3杯目:Café Latte
気付けば、《オニキス・コーヒー》で働き始めて3か月が経った。
直射日光は休む間もなく地上を焼き、天気予報では酷暑だから水分補給をしっかりしろと訴えている毎日が続く。
私でも基本的なメニューを提供できるようになったので、最近はランチタイムの3時間は一人で店番をしている。というのも、マッテオさんが作る軽食があまりにも人気で、仕方なくみほ子さんがこの時間だけ手伝いに行くようになったためだ。
「暇だなぁ」
正午前後のお店は正直暇だ。
お客さんからさぼっているのが見えなければスマートフォンをいじりながら時間を潰していてもいいという店長さんの考えに甘えて、お客さんがいなければ海外ドラマを見るようになっていた。『L』を左右反転させた造りの厨房内では、長い方の先端にいればお客さんからはよく見えない。かなり緩い働き方をしていると思うが、イタリア暮らしの長い店長さん曰く「日本人は真面目に働きすぎ。ちょっと手を抜いたくらいで丁度いいわ」だそうだ。
前職が必死に働いて大型案件を獲得してこいという考えがゴロゴロしている環境だったので、その差に最初は戸惑った。
だが、慣れというものは怖いものだ。
店長さんが計画していた食事会とやらは、延期に延期が重なって、ついに来週、お盆に合わせて店長さんの自宅で行われることになった。最初はどこかのお店を予約してやろうとお店を探していたそうだが、私がついうっかりマッテオさんの手料理を食べてみたいと呟いたことが店長さん経由でマッテオさんに伝わってしまい、彼の料理人魂に火をつけてしまったのだ。
どうやら、生粋のイタリア人らしく、
「ヴェラドンナのリクエストなら断らないよ!」
と高らかに宣言したらしい。
ちょっと照れてしまう。
みんなでワイワイするので、店長さんはマンションの掲示板にパーティー開催のお知らせを出した。お知らせの紙には「夜7時から12時くらいまでパーティーするよ、でも2時くらいまで終わらないかも」「うちは防音対策してあるけどうるさかったらごめんね」「お腹がすいていたら食べに来ていいよ」「参加するときには1品持ち寄りでよろしく」という内容が丁寧な文章で認められていて、思わず笑ってしまった。
当然のことながらマンションの住人である小林さんもお知らせを見ているので、今朝コーヒーを買いに来た時に質問された。
「俺も、参加ってできますかね?」
「まったく問題ないと思いますけど、気になるなら店長さんに聞いてみます?」
「いいですか?」
「もちろんですよ」
「ありがとうございます、じゃぁお願いします」
早朝から完全装備のイケメンの微笑みは、心臓の鼓動を早めるのには十分だ。赤くなる顔をごまかすために後ろを向いて朝のコーヒーを準備した。
奥の方でみほ子さんが顔を緩めているのは無視した。
注文を受けた冷たいカフェラテをタンブラーに注ぎ、蓋をしっかり締める。代金のやり取りを済ませると、いつもはそのまま立ち去る小林さんが思い出したように「あっ」と声を上げた。
「今日の午後、このあたりのクライアントに訪問するんですが、またカフェラテ注文しますね。多分2時か3時になると思うんですけど」
「あ、はい。分かりました」
小林さんはその日の気分でコーヒーを変えているようで、前回はアイスコーヒー、その前はアイスのカフェモカを注文していた。さすがに朝からコーヒーフロートを注文してきたときには「朝からですか?」と驚いてしまったが、小林さんは気にすることもなく商品を受け取っていた。
「ここのコーヒーは美味しいから、とりあえず目に留まったものから注文しているんですよ」
また来ますね、と言い残したクールビズ仕様の背中を見送った。
そのあとは、みほ子さんが2号店のヘルプに向かうまでの短い間、しっかりとそのやり取りをネタに揶揄われてしまった。やめてくださいよと言いつつ、頬が熱くなる自分を自覚してしまうのには参った。
みほ子さんが居なくなってからもずっと、客足はまばらだ。普段買いに来るご近所さんも大学生たちも、この暑さを倦厭してか来ない。
致し方ない。
今日は暑い。
ネットニュースを確認すれば、酷暑や熱中症といった、見ているだけで熱くなりそうな文字が躍っていた。
