彼女が俺を離さない
五月も終わろうとしている日曜の午後。
今にも雨が降りそうなどんよりとした雲が空を覆っている。
久喜英雄は喫茶店で栗橋直美と向かい会って座っていた。
久喜は社会人になって三年。楽観的な性格だが、それなりに常識を持っていると本人は思っている。栗橋とは大学時代に付き合い始めた。少し丸顔で目がパッチリとした、かわいい女性だ。
「今日は重要な話があるんだ」
「何かしら」
栗橋は何か期待に満ちた表情で久喜を見る。
先日、結婚の話をしたので、それに関係する事だと思っているのだろう。
「実は、別れて欲しいんだ」
「……えっ?」
キョトンとした顔になる栗橋。
「何を言っているのかよく分からないんですけど?」
「だから、別れて欲しいと言ってるんだ」
「何で?」
当然、理由を聞いてくるよな。あまり言いたくないが仕方が無い。
久喜はコーヒーを一口飲んで、気分を落ち着かせる。
「他に好きな子ができたんだ。もうナオとは付き合えない」
栗橋は血の気が引いて青ざめた表情になる。
「う、嘘だよね? 詰まらない冗談は止めてよ」
「冗談じゃないんだ」
「嘘だよ。この前『結婚しよう』って言ってくれたばかりじゃない。それを急に」
栗橋の頬を涙が伝う。
「ごめん。悪いとは思っているんだ」
「嘘って言ってよ。何で私が捨てられなきゃなんないの?」
「本当にごめん。でも、もう決めたんだ」
「やだよ。別れるなんて言わないでよ」
「もう俺の前に現れないでくれ」
久喜は席を立つ。
「ま、待って」
「さようなら」
久喜はテーブルから離れて店を出て行く。
しばらくの間、栗橋の泣き叫ぶ声が耳から離れなかった。
別れ話をする一か月前、久喜は体の調子が悪いので病院で検査を受けた。
数日後、癌が見つかり余命半年の宣告を受けた。
「まいったな」
久喜は自宅のアパートで頭を抱える。
死ぬのが怖いかと聞かれたら、ハイと答える。多分、大半の人がそう答える。では、何故怖いのか。それは生きているからだ。死んだらそんな感情は無い。
高校二年の夏休みに死について考えた事がある。叔父が事故で亡くなったのだ。
よく死後の世界というのを聞くが、実際はどうなのか。
俺の出した結論は、『死ななきゃ分からない』だ。
臨死体験だろうが、霊を降ろして語ろうが、死後の世界を語るのは生きている人間だ。
生きている人間が仲介すると、どうしても真偽に疑問が出る。
そうなると、自分が死んで体験しなければ何も分からないのだ。
それでは、死後の世界が無かった場合は何があるのか?
死んだ時に一番近い状態は寝ている時ではないかと思った。
寝ていて夢を見ていない時、それは『無』だ。
そこは辛い事も苦しい事も無いが、楽しい事も嬉しい事も無いのだ。
そして、俺は『死んだら何も無いので、生きているうちに楽しむ』事にした。
仮に死後の世界があったら、そこへ行った時に考えればいい。生きてる時に考えてもしょうがないのだ。
死にたくないが駄々をこねても寿命が延びる訳では無い。
余命を楽しむと言っても、あまり時間が無いので、やらなくてはならない事を優先しなければならない。
一番気がかりなのは恋人の栗橋だ。結婚を考えていて、それは栗橋も知っている。
もし、この結果を伝えても栗橋は俺を愛してくれるだろう。
余命半年の宣告を受けたからと言って、半年後に確実に死ぬわけではないが、明らかに、栗橋に負担を掛ける。最悪、半年後には永遠の別れが待っているのだ。
栗橋には幸せになってもらいたい。
それなら早めに別れて、別の幸せを見つけてもらった方がいい。
「正直に『半年後死んじゃうから、別れてね』って言っても別れてくれないよな。別れ話って言ったら女絡みか。女作ったとか言いたくねぇなぁ」
だが、そんな事も言ってられないと思い、久喜は早めに別れ話をすることにした。
身辺整理をしてアパートを退去し、実家の近くの病院へ入院した。
実家とアパートはそれほど遠くない。職場は実家からでも通えたのだが、栗橋との関係もありアパートを借りたのだ。
入院して日々の闘病生活が始まる。
治療の副作用の辛さに何度も心が折れそうになる。
そんなある日だ。
ベッドで上半身を起こし窓の外を見ていた。
青空が広がっていていい天気だ。
病室のドアの開く音がしたので顔を向ける。
そこには、来てはいけない見舞客がいた。
栗橋直美だ。
こんな状態でなければ、全力で駆け寄り抱きしめているだろう。
一番会いたくて、一番会ってはいけない人だ。
彼女がゆっくりと近づいて来る。
横まで来たが、顔を合わせられず俯いてしまう。
「何で来たんだよ」
「だって、私はヒデの彼女だもん」
「別れたはずだ」
「私は受け入れてないよ。一方的に勝手なこと言って帰っちゃったくせに」
「俺はもう君に何もしてあげられないんだ。俺の事は忘れて帰ってくれ」
「私はヒデに何かして欲しくて此処にいるんじゃないよ。何かしてあげたいから此処にいるんだ」
涙が溢れて言葉が出ない。
「私も出来る限り手伝うから、早く治しちゃおうね。だけど」
彼女が横に座り、俺に抱き着いてきた。
「だけど、その前に少しだけ、少しだけでいいから甘えさせて」
彼女の温もりが伝わってくる。
俺は泣きながら、彼女を抱きしめていた。
少し気持ちが落ち着いてきた。
「どうやってここを知ったんだ?」
「白岡君から聞いたの」
白岡謙治は高校時代からの親友。
余命宣告を受けて両親の次に話をしたのが白岡だ。
俺の彼女に対する思いを白岡に伝え、彼も理解してくれた。
栗橋はもう一度、久喜に会って話がしたかった。
結婚まで考えてくれていた人が、急に別の人が好きになったから別れろなんて、どう考えても、話がおかしい。
何か訳があるのか問い質したいが、久喜はきっと何も話してくれない。
親友の白岡なら何か知っているかもと、白岡の所へ行ったらしい。
白岡にかなり迷惑をかけてしまったようだ。
栗橋は毎日顔を出してくれた。
無理をするなと言っても聞いてくれない。
そんな中、手術をする事になり日程が組まれた。
手術は無事に終わるのだが、俺よりも周りの人の方が不安になっていて、気遣いが少し重苦しかった。
それから数日が経つ。
術後の経過も悪くはなく、両親も栗橋も少し安心しているようだ。
このまま良くなって退院できればと思っていた矢先に容体が急変する。
昏睡状態に陥り予断を許さない状態が続いた。
そして、努力の甲斐もなく、その時が来てしまう。
「ご臨終です」
医者の言葉が皆の嗚咽に交じって告げられた。
俺は体が浮く感覚を覚える。ゆっくりと昇っている。
ああ、幽体離脱と言うやつか。死後の世界はあるのかな。
周りを見ると皆泣いている。
ナオもこっちを見て泣いている。
最後まで迷惑をかけてしまって申し訳なかった。
……なんで、ナオだけこっちを見ているんだ?
