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第一章19 『貴方に愛に来たのだ』

 傷つかなくなった。心を動かされなくなったから。

 怒らなくなった。期待するのをやめたから。

 恐れなくなった。全てのことを諦めたから。

 ――心の扉の鍵を固く締めて、この身を全てから守っていた。


 でも、彼女は。


 何故か懲りずに、諦めずに、この手を引いて固く閉じた世界から連れ出そうとする。

 代わりに傷ついて。代わりに怒って。代わりに恐れた。

 強大で、世界を揺るがして、ひとりで巨大な勢力を持てる自分の前に、彼女は、立ちはだかって守ろうとする。


 そんな彼女を、僕は一体どうしたらいいというのだろう。



 早足で、執務室から出る。普段の時間なら、もうすぐ彼女が執務室を訪問してくるころだ。

 ――だからだ。意図的に避けているのだ。


 ヴィクトル・ファンドーリンの心は、揺れている。何かが少しずつ変わっていく感覚を認められないが、否定は、できない。

 だが失うと分かっているものに深入りして、どうするというのか。新しい心の傷を増やして、また嘲笑の矢面に立つのか。それで、どうなる?


「――っ、先生!」


 聡い彼女は、もう気付いただろう。その声には、少しだけ焦りがこもっている。

 はやく、やめればいいのに。いっそ、嫌いだと言ってくれれば、今まで通り扉の奥に閉じこもって無になれるのに。


「わたしのこと嫌いになったんですか? 毎日好きだって言うから嫌になったんですか? それならわたし、もう言いません……!」


 震える彼女の声を聞いて、足を速める。

 この声を、これ以上聞いてはいけない。これ以上は、もう後戻りが――、


「っ、先生!」


 ぱし、と、思わずといった感じでアデリナがヴィクトルの手を引いて引き留める。

 とはいえ手の大きさがあまりに違うので、指を掴んでいるようなものだ。


 ――それでも、ヴィクトルにとってはその程度のことではなかった。

 少しずつ、その温度が手に伝わってくる。

 長い間忘れていた、温度。人の温度。それは、希望よりも自分にとって絶望と恐怖の象徴だった。

 じわじわ、じわじわと。暖かさが、染みてきて、


 ――かつて自分と父を慕った人々と、父が死んでからの彼らの言動が突如脳裏を横切った。


「――!」


 恐怖なのか、それともただの反射なのか、自分にもわからない。それでもその手を振り払った。

 その後に、自分が何をしたのか、気が付いた。


「ぁ」


 いつも太陽のように輝いて、自信満々で、全速力で駆け抜けているような少女。

 そんな彼女が今は目を見張って、何か言いたげで、気まずそうで、傷ついているように見えて。そんな顔を見るのは初めてで。


 心臓の奥で、何かが耐えきれないと疼くのを感じた。

 だが自分にとってはそれも初めてで、それも恐れて、振り切って追いやって覆い隠すために、感情に任せて口を開いた。


「もういいだろう、付きまとわないでくれ……!」


 言ってから、またその台詞の刺々しさに気づいた。

 でも、これでいいとも思った。これで彼女はもう懲りただろう。もう、きっと偽りの好意も口にしないし、自分が心を揺らされることも、もう、ない。

 だから、止めずに勢いのままにまくしたてた。


「策略なんだろう、どうせ嘘なんだろう? どこかで僕を笑ってるんだろう。どうせ裏切るなら、早くしてくれ……! 僕は、騙されない」


 目を伏せて論理的でも理性的でもない言葉をぶちまける自分は、彼女にどう映っているだろうか。優しい心を持つ人間を勝手に非難したうえに、その視線とさえ向き合わず逃げている、自分は。

 人を傷つける言葉を吐き続ける自分が、ひどく醜く思えた。セリーナの言う通りだ。これでは自分を愛する人間なんていない。

 例え革命に失敗しなくても、セリーナが手を回さなくても、そうだったに違いない。


 彼女は、どうだろうか。もうあきらめただろうか。もしかしたら、泣いているかもしれない。そして逃げて、セリーナに本邸に住むように願いに行くのかも、しれない。

 恐る恐る伏せていた目を上げて、彼女と視線を――。


 息を、呑んだ。


 この短い時間に何を考えたのか。

 アデリナ・カレリナはいつもと変わらぬ威厳を放つ佇まいで、毅然とした瞳で、炎のごとき熱量で、逃げず、隠れず、ヴィクトル・ファンドーリンを見つめて離さない。


「――わたしは、貴方を、愛しています」


 そうして彼女は、幾度となく言い続けた言葉を、繰り返した。


 アデリナの目には、しっかりと彼の姿が映っている。自分を守るように、彼の左手は衣服を心臓近くで掴んでいる。

 苦しいのか、悲しいのか、どうなのか読めない。でも自分の言葉で彼の表情が歪んで、感情が揺れたのは、分かった。その痛みを作ったのが自分であることが、申し訳ない。


 でも、信じてくれるまでこの愛を語ることは譲れない。

 時を超えて帰ってきた、なんて言えない。一度死んだ話ももちろん、その人生での邂逅の話も、できない。

 でも魂に刻まれたこの愛だけは、どれだけの時間が過ぎようとも本物で。


 カレリナを除いて、世界を敵に回したって構わないと断言できるくらいに。

 貴方を愛している。だから何度別れたって、わたしは貴方に会いに来て、懲りることなく愛を叫び続けるだろう。

 いつか、信じてくれる日まで。くじけることは、ない。


「貴方がどんな濡れ衣を着せられていようと、どんなことを刷り込まれていても、例え貴方自身が貴方を大嫌いだったとしても、貴方がどれだけわたしの事が信じられなくても。わたしは貴方を愛している」


 ぐらぐら揺らぐヴィクトルの心とは違って、アデリナは全ての言動に一本の芯が通っているかのようだ。


 ――彼女は最初から、一度も揺れたことがない。

 キャロルへの復讐。宴会での同盟申告。別邸での毎日告白。セリーナとの闘争。工場での激励。

 好きだと、愛していると、彼女はずっと全身全霊で、伝えていた。

 よく考えれば分かることだ。上述の全てに、利益が入る余地は、ない。


 だとするならただヴィクトルが逃げていただけで、認めたくないだけで、拒絶して回っていただけだった。


「この愛に利益だの権利だの汚れたものは入れません。純粋無垢な愛です。社交界の評価なんてはなからどうだっていいし、先生のことは心配ですがわたしはセリーナの報復なんて恐れていない。忠誠心は第一位ですが、それを除けば盲目なので、わたし」


 ふふん、とアデリナは自慢げにそう言った。

 傷ついていないはずがない。愛を振り払われ続けて。怒っていないはずがない。信用さえされなくて。恐れていないはずがない。嫌いなのかと尋ねるくらいなのだから。


 どうして。

 幾度となく考えてきたその問いは、やはり口に出せなかった。

 恐れてしまったから。その答えを。だからもうきっと、この扉はとっくに。


「君は……カレリナの人間だ。領地と、君の名誉は……」


「――愛で汚される名誉なんて、ありません」


 きっぱりと、アデリナはそう言い切る。

 その言葉を、ヴィクトルは何度も反芻した。彼女の語る愛はあまりにも純真で、希望に満ちていて。

 その瞳に自分を映した時の熱量は、初めて会った時から、変わらない。


(あぁ、そうか)


 ――アデリナ・カレリナは、ヴィクトル・ファンドーリンを愛しているのだ。

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