プロローグ
「……小林さん、まだ帰ってこないか」
お風呂に入って1日の疲れを癒した私は、髪を乾かしながら壁掛け時計を気にした。
長針がそろそろ真夜中を過ぎようとしている。
小林さんは帰りが遅い。
帰宅時間が日付を跨ぐことなんて珍しくない。
小林さんとは、同じマンションの住人だ。私は3階に、小林さんは2階に部屋を借りている。
私たちが住むマンションは5階建てで、2階から4階に広めの1Kが2つずつあり、最上階はワンフロアすべて店長さんの自宅という造りだ。そして、1階部分にはコーヒーショップと、小さな倉庫と駐輪場。趣味がいい店長さんの好みで、外装も内装もシンプルでスタイリッシュな物件だ。モノトーンで小洒落た造りの割に家賃は良心的な値段なものだから、近くの大学に通う学生たちからの人気も高い。
そんな倍率の高い物件に入居できたのも、小林さんのおかげだ。
「……そろそろかな?」
濡れた髪がすっかり乾いた頃に再びベランダから下を覗き込むと、ちょうど小林さんがマンションの前に着いたところだった。
声を掛けるまでは疲れた顔をしていた小林さんが、3階から見下ろす私に気付いて視線を上げる。そしてふっと表情を和らげた。
「おかえりなさい、小林さん」
「ただいま、江奈さん」
夜中なので近所迷惑にならないようにお互いに声は抑え気味だが、小林さんの低い声はよく通る。
「朝のコーヒーどうしますか?」
「あぁ、頼みます。明日は8時には家を出るんですが、大丈夫ですか?」
「分かりましたー。じゃぁ、7時半ごろにモーニングコールしますね」
「助かります」
いつの間にか習慣になった朝のコーヒーの注文確認。
私は忘れないうちに冷蔵庫のホワイトボードに注文内容を書き込むと、ベッドに潜り込んだ。
目覚まし時計の設定は7時。
おやすみなさい、と心の中で呟いて瞼を閉じた。