共和とは、国王のいない国の体制である。その政治は、特定の誰か、または小集団の利益のために動かされず、常に多数の人々のために行われるものである。グラナート共和国は、共和の名を冠する天下唯一の国家である。その政治は、誰のためのものか。元老院か。高位貴族か。それとも、大公家なのか。どちらにせよ、グラナートの政治は、両手で数えられるだけの人数が、両手両足で数えられる人数のために、行っている』」
固まっているヴィクトルをよそに、アデリナは大きく息を吸って、
「『――私はそれを、弾劾する』」
その言葉を、口にした。
しぃんと、やけに長いような、でも実際は数秒にも満たない沈黙が、室内を満たした。
その沈黙を打破したのは、ヴィクトルの方だった。
「何故、それを……その本は、出回るのを禁止されているはずだ」
「ご存知の通りカレリナは治外法権なので、少量ですが出回ってます。そしてわたしはカレリナの娘で、外務代表で、次期当主です」
「……そうか。読んだんだな」
「記憶するくらいに! わたしが貴方を先生と呼ぶ理由は、これです。わたしより考え方がずっとずっと先進的です。『共和とはなにか』、良い本です」
『共和とはなにか』。
一年革命の前後で、ヴィクトルが書いた本だ。内容は、彼の『共和論』について。アデリナが暗唱したのは、その序章である。
今は純粋に禁書になっているが、カレリナでは逆に密かに人気だ。
そもそもあの革命は当初割と多くの人が賛成だったのだ。カレリナも、そうだった。
アデリナは目を輝かせて褒めたが、当の本人はなんだかわたわたしている感じだ。
まさか感謝の言葉を口にするのが難しく、だけれど言うべきだと葛藤しているとはアデリナも思っていない。
だから、アデリナはふと思いついたことを勢いで畳みかけた。
「――そうです! 発表しちゃいけないなら、温めておきましょう。膨らませて、完璧な理論を造り上げるのです。いつか出した時に、みんなを唸らせるくらいに。一緒にやりましょうよ、わたしももっとたくさん教えてもらいたいです」
「共和論を、完璧に? 君と?」
「はい! 意見を出し合いましょう、ひとりだと偏りがちですから」
「……確かに。そうだな」
その後もアデリナとヴィクトルはわいわいと話し込んで、寝る前に執務室に集まり、共和論やその他のことについて考えることに決めたのだった。
もちろんそうと決まったならば今日から。
まだ夜にはなっていないが、興が乗った二人はその瞬間から朝方まで喋り続けた。
――ただこれは明日になり、不覚にも目の下のクマをセリーナに指摘されてしまうという屈辱に繋がったのだった。
やはり、良い子は早寝である。
夜の話し合いはするが、それに時間制限を設けることにした。
そうして、定例報告に討論会が加えられて。
それなのに、いつの間にかアデリナが仕事を理由に追い出されることは、なくなっていた。
〇
「あっ、お菓子食べてもらうの忘れちゃった。レナートいる?」
「……いりません。怖い、です」
「何が?」
「……報復……」
「え、どういうこと?」