喧嘩と雨と傘 【月夜譚No.297】
迎えに来てくれるとは思わなかった。
目を丸くする彼女の前で、彼は無言のまま傘を差し出す。人の目もある中、それを受け取らないのはあまりにも不自然で、彼女はそっとそれを握った。
すると彼はくるりと踵を返し、やはり黙ったまま自分の傘を開いてさっさと雨の中を歩き始める。少し遅れて、彼女も受け取った傘をさして彼の背中を追った。
雨天であっても駅前は人通りが多く、雑踏と雨音が耳に五月蠅い。しかし静かに感じるのは、数歩先を行く彼が何も喋らないからだ。
いつもなら今日はこういうことがあった、テレビでこんなことをやっていた、友人が面白いことを言っていた――なんて、際限なく喋りかけてくるのに、今は一音も発さない。
それは多分――いや絶対に、今朝喧嘩をしたからだ。今思うと、酷くくだらなくて、くだらないだけにお互い引くに引けなくなって、気まずい空気のまま彼女は家を出た。
お陰で折角の休日なのに一日気が晴れないし、一緒に遊びにいった友人に心配されるし、傘も家に忘れてきた。散々な日であったが、正直なところ、彼のまだ不貞腐れながらも申し訳なさそうな顔を見たら、そんなことはどうでも良くなった。
彼女は息を吐き、踵で雨を跳ね上げて彼の背中に突っ込んだ。二人でたたらを踏み、見合わせた顔を同時に綻ばせる。
繋いだ手は温かくて、同じ家に帰れる幸せにいつも通りの空気が流れた。