2杯目:Cafe Americano
恋人の裏切りが発覚したその日、雨の中で会った人に連れていかれたコーヒーショップでいろいろ話をした結果、新しい住所と職場が決まった。
まずはアルバイトからスタートして、長く勤められそうだったら正社員にしてくれると店長さんは約束してくれた。
何という幸運。
まさに神様、小林様、店長様だ。
仕事の引継ぎや引っ越しの準備、新しい職場での勤務など、暫くバタバタした日を過ごしていたが、2か月もすれば、それもようやく落ち着いてきた。
「江奈ちゃん、順調?」
朝8時25分。
8時半からの開店前に店長さんが1号店の様子を見に来た。道路に面した注文口のガラス戸を勝手に開けて中を覗き込む。私ともう一人のスタッフさんが「おはようございます」と元気に返すと、にっかりと太陽のような笑顔が返された。
「いつも早くからありがとう。みほ子ちゃんにしごかれてない? 大丈夫?」
「えー、店長、ひっどーい」
新人教育をしてくれる飯島みほ子さんが、エスプレッソマシーンを拭きながら頬を膨らませた。
みほ子さんは《オニキス・コーヒー》で一番長く働いているスタッフだ。いつも綺麗な黒髪をきっちりとお団子状にまとめている。薄めの化粧でも美しさが引き立つ華やかさを持った、すらりと姿勢が美しい女性だ。昔バレエを習っていたというからその影響もあるのだろう。男子大学生たちに人気で声を掛けられている姿を時折見るが、既婚の彼女は歯牙にもかけない。
彼女と私は実は同い年なのだけれど、どうしても私は敬語で話しかけてしまう。しかし竹を割ったような性格の彼女は「少しずつ仲良くなってね」と返してくれた。
《オニキス・コーヒー》にはスタッフが店長さんと私以外のスタッフがさらに5人いる。今のところ名前と顔を知っているのは、飯島みほ子さん、時谷直哉さん、それからイタリア人のマッテオさんの3人だけだ。
オープンしたばかりの2号店はかなり忙しいようで、落ち着いて全員に挨拶をすることができていないが、もう少ししたらみんなで飲み会でも開こうという話になっている。とても楽しみだ。
「冗談よ、みほ子ちゃん。それにしても可愛いのが二乗されて最っ高。朝から幸せ」
「店長も可愛いですよー」
「あら、嬉しい」
熊と子猫のじゃれ合いのような二人のやり取りを見ているととても癒された。
先日、店長さんに何故オネエ言葉なのかとさりげなく聞いたところ、これはみほ子さんのアイディアだったらしい。名前も見た目もいかつい店長さんが、ぶっきらぼうに話してしまうと近寄りがたい雰囲気が強化されてしまう。そこでオネエ言葉で印象を柔らかくすることで、話し相手に安心感と癒し効果を与えるのはどうか、と考えたそうだ。仮に、拒否反応を示す人間がいたらそれはそれ。深く関わらなければいいのだ。イタリアに長くいた店長さんによれば、所々音を伸ばすところがイタリア語に似ていて話しやすいらしい。
それに、と店長さんは付け加えた。
『オネエ言葉なら、可愛いって連呼していてもそんなに違和感ない感じがするしね』
なるほど確かに、と私は思った。そういえば《オニキス・コーヒー》の隅には、ピンク色のウサギの、若干目がイッちゃってる人形が飾られていたなと思い口にした。するとそれはイタリアの有名な漫画のキャラクターなのだと教えてくれた。
『可愛いでしょう?』
その笑顔には、少し同意しかねた。
「それにしても、やっぱり江奈ちゃんを1号店に置いてよかったわぁ」
「そうね。いきなり2号店に入れるのは大変だったかも」
しみじみといった感じで店長さんが呟くと、みほ子さんが同意する。
