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対称花  作者: {出見塩}
第一章 壊れた橋
9/19

1:8  『漆黒の狼』

 ――ニールは硬直していた。


 あまりにも惨酷すぎる情景に、顔から血を失ったように青ざめたニールは己の眼を疑っていた。


 「気を付けろ、我々に気付かれたら命が危うい」


 氷結したように動かないニールを、フィネが家屋の影に引きずり戻した。


 「何故……何故何故何故?」


 壁に背を寄せ、頭を抱え込みながら悶絶する。


 あの情景から眼を剥がせられたとしても、記憶には疼痛を感じるほど頑丈に張り付けられているままだ。


 己の鮮血に浸るボヌバ爺の顔。

 肉を引き裂く狼の鋭い牙。

 動くたびに赤線を描く、殺意に満ちた血色の眼。


 ニールが目にしたのは、途方もない殺意に溺れた獣だった。


 「何故、ボヌバ爺は……? あれは……?」


 込み上がる吐き気。

 激しい頭痛。

 悲鳴を上げる鼓動。


 周りは見えておらず、自分の世界で悶え続ける。


 刹那、鮮血に浸った顔がユィディのものと対照され――、


 「ニール、落ち着くんだ」


 「ぁ……?」


 フィネの声が、暗闇に陥るニールを現実へと引き戻した。


 「ニール、落ち着いて聞け。私があの狼に飛びついて身動きを封じるから、その間に後頭部を……いや、どこでもいいからとにかく蹂躙してくれ」


 「ぁ、ぇ……?」


 否、ニールはまだ完全に現実に戻ったわけではない。

 強すぎる衝撃に意識はまだ朦朧としており、フィネの話し声が乱雑な音にしか聴こえない。


 「ニール」


 目線の定まらないニールに気付いたフィネは、彼の頬を両手で挟み、振って無理やり目線を合わせようとする。


 「私たちは今、生死の境に立っている。起きろ。起きなければ死ぬぞ」


 声量は控えめに、しかし厳密に言われる。

 フィネの方を見ると、彼はまたも彼らしくない真摯な眼差しでこちらを見据えていた。


 「……お、起きてる」


 徐々に外の世界へ意識を取り戻せたニールは、淡くそう漏らしていた。


 「良いな、ニール。繰り返す。私が狼に飛びついて束縛している間、君は奴の顔部をできる限り蹂躙してくれ」


 「……は? いや無理だろ。まず飛びつくとか言ってる時点で無茶だ」


 なんとか話の内容を掴み取れたニールは、次には静かな葛藤を勃発させていた。


 フィネの意図がはっきりとしない。

 記憶に残るあの狼は、見る限り小さくて軟弱な獣では到底ない。

 大きく、重量感の威圧に足が竦んでしまうほどの脅威があった。


 飛びついて身の動きを封じるなんて、とてもではないが信憑性のある言葉ではない。

 それも、細身なフィネが言うから尚更だ。


 しかし、馬鹿なことを言う奴ではないと認識していたために、どうしても困惑せざるを得ない。


 「ニール、私を信じてくれ。『川越』の獣で『狩団』と試したことがある。聞いただけでは信じられないのは承知しているが、その……コツがあるんだよ」


 「――」


 フィネが説得を終えたと同時に、獣の獰猛な唸り声と肉を引き裂く不穏な音が絡み合った。


 一度、狼を隔てている家屋を透き通るように唸り声が聞こえた方向を見た二人は、再び焦燥を宿した顔でお互いを見据える。


 「急がなければならない。あそこに狼がいると知っているのはこの村で我々しかいない。誰かが迂闊に井戸に近づいては奴の餌食となってしまう」


 さっきからいつもとは違う雰囲気を醸し出すフィネを見て、そいえばこいつが狩猟なんかしてるとこ見たことないなと、場違いな思惑を抱いてしまった。


 その思考が芽生えた途端、彼の言葉に信憑性が生まれた。


 豹変した彼の真摯な言い回しに慣れない違和感はあったが、彼が『狩団』と共に行く狩猟で危険に遭遇した時、このような表情になるのだろうかと考慮すれば腑に落ちるものがあった。


