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石英の瞳  作者: 木村要
1/5

獣と鳥

 マグネトロンを応用した強烈なマイクロ波によって人の頭を錯乱させる電磁波兵器は各国の秘密裏の協定によって“核”の暗号で呼ばれ、製造・使用・研究を禁じられた。が、中東の紛争地域でその使用の形跡が認められ、不可解な事件が多発していることから流出が疑われ、CIAのエージェントとして活動していた彼は、同じく軍事訓練を受けていた数名の部下とともに調査部隊として現地に送り込まれる。

 上司の命令によって軍事訓練の傍ら医学書に埋もれMITで量子物理学を修めたエリートである彼は、空爆を避けモスクに避難している女子供、老人たちが突然錯乱し互いにナイフや銃を向ける現場に何度も遭遇してきた。そして兵器の射程範囲に入り、攻撃を受け、同士討ちを始める部下……いつ自分の受け取っている情報が、世界が狂って錯乱するかわからない、そんな状況でも常に部下を励まし闘いつづけた。しかしいくら密輸ルートを叩いても事件は収束の気配を見せない。

「俺は誰だろうと一瞬で苦しませずに殺せる。ジム、アームチェアでのうのうとしているお前が想像もできないような汚いこともやってきた。下らない能書きはいいんだ、正確な情報と指示をくれ」

 そのうち、電磁波兵器の指示の発信源が本国にあるらしいこと、密輸組織の人間が残した通信記録、収集した様々な形跡から、彼はCIAそのものが兵器を流出させているのではないかと疑いはじめた。そして命令を中断させて本国に帰還する。MIT時代から犬猿の仲であり今は直接の上司として指示を出していたジムと直接対峙、問い詰められたジムは白状する。

「僕らはラジエルの樹(シミュレート用のスパコン)で未来を見たんだ……あれが流出し、世界が大混乱に陥る未来をね。どんなに徹底的に管理しても誰か一人の不用意な好奇心や悪意で破滅は訪れる。だから起こりうる経過を全て知るために箱庭の中で実測データを集めなければならない。あの地の誰を犠牲にしようとも。……これが僕らの正義なんだ、君は理解しなくてもね」

「……ふざけるなよ、それで俺が反乱を起こす可能性も測ってたってわけか? 俺はお前たちには従わない。今まで実際に闘ってきたのは俺だ、お前じゃない」

 そして彼は紛争地域に戻り、改宗して今まで救ってきた女たちを娶り、アラーに祝福されたムジャヒディンとして闘いつづけ、苦しみに喘ぐ第三世界の人々とともに歩むことを選んだ。



     *



 ――去にし幼き夏の日、戦火の地にあって友と談笑するいつかの自分、取り戻せない、懐かしい、鈍く差すような痛み。目が覚めて誰もいないことに気付く夢見の悪さに目を覆うのと、この錆びたコンパスを失ってしまうのと、私にとってはどちらがマシだろうか?

 面影をはかなむ心をあざ笑い、季節はめぐりつづけた。乾いた空に手を伸ばせば、夜よ、今はその果てを知らない暗さがこの胸に棲む星たちをざわつかせる。透徹した視界とどこまでも落ちていくような目眩に冬の訪れよりも一足はやく降りた霜は心を震わせ、それはいつか私の身体が塵に還るとき、墓標の前へ置き去りにしてきた私の魂もまたあの人の許へ帰るのだということをどうしようもなく思い起こさせる。月のない朔の夜。眠りに落ちた間も星は運ばれ、その相の差が、失われた時のそう短くはないことを教えていた。

 炎が呼ぶ。彼らが近いことを警告している。脳裏に術式をちらつかせながら、後ろ手に体重を預け、やおら腰から立ち上がる。胸の奥に意識を延ばし、そびえ立つ暗い水晶の鏡に手を触れて、広がる波紋の向こうに“従者”の姿を求めた。銀の鱗におおわれた流線形の体躯の内に、瞬きもせぬ星の座を住まわせた龍。闇の色と同化する腹部の、どこまでも澄み渡る銀漢の間から、瞳を模した対の金星が私を覗き込む。

「銀漢――おまえには何が見える?」

 再生されていく世界の記憶。灰色の摩天楼の幻影。地を擦り砂塵を舞わせてコートの裾を払う風の中に、人々のざわめきと、ぬるく血錆びた臭気が混じった。星の光を欺くきらびやかな人工灯に飾られた街と、黒煙にいぶされ朱くただれた空が、先刻まで立っていたむき出しの原野を背景の奥に退かせる。見渡す限り車も人もすべてが進めの色になった信号機、意味不明の文字を垂れ流す電光掲示板、交通管制が完全に麻痺した大通りで、玉突き事故を起こした車のそばに立って言い争いをし、あるいは血まみれになったまま応急処置すらされずに放置され、あるいはつながらない電話に苛立つ人々。

(ああ、これは――これはまだ“最後の日”じゃない)

 量子転送技術が医学に精通したテロリストの手に落ち、原理的に自然死と見分けがつかない暗殺が横行する前。軍や医療現場に浸透した人間とそっくりの生体素材に搭載された人工知能へのハッキング、声帯や虹彩や指紋に至るまで個人をコピーした機械とその本人のすり替えが問題になっていた頃。めんどくさいからといってありもしない財政問題を建前にしてさんざ予算を削りセキュリティ面を整える人間を育てなかったツケだ、それはそれとしても脳神経回路の構造パターンを個人認証に使えばいい、(個人史を持っているか尋問する)チューリング・テストなんてまどろっこしいことしなくたって細胞核に遺伝子があるかないか調べればヒューマノイドと人間の区別なんて付くんだよ!と上司に食ってかかったことをふと思い出す。

