「海の中、花の園」
「うわあ。こりゃすごいねえ」
墜落した飛行機の、既に窓の機能を為していない透明を、早乙女さんのノコギリに似た謎の道具が綺麗に切り取る。機内には毒々しさを通り越した派手な紫の海水と紫陽花が、此方を見るかのようにただ咲き誇っている。やけに暗い。早乙女さんは、切り取ったガラスを私に手渡すと、入り口の枠に厚手の布をかけて、手を軽くつき中に入る。銀色の長靴を慎重にパープルに浸せば、美しい銀は赤や青、緑や白……いろんなカラーに塗り替わった。
「黒くはならない。毒はないみたいだけど――まあ一応ね」
ヘルメット越しのくぐもった声と共に、空間の中に長靴とよく似た銀のカプセルを投げ入れる。
「どれくらいかかりますかね」
「うーんとりあえず十分くらいかな。なんにせよ、原因を取り除かないと元には戻らない」
「水が正常になったらこの紫陽花はどうなるんでしょう」
「さて……」
ざぶざぶ、と早乙女さんが先へ進んでいく。私はくり抜いたガラスを近くに立てかけて、彼が敷いた布を触る。痛くない。大雑把に見えて器用な人だ。やすりなしでこんなに美しく切り抜くなんて。思い切って中に入ると、びしゃ、と紫の水が跳ねる。
「酸素ボンベは?」
「平気です」
「普通、上司の指示を仰ぐんじゃない?」
「積極的なところが採用の決定打だと聞きました」
「普段口下手な人間って、もともと発する言葉が少ないから、強いワードを使うとこう……押しが強く聞こえるし、反射的に納得しちゃって困っちゃう」
「早乙女さんの口の上手さに対抗するにはこれしかないですから」
いうねー、と言いながら、彼はためらいなくしゃがみ込み、紫陽花の花びらを観察している。ならうように、紫陽花に顔を近づけてみた。こうやって見るとますます”普通の”紫陽花に見える。梅雨の時期に花を宿す密集した寒色。好きな花だった。
◇
世界が局呼の大人のすべてを滅ぼして、常呼と子どもたちだけを残したあの日。
陸のほとんどが失われ、淡水と海水と――世界のすべてがごちゃ混ぜになった結果、必然のように異常を来した。
大学一年生になるはずだった私は大学自体を失い、通うはずだった学校に勤めていた多くの教員を失った。決め手の一つだった広い図書館も、なにもかも消えた。途方に暮れる私を引き取ると言い出した常呼の人間に「何を学んでもいい。サポートする」と言われたとき、ただひたすら、いままでのぜんぶってなんだったんだろうと思った。
受かるかどうか悩んで胃を痛めたこと。根詰めすぎて友人に怒られたこと。試験の前日不安で弟と一緒に寝ると言い張ったこと。模試の結果が振るわず、志望校を下げたこと。夢を諦めたこと。両親と初めての喧嘩をしたこと――全部、なんだったんだろう、とただ思った。
こんな未来のために生きてきたわけじゃなかった。
それでも死を選ばなかったのは弟が居たからだ。弟は変化した水の"なんらかの異変"のせいで、あの天変地異の日以来、上手く水分がとれない身体になってしまった。
常呼には、何を学んでも良いと言われていた。医者になるには偏差値が足りなかったけれど、こうなった今、学ぶチャンスがあるならば――と考えていた時だった。
原因を解明した、という海洋学者が訪ねて来たのは。
明るい金色の髪は、もう壊れて使えなくなってしまったmagioで、長い間言葉を交わしていたあの子を想わせる光に塗れていた。彼は私を少しも見ずに、ただ横たわる弟に近づくと、緑色の液体の入った瓶を口元に持っていき、そのまま飲ませた。ぎょっとして止める暇もなく、常に喉が渇いたと苦しんでいた弟は液体を勢いよく飲み干して、涙を流した。
それはあの日以来彼が発したはじめての”水”だった。
奇病に掛かってから弟は泣くことも排泄することもままならなかった。常に渇き、苦しみ、泣きたいのに泣けず、叫べば唇が裂ける。血は結晶となって、砂のように生まれるだけだった。弟の涙を見て、反射的に涙が出そうになる。咄嗟に、堪えた。
学者と名乗った男はその時初めて私を見て「もう大丈夫」と笑った。
もう大丈夫。
私もまた、あの日からずっと泣けなかった。もう大丈夫。それは「もう泣いても大丈夫」と私には聞こえた。
