1:1 『一部屋学校での話題』
とある村の、古びた教室の中。
「お兄ちゃん、分かんな~い! 教えて~!」
「あ、私も教えて欲しいな」
無数の子供達の話声が広間を賑わう中、後ろの方で発せられた妹の要請の声が鼓膜に届いた。
聞き親しんだ声に気付いた黒髪の少年――ニール・アナトラはその青紫色の瞳に声の持ち主である妹の姿を瞬時を捕えた。
窓から入ってくる斜光が妹の赤髪に光沢をつける。
口をぽかんと開け、まったく困った様子を見せない妹。
その隣に、もう一人の少女が目に入る。
その少女も、妹とは対照的に困惑の眼差しを薄緑色の瞳に宿してこちらを見ている。
子供達の前で呆然と佇んでいたニールに視線を送る二人の少女は親友関係にある。
外で妹を見かけるときは必ず一緒にいると言っていい。
「算数苦手だよなぁ、二人とも」
しょうがないなぁと心の中で呟くが、これは自分の仕事だからしょうがないなど言える立場ではないじゃないかと自嘲する。
二人の少女へ赴く間、別の子供にも同じことを教えている女性の後ろを通過する。
その女性こそが、子供達の実の先生――ヒネリカ・マッキナ。
ニールの仕事はヒネリカ先生の補助人と言ったものだ。
仕事と言っても、給料はほとんど貰っていないため、趣味と言った方が的確かもしれない。
あくまでも、給料が貰えていないのはヒネリカ先生が悪辣だからではない。
むしろ、金に余裕があるときは少し分けてくれるほどだ。
給料が入ってこないのは、そもそも村が貧困であるからだ。
趣味で先生の手伝いをする子供にお金を分けてやれる余裕はないとのこと。
そんなニールにヒネリカ先生は、「いつもありがとね?」やら「いつもごめんね?」やら、感謝と謝罪を向けられる日々である。
「役に立ってるならそれで十分だよ」とは、ニールの口癖になりつつある言葉。
貨幣が返ってこないのに何故先生の手伝いに励むのか。
一つ、ヒネリカ先生は妹の親友の母であること。
一つ、朝起きて貧乏な家の手伝いをした後、昼間に暇を持て余すこと。
そして何より、ヒネリカ先生の下で教授を受けていたニールは、二十人ほどいる村の子供達の教育を一人で勤めていた先生の大変さが見えていたからだ。
「よーし、どこが分からねぇんだ? ユィディ」
床に座る子供の群れを縫うようにして抜けたニールは、最奥にいる人物――我が妹である、ユィディ・アナトラがいるところまで来ると、彼女の要件を尋ねていた。
「割り算分からな~い」
「割り算の何がわかんねぇんだよ。何が分からないのか言ってくれんと教える側も困るんだが」
「全部~」
「はぁ……」
「ごめんねニール、私も教えて欲しい」
「――――」
古びた天井を仰ぐ形で、全て投げ出した態度をとるユィディに溜息をつくニール。
更には傍らにいる親友の要請も重なり、ニールは呆れた顔をする。
「はぁぁ、しょおがねっ! 割り算するぞぉ」
自分に難問が出題されていることを覚悟し、割り算を教えることに身を投げた。
~
「はい、そこまでー。用紙を集めるわよー」
「あ」
「も~分かんな~い」
ニールが二人に割り算を教えている途中、ヒネリカ先生の声で終了の合図が出てしまった。
割り算の方は……うまくいったとは言えないかな。
自分では分かりやすく教えているつもりだが、ユィディはなかなか理解をしてくれなかった。
「よしよしっ、私はできそう。もう少し練習したら一人でもできるようになると思う。ありがと、ニール」
「も~なんでノヴァは分かるのよ~!」
しかし、ユィディの傍らに座る彼女の親友――ノヴァ・マッキナは愚かな我が妹とは違って優秀だった。
教えるのが容易だったとは言わないが、一押しすればできる子なのだろう。
全く理解してくれないユィディに呆れていたニールの支えにもなっていたものだ。
才能に恵まれていなくても、それを怠惰の言い訳としない人物に育つであろうことは、彼女の言い回しからも読み取れた。
終わりのタイミングを惜しみながら、ニールは少女二人の用紙と鉛筆を回収、他数名の子供達の用紙も兼ねてヒネリカ先生のものに重ねに行った。
「はーい、今日はここまでー。良い一日をー」
