4杯目:Espresso
『またね』
最初は翔の残した呪いに怯えながら過ごしていたが、小林さんや店長さん、みほ子さんといった面々が気にかけてくれたので、私の心はすぐに落ち着きを取り戻していった。
特に小林さんなんかは、これまで以上に声を掛けてくれることが増えた。最初はにやけ顔で揶揄ってきていたみほ子さんもさすがに慣れてきたのか、最近は扱いが空気だ。
まだ残暑が厳しいが、空色にはどこか秋の気配が漂い始めた。
私は《オニキス・コーヒー》の正社員になった。
「2号店もようやく落ち着いてきたわー。お昼に三銃士体勢で構えなくても、アルバイトの子たちがしっかり動けるようになったおかげね」
1号店の厨房で店長さんはアイスバーを齧りながら大きく息を吐いた。コンビニでもスーパーでも一番安い価格帯で売られている、それは店長さんのお気に入りだ。
「三銃士」とは、店長さんとマッテオさん、時谷さんの3人のことを指す。そのうちもう一人加わりそうな感じらしい。
「良かったですね、店長。忙しさのあまりテオがイタリアに帰っちゃわなくて」
「本当よー。彼がいなくなったら女性客みーんな失うわ」
テオことイタリア人のマッテオさんは、栗色の短い天然パーマに太い眉が印象的な甘いマスクをしている。背はあまり高くなく、店長さんと並んでいるとまるで大人と子供だ。いつも人懐っこい笑顔で楽しそうに料理をしているので、多くの女性客がコーヒーと軽食を注文するらしい。
さすがのお国柄というべきか。仕事中のマッテオさんは、それこそ小さな子からよぼよぼのおばあさんまで、女性ならみんなお姫様扱いできてしまうくらいに振る舞いが完璧だ。
でも、プライベートの彼は店長さんにしか興味がない。今日本で働いているのも、日本に帰国してしまった彼を追いかけてきたからというから驚きだ。アニメや漫画で得た日本語の知識が多少あっても、普通の会社で働けるレベルではなく。ならばイタリアで培ったバリスタの経験を大いに揮うのはどうか考え、《オニキス・コーヒー》をオープンする運びとなったわけだ。
つまりマッテオさんがいなければこのお店はなかったことになる。ものすごい愛だ。
お店の一番古いスタッフはみほ子さん、ということになっているけれども、正確にはマッテオさんが創業前からのメンバーだ。就労ビザの取得に時間がかかってしまい、そういうことになったらしい。
先日行われた親睦会の席で、店長さんが創業秘話を教えてくれた。
「みんなよくやってくれているから、みんなで河原行って肉でも焼いちゃう? ホタテとか魚介類でもいいわ」
「あー、それすごくいい。何か作って持っていくから、旦那も呼んでいいですか?」
「いいんじゃない? 親睦会第二弾ってことで。江奈ちゃんは小林さん誘ってみたら?」
「わ、私がですか?」
店長さんとみほ子さんの雑談をほほえましく眺めていたら、不意に店長さんから話を振られた。
「多分、江奈ちゃんが誘えばなんとか仕事の都合つけて来るわよ。ねぇ、そう思わない? みほ子ちゃん」
「多分というか十中八九駆け付けるに一票」
「でも、いつもお忙しい感じだから迷惑じゃ? 昨日も帰ってきたの日付が変わる頃でしたし」
しまった、と私は思った。案の定二人はよからぬ笑みを浮かべている。
「あらあら、聞きました? 『昨日も』ってことは、彼の帰宅時間把握しているらしいわ、この子」
「しっかり聞こえましたよ店長。これで付き合ってないとか、本当かなぁ?」
「そ……それは……ベランダで涼んでいて、ちょうど……」
また揶揄われてしまった。
そう、小林さんは帰りが遅い。
帰宅時間が日付を跨ぐことなんて珍しくない。
コーヒーを買う日は別として、朝も7時には出勤しているようだ。
