1杯目:Cafe con Hielo
「注目―。えー、みんなに大事な発表があります。はい、こっち見て―」
営業部の岩永本部長が両手を口元に当てて大きな声を出した。ただでさえ社内でも有名な大声の持ち主なのに、腹から声を出しているので本部長の号令が廊下にまで響く。別部署の人間が「何事だろうか」と顔を覗かせた。
「聞こえますかー。聞こえますねー? えー、大変うれしいお知らせです。我が営業部のエースである江藤翔くんが、ついに結婚することになりましたー」
相手の名前も発表されると、おぉっ、と部屋がどよめく。
それは総務部一番の美女で、社長の孫娘の名前だったからだ。
この日は丁度、私、松林江奈の誕生日だ。
記念すべき31歳のサプライズプレゼントとして、5年間付き合い、結婚まで考えていた彼氏の裏切りを知ることになってしまった。
江藤翔は照れ笑いを浮かべながら部署の皆に結婚式に招待するから是非参加してくれと声を掛けて回った。その薄っぺらな照れ笑いは、動揺する瞳と視線が交わっても崩れなかった。
大した大噓つきだと、私は思う。そうでなければ半同棲するほどの関係にある女がいながら、社長の孫娘との結婚話を進めることなんてできないだろうから。
女子社員から「王子様」などとあだ名をつけられる甘く整った顔で何度も迫られ、根負けして、結婚を前提とした交際に承諾してしまったあの瞬間に戻りたい。いや、恥ずかしくて逃げ回っていた約1年のどこかのタイミングでも構わない。必ず幸せにするからねと耳元で囁かれて浮かれていた日々を遡って、一発ずつ殴って過去の自分の目を覚まさせたい。
そう、私は翔に目を付けられるまで、まともに恋愛をしたことがなかった。男性に恋焦がれるというよりも、自らがずっと力強い男になりたいと思っていたくらいだ。複雑な家庭に生まれたことで、おかしな方向にいろいろな価値観を拗らせてしまった結果、25歳を過ぎるまで何事もなく過ごしてきてしまったのだ。
恋愛経験値の低さを笑い飛ばせるほど、私は強くなかった。
『同じ部署で社内恋愛とかいろいろ言われるだろうから、結婚が決まったら付き合っていたこと、みんなに話そうか』
付き合い始めにそんな甘っちょろい台詞を吐かれた時点で疑問に思うべきだったのに、みんなからの祝福を夢見た私は翔の言葉に忠実に従った。彼と結婚することで厄介な家族と離れられると思っていた。
それから5年。
結論を述べると、私は翔のおもちゃとして貴重な時間を無駄にしてしまったといえる。
「江藤さん、休憩時間に少し、いいですか?」
「松林さん、何か?」
「ちょっとお聞きしたいことがあります」
「……分かりました」
昼休憩の時間まで耐えに耐えた私は、祝福の嵐から抜け出した翔を非常階段に呼び出した。
「翔……どうして、何も言わなかったの?」
「江奈、落ち着いて」
「落ち着いてなんてよく言えるわね……結婚前提に付き合おうって言ったの、あなたなのに!」
感情が高ぶってだんだん大きくなる声を押さえつけようと、翔は私の口を手で慌てて塞いだ。
「離してよ!」
「こんなところ誰かに見られたらどうするんだよ」
「自分で蒔いた種でしょ!」
次々溢れる涙を必死に拭っても、翔は慰めたり謝罪したりもしない。むしろ面倒くさそうに大きなため息を吐くと悪魔のような表情を顔面に張り付けた。
「何というか……重いんだよね、気持ちが。さすがアラサーになるまで処女だっただけあって、セックスも下手だし。見た目が幼い感じだからそれなりに若く見えるけどさ、もうお前30過ぎてるじゃん? そろそろいい加減、飽きたっていうか」
あぁ、でも合法的に処女抱けたのはいい経験だったよ。
