ただの魔法ごっこ
ピアノの旋律が流れ星のように突然、空間に落ちる。それが夢の合図だった。
スマートフォンを操作して、穏やかな水彩で彩られた画面の真ん中に浮かぶ「入室」ボタンをそっと押す。瞬時にさっきまで座っていた無機質な黒の回転いすが、少し古ぼけた赤い布を纏った座席に変わる。白いデータ上の星が集まるように身を寄せて、空間を作っていく。金属の手すり、長方形の窓。外は銀河。誰も掴んでいないつり革の穏やかな白が、宇宙空間に浮かぶこの場所を電車らしくした。
「こんにちは、you」
「こんにちは、I」
通路という川を挟んだ向こう側に、真っ白のワンピースを着た少女が座っている。流れるような金色の髪は耳の下で切りそろえられていて、頭のちょうどてっぺんのあたりで結ばれたネイビーのリボンが風もないのに揺れている。いつもと同じ格好。いつもと同じ表情。周りを漂う虹色の蛍のエフェクトが、気まぐれに僕の膝に触れて通り抜ける。感覚のないホログラムで作り上げられたすべてのなかで、一日に一度交わされる挨拶はすでに三年分重なって僕と彼女の不思議な関係を形作っていた。
電脳空間による、不特定多数とのマッチングシステム……magioが流行ったのは二十年も前で、最初は出会い系として使われていたそれも、だんだんと姿を変え、今では最近ハマっているドラマの話や、ちょっとした愚痴を話したり、気が合う友達とほんの少し話をする場所になっていた。フレンドシステムはあるものの、同じユーザーと話せる時間は一日十分間だけ。挨拶以外は、入室前に最初から打ち込んでいたメッセージを互いに読み合うだけだ。必然的に内容は交換日記のような、昨日話した内容への返信になる。その少し変わったコミュニケーションシステムは、ほんのわずかの層にだけ今もウケていて、中学生の頃から利用し始めた僕も、magioを好んで使っているユーザーのひとりだ。そして向かいに座っている彼女――Iもそのひとりである。
Iと出会ったのは、中学二年生の時。ランダムマッチングで、様々なホログラム・ワールドを転々としていたなかで、彼女が作り上げたという、銀河鉄道をイメージした車内空間・Noktoに辿り着いた。メッセージを読み上げる十分間が終わると、駅に着き、車内から終わると「退出」扱いになる細やかなデザインと、彼女の癖の強い語り口を聞いて、一瞬でファンになってしまった僕は、それからずっと交換日記まがいのチャットを毎日繰り返している。それはほとんど途切れることなく三年続き、今僕は高校一年生になった。相手から送られたボイスメッセージは、「ほかんばこ」に保存されて、いつでも聞き直せる。数千件に至るIからの声付きの手紙には、ここ数年何度も助けられた。
僕の顔を見て、にっこり、と微笑んだ後、Iが薄い水色――春の空の色をした封筒を此方に差し出す。僕が手を伸ばすと、それは掌に届く前に中身だけ抜き取られて、一瞬で便箋が光を纏って空間に浮かび上がる。手書きフォントで記入された言葉を読み始めたところで、彼女の声が響く。
「さあ。今日もぼくからのメッセージはそこそこ長いからね。心して聞いてほしいな。
昨日は濡れて帰ったっていってたけれど、そのあとどうかな? 風邪をひいたりしていない? youは自分はタフなほうっていってたけど、ぼくからしたら君は繊細な方だと思うよ。夏だからと慢心せず、シャワーだけじゃなくてお風呂にも入って……っと、こういうことを言ってると、また君に”Mamaみたいなことを言わないで”なんて言われてしまうかな? そう言わずに、良い匂いのバスボムでも買ってゆっくり体を温めてくれたまえ。
ぼくはまた試験に追われているよ。学生っていう身分は最強ではあるけれど、時々不自由を感じるのはなんでなんだろうね。君もそろそろ、summer vacation前のテストがあるんじゃない? 君はぼくよりもずっと真面目だから、吃驚仰天(この言い方って所謂”死語”ってやつ? どうなんだろうね)な点をはじき出すことはないだろうけれど、当日電脳ペンの電池がなかったなんてtroubleがないようにくれぐれも……おっとまた説教になってしまうかな。はいはい、この辺にしておくよ。この間のようにメッセージが長すぎて途中で切れてしまうといけないからね。まあ何が言いたいかっていうと……I pray for your health and happiness either way. ぼくに健康と幸福を祈られなくたって幸せをつかみ取る力がある君だと分かっているけれど、それでも願わせてくれよ。それじゃあね、ぼくのKampanellaであり、Ĝovanniであるきみへ。敬具」
