1:7 『見えない崖に落ちるように』
ユィディが行方不明であることを暴露し、部屋は憂鬱な暗い空気に沈んでいた。
「――ユィディの捜索を私に協力させてくれないか」
「?……」
緩慢に流れる重苦しい空気に、ふと一つの声がその場に時間の流れを取り戻す。
その声に、プロヴァ以外の顔がハッと上がる。
声の持ち主――フィネ・マッキナの方を見やると、彼は真摯な眼差しでこちらを正面に見据えていた。
「当然だが、ユィディの行方不明は君だけの問題ではない。私らも一早く彼女を探し出したい。協力させてほしい」
「あ、あぁ……頼むよ。ありがとう」
重々しい雰囲気に少々本性を乱したのか、大歓迎な要請に相応しない悄然とした返答をしてしまう。
ユィディは予測できる場所にも見当たらず、親友から得られた情報も役に立つものではない。
状況は最悪と言えば最悪だろう。
しかし、まだ断念する条件は揃っていない。
ユィディが村を出て森に入る理由はない。
フィネと共に村を隅々まで捜索すれば、必ず見つかる筈だ。
と、フィネの協力に希望の光を見出そうと己にそう訴える。
「ありがとね、フィネ。ほら、ノヴァも元気出すんだわ? 父さん達がユィディを探し出すんだから……ね?」
我が娘の頭を撫でるヒネリカだったが、ノヴァの瞳は闇から抜け出せたようには見えない。
無理もない。
ニールが見てきたユィディとノヴァの親友関係は壮絶なものだ。
「最悪の場合、村の協力も借りるとしよう」
「え……皆は力を貸してくれるんかね?」
村人の協力を提案するフィネに、ニールは些細な疑念を抱いてしまう。
刹那、その提案を本能的に拒んでしまった自分が理解できなかったが、それはすぐ後に納得がいった。
想起したのは、複数の村人からの信頼が劣化したと思案した記憶。
村の販売広場でプロヴァを殴った際に向けられた、不穏な視線の数々。
あの醜態を晒した自分に、皆は親切でいてくれるのだろうか。
「ん? ニールは村人達の手を貸りたくはないのかい?」
「……いや、借りよう。何としてでもユィディを探し出さねぇといかねぇ」
鮮明に想起される無数の視線。
その視線が宿す感情がニールの根元に釘を刺したのか、今は村人の印象が僅かに悪化しているだけだと自分に言い聞かせる。
公園へ赴く途中で、ユィディは見なかったかと尋ねた村人に彼女の捜索の協力を提供されたことも思い出す。
そうだ、複数の村人に疎まれたと誤解していただけであって、協力してくれる村人は沢山いるに違いない。
「うん、我々二人で探しても見つからない場合、村人の協力を得て周辺の森まで捜索するとしよう。時間帯もまだ夜に入る寸前だし、協力してくれる人は少なくない筈だよ」
――この村の住民は皆、心の広い者ばかりだしね。
と、フィネは最後にそう付け加えた。
「すまないな、ヒネリカ。どうやら夕食の残りを食べ終える時間は惜しいようだね」
円卓にある自分の夕食の残りを指定して奥様に謝る。
「いいわよ。ユィディが迷子なんだから、あなたも急がないといけないんでしょ?」
「うん、君にもノヴァの面倒を見てもらうと助かるよ」
夫の頼みにヒネリカは頷いた。
両親の会話に自分の名が入ったことも構わず、ノヴァの意識は闇に沈んだままだ。
自分からノヴァを宥めるような言葉を掛けたくもなったが、彼女の不変な瞳からして徒労に過ぎることは一目瞭然だ。
「それじゃ、私らは行くとしよう。ここでこれ以上時間は無駄にできない」
「幸運を祈ってるわ」
「――――」
背後の通路へ歩み出すフィネに付いて行こうと体を翻した時、別れの言葉を送るヒネリカの穏やかな双眸が目に留まる。
心を混沌に侵されたニールは返す言葉が見つからないまま、愚かに愛想笑いを返すことしかできなかった。
「――さて、この狭い村に君の妹はどこにいるんだろうかね」
ノヴァの家を出てすぐに、フィネが嘆息混じりにそう溢していた。
外はもう夜と言っていいほど暗くなっており、人気のない周辺は変わらず閑静に包まれていた。
僅かな青みが残る夜空を仰げば、出現したばかりの星が二つ、三つほど見える。
