第七話 始まり(中)
伸淡のキッチンには濃厚な香りが漂っていた。可雅と可泣がコンロの前で忙しく動き回り、鍋返しの音と油の跳ねる音が重なり合う。
「姉、この魚の蒸し時間はあとどれくらい?」可泣が葱を握りしめながら顔を出す。
「あと五分」可雅は青菜を炒める手を止めず、「醤油を取って」と続けた。
リビングでは丘杰と蘇格が食器を並べている。
「おい蘇格、この箸の並べ方ぐちゃぐちゃじゃない? 喧嘩させたいのか?」丘杰が嫌そうに箸の位置を直す。
蘇格は肩をすくめた:「どうせ最後は散らかるんだから、気にすんなよ」
寝室では、蘇亞が鏡の前で髪を整えていた。頬を薄く染め、今日は新しく買ったドレスを着て伸淡を驚かせようとしている。
「師匠、気に入ってくれるかな……」つぶやきながら、無意識に髪の先をくるりと巻く。
ピンポーン───
突然のインターホンが室内の笑い声を遮った。
「私が出る!」可泣は手を拭い、急いでドアに向かう。
ドアを開けた瞬間、来訪者の顔すら見えぬうちに──
「ドン!!!」
真紅のエネルギーが可泣の胸を貫き、血が玄関の壁に飛び散った。可泣の体が吹き飛ばされ、食卓の脇に激突。割れる食器の音が耳をつんざく。
「可泣───!!!」可雅が叫びながら駆け寄るが、弟の体に触れた手が凍りつく。
胸には……完全に穿たれた穴。もはや呼吸はない。
丘杰と蘇格は即座に戦闘態勢に入り、ドアに立つ二人の姿を認める──
「ボラドール・紅」と「ボラドール・藍」だ。
紅髪の男は優雅に微笑み、藍髪の男は無表情で冷たい視線を投げかける。
「賑やかだな」ボラドール・紅が軽く笑う。「年夜飯か? 残念だが……お前たちは食べそこなった」
寝室で物音を聞きつけた蘇亞がドアに向かう。ドアノブに手をかけた刹那──
ドン!
背後から襲われた蘇亞は意識を失う。黒ずくめの影が彼女の額に手を当て、魂保管器を取り出すと、難なく蘇亞の魂を引き抜き封じ込めた。
「…………」
彼は伸淡家のリビングを一瞥し、転送門を開いて消えた。
丘杰の瞳が収縮する。ボラドール・紅の体内の血液を操作しようと手を上げるが──
……反応なし。
「まさか……!?」震える声で呟く。
「俺の体内の液体を探してるのか?」ボラドール・紅が首を傾げ、残酷な笑みを浮かべる。「残念だが、俺は『生物』じゃない」
丘杰は歯を食いしばり、キッチンの流しの水を一気に空中に引き上げる。手の中で水は流動する刃となり、指先でなぞると青い毒が塗られた。
「ならこれで!」
斬りかかる丘杰に対し、ボラドール・紅は手をかざすと刃の前半分が消滅。しかし水の刃は流動する。丘杰が手首を返せば新たな水が隙間を埋め、槍と化して相手の喉元を突く!
ボラドール・紅は軽く体をかわし、槍先が首筋をかすめて浅い傷を残す。
「面白い」彼は目を細める。「だが、どれだけ持つかな?」
可雅と蘇格はボラドール・藍に同時に襲いかかる。可雅の体術は鋭く、蘇格は能力で相手の「コード」を解析しようとする。
「能力構造を見せてもらおう……」蘇格の瞳にデータストリームが走り、指先で半透明のルーンを描く。「無効化・体力削減!」
コードがボラドール・藍の体に絡みつくが、次の瞬間──
「エラー:権限不足」
真紅のポップアップが蘇格の眼前に炸裂し、瞳が収縮する。
「な……!?」
ボラドール・藍は冷たく見下ろす。「蟻が神の権限を弄ぶとでも?」
手を振るえば蘇格の能力は強制リセットされ、逆に自身にダメージが跳ね返る。血を吐く蘇格に可雅が盾になろうとするが、ボラドール・藍の速度が上回り──
「ドン!!!」
二人は見えざる力で吹き飛ばされ、丘杰にぶつかる。
丘杰がボラドール・紅と戦う中、背後から風切音。振り向く間もなく蘇格と可雅の体に叩きつけられ、三人とも床に倒れる。
ボラドール・紅が上から見下ろし、ゆっくりと手を上げる。
「ゲームオーバーだ」
───真紅の光が全てを飲み込んだ。
薄暗い部屋で、ドーライはベッドに横たわり、かすかな呼吸をしている。ウェンデルとドリアはリビングで、浮かぶ水晶玉に映るあの夜の光景を見つめていた。
ドリアは水晶を睨み、声を絞り出す。「……これが、丘杰おばさんたちが襲われた夜の出来事」
「おばさん」と呼ぶとき、彼女の指は無意識に服の裾を握りしめていた。
ウェンデルは水晶玉を凝視し、低く問う。「あの夜……蘇亞さんの魂を持ち去り、ここに送り届けたのは誰だ?」
ドリアは首を振る。「わからない」
彼女の記憶では、その人物は全身真っ黒で、暗闇に浮かぶ真紅の文字だけが──
「権限不足、観測不可」
ウェンデルが記憶水晶を見つめ、声を嗄らせる。「その後は? 伸淡様が能力を失って……どうなった?」
ドリアの指先が水晶表面を撫で、映像が揺らぐ。「死にそうになった」そう言いながら、ベッドに横たわるドーライを見る──彼女のまぶたが微かに震え、指が無意識に縮こまる。
