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連弾する指

 心臓が貫通するような痛みで目を覚ます。ほんのりむし暑い部屋の中で、タオルケットと掛布団は少しも乱れなくわたしの上に掛かっていた。右手で勢いよくすべて取っ払っても構わなかったけれど、お行儀よく夜を過ごしたわたしへの賛美から、左足からそっと抜け出していく。ちょうどさなぎが蝶になるときほどに密やかで満ち足りた脱走だ。


 フリルのふんだんに使われた下着姿は幼い肉体に不釣り合いなほどゴージャスで、けれどもそのアンバランスがわたしを作り出しているのだとも言えた。湿気を帯びた起きたての頬に触れながら、ワンルームを出ていく。独立洗面台に鎮座する鏡が汚れている。柔らかい布で拭いてください、と書かれたシールをぼんやり眺めながら顔を洗って、戸棚に仕舞ったフェイスタオルを引っ張り出した。床に顔から滴った水が落ちる。いつも同じ失敗を繰り返して朝をやり過ごしている。眠い。眠くない、眠い。憂鬱、五月病、濡れたハンドタオル、雨の通学。濡れた傘から滴る金属臭い水。似たようなものを思い浮かべて、歯磨きをする。

 朝の憂鬱の九割を、生ぬるく不愉快な口内が占めている。口を綺麗にすれば、あと三十パーセントくらいは元気になれるはずだと脳を騙す。歯ブラシから涎と混じった水と泡。歯磨き粉に含まれたざらついた何か。滴って、洗面台へ落下する。吐き出す。その繰り返しで、新しくなれるのだと信仰してみる。あまりに稚拙な祈りだ。

 充電器につけたままにしているスマートフォンから、何時(なんじ)かを知らせるアラームが鳴っている。六時のか、七時のか。七時半。多分そのどれかだった。どれであっても困らない。そういう時間に設定してある。アラームは一時間おきしか三十分おきにしかかけない主義だった。間隔が短ければ短いほど油断して遅刻する。最後の泡を吐き出してすべてを水に流し、フェイスタオルで何もかもを拭き取る。勢いよく擦ったせいで顔が小さい棘に引っかかれたように痛んで、また眠気が一歩わたしから距離を取ったのを理解する。

 スマートフォンの底から繋がる、供給管を外す。画面が光る。さっきまでずっと電気を食べていたくせに既に99%まで電池がなくなっているのはなんなんだろう。片手で通知を確認する。生ぬるい液晶画面を撫でてメッセージを入力しようとして、面倒でやめた。ためらいなく通話ボタンを押して、スピーカーに切り替えてベッドの上に投げる。クローゼットを開けて夏服の上下を取り出したところで、見えない電波がいとも容易く繋がってみせる。

「朝だよ」

「……知ってるよ」

 声から機嫌が分かるのだから蔦野は分かりやすい。

「雨だよ、蔦野」

「だから知ってるって、なんなのよ」

 わたしとて別に蔦野に教えてやるべくこんな問答を繰り返しているわけではない。壊れかけの折り畳みではなく、長傘を持って行かねばならないと自分に言い聞かせるために繰り返しているだけだ。勿論そんなのを口にしたら、掛けるよりも簡単にこの女は電話を切って惰眠を貪るだろう。彼女の逃避行(サボり)は直接的にわたしの損害に繋がる。蔦野を酸素ボンベにして学校に通っているわたしは、認めたくはないがこの子なしに呼吸できない。


 ――それは比喩ではなく、明確な事実だ。


 地球の半分が海に沈んだのは、わたしが小学四年生の時だった。わたしと蔦野は学校帰りに近くの公園で遊んでいて、彼女が滑り台から背中を向けて勢いよく滑り降りるのと、大きな地割れが起こったのは同時だった。割れた大地の間から海が沸き上がり、蔦野はあっという間に波に喰われて見えなくなった。彼女の名前を呼んで咄嗟に手を伸ばしたわたしもほどなくして水に飲まれて死ぬはずだった。