終わりの合図が出せれた途端、広間の雰囲気が一転して――いや、既に騒がしかった空間の雰囲気の変化は著しいものではなかったが、無秩序に立ち上がる子供達は外へ繋がる扉を次々と出て行く。
「プロヴァの奴に気を付けろよ、ユィディ」
最後に出ることになったユィディとノヴァへ見送りに行ったニールは、ユィディにそう忠告した。
「うん、プロヴァのお誘いには絶対付き添わな~い!」
ニールの忠告にユィディは満面の笑顔で答えた。
「そうそう、絶対ぇあのクソ野郎に付き添うんじゃねぇぞ?」
「大丈夫、兄さんがまたユィディを連れ去ろうなんて真似をしたら、私がお説教してやるから」
「ああ、そうしてやってくれ。フハハ」
妹の承諾を聞き付け再度訴えたニールに、今度は右手側にいるノヴァが口を挟んだ。
プロヴァが情けなく叱られているところを想像すると、思わず笑ってしまう。
プロヴァとはノヴァの兄の名前である。
ニールとしては彼は嫌悪にあたる存在だ。
それはなぜか、プロヴァはユィディに恋心を持っているからだ。
本来は、ユィディに恋心を持っている男の子がいてもニールは構わない。
しかし、プロヴァは駄目だ。
問題は年齢の差にある。
九歳である妹に十六歳の男を一緒にするのは勘弁だ。
不憫な少女に対する己の恋心を謹んで手を出さないでくれればまだ許せるのだが、プロヴァはそうはしない。
要するに、幼女好きだ。
プロヴァがいつユィディを狙うのか分からないため、ニールは頻りにユィディへ注意を配るようにと忠告しているのだ。
注意を配ると言っても、断れば即座に去ってくれるような青年ではあるが。
「ただ、ここ数日プロヴァは失態を晒してなくないか? 最近どうなん? もしかして、遂に諦めてくれたのか!?」
「確かに、最後襲われたのいつだっけな~」
ユィディから悪報が来ない日が続いていることを思い出したニールはその希望に縋りつく。
「いえ、兄さんは諦めてはいないよ……残念ながら」
「そうか、諦めねぇよな、あのクズ」
俯いて本当に兄のことを残念そうに思うノヴァの発言がニールの希望を蹴飛ばした。
プロヴァを制することには、勿論ユィディもノヴァも賛同している。
兄のことをクズ野郎などと呼ばれても何も言い返さないノヴァは、共感というより慣れからくるものだろうか。
ノヴァも家族に対する愛には欠けていない。
ニールも、ノヴァの家族に対する愛は尊重する……尊重した上での罵倒だ。
「それじゃあ、また上でな。良い一日をぅ」
「じゃあね~」
「良い一日を!」
そろそろ頃合いかということで、ニールは歩み出す少女二人に手を振った。
彼女たちも大きく手を振ってくれる。
「――プロヴァとの仲はどうにかできないのかな」
二人の少女に手を振り終えると、背後から女性の声が投じられる。
見れば、古びた机に向かっていつものように授業後の作業をしているヒネリカの姿があった。
彼女は机に置いた資料に目線を落としたまま、ニールにそう切り出した。
「無理だな。あいつがユィディを諦めることはないだろうし、俺の妹の損害になっている限りは」
ニールはフンッと鼻で笑うと、辛辣な言葉をノヴァとプロヴァの母であるヒネリカに言い渡した。
「あなたが家族とこの村に来た時、まだ幼かったプロヴァにいい友達ができるかもしれないと思ったわ。それが、こんな結果だとは残念ね」
ヒネリカが淡々と話している間、ニールは広間の隅にあった小椅子を持ってヒネリカと相対に座る形で机の前に置いた。
「幼女好きじゃなかったら良かったんだろうけどなぁ。普通に話せてた頃も性格はよかったと思うし」
「幼女好きなのは仕方のないことではないかな? 本人に聞いてみても、自分が幼女好きであることに誇りを思っているようではなかったし」
「あいつ、悪いっていうのは自覚してるんだけどなぁ、悪いってわかってんなら少しぐらい我慢しろよ……」
椅子に腰を落とし、自分用に整然と重ねられた用紙を胸前に引き寄せる。
用紙は今日の授業に用いた子供達のものだ。
汚い字、奇麗な字。小さな字、大きな字と様々だ。
計算の丸付け、修正、一言などを黒色の鉛筆で書き記す。
木材の匂いが漂う古い一室の中、窓から差し込む日の光を頼りに、ニールとヒネリカは授業後の作業に励む。
「……なんかさ、この紙いつものより白くないか?」