伸淡は崩れかけたホールに立ち、体内の能力──あの慣れ親しんだ力が、何者かによって完全に抹消されていた。胸の中が空っぽで、力が消えただけでなく、何かが奪われたような感覚。
歯を食いしばり、ボラドール兄弟に突進しようとするが、一歩踏み出した瞬間、両肩に手が置かれる。
ヘルメスとモーメイが、いつの間にか現れていた。二人の顔には塵と傷が刻まれているが、意志は固い。
「行かせない」ヘルメスが重々しく言う。
「放せ!」伸淡が怒鳴り、二人の手を振り払おうとする。「あいつらは……蘇亞まで……」
「知っている」モーメイが冷静に遮る。「だが、お前にはもっと大事なことがある」
伸淡は呆然と二人の瞳を見つめ、彼らもまた傷だらけであることに気づく。ヘルメスが静かに付け加える。
「ボラドール兄弟……奴らはお前を捕まえて何かを成し遂げようとしている」
モーメイが続ける。「そして、奴らには我々を殺せない理由がある。お前にはもっと重要な使命が」
長い沈黙の後、伸淡は歯を食いしばり、ボラドールとの取引内容を思い出す。そして頷く。「わかった。すぐにドリアを連れて逃げる」そう言い、踵を返す。
「取引を断って逃げる気か?」ボラドール・紅が追いかけようとするが、ヘルメスとモーメイが前に立ちはだかる。「相手は我々だ」
ドーライとウェンデルは幼いドリアに夕食を食べさせていた。少女の無邪気な笑い声が、ここ数日の重苦しさを一時的に和らげる。しかし二人が気づかないうちに、彼らの腕に奇妙な紋様が浮かび上がる──冥域界と空霄界を象徴するものだ。
紋様は微かに光り、そしてまるで最初からなかったかのように消える。
ピンポーン───
インターホンが鳴る。
ウェンデルがドアに向かい、外には誰もいない。振り返ろうとしたとき、足元で硬い物を蹴る。見下ろし、心臓が凍りつく。
透明な、静かに光る魂保管器───
その中には、蘇亞の魂が浮かんでいた。
赫冥の「冥域の闇」が戦場を覆い、ボラドール・紅の視界は瞬時に絶対の暗黒に落ちた。四方八方から残像が襲い来り、地の裂け目から熔岩の巨狼が飛び出し標的に喰らいつく──
「小細工」紅が軽く笑い、手をかざすと巨狼の頭部が虚空から消滅した。
末滅が藍の背後に瞬移し、紫霧の弾が炸裂して体力を貪り始める──だが藍は欠伸一つ:「この吸収速度で?」
赫冥が怒号と共に「空間崩壊」を発動、ボラドールの足元が深淵へと陥没する──
「退屈」藍の指が一閃し、崩落した空間が強制的に「修復」される。
ついに赫冥と末滅は藍に頭部を押さえつけられた。
「おやすみ、二人の陛下」藍の掌が妖しい光を放つ。
──紫瞳と銀眸が、同時に光を失った。
「殺せないとでも思ったか? よく覚えておけ。お前らを生かしているのは計画に必要だからだ。虚界のバランスを保つなどという王位の戯言のためではない」ボラドール・紅がそう宣言する。「わかったか?」
「「はい、覚えました」」完全にボラドール兄弟の人形と化した赫冥と末滅が答える。
「蘇亞……」
ウェンデルが震える手で魂保管器を抱き上げる。瞳は今にも裂けんばかりに。蘇亞の魂は静かに漂い、生前の驚愕と苦痛を浮かべたまま。唇を噛み締め、声すら漏らせない。
「どういうことだ……誰が届けた……?」
その時、ドーライの携帯が突然鳴り響く。夜の静寂を破るバイブレーション。
ドーライが受話器を取る。
「もしもし……?」
聞き覚えのある切迫した声:「俺だ、伸淡」
ドーライが目を見開く。「伸淡兄さん、何があったの!?」
「聞くな。いいか、全ての扉と窓を閉めろ。誰も入れるな。防御システムを起動しろ」伸淡の声は速く硬い。「待ってろ。俺が戻る」
言葉を終えると同時に通信は切断された。
ドーライはまだ携帯を握りしめ、眉をひそめて呟く。「何故か……嫌な予感がする」
伸淡は丘杰、可泣、可雅、蘇格の屍を操る魂たちに追われていた。必死で走り、振り切ろうとする。だが次第に、それらの魂が不自然な痙攣を起こし始めることに気づく。
「融合が完了しつつある」伸淡は内心で焦る。「意識が回復すれば、自由に動けるようになる」
それでも、彼らは依然としてボラドールの手下。追跡は続く。歯を食いしばり、走り続ける伸淡。
ようやく振り切り、一本の木の上で休息を取る。あまりに突然の出来事に、心を整理する時間が必要だった。幹に寄りかかり、怒りと無力感に満ちた心で蘇亞を思い出す。ボラドール・紅に消去された彼女の最期。復讐の炎が内側から燃え上がる。
「ボラドール……必ず討つ」
しばし休んだ後、ウェンデルたちの元へ向かい始める。しかし木から降りた瞬間、可雅の体を乗っ取った魂と鉢合わせする。
伸淡は即座に戦闘態勢に入るが、仲間の体に致命傷を与えられない。ところが、可雅の体の魂は伸淡を見るなり苦悶の叫びを上げ、頭を抱えて逃げ出した。
「どういう……?」伸淡は深い困惑に囚われる。