あまりにも酷い侮辱に、思わず私は彼に渾身の張り手を食らわせた。それはもう力いっぱい。
翔はよろけて尻餅をついた。
そしてそのまま岩永本部長のもとに突撃して、辞職の意を伝えた。とても直情的な行動だったが、転職しようかとは以前からぼんやり考えていた。
私の意向はあっさり受理された。
岩永本部長は数字でしか人を判断することができない人で、一定の金額を売ることができない人間には興味がない。というか、存在しないも同然になる。上司としてはかなり問題ありなのだが、それが社内での暗黙の了解だった。私はかろうじて評価対象となる最低ラインを維持してきたが、本部長が設けた新しいノルマをこなせなくなってからは、私は『部署に存在しない』も同然になっていた。
岩本本部長が率いる営業部に存在できるのは、毎月一定額の売上を維持する一部のメンバーのみ。
その中でも翔はとびぬけた営業成績を維持していて、部長の大のお気に入りだった。数日前にも数千万円規模の大きな案件を獲得したので、必ず次の異動で昇格するだろう。しかも将来の社長様なのだから、スキップだって考えられる。
「とりあえず片付けは明日以降にしてくれる? そんな顔で仕事されちゃ他の人も迷惑だからさ」
うんざりした本部長からの何とも配慮のない一言で、その日は退社することになった。
通勤バッグを引っ掴んで会社を出たのは、まだ午後の早い時間帯。午後からは雨の予定だったけれど、確かにもう少しで降り出しそうな曇天が広がっていた。
――……帰りたくない。
なんとか自宅アパートに向かって足を進めるけれども、体がいうことをきかない。家に帰りたくないと心も体も全力で拒絶していた。
あんな胸糞悪い男と一分一秒でも過ごした部屋なんて、一歩も踏み入れたくない。
――帰りたくない。
その思いだけが頭の中を占め、気付いたら私は公園の片隅でしゃがみ込んで泣いていた。
いつの間にか雨が本格的に降り出していた。
「……大丈夫ですか?」
こんなところでいつまでも泣いているわけにいかない、どこかに雨宿りでもしようかと顔を上げると、目の前には一人の男性がいた。大きめの傘を傾けながら手を差し伸べている。
小麦色の肌と少し彫りの深い顔立ち。短めの黒髪はワックスで丁寧に整えられていた。切れ長で涼しげな印象の目元で力強く輝く瞳に、私は目を奪われた。
甘いマスクと柔和な雰囲気の翔とは異なる、クールな感じの美丈夫だ。
「立てますか?」
「……は、い」
彼は私を立たせ、落ちていたバッグを拾うと、傘の中に引き入れてくれた。
先ほどは腰を折っていたので気付かなかったが、彼はなかなかの長身だった。180はゆうに超えている。並んでみると私と彼の身長差は頭2個分あった。
「……あの、ごめんなさい、濡れちゃうから」
「そんなの気にしないでいいですから。そっちこそびしょ濡れじゃないですか」
近い距離で聞く彼の声はまるでチェロの音色のようで、私の鼓膜を甘く刺激した。無意識に距離を置こうとしてしまったけれども、男性はそれをさせなかった。
「ちょっとこっちに来て。すぐそこですから」
彼は私の肩に手を置くと公園の外に誘導した。そのままオフィスビルが建ち並ぶ大通りから延びる横道に入ると、そこにあった一軒の看板のないコーヒーショップに入ろうとした。
「あ、……ま、待ってください」
「?」
「このまま入ったらお店に迷惑が……」
「大丈夫ですよ、知り合いの店だから」
「でも」
店の入り口でそんなやり取りをしていると、カランッとベルを鳴らして店の扉が開いた。
「入るの? 入らないの?」
内側から扉を押さえているのは長髪を後ろでまとめた体格のいい男性だった。こちらも背が高く、恐らく隣に立つ人物より高い。こちらはちゃんと手入れがされた髭が、ワイルドな雰囲気を際立たせている。モスグリーンのエプロンがとてもよく似合っていた。
