1:6 『ノヴァの家』
眼前にノヴァの家がそびえ立つ。
ボヌバ爺と井戸で別れ、一分もしない内にノヴァの家へ到着したところである。
ノヴァの家は村の家屋の中でも一際頑固な造りだ。
ノヴァの父親が『狩団』の一員である故、収入が盛んでいる故である。
殴れば倒れそうな家に住むニールにとって、眼前に建つ豊富そうな家には僅かな嫉妬を抱くことはよくある。
しかし、今のニールに嫉妬の感情を抱く心の余地はない。
眼前のこの家は、ニールを恐怖に陥れる。
この家の中に、ニールの運命が掛かっているようにも感じられて。
ユィディが見つかる好機がこれで最後と言って良い。
「――――」
加速する鼓動に胸を焼かれながら、扉の前に備われた石段に上がる。
震える手で拳を作り、木製の扉をコンッコンッと軽く叩く。
「――――」
沈痛な静寂に世界が包まれる。
鼓動が更に加速し、胸が痛む。
扉が内側から開かれるまでの間が永遠に感じられる。
とにかく、扉の内側からくる情報が良いものであると祈願する。
――カチャッ、と。
扉の持ち手が音を鳴らし、中からゆっくりと開かれる。
室内からの白い光が外の暗闇に迸る。
眩しさに目を焼かれて間もなく、眼前に現れた黒い人影がゆっくりと相貌を露にする。
「――フィネ」
「ニールか。こんな時間にどうしたんだい?」
中から出てきたのは、清潔かつ生粋な服装を身に纏った、華奢で細身な体が特徴的な男――フィネ・マッキナ。
暗緑色の髪が、ノヴァとプロヴァの父親であることを如実に表している。
『狩団』の一員であり、ヒネリカの夫に当たる人物だ。
ニールとも深い仲と言って良い。
「っ……」
「どうしたんだい? ニール。そんな萎縮して」
戸惑ってしまうニールにフィネは再度尋ねる。
緊張していて思考がうまく回らないのもあるが、少しの間、唐突に喚起される複数の情報に意思を奪われた。
今は村にいない筈の『狩団』の一員であるフィネが何故この場にいるのか。
それは、彼の使用する弓が損傷されたことが原因で『狩団』との同伴を阻止されたことにある。
実はこれはヒネリカとの会話でも耳にした話だが、刹那の間つい失念していたのだ。
弓矢一筋である彼が剣の才能に乏しいことも知っている。
唯一の武器が使えなくなったとなれば、仕方のないことだろう。
「そのぉ……聞きたいことがあってぇ……」
「うん?」
普段は活気なニールが、青紫色の瞳に不安を宿し肩を竦んでいる。
これから尋ねることに恐怖を抱いて仕方がない。
いつもの様子と違うことに気付いたのか、フィネは怪訝そうな表情で質問を促してくる。
怖い。
怖いが、問わなければならない。
瞳に僅かな決心を宿したようにその質問を絞り出す。
「――ユィディは、いる?」
震える声で尋ねると、フィネは不思議だとばかりに双眸を細めた。
恐怖が至上に達する。
ユィディの行方が、この瞬間で分かってしまう。
幸運に恵まれて、ノヴァの家に平穏と潜在していただけなのか。
不運の挙句、迷子の少女が一人で夜を過ごしているのか。
「――その質問、君の兄貴にもされたんだよ」
「……え?」
朗報を待望していると、意外な返答をかぶされた。
それは、今のニールと同じように、ユィディを捜索しに家を出て帰ってこなくなった兄貴――ケニル・アナトラのことを指名していた。
ケニルは今頃どうなっているんだと考慮するも、すぐにその返答が意味するものを悟った。
ケニルもユィディの姿を求めてノヴァの家を尋ねていたが、彼がユィディと共に帰宅することはなかった。
つまり、ユィディはノヴァの家にはいなかった。
ニールが家を出てここに辿り着くまで約十分。
ケニルも同じ経路を辿ったと仮定すれば、ユィディがノヴァの家で見つかった場合、ニールがキノコ狩りから帰宅する前に彼はユィディと共に戻ってきていた筈だ。
