第一章15幕間 『後悔、落胆、感服』
セリーナはあの後先生に本邸出入り禁止を言い渡し、ついでに半径数メートルの接近禁止も言い渡した。資料の管理ももっと厳重になった。
ここでやっとセリーナはわたしに部屋を変えないかと持ち掛けたが、当然断った。適当に、目の届かないところにいると逆に怖い、とでも言ってやりすごした。
あとは、穏便にいきたいと言って緘口令も敷かせた。
これで、この騒動の中身を知る者は誰もいなくなる。わたしと、セリーナと、きっと奥で聞いていただろう先生を除いて。
スマートに解決したように見えたかもしれないが、つまるところわたしは噂の人間像に従った『ヴィクトル・ファンドーリン』の行為を偽造し、根も葉もない非難をすることでその場を切り抜けた。
見て見ぬふりはしなかったが、わたしもまた同じ汚れに染まることを選んで偽善者になった。
――あの人間たちと同じことをしている。それが頭をよぎるたびに、吐き気がこみあげてくる。
嫌がったもの、憎んだもの、恨んだもの、同列に並びたくなかったもの。それらと同じ顔をして、同じ声で、同じ言葉を吐いて――、わたしは、自分の身勝手な言動の代償を、払っている。
そのくせそれを彼を短時間でも救う方法にするだなんて、なんたる欺瞞だろう。
わたしの頭がもっと良ければ、もっと上手く事を運べれば、きっとこんな事態にはならないのに。こんな後悔も、もう一度や二度ではないくせに。
――一回目の時も、そうだった。結局のところわたしは頭が悪くて、肝心な時に何もできない。
カレリナへの敬愛と先生への愛情が衝突して、地団駄を踏んだ。それは、初めての事ではない。一度目も、そうだった。
彼と共に生きていきたいが、わたしの人生は愛情一本で動いてはいない。というより、それは許されない。
守るものがあって、倒すべき敵が居て、変えねばならない未来がある。
すべてを全部完璧にこなす方法は、あるのだろうか?
どうしたら、いつかみんなで平和に、幸せに、暮らせるのだろうか。
〇
その少女は、たぶん闇など知らない太陽のごとく輝かしい人間だ。
自分に実権がないことはもう分かっているだろうが、それでも毎日声をかけてくる。人を死んだような存在として無視し迫害することはきっとできないのだろう。
目的の為なら手段を選ばないような気迫は見て取れる。ただ、打算を込めて好意を偽ることができても、誰かを陥れるために虚言をでっちあげるような人間ではないはずだ。
ならばきっと――、彼女は気付いてしまったのだ。
ファンドーリン公爵家最大の闇に。
カレリナには特殊能力があるが、その正確なところはあまり明かされていない。彼女はそれを行使して、全てを把握したのかもしれない。
いや、彼女がどうやって、という話はもはやどうでもいいのだ。
ただ、家族と確固たる関係を築き、友人と日々談笑し、多くの人に囲まれて生きる彼女に。そしてそのうえで恐れずあの場で自分に手を差し出した、輝かしく強いあの少女に。この凄惨な境遇を見せたくはなかった。
そうしたら、彼女は強い衝撃を受けてしまうに違いないし、自分などにも手を差し出した少女の純粋な目を汚したくはなかった。
それでも、少女は全てを理解して。
そのうえで、立ち上がった。
会議の資料は、彼女の方から自主的に提示した物だ。それもあの日のために用意した陰謀だと言われればそれまでだが、少女はセリーナの調査を拒否したし、自分を本邸に行かせないように事を運んでいた。
その行動は、部屋の惨状を知った後の反応以外には考えられない。加えて、あの後すべてはでっち上げだと直接説明された。すべて陰謀としては説明がつかない。
だからつまり、少女は過激な暴力を目にし、義憤に駆られてセリーナを欺いて止めた。
露見すれば同盟は危ない。カレリナの名を背負う彼女が、大きなリスクを冒して自分を救おうとしたのだ。
自分のような者まで救おうとするとは、これから先社交界を生き抜いていけるか少し心配にもなる。
だがそれ以上に、この件で彼女は衝撃を受けて、社交界の汚れを実感してしまったのではないかと考えるとやるせない。
社会で「死んだ」存在として受け止められている自分のせいで、彼女の人生に影響が出たら、どうするべきだろうか。
自分は助ける価値がないから二度とするな、なんて言うわけにもいかない。そういう世界も、彼女は知らないはずなのだから。
ならばとにかく自分は、少女に感謝の言葉を伝えるべきだ。
だが、自分から能動的な、歩み寄るような言葉を吐こうとすると、心が強く震えて言葉が出ない。
そうだ。自分は、拒絶しかできない。拒絶される前に、最初から嫌われておく方がいいと覚えたから。それ以外の生き方はもう、忘れた。
それならまさしく、自分は助ける価値がないに違いない。
彼女の目と心を汚した。その上彼女に救われて、感謝の言葉さえ口にできない。
見放されて当然の人間に、彼女は何故今日も歩み寄るのか。
計略なのか。純真なのか。打算なのか。利益なのか。無知なのか。それとも。
分からない。何も。
分からないし、これ以上は深入りしない方がいい。
心の奥深くで何かが警鐘を鳴らすのが、ぼんやりと聞こえた。
〇
あれからも、公爵令嬢は変わらず愛の告白を続けており、兄上は通常通りスルーしたり跳ね退けたりしている。
ただ、ふたりと個人的に話すと、公爵令嬢は自責に押しつぶされそうなようだったし、兄上は落ち込んでいるようだ。
あの日のことが原因であることは、語られずともわかっていた。
ただ僕の目線からすれば、兄上は最初から何も悪くないし、公爵令嬢はあの場でベストの回答をしたと思っている。
セリーナは完全に騙されているし、僕は初めてあの女を止めてみせた令嬢に感服している。敵を欺き味方も増えているのに、肝心の本人たちは一片たりとも満足していなかった。
内政不干渉というのは、暗黙の了解だが非常に重要な原則。特に同じ家格の間では、法のごとき不文律だ。
公爵令嬢の行為は、その不文律打破すれすれだった。それは大きな挑戦だ。下手をすれば、大問題になりかねない。
そもそも付き合ってもいないのに好きだというだけで、なんでもやってあげて全てから守らないといけないということにはならないし、そもそもセリーナの暴挙に沈黙を貫くファンドーリン公爵家全体の問題なのだ。
それに、僕の目から見ても兄上は公爵令嬢に冷たすぎるし。あのままだといつか愛想を尽かさないかと少し怖いくらいだ。それを含めて、彼女に兄上を守る義務なんてなかった。
だけれど彼女は、守ることを選んだ。
彼女はそのやり方に不満かもしれないが、少なくともあの時、セリーナの命令に従って人払いをしたり、家族なのに壁の陰に隠れて見ているしかなかった僕よりは、ずっとずっと勇敢だった。
公爵令嬢は、あの惨状を目にした衝撃で透明化の魔術が解けてしまっていた。だから、僕も彼女に気づいた。
恐れて、混乱して、憤って、考えて、決心して、選んだ彼女の心の動きに。
――だから、その輝かしい後ろ姿を見て、僕は初めて幸福な生活への希望を抱いてしまったのだ。
困った事だ。彼女にそんな義務はないと、考えたばかりなのにね。