 掴むはずだった手が、捕まれたのは意識を失う寸前だった。


 透明な膜に覆われた蔦野に引きこまれ、わたしは海の中で呼吸できる唯一の場所を得た。そして、困った顔でわたしを抱きしめる彼女が謝罪の言葉を発した瞬間に、わたしはもう彼女と友達でなくなったのだと察してしまった。

 蔦野達――水の中で呼吸できる常呼(じょうこ)の起こした災いによって、只人――局呼(きょくこ)の人間の多くは溺死した。常呼のひとびとは異星からやって来た侵略者だと、壊れかけのテレビに映った見慣れた偉い人が言っていた。彼もまた常呼だったのだ。びしょ濡れの身体はひたすらに寒く、いくら抱きしめられても蔦野の身体は冷たい。人でないのだと知らされたら途端に別物に思えてくるのだから笑ってしまう。家も家族も何もかも沈んだわたしは、いったい誰を恨めばいいのか分からなかった。生き残った局呼の人間はごくわずかで、そのすべてがニ十歳以下の子どもだった。人間の何百倍もの寿命を生きる彼らにとって、子どもを殺すのは道理に反するらしい。おとなのすべてを水に沈めて窒息死させておいて、道理も何もないのではないかと思ったけれど、怒る気力はなかった。わたしは小さかったし、聡明だったから。ただ死なないためには、目の前にいるこの化け物に従うしかないのだと理解していた。

 生き残った子どもたちは皆常呼の上流階級の家へ引き取られ、彼らと大差ない教育を施される手はずになった。どういうやりとりがあったのかは知らないが、わたしはそのまま蔦野に引き取られた。わたしと同学年――小学四年生だったはずの蔦野が、もうその何百倍もの時を生きていて、姿を自在に変えられるのだと分かったのは、それから間もなくのことだった。


 蔦野は姿を変える。青年に。少女に。犬に。クマに。得体のしれない、ゼリー状の化け物に。なんにだってなれて、どうにだって作り変えられた。けれども一度だって、わたしの家族の姿になったことはなかった。蔦野は夢を見ない。幻を信じない。彼女が持っているのは現実だけで、わたしにもそれを突き付ける。いっそ清々しかった。わたしからすべてを奪ったくせに、わたしに与えようとする彼女、彼、敵、常呼――”それ”は酷く傲慢で確かな侵略者だった。

 厳しくも優しくもない蔦野はわたしに何も教えなかった。ただ衣食住に困らないようにするだけで、ペットのように愛玩する趣味も無いようだった。蔦野が特別そうというわけではなく、学校で時折会う局呼の子どもすべてが何不自由ない暮らしを与えられていた。わたしたちの持ち得る何もかもを一掃した残虐性が嘘だったかのように、彼らは局呼の子どもに優しかった。同情とも違うその穏やかさは、慈愛と表現しても差し支えないもので、可愛そうなことに多くの局呼はすぐに元の家族を忘れて行った。わたしたちが”そうなる”ように常呼が何かしたのかもしれないし、忘れなければ生きていけなかったからかもしれない。局呼は常呼と同じ権利を与えられ、ただ共に育つだけだった。多くの人間が死んだせいで、食料に困ることはなかったし、常呼は食べ物を必要としない生き物だった。


 彼らにとっての「食事」とは、他人が彼らの膜で呼吸すること。

 自分で無い他人の呼吸が彼らの餌だった。


 蔦野も例に漏れず、わたしの呼吸を必要とした。

 けれどもそれは、わたしが海底にある高校に向かうため、蔦野の膜の中に入るその瞬間だけで賄える程度のものだった。


 わたしが高校に入学したのを境に、淡々と告げられた「呼吸を分けてほしい」という、彼女からの初めての欲求を拒否する理由はなかった。むしろ求められるものが何もなくて、気味が悪いくらいだったから。蔦野に求められて安心している自分が滑稽だった。そうやって何か見返りを必要されないと、自分たちが虐げられている家畜なのだというのを忘れてしまいそうで怖かった。