「この緑の液体は、植物からとれる水分と、海の塩で出来てる。難しい説明は面倒だし、僕たちの"いままで"の常識とは狂った知識による叡智だから、まあ魔法のエーテルとでも思ってくれ。君の身体はいわば毒状態で、このエーテルを飲まないと、どんな正常なものも異常な不純物として弾いてしまうんだ。で、僕がいまエーテルで毒状態を解除したから、あとは普通通りに水分を摂取してくれれば平気。でも完治したってわけじゃない。君のその毒状態、はいわば……なんていえばいいかな。そう、【特性】ってやつだ。体質と言い換えてもいいね。身体の、不純物をろ過する機能があまりにも強すぎて、何もかもを分離して結晶化してしまう体質。僕たち局呼の数パーセントがなる奇病だよ。まあその分、只人の僕なんかよりもずっと長生きできる可能性があるんだが、これは余談だね。そう、君のそれは体質だから、定期的にこのエーテルを飲んでほしい。既に常呼には君と同じ病を抱えた局呼には月に一度支給するように頼んでいる。そのうち味とか細かいところは改良してもらうから、まあ少し我慢して飲んでくれ。以上。質問ある?」
感動もひとしお。
流れるような早口の説明に、一瞬で現実に戻される。涙が引っ込んだ。ゆっくりとお湯を飲みながら話を聞いている弟は「なるほど」と頷いている。絶対何も分かっていないだろうと思いながら、学者を見つめる。
「ところで君」
「え……はい」
「なんで彼にお湯を? お腹を冷やしやすいのか?」
「いえ。ぬるい水を渡したら、一気に大量摂取して、お腹を壊したり……水中毒になるかと思って」
「医学の心得が?」
「ありません。学ぼうかとは、少し」
「弟を助けるために?」
口を閉ざすと「ああ、ごめん」と彼が顔の前で手を振る。
「侮辱したいわけではなくて、ただ賢いなと」
「え?」
「君はどんな状況下でも未来をみるんだな」
息が止まった。
未来を――見ていただろうか。意味のない行いを重ねてきたと思った。この世界が消えて両親が死んだときただ、自分も死ねたら良かったと思った。二十歳まであと少しだったのだ。あと少しで、と思った。けれども私がもし死んでいたとしても、弟はひとりで生き残っただろう。たった一人で奇病と戦った。そうでなくて良かったと思った。
弟が居て良かったと思うし、弟と一緒に居られて良かった。学ぶ権利があるなら弟を救いたいと思った。私の顔を見て一番最初に、姉ちゃんがオレと同じ病気じゃなくて良かった――と砂のような顔色で笑ったこの子を。守りたかった。
「君は彼を見て、助からないではなく助けたいと思った。それを誰かに委ねるんじゃなくて自分のなせることをしようとした。立ち止まることではなく進むのを選ぼうとした」
「でも、それはただ気持ちの話で……」
「そう。では君よりも少し長く生きてる人間としてアドバイスをしよう。この世で一番強いのは気持ちだよ。奇病におかされても、君と生きる未来を諦めなかった弟君は、気持ちで負けなかったから勝ったんだ。まあもっとも、僕は僕のように気持ちが弱い人間が楽に勝てる方法――できれば戦わずに済む手段を常に探しているんだけどね」
「あなたが弱いなんて」
そんなわけない、といいかけてやめる。そこまで断言できるほどこの人を知らない。
無責任な擁護は時として人を傷つける。黙る私を見て、学者は朗らかに笑った。
「優しいね。僕にも君のようなポジティブな助手が必要かもな」
「助手……」
「それじゃ、この後仕事があるんで失礼するね。お大事に」
「あの――」
お名前は、と誰かに聞くのは久しぶりだった。
男は明るい茶色の目を見開いて、からからと笑う。
「早乙女、ハイネ」
さおとめ、はいね。
心の中で繰り返す。次に、進路調査に来た常呼への私の回答は決まっていた。
◇
「お、透明になって来たな。――悠くん」
「はい。前の方がまだ色が濃いですね。行ってみます」
「行ってみますっていう前に歩き出すのやめてよ……」