土日も関係なく、きちんと身なりを整えてどこかに出掛けている。「何かのお稽古に行っているらしい」とは店長さん情報だ。
朝は輝くような笑顔を見せてくれる彼だが、夜もさすがに同じ調子というわけにはいかない。深夜に帰宅する彼を見かける際にはその顔に疲労感がにじんでいて、何度か栄養ドリンクを差し入れたくらいだ。
そんなに激務で体を壊してしまわないかと心配になるのだが、当の本人といえば自分は体力があるしこれは一時的なものだからと笑っていた。本人がそういうのだからあまり差し出がましいことは出来ないと思った私は、時々、帰宅したばかりの小林さんと言葉を交わすようになった。
『江奈さんと話していると元気が出ます』
そう言われてからは「時々」の頻度が増していった。毎日ではないけれど、それに近い頻度で。
次第に、翌朝のコーヒーのオーダーも確認するようになっていた。
「とりあえず、日程の候補考えなきゃ。それから小林さんにも聞いてみて」
「っ、分かりました。……それにしても今日も暑いですね」
顔の火照りを暑さのせいにして両手で扇いだ。
「うん、お客さんいないし、レジの確認もしちゃったし。ちょっと上でご飯でも作ってこようかしら。二人とも、食べる? パスタとかパニーニとか、簡単なやつならすぐ出来るから」
「やった! 店長のバジルソースパスタ絶品なのよね!」
「いいんですか、店長さん?」
「もちろんよ。このあともお客さん来ないみたいだし、みほ子ちゃん、手伝ってくれる? 江奈ちゃんは店番よろしくね」
なんだかんだ騒がしい二人が厨房を出ていくと、注文口に人型の影が出来ていた。
「いらっしゃいま……せ……」
翔だった。
顔が引きつった。
「カフェインレスのアイスコーヒーひとつ。大きいサイズある?」
私はかろうじて頷くと、冷蔵庫から水出しコーヒーのボトルを引っ張り出した。ゆっくりと深呼吸を繰り返しながらプラスチックのコップに注ぎ、蓋をして、ストローと合わせて注文口に届ける。
翔は小銭受けに細かいお金を一枚ずつ落とした。
「この間は驚かせてごめんね?」
「……いえ」
「この間は注文しないで帰っちゃったからさ。今日はリベンジ。ここ有名なんだって? いつから働いているの? 会社辞めてからすぐ?」
翔はアイスコーヒーに口をつけると、感心したように唸った。
「美味しいね、これ」
「……ありがとう、ございます」
視線を合わせない私の姿に彼は苦笑すると、「江奈」と付き合っていた時のように甘い声で私を呼んだ。
でももうその魔法は私には効かない。
私は視線を逸らしたまま言い放った。
「ほかにご注文がなければ、もういいですか? ちょっと奥に行かなきゃ……」
「いつもそんな感じで接客してるの? 愛想悪くない?」
「ナンパ目的のお客様はお断りなので」
「ふぅん」
翔はストローを噛みながら喉を潤すと、お代わりを要求してきた。さすがにラージサイズを2杯も飲むことは出来ないようで、今度はレギュラーサイズの注文だ。
「じゃぁさ、コーヒー目的ならいいかな? ここ、椅子はないけどカウンターに寄りかかるくらいは出来るし」
「営業妨害しなければ、どうぞお好きに」
「じゃぁそうする」
彼は大きな背伸びをすると、注文口から横にそれてカウンターに両肘をついた。両手でコップを持って、飲むでもないストローの先を唇で弄ぶ。きっと前職の同僚がこの姿を見たら悶絶するのだろう。
肉食動物にいつ飛び掛かられるか分からない不安さを抱きながら、私は厨房の奥へ向かった。何もすることはないが、とにかく彼の前にはいたくなかった。
それでも翔は細かく用事を言いつけて私を近くにいさせようとした。
店員さーん。砂糖ありますか? できれば茶色い方。
店員さーん。このソイミルクの次のプロテインミルクってどういうやつですかー?