 蔦野の要求にわたしは容易くYESと頷いて見せた。

 その日から、あの天変地異が起きた運命の日以降入ることのなかった透明の膜に、一日に一度迎えられる。他の局呼はもう少し多いと聞くけれど、蔦野は増やす必要はないと、一点張りだった。彼女なりの節制なのかもしれない。或いはわたしとの接触を煩わしく感じているかのどちらかだ。

 わたしが十六を迎えた途端、大金を(はた)いて陸のアパートの一室を買った蔦野が何を考えているのか、わたしにはずっと分からない。彼らよりも短く儚い時を生きる局呼へ、ただの子どもであるわたしへ金をつぎ込むのはなんなのだろう。わたしは蔦野が何の仕事をしているのかも、常呼のなかでどういう立場なのかも知らない。興味がないわけではないけれど、聞いたところで教えてくれないだろう。

 こうして普通の『女子高生のように』振る舞って、ただの友達ごっこをしながら暮らすのは優しさなのか、それとも既に狂っているのか。毎朝毎朝電話を掛けなければ家に迎えにくるのさえ忘れるこの化け物が、執拗にわたしから距離をとる正当な理屈だけを思考して十七になってしまった。不毛だろうか。わたしから何もかも奪ったくせに与える傲慢な種族に、歩み寄ろうとする愚かさを断罪してほしかった。――誰に。誰かに。蔦野に。わたしに。


 チャイムが鳴る。運命みたいに。

 モニターを見るふりもせずに、扉をためらいなく開ける。そもそも鍵など掛けていないのに蔦野は、一度だってドアノブをひねったりしない。わたしが形式的に渡した合鍵も、一度として使ったことはない。

「真面目だね、藤岡は」

 それはあんたでしょ、という言葉を飲み込んで、ねぼけまなこで此方を見ている化け物へ丁寧なあいさつを心掛ける。セーラー服姿に身を包んだ彼女の肌は今日も異様に白く、わたしのほんのり焼けた素肌がまるできび砂糖のように思えた。アパートの一室を出て、傾いて破損した向かいのマンションに飛びうつる。その下はもう海だった。壊れた生態系が新しく構築された結果、東北の海にはミントのにおいがするペンギンと、ビビットないろをしたカラフルなクラゲが大量発生して、さながら異世界水族館だ。笑えない。春は夏のようになり、秋は冬のようになった。夏と冬が交互に繰り返されるだけになったこの世界に桜は咲かない。

「行こうか」

 蔦野が手を伸ばす。どこか嫌そうに。切りそろえられた、ほんのりウェーブのかかった真っ黒な髪の毛の隙間から見える耳たぶを見ながら、手を繋ぐ。もう何度も重ねた入水は少しも神々しくなくて、陸も海底も変わらないと残念に思う。海の中にはいくつもの建造物がひかる。住宅。学校。会社。公園。陸の人間は知っていただろうか。もうずっと前から、海底のほうが、地上よりも明るくひかるってことを。

 彼女の生み出す泡の中で呼吸する。蔦野はわたしを見ない。呼吸を皮膚でする常呼の呼吸音を、聞けないわたしは只人だ。


 ねえ、蔦野。

 本当はわたしが、あなたの目の前で溺れ死んでしまいたかったと言ったら、どうするの。


 深海に佇む美しい校舎は、貝殻の内側のようなオーロラをうっすら纏って鎮座している。

 大きな膜に包まれた校舎の中へ、ふたり同時に入っていく。蔦野の膜が大きな膜に呑まれる前にゆるやかに割れた。


 醜くて弱い只人のわたしは今日も、不必要になった呼吸を繰り返し、繋いだ左手を離すタイミングを計りかねている。



「山路さんは」

 と口にした途端、彼女の美しい御影石のような瞳が光る。蔦野とほど近い色彩を持つ彼女もまた常呼で、聞けばそれなりの立場なのだというから最初は委縮したものだけれど、山路さんは細かいことをは気にしない主義なのか、わたしにいつも親切にしてくれた。蔦野はわたしに何も教えてくれない。勉強で分からないところがあっても、クラスでの悩み事もなにもかも素知らぬ顔で、好きにしたらとだけ言って知らんぷりだ。相談する相手のいないわたしに、手を差し伸べてくれるのは決まって彼女だった。