 いつもの優雅なフィネではない、狩り人の表情。

 獣を狩猟する者の言うことならばきっと間違っていない。


 「……無茶苦茶な感じもするけど、分かったよ。束縛した狼の顔面をぐしゃぐしゃにすればいいんだろ? 俺が死ねばお前が俺の墓を立派に造るんだな」


 「よし、ありがとう。君に死んでもらっては困るな」


 決して決然とは言えないニールの了承に、フィネは相好を崩して感謝を告げた。


 ボヌバ爺の死体を見た衝撃は存分に残っているが、フィネの神妙な力が宿った目線のお陰だろうか、散乱した精神でもどうにか前を向くことができた。


 「行くぞ、ニール。私が行った後すぐに来い」


 体制を整え始めるフィネに言われ、覚悟を示すように頷いた。


 死の可能性ははっきり言ってニールを狂わす原因とはなっていなかった。

 精神を崩壊され、このような状況への対処にも疎いニールは言われるがままになっていたのかもしれない。

 だが、危機への経験が疎いからこそ、眼前にいる優秀な存在に縋れられたのかもしれない。


 ニールが心境を立て直したと見たフィネは、家屋の影から顔を半分出し、狼のいた情景を再確認する。


 「……」


 瞬間、フィネの纏う雰囲気が妙に変わる。


 全身の敢然とした勢いが滞ったような動作をするフィネに疑念と不安を抱いていると、愕然とした相貌でこちらを振り向いた。


 「いない……」


 そう告げられ、冷たい沈黙がその場を包囲すると同時、ニールの心臓が穿たれるように痛む。

 痛み、その衝撃に伴う思考はない。


 崩壊された精神は考察の機能を障害する。

 ニールの頑固とは言えない決意も、脳内に残された燃料を全て費やした故のものだと言える。

 行動の対象は、狼の顔部を蹂躙すること、ただそれだけ。

 それ以外のことを告げられたところで、何をすればいいのか分からない。


 いないから何だ。

 フィネの言う「いない」が示す意味も曖昧だ。


 ただフィネの愕然と混乱の混じった瞳につられ、感情が恐怖に染まるまま何も考えられない。


 「――フィネ?」


 混乱の底に陥っている中、フィネが相貌を決然としたものに戻すと、振り向いて立ち上がった。

 同じく、フィネの意図は未だにはっきりとしない。

 しかし、状況が悪化したことだけは察知できる。


 「私が確認してくる。戦略は変わらない。すぐに付いて来るんだぞ。私に何かあった場合は……逃げろ」


 「は……?」


 混乱に浸った双眼で見据えてくる少年に、フィネは背を向けたまま、目線だけを後ろへ向けそそくさと説いた。


 音として耳に入る言葉の連鎖。

 感情を施す音程。

 ニールはそれらを、フィネは自殺行為に出ると解釈する。


 「おい、危ないんじゃねぇのか? 死ぬぞ?」


 時間を掛けてフィネの言った『いない』の意味を要約理解し、その上で彼は狼を襲うと言う。

 つまり、不可視の敵に身を投げると、無謀とも言える行為に出ようとしている。


 彼自身も死を覚悟したような言い回しをしていたのに、一体何を考えているのだろうか。


 「繰り返す。ボヌバ爺以外に被害者が出る前に、今すぐにあの狼を殺さなければならない」


 危険の限度を問う少年に再度振り向き、何度目か分からないほどの説得を行う。


 少しは状況が身に染みてきているのか、混乱に乱されて話の内容もつかめないことはもうなく、フィネの言いたいことはしっかりと聞き入れた。


 彼は危険に身を晒してまで、村人達の安全のために動く気だ。

 今考えれば当然のことだろう。

 彼はこの村を率いる『狩団』の一員だ。


 そして、フィネの正義感に付き添う必要がある。

 それは、彼の死が自分に掛かっているからだ。


 戦略はフィネが身動きを封じた狼を自分が蹂躙する。