こういう時は上司が先頭じゃないの? とぶつぶつ言っている早乙女さんを置いて、先へ進む。だんだんと海水の量が増え、紫陽花の背丈も伸びていく。かき分けるようにして進んでいると、ズッと足に何かが絡まって海の中へ引きずり込まれる。咄嗟に伸ばされる早乙女さんの手をやんわりと避けて、そのまま潜ると、足に絡まった蔦をほどく。急に深くなった。飛行機の底が変形して、ちょっとした穴になっているのか。
それにしても、蔓に引っかかっただけで良かった。タコの足だったら苦戦した、と思いながら薄紫の視界を眺めていると、大きな影が一瞬視界を横切った。
大きなひれ。
一瞬で血の気が引いて、水面に顔を出す。
「――悠!」
「逃げましょう」
焦った顔でこっちに手を伸ばしてくれる早乙女さんはまあまあカッコよかったが、沈まないように右足でしっかり地面を確認してるので大幅に減点だ。海洋学者だけれど、早乙女さんはカナヅチなので、まあ仕方ないが。
「何? すごいのでも出た? こないだタコとアザラシと犬が合体したの分離させるのやったでしょ。そう簡単に驚かないよ」
「サメです」
撤退一択です、という前に早乙女さんがダッシュで入り口に戻っていく。ダサい。普通助手より先に逃げるだろうか。「戦略的撤退だよ僕は泳げないから元水泳部である君の邪魔になるだろう? それに先ほども言ったが上司は部下より先に危険を確認すべく先を歩くのがつとめだよつまり僕は君の退路が安全かどうかを確認している重要任務を――「もういいです」
うるさいです、と言って海から出ると、後ろ向きにゆっくり歩きながら、胸ポケットのチャックを開ける。中から"栓"がしてある試験管を三本取り出す。赤、緑、青。赤だな。蓋を親指で開けて中身を水に垂らす。
「悠くん! 食べられたら弟さん泣くよ?」
「うるさいです」
赤の液体は海水に馴染み、そのまま消えていく。サメに動きはない。もう一度ポケットを探り、きらきらと光る球体を投げ入れる。浮かんだ球体はくるくると回るが、やはり反応はない。
――もしかしてサメじゃないのか。
さっきの赤い液体は血液を基準に作られた、サメなどの人を食べる種族を誘惑する薬剤だ。常呼による調査で人食の可能性のある生物がいる場合は、確認のためによく使用される。だが、そもそもこの飛行機周辺でサメがいる報告は受けていない。それどころか、生体反応は無いといっていたはずだ。勿論万が一ということもあるが――。
ぐるぐると考えていると、いつの間にか一目散に逃げだしたはずの早乙女さんが私の隣に戻って来ていた。
「サメじゃないな」
「…………逃げたくせに」
「まああの段階では君の目撃証言が大きかったからね。でもこれを見つけた」
大きめのビーカーですくわれた"それ"は、元気にビーカーの中をぐるぐると泳いでいる。これは……もしかすると……。
「"ニシン"。全然気づかなかったけど、紫の濃度が減ったところから濃い方に移動してる。結構な数居るよ」
「なんで、ニシン……」
「この紫の水、常に性質が変化してるけど……酸性になる頻度のが多いみたいだね。紫陽花の色見る限り」
「魚って酸性がつよいと死ぬのでは」
「通常はね。でもニシンはちょっと強いし、むしろ好むっていう研究結果もある。まあさすがにここまでごっちゃごちゃに性質変わってたら普通生きらんないけど。今なんでもアリだからなあ」
「つまりこのニシンの親玉がいると……」
「そう。ってことは原因はオキアミか? ニシンの主要なエサはオキアミだったと思うけど……それともプランクトンの変質……ウーン」
顔を上げ、早乙女さんがはるか頭上の紫陽花を眺める。
「日を改めますか?」
「…………いや」
早乙女さんがビーカーに手を突っ込んで、ニシンを掴もうとする――が、すり抜けた。指の間を泳いで逃げたのではなく、まるで存在しないかのように"通り抜けた"。
そのままばしゃばしゃと水を蹴飛ばしながら、入り口のほうへ歩いていく。やはり撤退だろうか。後ろを黙って付いていくと、くりぬいた窓から煌々とひかりが差し込んでいるのが見えた。早乙女さんが投げ込んだ銀の薬の効能で、すでに周辺の水は透明になっている。そのせいか、さっきまで元気だった紫陽花は、少しだけ萎れかけていた。
やはり水質が戻ると弱るのか、と少し残念に思いながら、窓にほど近い場所で立ち止まる早乙女さんに近づく。