皆はベッドで横になっている俺に向かって泣いている。
だが、ナオは明らかに天へ昇っていく俺を見ている。
と、急にナオがこちらに向かって走り出した。
ナオの右手が俺に迫る。
がふっ。
栗橋は不思議な物を目にする。
亡くなった久喜の体から小さな光る玉が出てきた。
他の人には見えてないのか、誰も気にしていない。
その玉がフワフワとゆっくりと昇っていく。
「ダメ、行かないで!」
栗橋は無意識に皆を押しのけ、右手でその玉を掴み取る。
そのまま久喜の上に倒れこんだ。
うわーっと大声で泣き叫ぶ彼女。
栗橋は久喜の上でしばらく泣いていたが、いつまでもこのままにはしておけないと、周りの人が彼女を起こした。
親族は色々やることがあるのだろう。栗橋は邪魔になると思い自宅へ帰った。
栗橋は自分部屋で泣いた。
ベッドで右手を胸に当てて、うずくまり泣いた。
右手はあの時掴んだまま、一度も開いていない。手の中には何の感触もない。何も無いのかもしれないが、もし、あの玉が手の中にあったら、手を開いた瞬間に天へ昇ってしまいそうで怖いのだ。
栗橋は泣き疲れて、いつの間にか寝てしまった。
朝になり、栗橋は目が覚めて体を起こす。完全に開いている右手を見て後悔する。
取り返しのつかない事をしてしまったと、また涙が滲んできた。
『おー。ここが死後の世界か。思ったより女の子っぽい部屋だな』
どこからともなく聞こえてくる声。
「誰?」
栗橋は思わず反応してしまう。
辺りを見回すが誰もいない。
『誰と言われても。あなたは……死後の世界にいるってことは女神様とか?』
「ここは現世です。死後の世界じゃありません」
『えー。死んだはずなんだけどな』
「誰なの? 何所にいるのかしら」
栗橋はベッドから出て立ち上がる。
『おりょ。勝手に視点が動くぞ。どういうことだ?』
「何なのよ。気持ち悪い」
『ありゃ。女神様がご機嫌斜めだ。すいません。私、死ぬ前は久喜英雄と名乗ってました。死んだはずなんですけどね』
「えっ。ヒデなの?」
『何、その呼び方。俺の彼女みたい』
「私は栗橋直美。女神じゃありません」
『……えーっ。ナオも死んじゃったの?』
「だから、ここは現世よ。何所にいるの」
『何所と言われても女の子っぽい部屋』
「ここは私の部屋よ」
『あー。そう言えば来たことあるような』
「とりあえず、私は起きたばかりだから、顔洗ってくるわ。ここにいてね」
『そう言われても勝手に視点が動くから、自分の意思ではどうにもならないね』
「今何が見えているのよ」
『ドアの方を見てる』
栗橋の視線の先にはドアがある。
同じ方向を向いているが、前には特に変わった物は何も無い。
後ろを振り向くとベッドが壁際にあり、壁にはカーテンが閉められた窓がある。
『あ、視点が動いてベッドの方を向いた』
栗橋は目を瞑る。
『あれ? 真っ暗になっちゃった』
「はぁ。私と同じ視点だ」
『えっ?』
栗橋は姿見の前に行き、自分を映す。
『あっ。ナオだ。私服姿で寝てるんだね』
「そんなわけ無いでしょ。昨日帰ってきて、そのままベッドで泣いて……」
『あ、そうだ。俺は死んだんだよな。どうしたらいいんだろ』
「視点を共有しているなら、私の中にいるのかもね」
『えーっ。じゃあ、取り憑いちゃった感じ?』
「分かんないけど、とりあえず、顔洗う」
栗橋は部屋を出て洗面所へ行った。
部屋に戻って来た栗橋はTシャツに短パンというラフな格好に着替え、ベッドの上に座った。
「さて、なにしよっかなー」
『仕事はいいの?』
「有給休暇とった」
『葬式で坊主いるんだから、ついでにお祓いしてもらおう』
「なんで?」
『なんでって、俺が取り憑いちゃってるからでしょ』
「お祓いして、ヒデがいなくなっちゃたらどうすんのよ? 絶対やらない」
『えーと。どういうことかな?』
「折角、ヒデがここにいるんだから、お祓いなんかしないわよ」
栗橋は「うふふふ」と笑いながら、枕を抱いてベッドの上で転がる。
亡くなって二度と会えないはずの久喜が体の中にいる。嬉しくてたまらない。
昨日までの悲しみが一気に吹っ飛んでいた。
『もう少し真剣に考えようよ。他に良い人見つけて幸せにならないと』
「なんで、ヒデがいるのに他の男を作るのよ」
『俺は死んで君に何もしてあげられないんだから、頼れる人を見つけないと』
「そんな人いらない。ヒデがいてくれればいいの」
『ナオが不幸になるのは見たくないんだけどな』
「私はヒデがいてくれれば幸せだよ。ヒデは私といてどうなの?」
『正直に言えば、一緒にいれて嬉しいけど』
「でしょでしょ。ならいいじゃん」
『うーん。じゃ、少しだけお世話になろうかな。でも、なんでこんな事になったんだろ』
確か死んで天に昇ったはず。
「やっぱり、あれかなー」
栗橋は枕を抱いたままベッドの上で胡坐をかく。
『なんか心当たりあるの?』
「ヒデから光る玉が昇っていくのが見えたんだよね」
『そうそう。俺ね、幽体離脱っての経験したんだよ。ほんとに周りの風景が見えるんだよ。……そういえば、ナオだけこっち見てたような』
「あっ、見えてたんだ。私、その玉取っちゃたんだ」
『……えっ?』
「そんで、手に持ったままここで寝ちゃった」
『何それ。俺が取り憑いたというより、取り憑かさせられたって感じ?』
栗橋が姿見の前に移動した。
「えっとね。こんな感じかな」
右手を握り、それを左手で包み込み左胸に当てる。
「で、うずくまって泣いてたのよ。気が付いたら寝ちゃってた」
『ふーん。じゃ、その辺に俺の魂っぽいのがあるのかもね』
栗橋がいきなり上半身裸になった。
『ど、どうしたの。急に脱いで』
「手を当ててたの、この辺なのよね」
手を当ててた部分を鏡でみる。
「特に見た目で変わった所は無いわね」
『綺麗なおっぱいです』
「もう触ってもらえないのね。てか、この辺に魂があるなら揉んだらどうなるのかしら」
栗橋は左のおっぱいを揉み出す。
「どう? 何か感じ、んっ」
体がビクッとなる。