正面に続く砂道を見れば、道の右側に隣接する孤独で小規模な家屋が一つあり、その家屋の正面を淡い光で照らすかがり火も視認できる。
「道の隅っこで膝を抱えて座り込んでるなんてのは現実的じゃねぇから、協力の要請も兼ねて家を訪ねていきたい」
「うん、私もそれがいいと思うよ。早速、あの家を訪ねて見ようかい?」
ユィディの捜索を開始した二人は、無謀に村を徘徊するのは効率的ではないと判断し、近くにある家屋を訪ねて回ることにした。
人口の少ないマカリ村は家屋と家屋の間隔が広く、配置も雑然としている。
前方に三十メートルほど続く道にも、道と隣接している家屋は一つしか見当たらない。
視野に一つしかないかがり火も、その家屋の前に備えられたものだ。
フィネは手前側にあるその家屋を指定していた。
「――――」
木造の家屋の前まで到着すると、フィネが扉を叩いてコンコンと硬い音を二度鳴らす。
「…………」
しかし、しばらく経っても中からの反応はなかった。
「……いない? それとも、もう寝てんのか?」
長い沈黙の後、最初に口を開いたのはニールの方だった。
「うん、そのどちらかだろうね。仕方ない、次の家へ移ろう――って、おい!?」
フィネがここは諦めて次へ歩み出そうとしたとき、ニールが扉を開けようとしていた。
既に扉の引手に力を入れたニールを慌てて阻止するフィネだったが、幸いなことに扉の鍵は閉まっていた。
――否、不幸なことに、が正しいだろうか。
「中に人がいたらどうするんだい。そのー、……いやらしい光景でも映ってたら」
「だって、怪しくないか? 中からの反応はないし、扉も閉まってる。ただ住人が家にいないと認識するのが普通なんだけどさぁ、中にユィディが囚われてる可能性ってのは、考えられねぇのか?」
家屋の配置からしても、ユィディが帰宅するなら必ずこの道を通る。
考えたくはないが、ユィディがこの家屋の前を通った際に捕らわれ、何らかの目的で中に閉じ込めた可能性。
この村に住む人がそんなことをするとは考えにくいが、ここまでユィディが見つからないとなると、無視はしない方が良いかもしれない。
「ニール、その考え方はよした方がいいよ。村人に対する疑心を抱いてしまえば、彼らに疎まれかねない」
「――――」
村人達から疎まれる。
数分前に一度考慮した事柄を言及され、ニールは戸惑って口を瞑んでしまう。
「私はこの住宅に住んでいる人物を知っている。とても親切で、純潔な男だ。彼が女の子を攫うような汚れた真似は絶対にしないよ」
「……次の家に向かおうか」
論弁してくるフィネの表情は心配が宿っているように見えた。
自分に対する心配なのだろうか。
村人への不信は自分に跳ね返ってくるかもしれないと訴えてくれる。
その理論に確かな説得力はあったが、それでニールの懸念が払拭されたわけではない。
フィネがこの家屋内の確認を忌避するのであれば、ニールが彼の眼を忍んで自分ですればいい。
フィネが自分の行為を妨害できないところで、鍵が閉まっていようが扉を蹴り壊して中に入る。
村人の信頼なんかより、ユィディの安否が遥かに重要だ。
そう企てるニールは拗ねた口調で捜索の続行を促し、鍵の閉まった扉から踵を返した。
「聞きたいことがあるんだけどさぁ、『狩団』が村にいないのって本当なのか?」
歩き始めてすぐに、ニールが疑念を尋ねた。
ボヌバ爺から聞いた、『狩団』が今も村に帰還していないとの情報。
その正誤の確認と同時に、フィネがこのことを認知しているかもニールにとって曖昧だった。
今のフィネは、普段の調子と何の違いも見せていない。
『狩団』がいないとの情報を、組織の一員であるフィネが知っていれば、もう少し仲間を案ずる気配が漂う筈なのではないだろうか。
「うん……君も気が付いていたとはね。おそらくそうだよ」
今になって仲間の安否を案じたのか、眼を細めながら『狩団』がいないことを肯定する。
『狩団』が行方知らずなのはフィネも知っていたようだ。
今までいつもの雰囲気を保っていたのは、鋼の精神によるものなのだろうか。
そんなことを回想していると、フィネが言葉を紡いでくる。