読み終わると共に、綺麗に便箋が畳まれて、再び封筒に収まる。今度こそ手紙を受け取ったぼくは、斜めがけの青い鞄に丁寧に手紙を仕舞って、代わりに中に入っているI宛の手紙を取り出した。派手な黄色を差し出すと、先ほどと同じように真白の便箋が彼女の元へ飛んでいく。
「こんにちは、I。飼い猫の調子が悪くて心配だって言っていたから、ずっと気にしていたのだけれど、無事回復したようで安心。猫はご飯を食べたり、食べなかったり、吐き出したりして自分の体調を調節するみたい。南米に住んでるおばさんも言ってた。動物って僕らが思ってるよりも強いし、自己管理が出来てるんだね。別に偉そうにいうつもりはないけど。昨日雨に濡れたって報告したから、きっと貴方は風邪ひいてないかっていってくるだろうと思う。ほらみたことかって言われるだろうけど、ちょっと鼻水が出てる。でも少しだよ。少し。今日早く寝れば治るからこれ以上の追求は辞めて。一昨日終わりそうにないっていってた課題は終わったの? あれ以降報告がないってことは諦めた? テスト勉強に集中しすぎて忘れてるんじゃないかと思ったから言っておく。
貴方って物凄く有能なのに時々メチャクチャぼけるんだよなあ。気さくなIのことだから、周りにたくさん友人がいるだろうし、なんだかんだ上手いことやるだろうなってのは分かってるけど、去年みたいに単位を落としそうだって大騒ぎして三徹……とか身体に悪いからやめてくれよ。
そういえば僕の最寄りに綺麗な紫陽花が咲いてたんだ。magioでは写真を添付できなくて残念。紫陽花って土の酸性とかアルカリ性とかに反応して色を変えるって本当? 文系だから詳しくないけど、Iなら詳しいかな。去年とは違う色になってたからびっくりした。青とか紫って良い色。Iはよく、僕宛の便箋の色を寒色に設定してくれるから、最近何となく服とか鞄の色とか、青色を選ぶようになったかも。なんか恥ずかしいな。にやけ顔の貴方が浮かんだ。やっぱり今の無し……magioのメッセージって書くと再編集できなくてムカつく。はあ……えっと、あと……それから、ってもう時間がないな。本当に短いね。でもまあ、僕は貴方とちがって、結構口下手だし……このメッセージも何度かシミュレーションして……ああやっぱりこの話もなし。終わり。それじゃあ、あなた自身のĜovanniであり、ぼくのKampanellaであるIへ。また」
やっぱり、自分のメッセージが読み上げられている瞬間が一番恥ずかしい。そう思いながら視線を逸らしていると、便箋が綺麗に紙飛行機型になって、Iのワンピースの胸ポケットへ吸い込まれていく。ゆっくりと電車が減速を始めて、もう間もなく十分が終わるのが伝わって来た。窓から見える銀河を漂う、猫や紫陽花、電脳ペンにレポート用紙。メッセージから自動検出した小物たちが、ゆらゆらと揺れながら駅へ飛んでいく。それを眺めながら、ただぼんやりと、ああいいなあ、と思う。交わした言葉から生まれた小物たちが自由に宇宙を泳いでいるさまは、僕とIの世界がこの時だけ繋がっていると思わせてくれる。
ピアノの旋律と共に、電車がとまる。
夢の始まりであり終わりである音楽を聴きながら、Iに手を振って降車口に立つ。無人駅へ踏み出す一歩が、いつも難しい。未練がましく振り返って、座ったまま此方に手を振るIを見る。またね、と言いたい。また明日、と挨拶したい。けれども制御された電脳空間で唇は動いても、音は生まれない。
後ろ向きのまま、電車から降りる。空間を漂っていた様々なアイテムたち――紫陽花や、雨や、採点されたテストなんか――が白い星の形になって、ぱちりと消えていく。ピアノの音が遠ざかり、電車が次の駅へ動き出す。まばたきする瞬間、虹色の蛍が頬にキスをして、ホログラムが解けた。
つけっぱなしになっている卓上ライトがチカチカと光る。
座席が黒の回転いすに戻り、スマートフォンの入室ボタンは「また明日」という文字列に置き換わっていた。右上のメールボックスに、今日の分のボイスが入った証拠に「1」という数字が表示されている。
「また明日」
そう読み上げて、画面を暗くする。机の上に広げたままのノートに目を移し、前期末のテストに備えて、復習を始める。くしゅ、とくしゃみをひとつ零す。彼女の言っていた通り、明日は学校帰りにお店に寄って、バスボムと……ついでに石鹸を買ってもいいかもしれないな。お風呂の水が派手な青色になるやつでも買って、両親をびっくりさせてもいいかもしれない。
しわが寄っていたスカートを整えて、座席に座りなおす。まだ六月だっていうのに、暑い。手早く長い髪をまとめ直して、そのまま両腕を伸ばして正面の窓を開ける。
Iの創る電脳空間には負けるだろうけれど――そこには美しく満ちた夜のくらやみが、柔らかく広がっているのだった。
2021/06/03 執筆




