『発端』
――即今、世界は燃焼による終焉を迎えようとしている。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
走る、走る、走る。
太陽の沈んだ夜空の下、炎の海と化した森の中を、何かから逃げるように駆け走っている。
熱い。
肌が、眼が、心臓が、熱い。
意識までもが途方もない灼熱に侵されている。
それでも、走る。
走れと言われたから、走る。
倒れ落ちる樹木を飛び越えて、蠢く炎に身を投じて、無性に走り続ける。
走っている理由は、もはや覚えていない。
何故世界が燃えているのかすら思い出す暇もない。
意識は、後ろを振り向くなとの命令に従うことに全霊を注いでいる。
速く、速く、速く。
思い出したくない。
走っている理由なんて、きっと惨酷なものに他ならない。
ただ、速く。
速く走らなければならない。
「――くはっ!?」
――一定のリズムを保っていた逃走が途切れた。
足を踏み外し、顔から地面へ転び落ちる。
頭蓋骨を勢いよく地面に強打したものの、痛みは、ない。
既に体中が痛覚に支配されていたのもあるが、痛みに気が付いていないのだ。
体の痛覚より、遥かに『痛い』ものが心を掴んで離してくれない。
本能では、分かっている。
思い出せない記憶は、実は鮮明に惨酷な記憶として残されており、想起されることを本能的に拒絶しているだけに過ぎない。
――突如現れた黒竜の脅威。
――燃え上る建物の数々。
――死に物狂いで逃げ惑う人々。
それら全てが、精神への痛みを伴う惨酷な記憶として、心を掴んで離してくれない。
――走らなければ、ならない。
溢れ出そうになる涙を我慢し、起き上がろうと地面に手を付き、視線を正面へ向ける。
「――――」
正面。
――そこに、一つの影があった。
影とは何か、分からない。
赤き炎に埋め尽くされた視界の中心に、明らかに周囲の物と異なる威容を放つ何かが存在する。
地面から立ち上がれないまま唖然とすること数秒間。
意を決し、未知の影に近寄ろうと試みる。
緩慢とした動きで、再び地に足を付けた。
近付く影。
刻一刻と、その姿を判然としたものへ変化してゆく。
「――花?」
眼前まで歩み寄ると、それは美しい花だった。
遠くから花であると気付けなかったのは、その美しい花も周りと同様に燃焼されているからだ。
だた、周りの世界から隔絶した確たる威容を放っている。
空間を自由に泳ぐように錯綜した無数の茎。
それらから生えた安らぎの葉々。
炎に侵されながらも毅然と開かれた花弁は、見る者を放心させる美容を孕んでいた。
「――えっ!?」
そんな花に見惚れていると、――背筋に何かが触れる感覚を味わった。
慌てて後ろを振り向くも、遅い。
背後へ巡らせられたのは首だけ。
体は、もう動かせられない。
接触の正体を視認できないまま、――前方、花の方へ体がゆっくりと押され始める。
優しく、決して『強制的』とは言えない謎の力に、抗おうとはしなかった。
――美しき花を、再び見てしまったからだ。
「――――」
いる。
花は、そこにいる。
感情を持っている。
そんな花に、希望が宿るのが見えた。
徐々に接近する自分を、燃える花弁が歓迎しているように見えた。
そして、――胴体に無数の茎が括られてあることに気が付く。
背中を押す謎の力は、眼前にある花のものだった。
茎と言う名の腕に抱かれ、引き寄せられていたのだ。
徐々に減少する花との間隔。
本来ならば、容易に解けられる束縛に抗った方が良かったであろう。
しかし、そんな行為は取れなかった。
何も考えることができない。
優しくて、暖かい。
引き寄せる無数の茎は、自分を捕らえているのではなく、進むべき道を教えてくれているように思えた。
これでいいと、何故かそう思えてしまった。
「――――」
――手の届く位置に、花はいる。
お互いを見据えているような錯覚を味わう。
灼熱に燃え上る地獄の中、心は落ち着いてしまっていた。
苦悶に縛られながら疾走してきた自分に、安寧を与えてくれた気がした。
この花が、自分を助けてくれる。
この花が、地獄と化した世界から自分を解放してくれる。
この花に縋りたいと、何故そう思えてしまうのだろうか。
無意識の内に、右手が花弁に触れようとしていた。
「……………………」
――指先が花弁に触れた瞬間、意識が、ブレた。
歪む視界。
遠くなる森の轟音。
薄くなる感情。
意識が途絶える感覚は、不快ではなかった。
もう、死んでもいいのかもしれない。
生き延びたところで、全てが終わってしまう世界に残されたものはもうない。
安寧に包んでくれる花の中に溶け込んで、それで終わってしまえばいい。
「――――――――――――――――あぁ……」
――仰向けの視界に、三つの光が見えた。
三つの光は世界を支配するかの如く、夜空の果てに威容の輝きを放っている。
ここからでは眩い白光にしか見えないそれらは――、
――『勇』を司る輝き。
――『忍』を司る輝き。
――『愛』を司る輝き。
威容を放つそれらは、神と呼ばれる。
そして、三つの光はやがて、その輝きを夜空一杯に拡張させていた。
意識の灯が捉えたのはそれが最後。
燃え焦げる世界から逃れたことに幸福を抱いたまま。
――『魂』の最後の一滴が、花に吸い取られた。