 自分がその通りに動かなければ、束縛を解いた狼がフィネに襲い掛かるだろう。


 それを察した瞬間、この場から逃げる選択肢は存在しないと悟る。


 「……ふぅ」


 自身に圧し掛かった責任感に思わず深呼吸をしてしまう。


 「君はここで飛び出す体制を作っておくんだ。私が来いと言ったら来るんだぞ」


 「分かった」


 ニールの覚悟を悟り、戦略を再確認すると、フィネは狼がいた筈の風景を一瞥した後に家屋の影の外へ姿を晒した。


 フィネが自分の傍らから離れた途端、異様な焦燥感がニールに襲い掛かる。

 危険との経験が乏しいためか、覚悟はしていると思い込んでいても、実際に行動に出るとなると冷静ではいられないものだ。


 ニールも隠れていた家屋の端に寄り、身を潜めたままフィネの様子を窺った。


 井戸の前、狼は忽然と姿を消しており、凄然と倒れた血だらけのボヌバ爺の姿だけがある。

 凄惨な光景に再び吐き気を催してしまうが、自分の今の任務を思い出し、浮かび上がる悲痛な思いを無理矢理振り払う。

 悔悟、悲哀、無念、困惑。

 それら全てを抑え込む。


 井戸の前――屍となったボヌバ爺の傍らまで歩み寄ったフィネは、周りを頻りに警戒するが探し求めた敵は見当たらないようだ。

 それを見たニールも思わず後ろを確認するが、後ろに現れていたなんて悲惨は起こらなかった。


 フィネの方に視線を戻すと、彼はボヌバ爺を悲哀な眼差しで見下ろしていた。

 一時的に危険が去ったと察し、この機会に想いの一つ二つを寄せたかったのだろう。

 ニールもそれに従い、冥福を祈る――が、何かが意識に引っかかる。


 自分でも何があったのか分からず、フィネの方に視線を上げる。

 未だに安静に佇むフィネ。


 「――」


 違和感。


 分からないが、歪で不可解な違和感を誘引された。

 正しくないと訴えてくる。

 世界が平然と流れていない錯覚。


 視界に映る光景を見ても違和感の正体は掴めない。


 ただ、一つの衝動を招かれていた。



 「――――――――しゃがめぇ‼」



 ――絶叫とともに、走り出した。


 ニールの違和感を肯定するかのように、家屋で隠れた不可視の世界から現れた狼が、周りから意識を離していたままのフィネに飛びついこうとしていた。


 狼の狙いは喉筋。

 口を大きく開け、フィネの首に噛みつこうとしている。


 ニールの絶叫に反応して視線を上げたフィネは、飛躍して襲い掛かる狼をしゃがんで躱そうとする。


 「――うがっ‼」


 しかし、完全に躱すことはできず、狼の首の下――胴体に顔と上半身をぶつけられ、後ろに倒れ込む。

 回避が刹那遅れていれば命はなかっただろう。


 胴体をぶつけた狼は空中でバランスを崩すが、野獣とは思えない身体能力で地面を転がり、華麗な受け身で四脚を地に立て直す。

 獲物を仕留め損ねた狼は、牙を晒し血色の双眼で猛然と唸り、獲物を威嚇する。


 殺意のこもった威圧に視線を上げたフィネの視界には、――再び襲い掛かる狼が映っていた。

 立ち上がろうにも間に合わないと悟り、硬直してしまう。

 眼前で徐々に大きくなってゆく死に抵抗する術はなかった。


 ――心境を収拾した少年がいなければ。


 「死ねええええええええええ‼」


 喉が避けるほどの絶叫がもたらしたのは、頭部への強烈な一蹴。

 直撃し、骨が打撃される快音と共に狼の勢いは横に大きく屈折する。


 フィネ以外を視界に入れていなかった狼は、迫ってくる少年の存在に気付いていなかったのだ。


 「ほっ……?」 


 ニールに命を救われ、一変した情景に思わず変な吐息が漏れる。

 救援に来た少年を感謝する心の余地もできず、変わらず呆然としたまま立ち上がれない。


 無論、眼前に人生の詰みが映れば衝撃は壮大なものだ。