1号店と2号店は構造や物の配置がだいぶ違う。2号店は一般的な喫茶店のような雰囲気で、ゆったりとしたイートインスペースがあって軽食も注文できるのだが、1号店は道路に面した小さなカウンターがあって立ち飲みは出来るものの、基本的にはテイクアウトを提供している。『L』を左右ひっくり返したような造りになっていて、線の長い方が厨房スペース、短い方で注文を受ける、という感じだ。壁にかかるメニュー表にはズラリと大量のコーヒーの種類が記されていた。これとは別にカウンターの上にも小さなメニュー表があって、こちらにはマッテオさんが作るケーキの名前が書かれた。
だが、今は伏せられている。ここでは、ケーキがあればそこに書き込み、なければ伏せておくというルールだ。
本当はそれぞれの店でケーキを作ることが望ましいのだが、1号店の厨房には十分な設備が揃っていないので、2号店でベースのケーキを作っている。それぞれの店で提供するときに簡単に飾り付けを行って提供する、という方法をとっていた。
そもそも店長さんにそこまでの商魂がない。入れ替わりの激しい飲食業を営んでいるくせに、「頑張って売りまくるぞ!」という感じがないのだ。マッテオさんが作りたかったら作り、ちょっと休みたかったら休む。そんな感じ。
それが「とにかく営業しまくれ」という雰囲気に慣れていた私には、少し新鮮だった。
「オープンするまでは私ら三銃士で2号店に行っちゃうと戦力過多かと思ったんだけど、そんなことなかったね……。新しいアルバイトの子もよく働いてくれているわ」
「オフィス街甘く見ちゃいけませんよ、店長。ほら、そろそろ行かないと。時谷さんに叱られますよ」
2号店の開店時間は9時半。10時には午前のコーヒーブレイクで店内がごった返す。それまでに1号店分を含めたのケーキ作りと軽食の下拵え、店内清掃を済ませなければならないのだから大変だ。
「今日も昼頃にケーキ取りに行きますから」
「はーい、よろしくねぇ」
ひらひらと手を振り去っていく大きな後ろ姿を見送って、いろいろ準備をしているとあっという間に一人目の来客があった。小さなガラス戸を全開にすると、それは見知った顔だった。
「おはようございます、小林さん」
「おはようございます。アメリカーノで。今日もタンブラーに入れてもらってもいいですか?」
「はい。みほ子さん、アメリカーノ、タンブラーで。いいですか?」
「はーい。タンブラーパスしてください」
私はお金と一緒に受け取ったタンブラーに消毒液を吹きかけるとみほ子さんに渡した。
彼女は慣れた手つきで黒い液体を注ぎ込み、計量器に置いて重さを確かめてから持ち主に返す。《オニキス・コーヒー》の常連は時々自前のタンブラーを持ってくることがあるのだが、その時にはグラム売りにしているのだと聞いていた。
お釣りを受け取った小林さんは慎重にコーヒーを口に含むと、目を閉じて味わう。
「行ってきます」
「いってらっしゃい、今日も頑張ってください」
小林さんの来店を皮切りに、何人ものサラリーマンや近所の住人たちがコーヒーを求めてやってきた。私は会計と注文受け、みほ子さんはコーヒーの抽出と分担しつつ、3台あるエスプレッソマシーンをフル回転して慌ただしく注文をさばいていく。
午前中のラッシュが終わると一息ついて、こっそり昼食用の飲み物を準備した。
「江奈さん、ちょっと一休みしたら、ケーキの受け取り行こう。『すぐ戻ります』の看板出しておいて。戻りの予定時間は……そうだな、1時頃でいいかな?」
「はい、わかりました。……みほ子さんもちゃんと休憩しましょうね?」
休憩中だというのにコーヒー殻で少しだけ重くなったゴミ箱を裏口に持っていこうとする彼女の姿に、私は苦笑した。
2号店からケーキを受け取ってくると、さっそく午後のラッシュに備える。
本日のケーキは定番のチーズケーキ、チョコレートとサクランボのタルトケーキ。生モノのため2号店で作られたケーキの素地は半分冷凍され、1号店に着くころには解凍されているという寸法だ。付け合わせのフルーツもタッパーウェアいっぱいに渡された。