「藤岡さんは、私の好きだった子によく似ているの」

 なんて寂しい冗談を言われたのは、山路さんは優しいね、とわたしが彼女に何度目かの相談のお礼を言った時だったっけ。好きだった子とは誰だろう。もういないの? 死んでしまったの? それなら”その子”は局呼だったの? それとも、わたしを励ます冗談なの――? 聞いてみたい気持ちはあったけど、どれも声にはならなかった。胸につかえてそれまで。彼女があまりに悲しげに笑っていたから、踏み込めなかった。誰にだって踏み荒らしてほしくない特別な場所を持っているだろう。わたしにもある。黙って日誌を書いているわたしは、それはそれは不愛想だっただろうけど、山路さんは責めなかった。

「私たちは世界を奪ったのだから、心を奪われても文句は言えない。そう思わない?」

 ――肯定してしまいたかった。

 でも、やっぱりできなかった。ただ黙って、やはり日誌を書いている。書き終わらないように丁寧に。文字の羅列を組み合わせる。漢字、ひらがな、カタカナ、漢字……。

「やっぱり、似てる」

 まるで逆の言葉のように呟かれた言葉は、わたしと山路さん以外誰もいない教室に落ちて、そのままになる。似ていると繰り返すたびに、似ていない場所を撫でているような、そんな言い方だった。こういう常呼に出くわすたびに、ただただ悲しくなる。空しくなる。ただ憎めたら。いますぐこのシャーペンを、美しく嫋やかなこの人に突き刺して殺してしまえたら。そう思える魂だったら、と願うたびに遠ざかる。わたしは本当に常呼なのだろうか。この肉体が、海の底に幾億も重なって微生物たちに食い荒らされた常呼と同じ成分で出来ているとはとても思えなかった。

「……ねえ、藤岡さん。思い出を溶かしたら、何になるとおもう?」

 きっと夕暮れ時だろうに、教室を満たすひかりは青の羽衣を纏った桜色。この世界が失った淡いピンクを、ひかりだけが知っている。

 シャーペンを机に置く。日誌はちょうど書き終わっていた。期待と諦めに満ちた瞳に触れるのは禁忌だろうか。

「ゆめになる」

 答えたわたしを見て、また山路さんが笑う。晴れやかで、けれども泣きそうで、それから……。

 やっぱり似ている、というお決まりの答えは、今回に限って生まれることなく集結している。不思議と、選択肢を間違えたという気はしなかった。

 ゆらり、と彼女の瞳に、赤い金魚が躍る姿が一瞬、見えた気がした。



 どこからが間違いかと問われたら、始めからと言ってしまいたくなるのは私が心のない化け物だからなのか、それともただ意気地なしだからなのか、結局のところ分からなかったし、多分本当は分かりたくなかったのだろう。傷つけるために仲良くなったわけではない。私たちの友人関係が崩壊したあの瞬間、自分が何もかもを台無しにしたのだという事実に怯え、それからはただ遠ざけることで救われようとしていた。成長すればするほど、一度だけしか会ったことのない彼女の家族の姿に似ていく子どもを見て、加害者のくせに身体が軋む。肌から絶え間なく得る空気が重たく、苦しかった。