「とりあえず、店長さんに報告……」
店長さんに報告をしようと社内SNSとして使っているアプリを開くと、短く『1号店は2時まで昼寝』と書かれていた。「ぷっ」と吹き出す。きっと店長さんがオネエ言葉を使うようになる前の口調は、こんな風にそっけない感じだったのかもしれない。
「それにしても『昼寝』って……」
本当に緩い職場だ。
私が返信をすると、すぐに店長さんから次なる指令が来た。
「えーっと……『看板に暑さのため2時頃までお休みって書いて店先に置くこと。それに伴い今日の閉店時間は午後6時になることも併記すること』……りょーかい」
私はかわいらしいウサギのイラストで返信した。さっそく店長さんの指示に従って小さな看板に営業時間の変更を記す。注文口のカーテンも閉めた。店長さんたちとお揃いのモスグリーンのエプロンも外して壁にひっかける。客足が途切れている間に掃除も済ませてしまったので、エスプレッソマシーンの電源だけ落として、店の外に出た。
「あっつ……」
ふと、こんな炎天下でも小林さんは外回りをしているのだろうかと思った。
茹だるような暑さの中汗をぬぐう彼を想像してドキリとする。
「やだっ……な、なに考えてっ……」
慌てて妄想をかき消して、これからどうしようかと考える。少し早いが、昼食にしてしまおうか。
近所の食事ができるところをいくつか思い出して、その一つに行くことにした。
そこは至って普通の食堂風チェーン店で、早めに来たのでまだ空いている。ラッキーと思いながら私は食券を買って席に着いた。何分もしないうちに日替わり定食が出てくる。前の職場で働いている時には、これを10分でかき込んでいたが、今はその必要がない。
ゆっくり食事ができる幸せを噛み締めながら「ごちそうさま」と手を合わせた。
食器を返そうと返却口のあたりに来た時、知人を見つけて嬉しくなってついつい声を上げてしまった。周囲の視線がこちらに向いて慌てて口を手で覆う。
「奇遇ですね」
小林さんは使い終わったお箸を丁寧にお盆に戻すと、私と同じように食器を返却口に置いた。
「店は?」
「暑くてお客さんがいないので、一時休業です。2時過ぎたらまた開けるのでそしたら来てください」
「2時か…じゃぁ2時半くらいに行きますね」
「お待ちしていますね」
お店にいるときと同じ感覚で微笑むと、小林さんが顔を背けた。ゴホンッと咳払いをすると私を先導してチェーン店を出る。顔が赤く見えるのは気のせいだろうか。
みほ子さんにしばしば冷やかされるのでそんな行動にもつい意識してしまう。
「じゃぁ、また、あとで」
「はい、またあとで」
私たちは軽く挨拶をして別れた。
小林さんと別れた後、私はスーパーに寄ってから一度帰宅した。まだ時間はあるからとキッチンに立ち、総菜をいくつか作り始める。
ふと、「小林さんは好き嫌いがあるかしら」と思い立った私はもう一度スマートフォンを手にした。朝方店長さんに送っていた別のメッセージに返信が来ていた。
内容はパーティー参加の承諾だった。良かったと思っていると続きがあった。私はその内容を見て、がぜん料理のやる気に力が入った。
時間になったので店に降りた。エプロンをつけ、エスプレッソマシーンの電源を入れ、カーテンを開ける。立ててあった小さな看板の文字を消し、お客さんを迎える準備をした。一番太陽が高く上がる時間なので、少しでもお客さんが日光から逃げられるようにと大きく広げたサマーオーニングの角度を変え、前幕も落としてみた。前幕が風で緩やかに揺らめく。
厨房の奥でぼぅっとしていると、注文口から来客の気配がした。
「あ、いらっしゃいませ!」
「あれ?」
上がっていた口角が急に下がるのを感じた。すっと背筋が冷え、手が震えだす。
「可愛いスタッフがいるって聞いたから来てみたんだけど」
思わず後ずさったが、カウンターと並行する側の狭い厨房内では2歩が限界だった。
「何で……」
「お前だったのか、江奈」
それは私を裏切った男だった。
強く降り注ぐ日光とは対照的に、日陰に入ってきた翔の表情は闇から顔を覗かせているようにも見えた。滴る汗が生々しく感じる。
「へぇ? 意外なところで会えたね?」
翔はカウンターに肘をつきながらくつくつと笑った。