と、作業に入った途端に違和感に気づいたニールがヒネリカの同意を求める。
「そうね、この紙は今日の早朝に『隣町』が支給品と一緒に持ってきたものだから、紙の製造法を更新したものなのかもしれないね」
ニールの疑問を肯定したヒネリカは、納得のいく可能性を説明してくれた。
『隣町』とは、ニール達の住む村――マカリ村の近くにある町のことである。
距離は近いと言っても、歴史において両端の町村が誕生した当時からの知り合いであったわけではない。
二百年ほどあると言われているマカリ村の歴史上、『隣町』がこの貧相な村を見つけたのは五十年ほど前のことだ。
間の百五十年間、二つの町村が巡り合わなかったのは、それら二つを縦断する『崖川』が原因だった。
流れる先は果てしなく、深々と大地を削り、渡り切れない二つの崖を彫像した川は『崖川』と称呼されていた。
貧弱なマカリ村はいわずもがな、まだ技術の発展が遅れていた頃の『隣町』に『崖川』を越える方法はなかった。
しかし、それは五十年前までのことだ。
頑丈な弓と紐を利用して、『崖川』を跨ぐ二つの樹木に紐の両端突き刺し、危惧に侵されながらも『隣町』の冒険家たちは『崖川』を渡り切ることに成功したのだ。
それから、今よりも貧相なマカリ村と、村を『隣町』の支配下に置くことを条件とした契約を立て、『崖川』を渡るための橋を造るまで至った。
木橋の建設や契約の成立により、二つの町村を引き離していた『崖川』という名の隔たりが消失され、月に一回、『隣町』からマカリ村へ支給品が贈られるようになっていた。
こうして村の子供達に教育を施していられるのも、『隣町』のお陰である。
そして、ヒネリカ曰く、今日が支給品提供の日で、時間は早朝だったそうだ。
「ふぅん、今日だったんか。……ん?いや、今日だったよな……早朝? 待てよ、俺がここに来るとき『隣町』の派遣者たちを見かけたんだけど、見間違いだったりするんかな?」
何かが合致しないことに気付いたニールは再び疑問を浮かべる。
ニールが先生の手伝いをしに学校へ来るのは正午の時間帯だ。
今日も同じ時間に家を出たのだが、道の途中で明白にこの村とは異なる風潮の服装を着こなし、大きな木箱を背負った三人組を眼のあたりにしていた。
マカリ村の長と対話していた様子の彼らが『隣町』の派遣者であることをすぐに察したが、その時間帯が今のヒネリカの説明と噛み合わない。
ヒネリカが説明したように早朝に事が動いていたのであれば、ニールが家を出る頃にはとっくに村を発っていた筈だ。
彼らはいつも用を足せばすぐに帰っていたのだが、何か珍事でもあったのだろうか。
「見間違いではないと思うわ。今日はあと少しここに残るようなの」
「それは、何故に?」
「ここに来る際に、『川越』で赤爪熊と遭遇したらしくて……」
「――赤爪熊と遭遇!?」
ヒネリカが事情を説明し始めようとした一文目でニールは驚愕の声を上げていた。
マカリ村を囲む森に草食動物は多いが、危険生物との遭遇を耳にすることはほとんどない。
『川越』に出現したとのことで、マカリ村に危険が及ぶことはないが。
それは、己の体重を弁えている重量の動物は『崖川』を跨ぐ木橋を渡ろうとしないからだ。
木版の薄い橋を見て、乗ってはいけないと本能的に悟るのだろう。
それを説明してニールを落ち着かせたヒネリカは話を続ける。
「その時はどうにか逃げ切れたみたいだけど、帰りにまた襲われる危険があるから『狩団』が対処できるまでここに残っているらしいの」
「『狩団』か……それって、フィネも行ってるんだよね?」
ヒネリカの語る『狩団』とは、村の中で狩猟を行う者の中でも特に冴えた者達を数人集めた団体のことを言う。
狩猟を主とするが、村長と並んで村をまとめる役割なども果たしている。
ニールは、その団体の中で最初に頭に浮かんだ人物を尋ねていた。
「いえ、夫は行ってないわ。行ってないというより、行けないわね。彼の愛武器である弓が最近損傷しちゃって、それで同伴を阻止されたの」
「あ、そういえばそうだったな。フィネも大変だろうな」
「ええ。でも、あの方は笑顔を忘れない、頼もしい男ですわ」
そんな優しい声音を教室に飽和させながら、二人は作業の終盤に取り掛かっていた。