特にチーズケーキは予約が入るほどの人気メニューなのだが、それでもあっという間にケーキは売れてしまう。午後のおやつの時間にはマッテオさんから「これは君たちが食べてね」と渡されたコーヒーゼリーだけが冷蔵庫の中に鎮座している状態になっていた。
時間は午後4時少し前。
「わー……今日も完売ですねー」
「つーかーれーたー。なんだかんだ休憩以外は立ちっぱなしだもんねー。ケーキもなくなったし、今日は4時半になったら店仕舞いにしよう。もう店長にも報告したから大丈夫」
二人して体を休めていると、コツコツとガラス戸がノックされた。
小林さんだった。
彼は朝によく買いに来る常連さんではあるが、1日のうちに2回買いに来ることは初めてだ。
「また来てくれたんですね、ありがとうございます」
「近くまで来たので。……いいですか?」
「ちょっと待って、すぐ淹れますから」
みほ子さんが体を起こすと、素早く商品を提供する。早くあんな風にサーブができるようになりたいなと見惚れていると、ふと小林さんが肩を震わせていることに気付いた。どうしたのかと声を掛けても、いやいや、と首を横に振るだけ。みほ子さんも何やら「糖分多めかよ」などと呆れている。……はて?
「次のアポがあるので、また」
「あ、はい。お気をつけて―」
小林さんを見送ると、道具を片付けていたみほ子さんが深刻そうに呻いた。
「……やっぱり江奈ちゃん狙いね」
「え?」
「小林さんってさ、前はこんなに頻繁に来なかったんだよ」
「そうなんですか?」
「うん、朝のコーヒーは時々買いに来てたけど、でも週に1回来るか来ないかだったし。絶対江奈ちゃん狙いよ」
「あはは、そんなまさか」
「絶対そうよ。ここ最近、週3のペースで来るようになったのって、江奈ちゃんがここで働き始めてからなんだから。そっか、そっかー」
実に愉快そうに顔を綻ばせながら、先輩スタッフは一人で勝手に「小林さんの好みは江奈ちゃんだったのか」と納得し始めた。
「え、いや、それは仕事が落ち着いたからじゃ?」
「江奈ちゃん的にはどうなのよ? 小林さん、どう思う?」
「ど、どうって……」
「これくらいで照れないでよ。えっとね、私はいい男だと思う。まぁ、旦那には負けるけど」
もしや自分が惚気たかっただけではないのか。そんな考えが脳裏を過る。だが、期待の籠る視線に促されるように、私は自分が抱えている小林さんへの心象を言葉にしてみることにした。
「えっと、そうですね……。すごく、優しい人だと思います。あと、真面目だし……」
改めて小林さんについて考えてみると、心の底から次々と感謝の気持ちが湧いてきた。
初めて会った時も、皆が素通りする中、声を掛けてくれた。
それから自分が雨に濡れるのも構わずに私を支えてくれた。
店長さんにいろいろ無理を聞いてもらったのも、小林さんの口添えがなかったらどうなっていたことか分からない。
プライベートな会話をすることは極めて稀だが、言葉の端々に私を気遣っていることが感じられる。
それに、みほ子さんの言う通り、小林さんはかなりのイケメンだ。初めて会った時には、力強い視線から目が離せなくなって息をすることも忘れるほどに……。
――……しまった。
火照ってきてしまった顔をどうにかしようと両手で顔を覆ったところではっとした。
「……みほ子さん……」
恨みがましくねめつけると、みほ子さんの笑みが深まった。それがまた艶やかな牡丹の大輪のように美しいのだからよろしくない。
「ご馳走様。そんなに想われているなんて、小林さんに聞かせてあげられないのが残念だなぁ」
「~~っ! そんなんじゃないですよっ!」
どうやら私は、彼女によって盛大な墓穴を掘らされたらしい。