一応、ビジネスバッグを手にしているので、営業の挨拶回りの途中なのだろうか。
彼は不思議そうに首を傾げた。
「ねぇ、聞かないの? 『ご注文は何にしますか』って」
「っ……ご注文は、……何に、しますか?」
「んー、……君かな」
ふざけた注文にキッと睨みつけると翔は、見せつけるように指先で唇を撫でた。
ベッドの上でよくやっていた仕草だ。時間をかけて彼の手練手管の限りを尽くし、蕩かされ、息も絶え絶えに彼に縋っていたことが走馬灯のごとく脳裏を過った。
彼しか知らない体の奥が疼きはじめ、膝がガクンと力が抜けかけるのをステンレスの作業台で支えて耐える。
私の反応を見て気をよくした男が、カウンターの中に手を乗り出してきた。
獲物を追い詰めた肉食獣が、目の前にいる。
その恐怖に、体が震える。
「……ダメ?」
この甘く絡みつく声に。
妖しく誘う焦げ茶色の双眼に。
この顔にいったい何度唆されてしまったか分からない。
「江奈、こっちに」「注文したいんだが」
不埒な声を遮るように、心の芯まで震える冷たい低音が突然響いた。
ばっと声がした方に顔を向けると、周囲を氷点下まで叩き落しそうなほど怒りを湛えた影がいた。
「……こ、小林さんっ……」
安堵のあまり泣きそうになるのを堪えながら、私は体勢を立て直した。
彼がいるから大丈夫だと、絶対的な安心感が全身を落ち着かせる。
これで射殺してやるとばかりに強烈な視線を一点に据えたままの彼が差し出す黒いタンブラーを受け取って、すぐに商品の準備をした。強張る両手を握ったり開いたりして震えを完全に落ち着かせる。豆や黒い抽出液を溢しそうになりながらも何とか容器の蓋を締めた。深呼吸を一度して重量を確かめ、値段を伝える。
小林さんは手元もよく見ずに1万円札を取り出した。
「釣りはいい。次回の分はそこから引いてくれ」
今まで聞いたことのない彼の機械的な声に驚きながらも、「はい」と小さく返事をした。
「ここはコーヒーを売っているんだ。……溜っているならそういう店に行け」
翔は小林さんと私を交互に見比べると、何か思うところがあったのか。細長く息を吐いて目の前の相手に向き直った。
「あんたが新しい相手ってところか?」
「だったら何だ?」
「別に」
翔は薄っすら仄暗い笑みを浮かべると、最後に私に視線を流した。酷薄な唇が音もなく紡いだ言葉に体が反応しかけたが、何とか耐える。
――……どこまでも最低な男。
「大丈夫か?」
急に降ってきた穏やかな問いかけに、顔を上げる。小林さんだった。彼は伸ばしかけて躊躇った右手を少し彷徨わせると髪を撫で付けた。
「顔色がかなり悪い。……あー、手もそんなに力を入れていると痛めます。店長に連絡して今日はもう店仕舞いをしたらどうです?」
仕事モードだという敬語が中途半端に抜けて、店長さんと話しているときのような素の彼が見え隠れしている。私に話しかけるときには常に敬語だったから、どう話しかけたらいいか混乱しているようだ。
「でも、そんなに簡単に休んじゃ……」
「何言ってるんですか、体調管理は大事ですよ。それに悪いけど、他のお客さんからも心配される前に休んだ方がいいと思います」
「……そんなに顔色悪く見えます?」
小林さんはゆっくりと頷いた。
確かに、彼の言う通りだ。
頭の奥で風船が膨らんでいるかのように圧迫感がある。どことなく眩暈も、悪寒もする。このまま仕事を続けることは得策ではないだろう。
私はスマートフォンを手に取った。体調不良のため店を閉めたいと個別にメッセージを送ると、すぐに了承のメッセージが返ってきた。
「……店長さんの了解、取れちゃいました」
こんなにあっさり休んでいいと言われるなんて。
信じられない気持ちで画面を見せると、小林さんの表情も少し落ち着いたようだ。
「あ、ちょっと待って」
何かを考え付いたらしい小林さんは、徐に自身のスマートフォンを取り出すとどこかに電話をし始めた。仕事の電話だろうかと思った私は厨房の奥に引っ込む。
厨房の掃除――といってもエスプレッソマシーンの片付けだけだが――をしていると、注文口から耳に馴染んだ低音が響いた。
「江奈さん」