「これがここの店長です」
「これって何よ、これって」
「愛想悪いですね、ちょっと雨宿りさせてくださいよ」
「あら、やだわ、何で敬語なの? 入るならさっさとしてちょうだい。そっちの彼女も」
「で、でも濡れているので」
「この雨だもの。タオルくらい貸すわ。……お嬢さんはちょっと雨にあたりすぎだけどね」
店長さんはさっさと店内のカウンターに戻ると、手際よくマシーンに豆を追加した。
店内に客はいない。
きょろきょろとあたりを伺う私に気付いた店長さんが苦笑しつつ、タオルを2枚渡してくれた。そのまま流れるように壁のコントロールパネルをいじると店内に温風がそよいだ。
「この店は明後日オープンなのよ。今は開店前の準備中」
「あれ、明後日でしたか? 申し訳ありません」
「ちょっと気持ち悪いから敬語やめてくれる? 普通に話してよ」
「……悪いな、まだ仕事モードだったんだ。それより今日からのオープンじゃなかったのか?」
「違う、明後日から。まぁ、仕方ないから初めてのお客ってことにしてあげる。……で、何にする?」
「俺、氷のやつ」
「そっちの彼女は?」
「あ、私、でも……えっと、じゃぁ……カフェオレ?」
「オッケー」
特徴的な喋り方をする店長さんだが、面倒見のいい性格らしい。見ず知らずの私をここまで連れてきてくれた男性といい勝負だ。
しかも失恋に傷ついたタイミングでこの優しさはかなりグッとくる。
再び溢れてきた涙を隠すために、貸してもらったふわふわのタオルに顔を埋めた。
しっかり髪の水気を取り、ついでにバッグとその中身の水気をぬぐっていると、注文した飲み物がサーブされた。男性には淹れたてのエスプレッソと氷いっぱいのロンググラス、私にはたっぷりのカフェオレ。
丸っこい形のカップに口をつけると、ふわりとコーヒーの深い香りが鼻腔に広がった。そのまま一口含むと、ミルクの甘さも感じられるカフェオレの味に思わず声が出た。
「おいしい!」
「気に入ってくれた?」
「えぇとっても」
店長さんはカウンターに肘をつきながら嬉しそうに笑うと、「ところで小林くん」とエスプレッソをグラスに注ぐ男性を呼んだ。
「いったい何があったのさ?」
「雨の中、公園で泣いていたから連れてきた」
小林くん、と呼ばれた男性は氷入りエスプレッソを一口飲みながら言った。お前が泣かせたのかと詰め寄る店長さんに小林さんは心底嫌そうな顔をして否定した。
その通りなのだと私が慌てて口を挟むと、二人の視線がこちらに向いた。
二手から大人の魅力いっぱいのイケメンの部類に入るものだから、慣れていないこちらとしては心臓に悪い。
「だから、その……」
「はいはい。とりあえず小林くんが彼女を雨の中泣かせてどうのこうのってことじゃないことはよく分かった。ところでお嬢さんのお名前は?」
そう店長さんの質問に、小林さんは小首を傾げた。
「何よ、仕事の途中で名前も知らない子連れ込んだの?」
「連れ込んだって言い方おかしいだろ。今日の仕事ももう終わった。あとは帰るだけだ」
「あら随分と早いご帰宅じゃない。珍しいわね。……会社潰れるの?」
「やめてくれ、縁起でもない」
小林さんと店長さんの漫才のような短いやり取りの後、ようやく私たちは簡単な自己紹介をした。
小林さんは、システム開発系のスタートアップ企業の人事部門兼営業の担当者として働いているらしい。忙しそうだと思わず口にすると、「従業員7人の小さな会社だから兼任しながらやっているんです」と説明してくれた。苗字と仕事のことだけ触れるとそれきり黙ってしまった。寡黙な性格なのかもしれない。