『俺はなんとも無いよ。てか、自分が感じてるじゃん』
「えへへへ」
『視覚と聴覚だけかな。共有されているの。歯磨きの時も口の感触は無かったし』
「そっか。残念だね」
『触覚まで共有したらよくないよ』
「ヒデとなら全部共有してもいいけどな」
栗橋はTシャツを着てベッドへダイブした。
翌日、栗橋は会社に出社した。
やってる内容は一般事務職なので、やる事は多いのだが、ほぼルーチンワーク。
『大変そうだね』
「慣れると意外とそうでもないのよ。やってる事はいつもと変わらないから」
テキパキと処理をこなす栗橋。
その間も久喜と会話していた。
昼食になり、皆と食堂へ行く。
「栗橋が思ったより元気で良かったよ」
一つ年上の岡本菜美先輩だ。
「彼氏、残念だったな。立ち直るのに時間が掛かると思う。無理するなよ」
同じく、一つ年上の小山美穂先輩。
二人とも栗橋に気を使っている。
『良い先輩達じゃん』
「でしょう」
「「ん?」」
「あ、いえ。お気遣いありがとうございます」
「先輩、やっぱり栗橋は変ですよ。彼氏が亡くなった方が明らかに元気です。看病に行ってる時は突いただけで泣きそうになったんですから」
同期の吉川久美子が不思議そうに栗橋を覗き込む。
「それに、午前中もなんだか独り言多かったし」
栗橋は一旦箸を置き、姿勢を正す。
「皆さん。私は悟ってしまったんですよ。確かに彼は亡くなってしまいました。でも、彼と付き合っていた日々が、私の体に残っていたのです」
『実際、俺いるしな』
「黙って」
「「「え?」」」
「いえ。つまり、彼の魂は私の体の中で生きているのです」
『できるだけ、早く出て行くよ』
「ダメ、それだけは止めて」
「「「は?」」」
「あ、いえ、つまりそう言う事です」
ヒデに話しかけられると、つい返してしまう。今後、気をつけよう。
顔を赤くしながら再び昼食を続けた。
葬儀は粛々と進められてた。告別式が終わり遺体が火葬される。
空はすっきりとした青空で、火葬場の煙突から立ち昇る煙が徐々に薄れていく。
『あー、俺の体が焼かれている』
「戻りたかった?」
『無理だよな。機能しないから死んだんだし。せめて、こんがり焼いてくれ』
「焼き加減、選べたりして」
『外はカリカリ、中は柔らかジューシーで』
「呪文かけよう。おいしくなーれ、萌え萌えキュン」
栗橋は小さな魔法の杖を持っているような手つきで煙の方を指す。
『やべぇ会話してるな。俺が言うのも何だが不謹慎だ』
「だよねー」
思わず、はっはっはっと笑う。
「おい。栗橋」
「ひゃっ」
後ろから声を掛け飛び上がる。久喜の親友、白岡だ。
「大丈夫か? さっきから一人でブツブツ言っているが」
「だ、大丈夫だよ」
『聞かれてたら、アウトだったな』
「それ、最悪」
「え?」
「あー、ほら。ヒデが煙になってしまうのが、とても辛いの」
栗橋は煙を見て悲しげな表情をする。ちょっと芝居っぽい。
『おいしくなーれって、言ってた人のセリフじゃないね』
「それは言わないで」
「ん? 本当に大丈夫か?」
「大丈夫だよ。ありがとう」
「とても辛いのは分かっているが、変な気は起こすなよ」
「うん」
『そうだ、ナオ。白岡に相談したい事があるから誘ってくれ』
「え、うん。白岡君」
「なんだい」
「ちょっと相談したいことがあるんだけど」
「俺に? いいよ。どんなことかな」
『長くなりそうだから、次の日曜とかで』
「えっと、ちょっと長くなりそうだから、次の日曜は空いてるかな?」
「わかったよ。駅前の喫茶店に十時くらいでどう?」
「それでお願いします」
白岡は立ち昇る煙を方を向き、親友との別れを惜しむようにしばらく見ていた。
「この席嫌だな」
『俺が迫真の演技をした席だ』
久喜が栗橋に別れ話をした席だ。あの時と違って空は晴れ渡っている。
駅前の喫茶店で久喜の親友、白岡と待ち合わせだ。
こちらから誘ったので、少し早めに来ていた。
「ヒデの事話すんでしょ。信じてくれるかな」
『信じなきゃそれでいいけど。ナオが変な目で見られないか心配だな。最近、独り言の多い人って思われちゃってるし』
「私の事はいいよ。実際ヒデと話してるんだもん」
栗橋は目の前のコーヒーを見ながら久喜との雑談を楽しんでいた。
白岡は待ち合わせ時間丁度に来た。
「早いね。それとも来たばかりかな?」
「十五分くらい前かな。こっちが早く来ただけだから、気にしないで」
白岡は上着を脱いで隣の椅子に置く。
「で、相談って何かな?」
「えーとね。相談の前に話しておきたい事があるんだけど」
「いいよ。聞く」
「私ね。ヒデが亡くなった時、病室にいたんだ。その時ね、ヒデの体から光る玉がゆっくり上がっていくのが見えたの。他の人には見えてなかったみたい。それを見てね。ヒデが行っちゃうって思ったら、無意識に体が動いて、その玉取っちゃったの」
「……取っちゃった?」
「うん。右手で掴んだの。本当に掴めたのかは分からない。手の中に感触は無かったし。でも、手を開いたら飛んで行ってしまいそうで、怖くて手を開くことができなかった」
栗橋はコーヒーを一口飲んで喉を潤す。
「その日は帰ってからもベッドの上でずっと泣いていたの。右手をこんな感じで胸に当てて」
栗橋は握った右手を左の胸に当て、その上に左手を被せる。
「ずっと泣いててね。いつの間にか泣き疲れて寝ちゃった」
「目の前で恋人が亡くなったんだ。俺には想像できない辛さだよ」
「でね。朝、起きたらヒデが私の中にいたの」
「そっか、久喜がいたのか。……えっ? 何所に?」
白岡が面白いほどびっくりした表情をする。
「私の中。今もいるの」
「えーと」
「信じてもらえなくてもいいの。ただ、ヒデは確かに私の中にいる。だから、私は今笑っていられるの」
「うーん。仮に栗橋の中に何かいるとして、本当にそれは久喜なのか?」
「え?」
「ほら、そう言うのって、悪魔が本人を装って近づくとかあるじゃん」
『そうです。わたしが変な悪魔です』
「ぷーっ。それ、『変なおじさん』じゃん」