「彼らは村への帰還時に、『川越』への同伴が許されなかった私へ目的の成否を伝達に来ると約束していたよ。なのに、それがまだ来ない。――おっと、君は『隣町』の依頼なんて知らなかったよね、すまない」
「……いや、気になっただけだから詳細は知らなくていいよ」
――否、詳細は明白に認知している。
ヒネリカに伝えられた情報だ。
それを隠した理由は二つある。
一つは販売広場での時とも似ているが、フィネは自分が『隣町』の派遣者の依頼について聞いたことを知らない――つまり、一部屋学校でヒネリカと交わした会話の内容を知らないことになる。
夫婦間での交流が欠乏していることなら、厄介に因縁を持つのは避けたいところだ。
そして、ニールにはもう一つ確認したいことがあった。
それの言及を促すために今の会話を切り捨てたのである。
それは――、
「プロヴァは家にいなかったようだけど、何か関係あるのか?」
ボヌバ爺と井戸の側で分別しようとしたときに、森の奥で木を切るプロヴァと思われえる人影を目撃した。
本来『狩団』が務める作業を代わりにしているとの推測だったが、彼の父親であるフィネにその確認と詳細についてを知りたかった。
「うん、無縁ではないね。『狩団』が帰還しないから彼らの仕事をプロヴァに押し付けたんだけど、それをした理由の根幹はそれじゃないんだ」
「……?」
どうやらプロヴァの行動に対するボヌバ爺の推測は正しかったようだ。
しかし、ニールの予測を肯定してすぐに、言葉を紡ぐ前振りをするフィネに疑問符を浮かべながら再度耳を澄ませる。
「プロヴァは……、憂鬱と言うか、沈痛とした雰囲気を漂わせてたんだよ。事情を聞こうとしても大丈夫としか言わないから、気休めにと思って外に出させたんだ」
「……なるほど」
プロヴァが憂鬱になっていたとフィネは説く。
昼頃、ユィディとの接触を試みて、自分の妹であるノヴァを押し倒していた光景が連想される。
己の醜態を反省して項垂れていたのだろうか。
もしくは、元々あった憂いが、販売広場で見せたあの奇異たる行動に繋がったのか。
「君が彼のことを気に掛けるとは、意外なことだね」
ニールとプロヴァの悪質な間柄を知るフィネは、このようなことを問い出すニールを不思議そうに見据えたが、無論これは彼に対する憂慮の表れではない。
「状況が状況だろ。お前の息子を疑って申し訳ない気持ちはあるけど、ユィディのことだからあいつも無視できる奴ではねっ――うぅっぶっ‼」
――それは、あまりにも唐突すぎた。
道に添って左へ転換した瞬間。
横から衝撃を受けたかと思うと、道脇の草叢に押し倒されていた。
すぐにフィネの仕業であると気付く。
フィネの癇に障ったのかなんだろうが、状況が理解できない。
「何やってんだフィうぶふっ……!」
「――静かに」
狼狽して行動の真意を問い出そうとするが、上に圧し掛かったフィネの手に口を塞がれ、発言を遮断された。
「――――――」
細身であるフィネを上体から引き剥がそうとするものならば容易にできるだろう。
しかし、それは浅葱色をした瞳に宿る真摯な眼差しによって遮られた。
いつも冷静で愉快な彼には似合わない目つきだ。
フィネはニールを束縛しようとも、奇襲を仕掛けようともしていない。
――庇ってくれた?
その相貌は、ニールには理解できない危惧を抱いているように見えた。
「……あそこへ、静かに」
フィネはニールが冷静になったと判断すると、数歩離れた家屋を指差してそう囁いた。
指示通りに、得体の知れない恐怖を抱えながら、フィネと共に草叢の中を這うように移動した。
「見ろ」
指定された家屋の後ろで身を潜むよう座り込むと、フィネがここからでは家屋で隠れて見えない風景を指差してそう囁いた。
恐る恐る壁の縁まで身を寄せ、フィネの指摘した方向を視認する。
「――!?」
家屋の壁という名のカーテンが開かれ、隠された光景が露わになる。
フィネの危惧を抱いた眼差しの根源は、吐気を催す惨たらしいものだった。
井戸の前。
――漆黒の狼が、死体と化したボヌバ爺の喉を引き裂いていた。