店長さんの名前は鬼木さん。下の名前は熊輔と書くのだが、字面があまりにも怖いので親しい人からも「店長」と呼んでもらうようにしているらしい。数年前までイタリアにいたが、親からマンションを相続したことをきっかけに帰国したという。そのマンションも大胆な改装をして、1階部分はコーヒーショップ《オニキス・コーヒー》を営んでいるそうだ。因みに、私たちが今いる場所は《オニキス・コーヒー》2号店というのだから結構人気のあるお店のようだ。
二人の付き合いは店長さんのマンションに小林さんが入居してからなのでこの3年ほどという。その割には、ノリとツッコミの息が合っているように思えた。
「っていうか、江奈ちゃん、結構大手にお勤めだったんだ? 意外だわー」
「正確には、その下請けですけどね」
「大手は大手よ。……さっ、何があったんだか白状しちゃいなさい」
店長さんに促されて、私はカップを弄びながら事情を簡単に話し始めた。ただし、元彼氏に言われた処女云々については伏せた。これは初対面の人たちに言える内容ではない。
「――……それで、小林さんにこちらに連れてきていただいた、というわけです」
私を連れてきた本人は、話が終わるまでのずっと黙って氷入りエスプレッソを飲んでいた。
店長さんといえば、口元を歪めながらげんなりした表情を浮かべていた。なかなか凄みに、少し緊張してしまった。
「江奈ちゃんの前で口悪いけど、クソ野郎ね、その男」
「……まぁ、はい」
「でも張り倒してきたなら、そこから話が広まって翔とかいうやつの悪行もばれるんじゃない?」
「あはは……」
私は力なく笑った。
そう、相手には思い切り張り手を食らわせてしまったのだ。傷害罪とか暴行罪とか言われないだろうか。そうでなくても、翔は女子社員憧れの「王子様」だ。
一気に明日会社に行くことへの恐怖が倍増する。
「会社も辞めるんでしょう?」
「はい。辞表は出してきましたし、引継ぎとかもあるのであと1か月は出勤しなきゃいけないと思いますけど、その間に転職活動も進めなきゃ……。あ、あと引越も」
退職までにやらなければならないことをあれやこれやと考えていると、小林さんが徐に口を開いた。
「店長、1号店のスタッフ探してなかったっけ?」
「えぇ?」
素っ頓狂な声を上げる店長さんに、小林さんはほとんど氷が解けてしまったグラスを差し出した。
「探していたよね?」
「探してるのはこの店の」
「1号店」
店長さんは苦虫を潰したような表情をした後、グラスを奪い取るとシンクに置いて新しいロンググラスを氷で満たす。氷を砕きながら「テオを2号店に回すか」とか「惚れた弱みがなんだ」とか、何やらモゴモゴ呟いていた気がするけれどもよく聞こえなかった。
「……なぁんかそんな気もしてきたわ。江奈ちゃん、あなたコーヒーはお好き?」
「え、あっ、はい?」
「そうしたら後で履歴書持ってきて。面接しに来なさいよ」
コーヒーのおかわりをもらった小林さんは口元を押さえて笑いを堪えていた。
「良かったですね、江奈さん。次の仕事場が見つかりましたよ」
「え?! いいんですか? 店長さん」
「一応しっかり面接はするわ。それに、こうなったら職場だけじゃない」
腕を組んでふんぞり返る店長さんはまるで仁王立ちする熊だ。
ふんっと鼻を鳴らすと、さらに驚くことを言った。
「実は来週部屋が一つ空くのよ。面接に受かったらの話だけど、そこを貸してもいいわ。家賃はそれなりだけど、前の物件よりも高いなら相談に乗ってあげるから」
サブタイトルは小林さんが飲んでるコーヒーで、彼の心情とリンクさせています。
Cafe con Hielはアイスコーヒーのことで、文章の中の飲み方はスペインで一般的なものです。