車窓と影武者
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ふー、ようやく到着、と。
今日はばかに道が混んでいたと思わねえか? 結構、あっちゃこっちゃ工事していたもんな。相互通行を心がけたら、こんなもんか。
年度末は、あちらこちらで大忙しだ。何かと節目になるしな。この車もぼちぼち車検を通さなきゃいけない時期だ。長く乗っているし、そろそろ変え時かな。
つぶらやはこっちに出てきてから、久しく車は運転してねえって話だったっけ? 運転するの、そろそろ危なっかしいと思い出してきたか?
車も乗り慣れるとなんてことないが、物量のある鉄の塊には違いないからな。人の命もたやすく奪いうる品だ。形は違えど、人の血を吸う刀と同じような存在になれる。事故車をめぐって色々な話が出てくるのも、そういったつながりがあるゆえかもしれないな。
で、俺自身もむかし、親に車に乗せられていたとき、ちょいと不思議な体験をしたことがあるんだ。そのときの話、聞いてみないか?
俺が小さい頃、習い事をしていたことは話したっけな? 兄弟そろって同じところに通っていてさ。行き帰りは親の車に乗せてもらっていた。
いつもは母親が迎えに来てくれるんだが、3割ぐらいの確率で父親が来る。そのときには途中でコンビニに寄ってくれてさ。好きなお菓子や飲み物とか買ってくれるから、かなり楽しみにしていた。「お母さんにはナイショだぞ」ってフレーズも、俺たちにとってはものすごくドキドキしたな。
家まで最短距離を通る母親と違って、父親は寄り道もときどきしてくれる。おかげさんで幼い俺たちは、地元の景色とルートについてある程度の知識を得ることもできた。
父親は顔が広くて、短い運転時間の間でまれに、知り合いの車とすれ違う機会もあったっけ。
「お、上原先生のとこだな」
その日も父親の知り合いらしき人の車とすれ違う。
黄色いコンパクトカーだった。お互いの車線が詰まっていたこともあり、俺たちはドア越しに向き合う形で停まっちゃったんだ。
父親は前を向いたままだが、俺と弟がふと横を見て、思わず目をみはっちゃったよ。
後部座席のウインドウに、「ごん、ごん」と頭をぶつけている子がいる。
当時の俺より少し上かな、という年頃のその男の子は、居眠り一歩手前といえそうなのっぺりした顔を、ドアウインドウに何度も押し当てているんだ。もちろん、ガラスに張りつくたびに顔の皮がおかしな方向に広がって、俺たちにはよけい気味悪く思える。
やがて車が動き出すも、後ろにいる子は一向に動きを止めようとしない。ぐんぐん離れていく車の後ろ姿を、俺と弟は目で追い続けていたよ。
怖いもの嫌いな弟は、忘れようと必死そうだった。俺が話を蒸し返そうとすると、殴る蹴るで暴れてくるから、諦めざるを得ない。代わりに、後で父親に尋ねてみたんだ。
上原先生にお子さんはいるのか、って。すると父親はこういった。
上原先生はこの年になるまで独身のはずだ、とさ。
いないはずの子供が車の後部座席に。それもしきりに窓へ頭をぶつけている。
翌日、俺が学校のクラスでばらまいたその話は、ちょっとだけみんなの間で騒がれた。このころの男子は、衛生観念とか薄い奴が多いからなあ。
「再現VTR」なんていいながら、学校の後ろの窓に頭をがんがんぶつけていたっけ。話の通り、変顔をしながら顔をくっつけてさ。ベランダ側からそれを見て、大笑いするなんてこともした。
俺自身も、自分のネタでみんなが盛り上がってくれるのが楽しくてさ。ちょいと不気味だったけど、あの時の子には感謝したかったくらいだったよ。
それから数週間が経つ。
また習いごとの帰りの車の中で、俺たちはまた上原先生の車に出くわした。今回は母親が運転している。
厳密にはよく似た車だな。ナンバープレートが違う。でも色や形はそっくりで、俺たちはこういう車を見つけると「影武者」って呼んでいた。ちょうど忍者ものの特撮シリーズを見ていて、この手の言葉を覚え始めた時期だったのも大きい。
「よく、こんなに出会うなあ」と遠目にぼんやり眺めていたんだけど、急に前方の車のブレーキランプが灯る。
急制動と共に、対向車線も同じように減速。またしても俺たちはドア越しに隣り合うようになった。
車が完全に止まる前から、俺たちはすでに耳にしている。あの「ごん、ごん」と頭をガラスに打ち付ける音を。