「すまないな……」
「いや、大丈夫だよ」
ニール達の陥っている状況をフィネも理解しているのだろう。
絶望する自分を不憫に思ったのか、謝られてしまった。
「ちなみに、ケニルがここを訪れたのはいつぐらい前なんだ?」
「うーん……三十分前ぐらいかな」
念のために彼の訪れた時間帯を問うたが、やはりこの状況を救う回答は返ってこない。
「ケニルは、ここを去る際なんて言ってたんだ?」
ケニルもまだ帰宅していなかった。
彼が先にフィネと言葉を交わしているのなら、せめて彼の情報だけでも得られないのだろうかと尋ねる。
「彼は自宅に帰ると言っていたよ?」
「そんな……」
しかし、その返答は状況を悪化するだけであった。
ケニルはノヴァの家を去る際、我が家に帰ると伝えたらしい。
その発言は三十分程前のものだと思われる。
ケニルがフィネに言った通りに自宅へ帰ろうとしたのであれば、彼は無事に帰宅できていないことになる。
「まさか……ケニルも見当たらないと言わないよね?」
「……いや、ケニルも見当たらない」
今度はフィネの問い掛けにニールが苦渋の相貌で答える。
一体、何が起こっているのだろうか。
兄にも妹にも。
自分は、無事に帰ることができるのだろうか。
「……ノヴァと、話していいか?」
希望があるとすれば、ノヴァだ。
否、実際は、そうでもない。
ノヴァが何らかの情報を持っているとするならば、それは既に彼女の父であるフィネに渡っている筈だ。
しかし、その情報がフィネに渡っていない可能性。
ケニルがノヴァに今の状況を尋ねなかった可能性。
ノヴァがユィディの行方を知っている可能性が存在する限り、希望はあるかもしれない。
「私は良いのだが、君の兄貴はユィディが行方不明であることをノヴァには隠しておくようにと要請された」
「えっ、ケニルはノヴァと話してないのか?」
「うん、彼がこの家に入ることはなかったよ」
期待と不安が同時に沸く。
ケニルはここを訪れる際、ケニル以外の人物には言葉を交わさなかったため、ノヴァにユィディのことを尋ねていないことになる。
つまり、まだ聞き出せていない情報――ユィディを見つける手筈がノヴァの中にまだ眠っているかもしれない。
しかし、同時に不安に思うこともある。
フィネはケニルとした会話の内容をノヴァに伝えていないとすれば、ノヴァは現在ユィディが行方不明であることを知らないことになる。
自分がノヴァにユィディのことを尋ねるとすれば、彼女が状況を悟ることは避けられない。
彼女にユィディの行方不明を知らせることになれば、相当な憂慮を押し付けることとなる。
「君がノヴァと話したいのなら構わないさ。ケニルの要望は頑固な約束事ではない」
「あぁ、すまねぇ。……ノヴァと話したい」
しかし、その代償を負ってでも、今はユィディの情報を得られる可能性に賭けるしかない。
「分かった。さあ、中へ」
室内へ歓迎してくれるフィネに従い、沈黙したまま中へ入る。
随所に置かれた黄色い光を放つ魔石によって、壁や天井が照らされている。
ちなみに、魔石は『隣町』から受け渡されたものの一つでもある。
入って左側の壁には、幻想的な洞窟(詳細には大穴の中心から昇る岩の柱が見受けられる)が描かれた絵が飾られている。
右側の壁には、旅人の剣と思われるものが掛けられてあった。
その剣が家の飾りのためだけに掛けられてあることは、フィネが弓の損傷をその剣で補っていないことから観測することができる。
飾りのためだけ、といっても、フィネに剣の才能があれば躊躇なく『狩団』の同伴に持参していたことだろう。
剣の掛けられた壁には傷や汚れは見当たらず、清潔とした雰囲気が部屋に充満している。
過去にノヴァの家に入る機会は幾度もあったが、自分の不潔な生活との懸隔を感じるのは毎度同じことだ。