 局呼の人間を殺すつもりがなかったのだと言えば誰かが救われただろうか。常呼によって引き起こされた天災は、実のところ局呼を滅ぼそうとした常呼の一部が放った化学兵器による弊害だった。海底に住まう常呼の呼吸を奪おうと試作された爆薬は世界の均衡を破壊し、結果的に地上のほとんどは海に飲まれ、生態系は崩壊した。局呼の中で生命力の強い子どもだけが生き残り、20歳を超えるひとびとは爆弾の成分に耐え切れず窒息死してしまった。我々の多くは局呼と共に擬態して過ごしていたため、彼らと呼吸を共有することで助かり、すべてが変わってしまった世界で途方に暮れる子どもたちに、嘘をつく大罪を背負った。彼らの攻撃性を刺激したのは私たちのミスだった。局呼は短い時を生きる。故に貪欲で、臆病で、種族を守るためならばどこまでも残虐になれる。それは優しいからだと理解していた。それなのに、私たち他種族の存在を匂わせたのは間違いだった。こうなることは容易く想定できていた。記憶を消す処置を施そうかと議論している最中だった。迷っている間に、爆弾が投下された。欠片さえ残れば再生できる私たちと異なり、肉体が再生しても魂が失われれば局呼は生まれ変われない。私たちの愚かさでひとつの種族を破滅に追いやってしまった。生き残ったと言えど、爆弾に少しでも晒された彼らが子孫を残せる可能性は極端に少ない。孕むかどうかは個人の采配だ。産むかどうかも。けれども選択肢を奪うのは、最もやってはいけないことだと言えた。

 忘れもしない、藤岡――たすくの十二歳の誕生日。ケーキを食べ、祝いのプレゼントを贈り、各々の部屋に戻って眠りについた。蝋燭を吹き消す瞬間の幼い表情が愛おしくて、その時だけはすべて許されているように感じた。今思うと愚かで笑えもしない。肉親を殺された相手に心を許すはずがない。分かっていたはずなのに、分かっていなかった。

 夜中に泣き叫ぶ声がして、慌てて駆け寄る私の前に、髪を振り乱し立っていたのは、私たちが殺した種族の生き残りだった。

 ひとごろし、という五文字が部屋に響く。ゆるさない。ひとごろし。何度も繰り返される凶器を、避けられずにただ立ち尽くす私は、とても何百年と生きて来た種族とは思えない無様さだったろう。ゆるさなくていい、と呟いた言葉が震えていて笑えた。嘘だ。許してほしい。そんなつもりはなかった。私は君のことを、幼い君のことを本当に大切な友人のように思っていたし、君に似た家族を愛おしいと思った。そうでなければわざわざ擬態してまで人の世で暮らしてなどいなかっただろう。近所の公園の大きな桜の木も、夕焼けの色も、君とリコーダーを吹きながら歩いた田んぼ道も全部私にとってはたからものだった。嘘じゃない。本当だ。許してほしい。だから責めないでほしい。私は――僕は。ただ。

 ただ、君に。


 ――花生ちゃん。

 そう言って、あの時。私が手を掴むあの瞬間、そう、呼んでくれた女の子。君が近くにいる時の呼吸が最も私を幸福にしてくれていたのだと、永遠に言えなくなってしまった。幼い断絶は深くなる一方だった。感じていた親愛が愛情になり、愛情が壊れて思いやりになって、罪の意識に塗りつぶされ、今は一体何色なのか自分でも分からない。もう何色になったとしても、君が私を、僕を見ないのなら、どうでもいいのかもしれない。


「蔦野」


 変わってしまった呼び名も、高校に向かうまでのこの無意味な呼吸も全部やり直して、できたら出会ったあの瞬間から構築し直したい。そんなの、未来永劫不可能だと知っているけれど。分かっているからこそ遣る瀬無かった。


 塩水の中で薄紅の花を抱く桜は育たない。

 それでも私たちは、この崩壊した海の底で、花が咲くその時を待つしかないのだ。


 そうだね、たすく。

 自らを自分の力で救えてしまうお前と違って、腐り落ちたいのは僕の方だよ。

 ……なんて笑ったら、僕を愛してると、上手に騙してくれただろうか。


 醜くて弱い化け物の私は今日も、一刻も早くとめてしまいたい呼吸を繰り返し、繋いだ右手を離す勇気を持てずにいる。

- 2021/05/16

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