今回、相手の車に近い座席は俺が座っていた。弟はもうおっかなびっくりで、反対側の座席のドアへ、半ば倒れ込んで見えないようにしていたよ。
俺はじっと相手の方をにらんだ。先日、見たのにそっくりの、顔を中途半端に開けたいかにも眠たげな顔のまま、何度もガラスに押しつけられ続ける。
他に誰が後部座席に乗っているかは分からない。暗いし、押しつけられる顔がうまいこと塞いで、ウインドウの奥が見えなくなっている。
ほどなく俺たちの車が発進、影武者からの距離がぐんぐん空いていく。先ほどまでの混み具合がウソのような、道のすきっぷりだったよ。
母親は運転するとき、余計なことに気を散らさない人だ。あとで俺が件のことを尋ねた際には、きょとんとしていた。
俺のクラスでは、とっくに「再現VTR」の旬は過ぎ、もうその手の真似をする輩はいない。
だが、俺はそれからも何度か「影武者」の車体を目にした。妙なことに、車に乗っていて道が詰まるときだけ、影武者を目にする機会があったんだ。
決まって対向車線に現れるその車は、ナンバープレートもドライバーも毎回違う。そして後部座席の異変については、誰も気がついていないらしかった。
弟がいない時にも現れるそいつらの正体を、俺は測りかねていたよ。
「ら」というのは、ガラスに押しつけられる奴らは、毎回違う人間だったからだ。いずれも不細工に歪んでしまうから、男か女かの区別がつかない。けれどいずれも目を細め、口を半開きにする顔つきは共通だ。
そちらを見ようと見まいと、音だけは響く。俺の耳の奥まで。
頻度も増してくる中、俺は無視するように努め出していたよ。
そしてたまたま弟が習い事を休んで、俺だけが向かった日の帰り。
迎えに来てくれたのは父親だったけど、その日は買い物をしないまま車を走らせていく。そしていつぞや、上原先生の車を見かけた道へ差し掛かった。前の車もブレーキランプを照らし、渋滞の気配をかもし出すのもまた同じ。
――来るか……!
気にしないように、気にしないようにとは思っても、視界はちらちらと対向車線を向いてしまう。あの黄色い車が姿を現わしやしないかと。
父親からの話に適当にあいづちを打ちつつ、俺は車が動くのを待つ。けれど、その顔がふと窓の方へひとりでに寄っていった。
叩きつけられた。どん、と大きな音を立てて、もろにウインドウへ。
事態を理解できるまま、ぐいと後頭部の髪をひっぱられ、またどん。思わず顔を歪ませてしまい、うめき声が漏れたが、父親は何も反応を示してくれない。
更に三度、四度と同じように叩きつけられる。口も鼻も潰れよとばかりの強い力で、水責めを食らっているかのようだ。まともに息ができない。力も強くてまともに抗えない俺だったが、正面の景色は分かる。
俺のほうを見て、驚いた表情を浮かばせる兄弟が、向かいの車の後部座席に座っている。あっけに取られ、かといって途中で視線を逸らさないその顔は、あのときの俺たちと同じだ。
もしや、と俺は叩きつけられる拍子に、どうにか窓の外を見下ろしてみる。俺の乗っている車は、元の白さを失って、黄色に染まっていたんだ。あの日に見た上原先生のものと、同じようにさ。
10回前後、ウインドウとディープキスしただろうか。
車が動き出すと、俺を拘束していた力はぱっと消える。ふらふらと俺が座席に倒れ込んでから、ようやく父親は「大丈夫か?」と声を掛けてくる始末。
不思議と顔に痛みは残っていなかった。さんざん顔と一緒に、俺の鼻息をあてられたであろうドアウインドウも同じ。曇りのひとつもない。
ひとまず、父親を心配させない返事をするしかなかったよ。
この奇妙な体験は一度きりだったが、数日後の学校からの帰り道。
俺は中古車店に、あの上原先生の車が売られているのを見た。ナンバープレートはその店の売り物であるプレートに差し替えられ、フロントガラスの向こうには値札が貼られていたよ。周りの車と比べたらそれほど高値ではなかったけど、それでも小学生の俺には、お年玉を総動員しても追っつかないほどの金額だったさ。
ひょっとして、あの車。近いうちに売りに出されるのを、自分で知っていたんじゃないのか。下手すりゃ二度と誰にも乗られず、闇に消えていくしかないから、あんな風に「影武者」を増やして、自分の存在を刻もうとしたんじゃないのか。
俺は今でも、ときどきそんなことを考えているんだ。