呼びかけに応じると、小林さんが自分も今仕事が終わったと言い出した。お疲れ様です、と返すと彼は何とも言えない表情を浮かべる。
「その、掃除とか店の外の片付けを手伝うから、早く休んだ方がいい、です」
私が呆気にとられていると、小林さんは手際よく前幕を外してサマーオーニングを畳み始めた。数は少ないが店の外の装飾も、閉店後の所定の位置に戻してくれる。
「……小林さん、なんだか慣れてます?」
「何度か準備しているところを見たからかな」
小林さんは外側を片付けると、今度は厨房の入り口の方に回ってきた。
「こっちは?」
「あぁ、こっちは大丈夫です、もう片付けましたから。あとは鍵持って上に上がるだけで」
「そっか」
家の鍵とスマートフォンをポケットに突っ込み、店の戸締りを確認する。それから階段を上ろうとして、よろめいた。
すかさず小林さんの大きな手が私の背中を支えてくれる。
「ご、ごめんなさい!」
「ほら、やっぱり。掴まってください、支えますから」
「階段くらい大丈夫ですよ」
「3階まであるんですよ?」
それでも大丈夫です、と答える私に、彼は先ほどと同じように顔を曇らせた。
「失礼」
「きゃっ!」
小林さんの声が耳元で響くなり、視界が大きく揺れて体が宙に浮いた。慌てて手を伸ばしてしっかりした生地を握りしめる。一瞬、柑橘系の香りのあとにバジルのような苦みのある爽やかさが嗅覚を刺激した。
「こ、こここ小林さん!!」
「驚かせてすみません。でもやっぱりこうさせて」
「でもすぐそこだしっ、私重いし?!」
「すぐそこでも無理して歩かせたくないし、っ……」
鍛えられた小林さんの両腕に力が入る。洋服越しに感じる筋肉の動きに眩暈がした。
体重に一切触れなかったのは小林さんの真面目さを表しているようだった。
「でも」
「少しだけ我慢してください。江奈さんのことが心配なんです」
それでも私が抵抗しようとすると、小林さんの悲しげな瞳が目の前にあった。そんな目で、そんな弱弱しい声で頼まれてしまったら大人しくしているほかない。
私は暴れるのをやめて、素直に彼の腕に身を預けた。
「ありがとう」
「……いえ、こちらこそ」
何故かお礼の言葉を口にした小林さんは大きく体が揺れないようにゆっくりと、かつ、あっという間に3階に私を運び上げてくれた。これ以上の丁寧さはないと思うくらいに静かに下ろしてもらい、促されるままに鍵を開ける。これまでの癖でつい部屋の中に招き入れるように振り向くと、苦笑する彼がいた。
「……さすがに、一人暮らしの女性の部屋に入るのはまずいでしょう?」
私は急に恥ずかしくなった。
2人ともいい年をした大人だ。
私が謝ると小林さんは笑って許してくれた。
「……小林さん」
「はい」
「ここまで運んでくれてありがとうございます」
「俺の方こそ急に抱き上げちゃってすみませんでした。それよりも養生してください。何かあったら俺に連絡を、」
ください、とは続かなかった。
そこで私たちはようやく気付いたのだ。まだお互いの連絡先を聞いていないことに。初めて出会ってから今日にいたるまで、私たちはずっとコーヒーショップの周辺でしかやり取りをしていない。
「……連絡先を、聞いても?」
「あ、はい。お願いします」
まるで名刺交換をするように連絡先を交換した。
「辛かったらいつでも連絡してください。遠慮はしなくていいから、欲しいものがあれば届けます」
「ありがとうございます」
玄関扉を閉める瞬間まで心配してくれる小林さんにくすぐったい気持ちになりながら、私はメイク落としシートを引っ張り出して顔を拭いた。そのまま四つん這いになって布団に倒れ込む。
それから手にしたままだったスマートフォンの画面をもう一度見て、新しいコンタクト先が存在しているか確認した。
『小林正美』
そういえば初めて下の名前も今知った。
「……コバヤシ、マサミ、さん」
あぁ、だめだ。また心臓がうるさくなってきた。
いい年をした女がこれくらいのことで心臓を高鳴らせてどうするのだ、と叱咤しつつ、私は高鳴る鼓動を抑えきれなくなっている。
耐え切れなくて、ぎゅぅっと体を丸めると、そのまま睡魔に飲み込まれるまで心臓の音に意識を集中していた。
もう完全に認めるしかない。
私は小林さんに惹かれている、と。