 しかし、フィネが目にして衝撃を受けたのはそれだけではない。


 村のために、幾度となく野生動物や獣を目にし、狩猟してきたフィネ。


 ――見たことのない、途方もない殺意に溺れた野獣の瞳をこの目で見捕えていた。


 「――」


 一方ニールは、渾身の一蹴で今度こそ地面に倒れた狼を視認していた。

 だが、勿論その有利状況は刹那に過ぎず、一秒もしない内に体制を整えるはずだろう。


 そう、全ては刹那の内に起きた。


 頭部へ強烈な衝撃を食らった狼は少し昏倒したように、地面に倒れたまま双眼を瞑って頭痛を堪えるように頭を振る動作を見せる。


 ――正面、自分と狼を結ぶ直線状に井戸があることに気付く。


 屋根付きの井戸だが、屋根を支える二つの木柱は、幸運なことに――狼を放り入れるのに邪魔な位置取りをしていない。

 井戸の穴は奇麗にされけ出ている。


 隙を見せる敵。

 それは、必然的に一つの衝動を発揮させた。


 「――おっらあああああああああ‼」


 ニールはこれらを何一つ考察することもなく、無意識の内に地面を蹴っていた。


 体制を立て直そうとするも、意識はまだ鮮明としない狼は、ニールに横腹を晒したままである。

 狼へ突進し、持っている力を全て振り絞って、――狼を抱え上げる。


 そのまま、渾身の飛躍と共に狼を空へ投げ飛ばさんと投じる。

 空中に放物線を描いた狼は、見事に井戸の中へと落ちて行った。


 「よっしっ――ぇ?」


 ――ように見えた。


 下半身から入った狼は、そのまま頭の先まで井戸に飲み込まれて見えなくなると思われたが、胴体を飲み込む暗闇は首元で止まっていた。


 狼は、落ちなかった。

 井戸へ投じられた狼は、屋根から垂れ下がる紐をその獰猛な牙で銜えていたのだ。


 ――しまった。


 敵を仕留めることは叶わなかったが、井戸から身を乗り出すのに苦労している狼を確認すると、次の衝動に身を乗り出した。


 「逃げるぞ、フィネ‼」


 「うぁぇ?!」


 井戸に背を向け、疾走。

 未だ地面に尻餅をつくフィネを無理矢理起こさせ、逃走を図る。


 狼を殺さなければならないと言うフィネの意図も分かるが、今逃げなければ命が危うい気がしたのだ。


 フィネはこんな状況でも意地を張りそうな男だから、彼が自分と共に逃走しない可能性が怖かったが、すぐに身を起こし走り出すフィネを見て些細な安堵を抱く。

 否、見てはいないが小刻みに鳴る足音は聞こえる。

 鼓動に胸を痛め、喘息を吐きながら全力で逃げるニールは前しか見ることができない。


 道の曲がり角で転換すれば、三十メートルほど先にノヴァの家が見える。

 すぐ手間にも家屋はあるが、そこ家屋の扉は鍵が閉まっていると確認済みのため、避難所としての役目は損なわれている。


 足の速さには自信があるが、眼前の三十メートルは果てしない距離に見える。


 後方――狼の状態は視認できていないが、逃走する直前に見た狼の井戸への抗い具合を考慮すれば、今頃とっくに脱出し、ニール達を追走して来ている頃合いだろう。


 後ろから切迫する脅威の気配に汗を流しながら逃走すること約五秒間。

 ノヴァの家まで辿り着いたニールは荒々しく扉を開け、後ろを追っていたフィネへ振り向く。


 焦燥に浸る表情で、文字通り死に物狂いで走るフィネの後。

 道の曲がり角で折り返した狼が、眼を疑ってしまうほどの速さでフィネの後を追走する。


 「入れ‼ 邪魔になる‼」


 こちらを見据えたフィネが、大声で先に入っておけと叫ぶ。


 自分が邪魔になることに気付いたニールは、家の中に入ってフィネの到着を待つ。

 扉の取っ手を握ったまま、フィネが突入した瞬間に扉を閉める態勢を取る。