「はい?」
「あっ、ごめん。ヒデが『そうです。わたしが変な悪魔です』なんて言うから」
「なんかあいつっぽいな。こっちの話は聞こえてるの?」
「私の目と耳が共有されているみたい」
「ふむ」
「あの光の玉は魂だったと思うの。それを一晩中持ってたから私に」
「その過程を考えると久喜になるのか? でもなぁ」
白岡は右手で顎を触りながら、何か良い確認方法が無いか考える。
「栗橋が知らなくて、久喜が知っている事となると高校時代だな。久喜が二年の夏休み前に告白した女性は誰だ?」
『あ、あれは白岡に騙されたんだ。野崎さんが俺に気があるから告れって。しっかり彼氏いたじゃねぇか』
「ぷっ。白岡君に騙されたって怒ってるよ。野崎さん?に彼氏いたって」
「おー。本物っぽいな。まだ信じられないけど」
「うん。それでいいよ」
笑顔でそう言う栗橋を見ながら、白岡はコーヒーを飲んだ。
「で、相談って? 今の話じゃないんだよね?」
「相談があるのはヒデからなの」
『お祓いするから、手伝えって言って』
「……えっ? ヤダ。絶対やらない!」
「ど、どうしたのかな?」
「う、うん。ヒデがお祓いするから手伝えって言ってるの」
「なるほど」
「白岡君は今の忘れていいから。私はヒデと離れたくないの」
白岡は背もたれに体を預け右手で頭をかく。
「久喜の言いたい事はよくわかる。もう栗橋に何もしてやれないもんな。他の頼れる人を探せって事だろ」
『さすが親友。分かってる』
「私はヒデがいればいいの」
「久喜には言っておかないといけない事があるな。なんで俺が栗橋に病気の事を教えたのか」
『そうだ。何で話しちゃったかな。口の堅い男だと思ってたのに』
「栗橋。言ってないんだろ」
「……うん」
栗橋は俯いてしまう。
「久喜の別れ話で、栗橋は自殺まで考えたからな。下手したら久喜より先に亡くなっていたかもしれない」
『な、な、なにー! 何考えてんだナオ』
「だって、だってヒデに捨てられたら、私は生きていている意味が……無い」
『そんな訳無いだろ。てか、死ぬのは絶対にダメだ』
「久喜がそこにいるなら聞け。お前の気持ちもよく分かる。俺は親友だからな。だが、栗橋がここまでお前のことを思っていると、お祓いした後が怖くて勧めれらない」
『困った女だな』
「面倒臭くてごめんね」
白岡は腕を組んで栗橋を見る。
「とりあえず、お祓いをする、しないは別として、お祓いしたらどうなるか話だけでも聞いて見るか。料金とかもあるだろうし」
白岡の提案に乗ることにした。お祓いできそうな坊さんを探してくれるそうだ。
その後も色々雑談をして、喫茶店を出る頃には白岡も久喜の存在を受け入れていた。
白岡が色々調べてくれて、それっぽい坊さんを見つけてくれた。
車で二時間の所で、白岡が車を出してくれた。
『お祓いしたら、俺は成仏するんだろうか』
「何でヒデは私の中から出て行きたがるの?」
『俺だって、出て行きたく無いけど、この状態は良くないって』
「私がいいって言ってるんだから、無理に出て行かなくていいじゃん」
『大体、取り憑いてる方が、お祓いしてくれ言う方がおかしいんだよ。何で離れられないんだろ』
「ヒデが私の体を求めているのよ」
という感じで栗橋はずっと、ぶつぶつ言っている。
横で聞いていた白岡がついに口を開く。
「栗橋。やっぱり、傍から見ると少し異常に見えるよ」
「そ、そうなの?」
「うん。引っ切り無しに独り言を言ってるから。てか、恋人同士だからって、そのペースで会話する人は少ないと思うな」
「溢れ出る思いが止まらないのよ」
『内容は薄いよな』
「大した事話して無いだろ」
「親友同士で同じような事言わないで」
白岡は「久喜も同じ事を言ってたか」と笑っていた。
お寺に着いて部屋に案内される。広さは六帖で中央に少し大きめのテーブルがある。
お坊さんの向かいに座るとお茶と茶菓子を出してくれた。
白岡が挨拶をして話を始める。
「彼女に何かが取り憑いてるようなのですが、お祓いをすれば取り除けるのでしょうか」
恰幅が良く、眼光の鋭い坊主が栗橋をじっと見ている。
「左胸の辺りに何かいるな。彼女自身に関係ありそうな人物だ」
「やはりいますか。取り除けそうですか?」
坊主はじーっと栗橋を見る。
「お祓いはやっても無駄だな」
『お祓いしてもダメなのかー』
「そうですか」
「うむ。栗橋さん、だったかな。あんたが掴んでいて、放さない限りそこにい続けるだろう」
「私が掴んでいるんですが? そんな感覚は無いのですが?」
栗橋は掴んでいると聞いて、自分の手を見る。
「物理的にではなく、何と言うか、気持ちや好意といった感情だな。いるのは親族か恋人かそういった所だろう」
栗橋の顔が笑顔になる。
「お見通しですね。ここにいるのは私の恋人です」
栗橋は両手で左胸を押さえる。
「私は彼と離れたくないのです。今の話だと、私の気持ち次第となりますね」
「まあ、そうなるな。魂を縛るというのはあまり関心せんがな」
「ご住職、お聞きして良いですか?」
白岡が間に入る。
「何かね」
「その縛られている魂が体を乗っ取ってしまう事はあるのでしょうか?」
「無いとは言えんな。早めに魂を開放してあげなさい」
「分かりました」
栗橋が白々しく返答する。久喜と白岡は、栗橋が開放しないことを確信していた。
帰りの車の中では栗橋のテンションが高い。
「うふふふ。私の気持ち次第だってよー。ヒデは永遠に私のものだわ」
『畜生。いつか乗っ取ってやる』
「ヒデに体を乗っ取られる。そんなプレイもありかも」
『どんなプレイだよ』
「ヒデに体を弄ばれる感じ?」
『お、俺はそんな事しないぞ』
「またまたー」
「栗橋。聞いてるこっちが恥ずかしくなる。もう少し声を抑えてくれ」
「えへへへ」
白岡は運転しながら、大きな溜め息をした。
それから約半年。栗橋は「独り言の多い人」と周りに認識されてしまったが、それ以外は至って普通の生活を取り戻していた。