「ノヴァは奥の部屋でヒネリカと食事を取っている最中だよ。ついておいで」
ノヴァの所へ誘導すると言うフィネの後ろを追従する。
細い玄関を通った後、リビングにたどり着く。
「ニール!?」
「あら、扉を叩いたのはニールだったのね?」
「おぅ、食事中にすまないな」
テーブルに向かって食事をとる二人の女性が自分の姿を見て吃驚する。
ユィディの親友である薄緑色の髪をした少女――ノヴァ・マッキナ。
そして、彼女の母親である鉛白色の髪を伸ばした女性――ヒネリカ・マッキナ。
プロヴァがこの場にいないことからも、ボヌバ爺と森の奥で見た人影がプロヴァであることが真実味を増す。
最初にニールの要件を尋ねたのはヒネリカの方だ。
「ケニルも先程ここを訪れていたらしいけど、何の要件かしら?」
らしい、と付け加えられたことによって、先程フィネと話した内容――ケニルは彼以外の人物とは話していないことが真実であると認識する。
「あぁ、らしいな。あいつと要件は同じなんだけど、俺が話したいのはノヴァの方だ」
「ん? 私に話したいの?」
ノヴァを指名すると、彼女は普段の屈託のない表情で顔を上げた。
その、いつもと変わらない快適な表情を見て――緊張が再び浮上する。
「あぁ、そのぉ……ノヴァに聞きたいことがあるんだけどぉ」
「うん?」
「最後ユィディと別れたのはいつ?」
状況が善良でないことを悟ったのか、ノヴァの隣に座るヒネリカが眉根を寄せる。
ノヴァの方はと言うと、幼さもあってかまだ事の重大さに気付いていないようだ。
ノヴァにはユィディの行方不明を悟ってほしくないため、できる限り遠回しな尋ね方から情報を得ようとする。
親友が見当たらないと知って、狼狽して冷静に話せなくなっては困る。
「最後にユィディと別れたの? ……結構前だから正確には覚えてないけど一時間ぐらい前かな」
一時間前。
すぐに事の善悪を判別できる数値ではないが、とにかく最近ではないようだ。
「その時、どういう別れ方をしたんだ? 別れた場所とかは?」
「え、普通にノヴァの家の前でバイバイって言って帰っていったよ? 手を振って……」
「――――」
普通に、手を振って、バイバイ、と。
あまりにも普通過ぎる。
何の役にも立ちそうにない情報。
いや、そんなことよりも事の深刻さを増しているようにしか思えない。
普通に別れを告げて、帰ってこない。
何が、いったい何があったというのだろうか。
「――ユィディは?」
「ぁ……」
ノヴァの弁明の時、語尾に至るにつれ弱まっていく語調からも感付いていたが、時間はおそらく終わりが近い。
眉尻を下げて不安がるノヴァ。
流石にノヴァでも、ここまで問えば察せられる。
「すまねぇ、最後まで隠し通そうとは思ってたんだけど、さすがに無理だったわな。……ユィディは帰ってきていない」
瞬間、その場が沈痛な静けさに包囲される。
驚愕に喚くこともなく、ただ暗闇に落ちたような雰囲気が漂う。
皆、ニールが弁明する前から分かっていたのだ、ユィディがいないことを。
項垂れるノヴァ。
本能的に彼女から目を背けたくなったのか、ヒネリカはそっぽを向いている。
隣に佇むフィネを窺うと、どこか真摯な眼差しでこちらを見ている。
「ノヴァ、心配するんじゃねぇよ。俺が必ず探し出すからさ……案外村のどっかで散歩でもしてんじゃねぇの?」
下手糞な理論を並べるが、ノヴァの表情は勿論晴れることはない。
笑みの消えた、憂鬱の闇に落ちた眼。
――ニールは、これを恐れていた。
これが起源になるかもしれない。
公園の樹木に描かれた二人の笑顔の崩壊。
そんな悲惨の起源が、己によるものになることを恐れていた。
その恐怖が、現実となって眼前に形作られているように見えてしまう。
ここから先の、凶兆となりうるものを感じ取ってしまう。