「早乙女さん」
「さっきまで僕が言ってたこと全部ナシ」
「……はあ?」
「疑似ホログラムだ」
「疑似…………なんですか?」
「そこまで高性能ではない、一昔前に流行ったくらいのやつ。N2789329機っていう、ワンルーム程度の広さの空間を、自分の好きな景色にするための疑似ホログラム機。一般家庭が買える疑似ホロにしては有能で、防水機能が付いてるから風呂場でも使え――いや余談だな。とりあえず、見て」
ビーカーのなかの透明な水に、先ほどのニシンはいない。けれど早乙女さんが暗闇にビーカーを移動させると、また元気に動き出す。
「このホログラムは"疑似"の名の通り、本当に簡易的なシステムだから、暗闇の中でしか機能しない。光の信号が少ないところでしか上手く顕現しないんだ。ニシンも、紫の濃度が高い所に移動していると思ったけど、そうじゃなくて……濃度が高い所のほうが色に紛れて見えにくいだけだったってオチ。常呼が生体反応を見つけられていないのに、こんなすごい数のニシンがいるなんて変だと思ったんだ。でも、疑似ホログラムだとはね」
「あの大きいのも、ホログラムだと言われれば納得できます」
「まあ残念ながら、今僕たちが住んでる海には、あれぐらいの変異体がいてもおかしくはないんだけど――それはそれということで。ところで悠くん」
「なんでしょう」
「ちょっと沈んでほしい。僕のために」
早乙女さんが、無駄に爽やかでカッコいい顔で笑ってみせる。
彼が泳げないから私が居る。それは分かっているけどでも……ダサい。とにかくダサい。
そう思いながら、淡々と返事をして、先ほどニシンのいた場所へ戻った。背後で早乙女さんがまた何か言い訳という名の長文メッセージを朗読していたが、聞かなかったことにしておこうと思う。聞いていなかったので。
◇
海を泳ぐのは、プールで泳ぐよりずっと楽だ。……波が無ければだけど。
穏やかな水中をゆるゆると進んで、球体に変形した飛行機のお腹の中を眺める。あるのは横倒しになった椅子。鞄。誰かが何処かで吹く予定だった楽器。さまざまな局呼の面影が合った。死体の一つでもあればもっと動揺しただろうけれど、生憎あの災害で死んだ局呼の多くは泡になって消えた。骨ひとつ残らずに。何も残さず、ただ始めからいなかったかのように消える。私の両親が、そうだったように。
耳を澄ますと、オルゴールに似た音楽が聴こえる。様々な魚が順応無尽に泳ぐ小さなみずたまりに、光が見えた。手を伸ばして、ピカピカした立方体を手に取る。手探りでスイッチらしいものを押すと、さっきまで辺りを漂っていた海洋生物は、すべて消えてただの暗闇になった。
紫陽花の、細く長い蔦と根だけが張り巡らされた孤独。
今頃早乙女さんのビーカーを泳いでいたニシンも消えただろう。
立方体は、ぼろぼろになったリュックらしきものの上に置かれていた。機内でいたずらのためにつけたんだろうか。それともたまたま起動したのか――考えても仕方がないな。
立方体のスイッチを入れる。
再び景色が生まれる。
賑やかになる水たまり。流れる音楽。ゆらゆらゆれる、紫陽花の根。
……ただ寂しかっただけなのかもしれないな、と思った。
ボンベの無駄遣いは辞めよう。ゆっくり機体の底を蹴り、頭上に向かって泳ぎ出す。蔦に絡まないようにゆっくりと。腰に繋がれた、銀色のリボンを目印にただのぼっていく。
大きな大きなニシンの身体を通り抜ける。
何も映していないはずの瞳と目が合った気がして、笑った。
◇
「おかえり。海はどうだった? 気持ち良かった?」
「殴りますよ」
「ごめんごめん。でもこっちも成果あったからゆるしてよ。ほら」
早乙女さんが、もうほとんど萎れかけている紫陽花を片手で引っこ抜く。千切れた茎は、力なく海水に埋もれた。しばらくすると早乙女さんが掴んでいた紫陽花は完全に枯れて、その瞬間、どろどろと溶け始めた。濃い、濃い、紫色の粘着質な液体が、早乙女さんの指をすり抜けて水面にぼたぼたと落ちる。
「うわあ……」
「枯れると紫色の液体になるっていう仕組み」
「なんでそんなことに」
あんまり気持ちの良い光景じゃない。
早乙女さんは手に残った紫の液体を、海水で軽く洗った。