同僚からは、恋人の死後、独り言が多くなったが、仕事のミスが少なくなったと不思議がられている。
今日も朝からルーチンワークだ。
『ナオ。そこ違うんじゃない?』
「えっ? ほんとだ。サンキュー」
久喜は栗橋と視覚を共有しているので、栗橋の作業を見ていて覚えてしまった。
チェックする人がいるんだから、ミスも少なくなる。
仕事中に話しているはあんまりよくない。久喜はそう思ったのだが、栗橋はかまわず話しかけてくる。つい、それに答えてしまうので、栗橋の独り言が減らないのだ。
「あー。ミスった。腹立つな」
岡本が荒れている。事務机の上の缶コーヒーを手に取り、口に持っていくが缶を逆さにしても一滴も出ない。
「もう。何で無いかな」
岡本は席を外した。飲み物を買いに行ったのだろう。
栗橋と机を向かい合わせにしていて、岡本の隣の席になる小山は「はぁ」と溜息をつく。
「小山さん。岡本さん、どうしたんですか?」
栗橋は小山に聞くと、栗橋の隣に座る吉川も身を乗り出してきた。
「彼氏が転勤になっちゃってね。遠距離恋愛になってから、連絡があんまり取れなくなったみたいよ」
「ありゃりゃ。当分荒れそうだ」
『男の方が羽伸ばしちゃたか。ありがちだ』
「連絡ぐらいすればいいのにね」
『そのまま有耶無耶にして別れるつもりなのかもよ』
「ありうるね。近くの女に惹かれちゃうんだよ。馬鹿な男だ」
『まあ、所詮その程度の男だったってことだ』
「岡本さんも不幸だねぇ」
栗橋は岡本に同情のする。
「誰が不幸だって?」
「ひっ」
いつの間にか栗橋の後ろに岡本が立っていた。
座っている栗橋を見下ろす岡本の表情が怖い。
「い、いやだなぁ。岡本さん。そんな事言ってないですよ」
「本当に?」
栗橋はうんうんと首を縦に振る。
それを見た岡本は「まぁ、いいわ」と自分の席に戻った。
『目を付けられちゃったかな』
「変な汗が出てきた」
心臓がバクバク言ってる。
『遠距離恋愛は難しいねぇ』
「距離があるとどうしてもね」
『近い方が愛情も深まるのかな』
「当たり前じゃない。私達みたいなゼロ距離恋愛なんかしたら、変な脳汁が出て笑いが止まらないんだから」
『それは言いすぎだろ。何だよ、変な脳汁って』
「言いすぎじゃないよ。実体験なんだから」
『……変な脳汁が出てたのか』
そういえば、栗橋は体の中にいるのが俺だと分かった時、妙にテンションが高かった。あれは変な脳汁効果だったのか。
岡本の気分を紛らわすため、金曜の仕事の帰りに女子四人で飲むことにした。
みんな最初は仕事の愚痴を言いながらちびちびう飲んでいたのだが、急にペースが上がりだす。
「たかしー。何で連絡くれないんだよー」
大声で泣きだす岡本。
「わははは。今頃、他の女と寝てるって。別れろ別れろ」
小山が笑いながら岡本の背中をバンバン叩く。
「小山さんも別れたばっかりですもんね。仲間作ろうとしてます?」
「吉川。てめぇだって浮いた話を全然聞かねぇぞ。どうなってんだ?」
「知らないですよ。基本寄ってこないし、捕まえようとすると逃げるし」
『あー。ひでぇ飲み会だな』
「まあ、こんなもんだよ」
『ナオもちょっとペース早くないか。もう少し』
「そんなこと言ってもさ」
吉川が栗橋の少し空いたコップにビールを注ぐ。全然減らない。
「何ぶつぶつ言ってんだ、栗橋。お前だって一人だろ。亡くなった男に義理立てすんのも分かるけど、いつまでもそれじゃダメだろ」
「私はいいんだよ」
「よくなーい。吉川の言う通りだ。それじゃ、亡くなった彼氏も成仏できんぞ。きっと、お前が幸せになるのを草葉の陰から見守ってる」
小山まで栗橋に絡んできた。
『一番身近な所で見守ってるんだけどな』
栗橋はコップに注がれたビールを飲み干し、ドンッとコップを置く。
「黙っていようと思っていましたが、言っちゃいます」
『だいぶ酔ってる気がするが大丈夫か? てか、俺まで酔ってる気がする』
「黙って」
栗橋は、ふーっと一息つく。
「私の亡くなった彼の魂は、私の中で生きてるの。今でも彼と会話してます。私はこの彼と共に生きていくの」
「そんな妄想捨ててしまえ」と吉川。
「そうそう、妄想じゃ、何の支えにもならんだろ」と小山。
岡本がうつろな目で栗橋を見る。
「栗橋。仮にそれが本当だとしよう」
「本当なんです」
栗橋は胸を張って返す。
「最近、独り言が多いのは、その彼氏と話してるからか?」
「そうです」
栗橋の返答に岡本が両こぶしを握りプルプル震える。
「てめぇ、仕事中に男といちゃついてんじゃねぇぞ!」
岡本が暴れだして飲み会がお開きになった。
『女の飲み会、怖い』
「私だって、あんなの初めてだよ」
昨日の飲み会。お開きの後、みんなで暴れる岡本を自宅まで送った。
そこで解散したのだが、他の二人も結構フラフラしてたから少し心配だ。
栗橋はベッドの上で胡坐をかいて座り、頭をかく。
「あー。頭痛い」
『しかし、良い体験をした。俺も酔ったよ』
「視覚と聴覚だけじゃないの?」
『うーん。思うに、眼から入った映像も、耳から入った音も処理するのは脳じゃん』
「じゃ、脳を共有しているってこと?」
『脳の一部を共有しているって感じになるのかな』
「私のほろ酔い位じゃ、酔った感覚無かったんでしょ。昨日の量は当分勘弁して」
『いや、俺が考えていたのはそこじゃなくて……止めておこう』
「えーっ、何よ。気になる」
『考えがまとまってないんだ。そのうち話すよ』
「気になるなぁ」
俺が考えていたのは、夢を共有できるのか。
夢は寝ている時に映像を見ているのだから、眼から入った映像ではなく、脳で作った映像を見ているのだ。
自覚夢とか明晰夢というのがある。夢の中で、これは夢だと気付くのだ。ある程度コントロールできるらしい。
夢でナオと会えたら。ふと、そんな事を思ってしまったのだ。
栗橋は白岡と共に久喜の実家を訪れていた。
久喜の一周忌に出席し、帰りに英雄の形見が欲しいと両親にお願いしたのだ。
久喜がアパートを退去する時、時間が無いので荷物をダンボール箱へ乱雑に詰め込んだ。