店員さん。
店員さん。
店員さん……。
いい加減私がしびれを切らしそうになった時、ようやく建物の上の方から階段を下る足音が聞こえてきた。まもなく店長さんとみほ子さんがそれぞれ料理を手に厨房にやってきた。
「江奈ちゃん、お待たせ―! って、あら? お客様が」
「ご注文は大丈夫ですか?」
「あ、もう頂いています」
翔は空になったコップを振り、無邪気さも感じられる完璧な笑顔で答えた。性別を問わない人たらしの得意技に、さすがにみほ子さんも反応した。
「……えっと、じゃぁ」
江奈ちゃん、と発しかけた店長さんは何かを察したようで、私を押しのけて注文口の前に立った。
「空いたコップを頂戴しますよ。さぁどうぞ」
店長さんは受け取ったコップを大きな手で握りつぶすと、ゴミ箱に放り込んだ。
「またのお越しをー」
大熊のような店長さんの迫力に圧倒されたのか。翔は愛想笑いを浮かべながらも、すぐに店を離れていった。
昼食の間、みほ子さんが「あの人すごいイケメンだった! 旦那ほどじゃないけど」等とはしゃいでいたが、店長さんが黙って食後のコーヒーとデザートを取り出すと、すぐにそちらに意識を向けてくれた。
その日、小林さんはお店に来なかった。
夜も、ベランダで少し待っていたけれども小林さんと会うことは出来なかった。
昼間に送ったメッセージにも反応はなかった。
小林さんは忙しいんだから。頭では分かっていても、その夜、私はとてつもなく小林さんに会いたくてたまらなかった。
「江奈ちゃん」
数日後、閉店準備をしていた私に店長さんが声を掛けてきた。念入りに掃除をしようと腕まくりをしたところだった。
「あのね、今度の定休日の次の日、お休みあげるからちょっとどこか遠出してみたらどうかしら?」
「お休み、ですか?」
「そう。なんだかんだ江奈ちゃん、うちに入ってから働き詰めでしょう? お休みの日もお家にいるし、それにここ何日かちょっと疲れている感じもしたし……」
「ありがたいお言葉ですけど、でも私、お店は?」
「それは心配ご無用! 最近お客さんも少ないし、大体それ、江奈ちゃんが心配することじゃないし」
「はぁ」
「ね? いいから休みなさいって。せっかくだから、小林さん誘ってどこかに行けばいいわ。その日休みだって言っていたし。デートしちゃいなさいよ」
さすがにこれには私も驚いた。
何故、私と、小林さんがデートをするのか。
「男女が揃って出掛けたら、デートって言っちゃっていいでしょ」
いつもよりやや押しの強い店長さんのペースに乗せられて、私は小林さんにメッセージを送ることになった。いつもすぐに返信が来るわけでもなく、夜遅くになって敬礼する警察官のスタンプが送られてきた。それがとても小林さんらしくて、私は気付いたら同じスタンプのシリーズをダウンロードしていた。
あっという間に日が過ぎた。
約束は10時。私の家。
小林さんが考えてくれたプランは「まずは軽く腹ごしらえしてから水族館に行き、雰囲気のいい喫茶店でゆっくりした後夕方には帰宅」というものだ。私に合わせて無難なプランを考えてくれたらしい。思えば、翔とはどこかに出掛けるといってもレストランで夕食をとる程度だったので、普通のデートはなんだか新鮮だった。
仕事着の彼も素敵だが、カジュアルな服装もまたとてもよく似合っていた。
上はネイビーカラーのカーディガンにアイボリー色の丸首カットソー、下は薄っすらチェック柄の入った灰色のストレッチ素材のパンツ。明るい茶色のローファーが目を引いた。シンプルだからこそ、小林さんの端整な顔立ちを際立たせていた。
対して、私は濃いブラウンのシャツワンピースに麻の大きなストール。黒いスパッツを履き、足元は低めのヒールの白いカジュアルパンプスにした。
別に打ち合わせをしたわけでもないのに、同じ色味を使っていて気恥ずかしくなってしまう。
「……行きましょうか?」
小林さんに促され駅の方へ向かおうとすると、店長さんに呼び止められた。
「エチオピアの新しい豆が入ったのよ、ちょっとだけ味見していってー」
私と小林さんは店に立ち寄りそれぞれエスプレッソを受け取った。
鼻を近づけると、深い香りに頭の中がとろけるような感覚がした。濃厚そうなクレマにはキレイなトラ模様の斑点が浮いている。
「いい香りだな」
「そうなのよ、浅煎りにしてみたの。少し砂糖入れてね。おすすめはスプーンに軽く2杯ね」
店長さんのアドバイス通りに砂糖を入れると、苦みしかなかったコーヒーの味にチョコレートのような風味が加わった。
「わぁ、チョコレートみたいな味がする!」
「でしょう? あと、これ。本物のチョコレートのサービス」
「ありがとうございます!」
チョコレートを受け取った小林さんは一瞬眉を顰めたが、何も言わずにエスプレッソコーヒーと一緒に飲み込んだ。
「いってらっしゃーい!」
店長さんの見送りに私は手を振り返して、小林さんの隣に立った。
最初こそは緊張していたけれども、過ぎてしまえばあっという間だった。特に問題なく、小林さんのプランに従ってあちこち見て回る。たったそれだけなのに、私は年甲斐もなく小林さんと別れるまでの数時間、ずっとわくわくし通しだった。