「生き残るためじゃないかな」
「え……」
「見ての通り、酸性とアルカリ性の配分が変わり続けてる紫色の水の中でしか、この紫陽花たちは生きられない。だから自分が死ぬとき、他の紫陽花が長く生きられるよう、栄養を放出して死ぬ」
自分が死んだ後も、他の花が生きられるように。
「この飛行機がこの花たちの楽園だってことですか」
「どうだろうね。棺かもよ」
早乙女さんが此方を見る。ヘルメット越しには瞳の色までは見れない。
黙っていると、彼はちょっとだけ笑ってみせた。
いつものカッコつけたものでも、ふざけているときの笑顔でもなく、穏やかな表情。
私に「もう大丈夫」と笑った時の、あの顔だ。
「どちらにせよ、このまま放置するわけにはいかない。機体を回収しないと駄目だからね。これ以上腐敗が進めば、有害なガスが発生してもおかしくない。なにせ今の地球は、なんでもアリだから」
「……そうですね」
じゃあこの子たちは、機体と共に弔われるんだな。棺につめられた花として。
ゆっくりと色を変える大量の紫陽花は見事で、最初こそ圧倒されたが、今となっては地上で生きていたころを思い出す寒色にしか思えなかった。写真を撮ってIに送ったら、あの子はどう思っただろう。美しいといっただろうか。ちょっとこわいね、なんて笑っただろうか。
「そろそろ酸素ボンベの残りが少ないね。帰ろう」
「はい」
唐突にIに会いたくなる。
Iは生きてるだろうか。
大学生だと言っていた。20を越えていたとしたら、もしかしたら。そんなこと無いと思いたかったけれど、有り得ない話ではないのが悲しかった。
それ以降はなんだか気が塞いでしまって、何となくバレていたのか「あと僕しかできない作業だから帰っていいよ。泳がせちゃったし」と家に帰された。普段あんなにずけずけ物を言うのに、こういうときはなにもいわないのだ、この人は。それがたまらなく救いで、たまらなく煩わしい。
◇
翌日。「今日は第3研究所集合!」というメッセージと共に、よくわからないゆるきゃらのスタンプが送られてきた。ウザい。
カードをスキャンして中に入ると、室内は真っ暗だった。ぎょっとして立ち止まると「ああ」と早乙女さんの声が聞こえて、ぱち、とペンライトが向けられる。
「上司じゃなかったら飛び掛かってました」
「ごめんごめん。善意だった。リモコンどっかいっちゃって――あった」
これくらいならへいきかな、と電気がつく。限りなく暗いオレンジ色の光。なんでわざわざ暗くするんだろう、と思いながら早乙女さんに近づいて、ガラス張りの水槽をながめる。浅い紫の水に浮かびながら咲き誇っていたのは――昨日の紫陽花だった。
「どうして」
「どうしてって。珍しい植物なんだから持って帰ってくるに決まってるじゃん」
「それにしたって多すぎます」
「多いほうが死んだとき栄養出るし」
「そうじゃなくて……」
なんでですか、というほど愚かでも幼くもない。私が「水が正常になったらこの紫陽花はどうなるんでしょう」といったから、あの膨大な紫陽花のほとんどを、常呼から与えられた複数の研究所の一つである此処が埋まるほど持ち帰ってきた。確かに研究材料にはなる。あの紫の水も、もしかしたらあの災害後にひろまったいくつかの奇病を直す足がかりになるかもしれない。……かもしれないが、それにしたって。
ただの助手の一言じゃないか。
それも、ただの感想じゃないか。どうなるんだろうって一言いっただけなのにこの人は、容易く拾い上げるのか。
「あとね、君が僕のお願いで拾ってくれたホログラム、持ち主の家族の所に帰ったよ。ありがとうございましたーだって」
「……私は何も」
「でも僕には取りに行けなかったよ。ほら、カナヅチだから」
「どや顔で言わないでください」
私の些細な寂しいさえ許さずに、あの棺で眠る寂しさも全部拾い上げて、実はこれ、プレゼントボックスだったんだよ、くらいの容易さで全部。封を開けて笑ってみせるのか、あなたは。
ああもう本当――叶わない。
咲き誇る紫陽花を見る。
もうない美しい夢を失っても私は、ただずっと、繋がっていられるのだと、そう思えた。
2021/06/07 執筆