その段ボール箱が五、六個、まだ英雄の部屋に置いたままらしい。
数日前の事。久喜がその段ボールの事を思い出したのだ。
『大した物は無いはずだが、システム手帳と万年筆は残しておきたいな。システム手帳はナオに、万年筆は白岡に貰って欲しい』
「でも、お母様にそうヒデが言ってたって信じてもらえるかな」
『そうだ。俺がお袋の枕元に立って言えばいいじゃん』
「それって私から離れるって事だよね? 戻ってくる気無いでしょ。却下。とりあえず、形見が欲しいってお願いしてみるね」
といった経緯で今に至る。
母の案内で英雄の部屋に入る。
六帖の畳の部屋には机とダンボール箱が積み重なって置いてあった。ベッドは無く。押入れがあるので、そこに布団が入っているのだろう。
「そこに積み重なっているのが、アパートから持ってきた箱よ」
「開けていいですか?」
「ええ」
栗橋と白岡がダンボールを一つずつ取り、ガムテープを剥がして箱を開ける。
急いで詰めたのだろう、中はかなりぐちゃぐちゃだった。
「直美さんが元気になってよかったわ」
「ははは。今の所、大丈夫です」
「本当はね、秀雄の事は忘れて幸せになって欲しいの。だから形見とかもどうかと思ったんだけど……」
栗橋は箱の中を探すの止め、英雄の母に向き直る。
「お母様。私は形見が有ろうと無かろうと、ヒデの事は忘れません」
「でも、それではあなたの人生が――」
「私の中でヒデは生きています。だから、だから忘れろとか言わないで下さい」
『上手い言い方だな。お袋は単なる俺の記憶と捉えるだろうけど』
「でしょ」
「え?」
「ぷっ」
英雄の母は栗橋が変な言葉を付け加えて不思議に思うが、現状を知っている白岡は思わず笑ってしまった。
「おばさん。申し訳ないですが、今日の所は英雄との思い出に浸らせてください」
「そうね。白岡君の言う通りね。でも、直美さん。本当に無理しないでね」
「はい。お母様」
『白岡すげぇな。万年筆の他に何かやらないといけないな』
「良いの見付かるかしら」
栗橋は再び箱の中を探し始めた。
一つ目の箱に手帳も万年筆も見付からなかった。
栗橋は二つ目の箱を探し始める。
「あれ、なんだろ。これ」
底の方に写真集のような本が。
「うわっ。金髪だ」
『あっ、ナオ。それ、ダメなヤツだ。戻せ』
栗橋の手にはエロ本が。
「く、栗橋。そういうのは確認してから出せ。おばさんも困るだろ」
と言う白岡の声には耳を貸さない。
「お母様。金髪の巨乳です」
「あの子にこんな趣味が」
『やめてくれー』
栗橋が本をパラパラめくり、あるページが目に止まる。
「ん? ぷーっ、あははははは」
「そのくらいにしとけ。大体、エロ本で笑う所なんか」
「白岡君。これこれ」
栗橋がそのページを白岡に見せる。
女性が母乳を垂らしている写真の横に『私はあなたの彼女・オ・レ』と書いてあった。
「ぷーっ。くっくっく。な、なんだよ『彼女・オ・レ』って、母乳まみれって事か?」
『俺の人生が終わった。死んだ後に』
「ヒデの趣味はハードル高いなぁ。これはちょっと。要求されても母乳出ないしなぁ」
『違うんだ。中は見ないで買ったんだ。それは初めて買ったエロ本で、その本を見ると、その時のドキドキ感を思い出すんだ。だから、何か捨てられなかったんだ』
「なるほどね」
『その本は白岡にあげてくれ。万年筆にエロ本。いい組み合わせだ』
「白岡君」
「くっくっく。な、なんだい?」
白岡はまだ笑ってる。
「これ、ヒデが買った初めてのエロ本らしいよ。この本を見ると買った時のドキドキ感を思い出すんだって」
「なるほどね。あるな。そういうの」
栗橋が白岡にエロ本を差し出す。
「白岡君に貰って欲しいって」
「えっ。いらない」
「ヒデの思いが詰まってるじゃん。貰ってあげて。置いておいても、お母様が困るし」
英雄の母は苦笑いをしている。
「俺、金髪に興味無いし、この本見てもドキドキ感は湧かないんだけどな」
白岡は渋々、エロ本を受け取った。
それからしばらく探し続け、ようやくシステム手帳と万年筆を見つける。
白岡はダークブルーの万年筆を手に取り、自分の手帳に試し書きをする。
「書きやすいな。ありがたく使わせていただこう」
栗橋はシステム手帳を手に取る。大きさはバイブルサイズ。ベージュのスウェード革で出来ており、肌触りが良い。
「ヒデが使ってた手帳か」
『実は、そんなに使いこなしてないんだよね』
閉じていたボタンを外して手帳を広げる。
一枚一枚ゆっくりとページをめくる。
殆どがメモ書き程度だが、あるページだけびっしりと書かれているページがあった。
「ふえーーーーーん」
それを見た栗橋は泣き出してしまう。
「どうしたの? 直美さん」
「お母様、これ」
開いていたページを英雄の母に見せる。
「あら、あの子ったら。結構調べていたのね」
そこには結婚式場とおおよその予算がびっしりと書いてあり、そこから五、六か所に絞り込まれていた。
『サラリーマン三年生だと予算がねぇ。ある程度絞り込んでから二人で決めようと思ってたんだよ』
栗橋はしばらくの間、システム手帳を抱きしめて泣いた。
「取り乱してすみません。お母様」
「大丈夫? そんな物を見せられたら仕方ないわ。だけど、なるべく早く英雄の事は忘れて、自分の幸せを掴んで」
「無理です。今日で、より一層ヒデが好きになっちゃいました」
『式場の絞込みは当たり前と思ってやってたから、それ見て泣かれるとは思わなかったな。まあ、あのエロ本見てもそう言ってくれるんだから嬉しいよ』
「大丈夫。エロ本は白岡君に渡った時点でヒデとは縁が切れたから」
「え?」
白岡が凄く嫌そうな顔をしている。久喜は少しだけ、申し訳ない気持ちになった。
栗橋はダンスホールのような広い所に一人ポツンと立っていた。
周りを見ても誰もいない。
「ここは何所かしら?」
いつものヒデからの返事がない。
「ヒデ。いないの、ヒデ?」
呼吸が荒くなる。
ヒデが、ヒデがいない?