 家の奥から「え!? 何!?」と、困惑した女性の声が聞こえてくるが今はそれに構う時間も心の余地もはない。


 心の中で急げ急げと祈願しながら、短くて長い時間を待つ。

 そして、小刻みに鳴る足音が聞こえてきたと思うと、


 「があああああああああ‼」


 絶叫と共に中へ転がり込むフィネの後、瞬時にありったけの速度で扉を閉める。


 「――うっ!」


 『ドンッ!』と、不自然にうるさい扉の封鎖音が家内へ響く。

 ――否、扉の閉まる音と、狼が扉にぶつかる音が重なった打撃音だ。

 刹那でも扉を閉めるのが遅れていたら、狼は家内に侵入し、ニールとノヴァの家族は殺人者の餌食となっていたことだろう。


 扉を補強するように背中で体重を掛けていたニールは、背骨に食らった衝撃に苦痛の息を漏らす。


 痛みを堪えた後、視線を上げる。

 正面に続く廊下から、様子を窺いに歩み寄ってくるノヴァとヒネリカの姿があった。


 「来るなぁ‼ この扉の向こうにはおおか――あがっ‼」


 混乱と不安に表情を歪める親子に近づくなと訴えるが、再び食らった背中への衝撃に言葉を遮られる。


 床に手をついて喘息を吐く夫に、扉を必死に抑えようとする黒髪の少年。

 異常な情景に既に取り乱していた親子は、扉に何かがぶつかる衝撃音を聴いて更に目を剥く。


 「狼だ‼ 外に人を殺す狼がぁ――イッテぇ!」


 狼は家に侵入しようと執拗に扉にぶつかってくる。

 村の中でならこの家屋は頑丈な構造と言えるが、強暴な狼をどこまで隔てられるかは分からない。

 不穏な衝撃音が鳴るたびに底冷えする。


 「――え?」


 狼と言う単語を出し切った状況説明にヒネリカは、愕然とした双眼を変えずに混乱の声を漏らす。

 母の後ろに隠れるように身を潜めているノヴァも、その黄色の瞳に恐怖を宿している。


 「奥で身を潜めとけ! 隠れるんだ!」


 「ノヴァ、奥で隠れるわよ! ほら、貴方も!」


 状況を理解し、冷静になったヒネリカはニールの指示に従って娘と共に奥へ逃げ込もうとするが、動こうとしない夫が視界に振り返って声を掛ける。


 フィネは狼狽した瞳でこちらを見据えている。

 ニールを一人置いていくわけにはいけないと案じているのだろう。


 しかし、フィネがこちらの身を案じている場合ではない。

 ニールはこの扉から身を離すことは許されず、張り付いて動けなくなったどうしようもない体を案ずるのは無意味であり、助かるかもしれない命を危険に晒していることになる。


 ヒネリカは娘の安否を優先したのか、すぐに観念してノヴァと一緒に奥の部屋へ急ぐ。


 「お前も隠れるんだ! ――二人死ぬより一人死んだほうがましだろ!?」


 「――でもっ」


 この場にいるのが無意味であることをフィネも認知しているだろう。

 しかし、狩り人としての、男としての矜持が彼を懊悩に貶める。


 「――」


 すると、フィネの青色の瞳がある一点に釘付けにされる。

 彼の視線をたどった先には、――壁に飾られた剣。


 彼の意図を瞬時に悟る。

 家に飛び込んできた狼をあの剣で仕留めるのだろう。

 打開の可能性に希望が芽生える。


 しかし、狼を仕留める武器となる剣へ駆け付けようとしたフィネは、――最初の一歩目で止った。


 「うぐっ! ――ぁ」


 今までのとは格別なほどの衝撃と痛みに歯を食いしばるが、衝撃音に違和感を抱いた瞬間、――時が止まる。

 室内に響いた物騒な響きに、その場が氷結する。


 普通のぶつかるときの音ではなく、もっとうるさく、不穏で、おぞましい破壊音。


 頭上を仰げば、――部位破壊された扉が目に飛び込んだ。


 ――死が迫る感覚は、寒かった。

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