左胸に両手を当て、視線をそこに向ける。
「えっ?」
自分の着ている服が眼に入る。
純白のウエディングドレス
「何でこんな格好を……」
「ナオ、ごめんな。俺の貧弱なイメージではこれが限界だ」
後ろから声を掛けられ、栗橋は振り向く。
そこにはネイビーのタキシードを着た久喜がいた。
「ヒデ!」
栗橋は久喜に飛びついた。
誰もいない空間を縦横無尽に踊り回る二人。
踊り終わると、久喜は栗橋を抱き寄せキスをする。
栗橋はベッドの上でうずくまって寝ていた。
ゆっくりと眼を開ける。
「夢か」
枕を抱きかかえる。
「うふふふ」
『おはよう』
「おはよう。ヒデ、聞いて聞いて。あのね」
『どうした』
「あ、えーと。夢を見たの」
『いい夢だった?』
「うん。凄くいい夢だった。私だけ見たのが勿体無い夢。ヒデにも見せたかったな」
『そうか、喜んでもらえてよかった』
「え?」
『前々から夢が共有できないか考えていたんだよね。自覚夢とか明晰夢って言うのがあってね。夢の中で、これが夢だって気付くヤツ。ある程度コントロールできるみたいなんだよね』
「難しくてよく分かんないんだけど」
『簡単に言うと、俺の考えた夢を共有して君に見せたって感じかな』
「そんな事できるの?」
『確実にできるとは言えないけどね。本来なら同意を得てからやるべきなんだろうけど、今日は特別な日だから』
「特別?」
『今日は何月何日かな?』
「えーと、七月三日だよね」
『誕生日、おめでと。もう三十三才かな』
目の前が涙で滲む。言葉が出ない。
『これくらいしかできないんだよな』
「ヒデ、ありがとう」
栗橋は声を絞り出しだ。
栗橋が気持ちを落ち着かせるのに数分掛かった。
「ねぇ。なんでウエディングドレスで踊ってたの?」
『本当は結婚式にしたかったんだけどね。大勢の人をイメージできなかった。ごめん』
「ううん。凄く良かったよ。文字通り夢の中にいるようだった。また見たいな」
『いつでも、って言いたいけど』
「いいの。無理しないで」
『確かに俺が自覚夢と認識できなきゃダメなんだけど、もう一つ必要な条件は、夢を忘れないことかな。夢を見ないって言ってる人も、起きたら忘れちゃうだけで実は見てるって、何かで読んだ』
「そうなんだ。じゃ、ヒデが見せてくれても私が忘れちゃうかも、ってこと?」
『そうそう』
「忘れない方法ってあるなかな。後で調べよ」
『ナオも無理しないでね』
「うん」
栗橋は夢について調べ始めた。今はインターネットがあるので情報は得やすい。
その中から、続けられそうな物を選び、実戦する事にした。
すぐに効果は出なかったが、徐々に夢を見ることが増えていった。
たまに、これは夢だと自覚する事も出てきた。
ある日、面白い現象が起きる。
栗橋は自分の部屋のベッドに座っていた。
「あっ。これ夢だ」
こんな時、栗橋は久喜をイメージして戯れるのだ。
だが、この日現れた久喜は思い通りに動かない。
「私の夢なんだから、ちゃんと動いてよ」
「そう言われても、俺の夢なんだからナオが動いてくれないと」
「「あれ?」」
「もしかして、ヒデも自覚夢?」
「ナオも?」
二人は横に並んでベッドに座る。
「こんなことあるんだな」
「なんか現実の世界にいるみたい」
見つめ合いながら、久喜は栗橋を抱き寄せる。
「夢なら覚めないで欲しい」
「でも、そうはいかないから。できる限りナオを」
「うん」
久喜は栗橋をゆっくりと押し倒し、目が覚めるまで彼女を抱いた。
栗橋は目を覚まして久喜に問いかける。
「ヒデいる」
『いるよ』
「夢だけど、夢じゃないよね」
『うん。だけど俺、感覚が無いから上手く抱けなかった気がする。ごめんね』
「そんな事無いよ。ヒデが優しく抱いてくれた感覚がまだ残ってるよ」
栗橋はベッドで横になったまま、その余韻に浸っていた。
栗橋は四十五歳になっていた。
周りから久喜の事を忘れろとか結婚しろとか言われなくなっていた。
職場では吉川、小山、岡本の順で結婚していった。
吉川と岡本は寿退社してもういない。
小山は旦那の稼ぎがしょぼいので共働きしなきゃならないそうだ。
二人の入れ替わりで入ってきたのは岩瀬夏美と川島春香。
一番若いのが川島だが、岩瀬は少しおっとりしていて、川島の方がしっかりしている。
「栗橋先輩。ここのデータなんですけど」
栗橋の隣の席に座っている川島が質問してきた。
「んー。どれどれ」
栗橋は川島の横に行き、パソコンの画面を見る。
「あー、このデータは、ここに」
パソコンの画面を見ながら指さす。
『隣じゃね?』
「じゃ無くて、こっちでした」
「ありがとうございます。栗橋先輩、あの……」
「何?」
「いえ、何でもありません」
「分からない事有ったら、悩まないで聞いてね」
「はい」
栗橋が自分の席に戻る。
『ナオ。川島ってよく視線を外すよね』
「そう言えば、変に視線が動く時があるね」
『私生活で悩みがあるのかな?』
「それだと職場じゃ聞き難いか」
『飲みにでも誘ってみたら。先輩なんだから』
「そ、そうだね」
退社時刻になり、栗橋はどうせならと皆を飲みに誘ってみた。
だが、小山は旦那の夕飯を作らなきゃならないと断られ、岩瀬は彼氏と約束があるらしく断られた。
「じゃ、また今度にしようか」
たまには先輩らしいことをしようと思った栗橋だが、上手くいかなかった。
「栗橋さん。私のアパートで飲みませんか?」
「川島。いいの?」
「飲み屋行くより安く済みますから。部屋は狭いけど二人なら大丈夫です」
「じゃあ、お呼ばれするか」
「はい」
川島は「おつまみどうしよっかな」とか言いながら、嬉しそうに帰り支度を始めた。
『うーむ。百合の香りがする』
「へ、変な事言わないでよ」
『いや、心の準備はしておいた方がいいよ。お姉さま、私……って、来るよ』
「私はヒデ一筋なの。他の人に興味無い」
川島はぶつぶつ言う栗橋を微笑みながら見つめていた。
栗橋は川島と帰りがけにビールとおつまみを買って、川島のアパートへ。
部屋の広さは八帖くらい。あるのはベッドと小さな本棚。
小さなテーブルがあり、買ってきたものをその上に置く。
ぷしゅっと缶ビールを開ける。
「「カンパーイ」」
ビールをゴクゴクと飲む二人。
「たまには羽目を外さないとねー」
栗橋はそう言いながら、焼き鳥を手に取る。
川島は唐揚げをひとかじり。
「コンビニの唐揚げって結構いけますね」
「うん。年々、美味くなってる気がする」
少しお腹が空いていたのか、はじめはバクバクと食べて飲んでいた。徐々にペースがゆっくりになり、スナックを食べながら、ちびちびとビールを飲む感じになった。
「こういうのも悪くないね。会社帰りに飲む時はいっつも飲み屋だったからな」
「そうだったんですね」
「暴れる人がいたから、人の家ではできなかったのよ」
少し沈黙があってから、川島がビールを一口飲み栗橋に向き直る。
「栗橋さん、私……」
『キターーーーー』
「な、な、なにかしら」
川島は栗橋の顔を覗き込むように見る。
「私、少しだけ見えるんです」
「え?」
『ん?』
「霊感とかそんな強い方じゃないんですけど、なんかモヤモヤッとした感じのものが見えるんです」
栗橋はそっちの話かと一安心。
「栗橋さんに何か憑いてるみたいなんです。すいません。なかなか言い出せなくて。早めにお祓いした方がいいと思います」
「あー、大丈夫だよ。これ、私の彼氏だから」
栗橋は右手の親指を立てて左胸に当てる。
「へ? 彼氏さんですか?」
「そうだよ。それにお祓いしても駄目なんだ」
「お祓いでも駄目って、大丈夫なんですか?」
「当たり前じゃん。あたしが離さないんだから」
「……はぁ」
栗橋はこの経緯を簡単に川島へ話す。川島は多少そっちの理解があるのであまり驚かなかった。
「じゃ、今も彼氏さんと会話しているんですか?」
「私がぶつぶつ言ってる時は彼氏と話してると思っていいよ」
「えっ。栗橋さん、仕事中ずっとぶつぶつ言ってますよ。あっ、すいません」
「いいよいいよ。実際そうだから。ただ、周りにはあまり言わないでね。一回怒られたことあったから」
『あれは怖かったな』
「怒られたんですか?」
「うん。『仕事中にいちゃついてんじゃねぇ!』ってね」
『岡本がフラれた時だよな』
「違うよ、あの時はまだ、不確定だったはず」
『遠距離恋愛で、うやむやになったのか』
「そうそう」
「ぷっ」
川島はぶつぶつ言いだした栗橋を見て笑ってしまった。
「でも、実際に触れられないのは辛いですね」
「そうね」
栗橋は缶に残ってたビールを飲み干し、新たに蓋を開ける。
「でも、疑似的に会っているから、問題ないよ」
「疑似的?」
「うん。夢の中でね。川島は自覚夢って知ってる?」
「聞いた事あります。自覚夢とか明晰夢とか。夢の中で夢と認識するんですよね。見たい夢を見れるとか」
「そうそう。ヒデはさ。あ、私の彼氏ね。ヒデは私の視覚と聴覚を共有してるんだよね。これは目と耳ではなくて、それを処理する脳の一部を共有してるみたいなの。夢の映像を作る部分を二人で共有して会う感じかな」
「そんな事できるんですか?」
「うーん。実際やってるしね。そこで二人とも自覚夢になると、現実に会ってる感じなんだ」
「凄いですね。でも、自覚夢って夢と気づかないといけないから、二人共だと確率がかなり低いんじゃないですか?」
「ふっふーん。そう思うよね。初めは私達もそう思ったけど、逆だったよ」
「それはどういう……?」
栗橋は答えを焦らすようにスナックを食べながらビールを飲む。
「つまり、どちらかが自覚夢と気づいたら、相手に教えればいいんだよ。『これは夢だよ』ってね」
「あっ。なるほど」
「今でも週一、二回会っているよ。本当は毎日会いたいけど、睡眠障害とかなり兼ねないから抑え気味にしてるの。場所はイメージ次第。ダンスホールで踊ったり、宇宙を散歩したり、普通にラブホ行ったり」
「え、え、そっちもできるんですか?」
「ヒデの方は感覚無いから苦労しているみたいだけど、抱かれた感覚は残ってるよ。あんまり激しいと、目が覚めた後はしばらく動けなかったりするし」
『ナオ。あまりぶっちゃけない方が』
「私はヒデとラブラブだって、皆に知ってもらいたいの」
『お前酔ってるな』
「恋人と夢の世界でデートですか。ロマンチックですね」
川島の顔がちょっといっちゃってる。
「川島はどんなシチュエーションがいいんだ?」
「えっと、うーん。急に言われると難しいですね」
「ヒデは何かしら?」
『俺はあれだな』
「何? 私の『彼女・オ・レ』ポーズかしら」
『ちげーよ。き、嫌いじゃないけど』
「『彼女・オ・レ』って何ですか?」
「川島。世の中には知らない方が良い事もあるのよ」
「はぁ」
『俺が一番好きなのはクジラだよ』
「あー。クジラはいいよね」
「クジラですか?」
「うん。空をゆっくり漂う大きなクジラの背に乗って、地球を一周するの」
「わぁ、いいですね。私も乗ってみたいな」
川島は妄想が膨らみ、その夜はイルカに乗って宇宙を旅する夢を見た。
相変わらず、周りからは独り言の絶えない人と見られるが、基本的には平凡な日々を送っていた。
定年を迎えた後、栗橋は一人の時が多くなる。
たまに白岡や川島が遊びに来るくらいだ。
傍から見ると寂しい人生に見えているが、本人は久喜と一緒にいるのでそんな事は無い。
夢で会うことも続けていて、その時は二人とも二十代の姿で会っている。
月日が流れれば歳を取り、寿命が尽きる人も出てくる。
久喜の両親が亡くなり、栗橋の両親も。
栗橋の母が亡くなった時は、枕元に現れて。
「直美。このバカ娘は英雄さんに迷惑かけて。英雄さん本当にごめんなさいね」
と怒られていた。
亡くなった人には久喜の存在が分かるようだ
そして、そんな栗橋にも最期の時はやってくる。
その日、栗橋は実家の居間のソファーに座っていた。
家には栗橋以外誰もいない。
『結局、離れることはできなかったな』
「ごめんね。私の人生につき合わせちゃって」
『謝る事無いよ。ナオと一緒だったから、思えばあっという間だったし』
「ヒデがいてくれたから充実した人生が送れたよ。ありがとう」
『俺の役目は終わりだな』
「まさかぁ。言ったでしょ。『ヒデは永遠に私のもの』って」
『マジっすか』
「うふふふ。じゃ、行きましょうか」
『うん』
栗橋の体からでた二つの光る玉が、じゃれ合いながら天に昇っていった。
栗橋直美。享年八十四歳
その表情は孤独死と言うには余りにも似つかわしくない笑顔だったという。