 人間としての青年時代を過ごした風景を懐かしむように目を細めていると、突然ばぁんと何かが爆ぜる音がし、ガラス片とともに金属の枠がはじけ飛んでくるのを反射的にコートの裾をひるがえらせ顔を覆いながらかわす。やや遅れて右手を見ると、百貨店らしきビルの内側から溢れでた首のない全身鎧の群れが照り返しの炎も鮮やかに列をなし、槍の穂先を揃えて迫ってくる。わけのわからない怪異に人々のざわめきが混乱と悲鳴に変わるのを横目に、気の利いた趣向だ、と皮肉が口を衝いて出た。

 右手を掲げ、意識を集中し、形成した軸を握り込んだ冷たい手応えがずしりとした質量を得ると、刃が白熱した光を放ったままの赤いハルバードで踏み込みの重さに任せて右舷から薙ぎ払い、叩き割ったがらんどうが派手な音を立てて転がるより早く左足を軸にして、逆手に持ち替えた長柄の回転に正面から左弦を巻き込んで引き倒す。絶対座標固定、空間指定、原初の相。前衛が崩れ後続がもたついたその隙に展開した術式を視認できるかぎりの広範囲に走らせる。彼我の接触面から半球状に構造を素粒子レベルで解体し、生じた余剰エネルギーを吸収していく。

 ――腕を引いて、五指の先に強く込められていた力を離し、ハルバードを空間から解放する。これは、幻であって幻ではない。サーカスの猛獣ショーを見るような視線が突き刺さるのを感じながら、無造作にコートのポケットに両手を突っ込んで、話しかけられる前に脇をすり抜けて歩き去る。ぽつりぽつりと等距離に輝くオレンジの灯と広葉樹の梢が重ねられたアーチをくぐり所々タイルが欠けて差し上がった自然公園までやってきて、ベンチを探し、手を頭の後ろで組んでどかりと背をもたせた。

 ――この時自分は何をしていたか。右手で顔を覆い、苦笑とともにかぶりを振る。ラジエルの樹への不正アクセスを行い、敵国に原子力発電所の設計図を渡し、CIA長官暗殺を計画したテロの首謀者として嫌疑をかけられて裁判の準備をしていた。自分はそんな歪んだ形で正義を表わさないといくら主張しても、記録は残っている、証拠はそろっているの一点張りで、軍の施設に移送はされなかったが自宅軟禁で尋問の日々だ。

 私は囮にされたわけだが――あのまま邪魔をされずに調査をつづけられていれば、人々の記憶を封印して世界を夢の中に閉ざす、などという選択はされなかったかもしれない。量子転送技術と“核”の組み合わせは本物の悪夢だった。情報の背景を書き換えられ見ている世界の意味が変わって人々が混乱と狂気に陥る一方で、隣に立っていた人間が突然咳きこみ頭を腫れあがらせてはじけ飛ぶ。しかし、どれほどの罪を犯そうと、探し出して裁きを下すべき彼らはもういない。自らも悪夢の中に自壊していったのだ。

 長い旅だ。かつての敵も友も遠い夢の中に置き去りにし、ゴールもわからずただ生き延びるために生きるように戦いつづけ、誰のために、とも思う。見上げれば凍えるような夜の星だけがあの時と変わらず、ただ、今となっては、鋭く対立していた文明の調和点を求めて三千世界を渉猟するシックザールだけが私の由来を覚えているし、理解できるのだということを強く感じた。


「先生――あなたは今、何を見ていますか。この世界にどんな答えを出しますか」



    1



「このままじゃ、みんな死んでしまう! 放せ、この……」

「お前が行ったところで誰も助けられない!」

 ちっ、とトーナは舌打ちをする。今にも飛び出さんとする腕をつかんでいたのと反対の手をその白い首に回して上腕と前腕で挟んでがっちりと絞め、抵抗などお構いなしに無理矢理意識を落とす。

「くそっ……なんで俺がこんなことを」

 岩陰にぐったりとした少年をそっと横たえ、彼はここが死地だと肚を決めて敵の許へと向かった。浅い草地では死角からの不意打ちなどとれない、だから力ずくの一息で決める、と駆けるリズムに合わせて跳ねる鞘を片手で支え、逆袈裟に斬り込んだ渾身の一撃が打ち下ろしによってはじかれる。骨に響く重い衝撃とともに台地に打ち込まれた刃を抜く暇はないと判断して、倒れ伏す兵士の手からこぼれ落ちていた剣をひったくって転がる。

 落とされた白刃が耳の横をかすめ、起き上がって間合いを取りながら確認すると、さいわい柄は血で濡れておらず、手の内から滑らせる危険なしに使えそうだった。

「――築くべき現実がもはや無いと知りながら、自分たちに未来が無いと知りながら、なぜその砂上に楼閣を建てようとするのか? お前たちが持てる者であるのは偉大な過去からのけちな遺産で食いつないできたからにすぎない。誰一人として守ることなく、見向きもしなかったそれがお前たちの生命線そのものだった。どうしてその矛盾に気づかない?」

「…………」

 歌うように戯言を口にしながら、心臓を握りつぶすほどの覇気で威圧する。これは、まずいものだ。戦ってはいけない相手だ。と本能が警告する。



 惨状。死体の山から流れ出す赤い川と、むせ返る錆びた鉄の臭い。燦々と照りつける太陽が、肌のうわべに熱気を閉じ込め、いやにつめたく不快な汗が額から頬に流れる。

「リアン……どうしてあんたは、オレにだけ優しいんだ? どうしてオレにだけ生きろって言うんだ? こんなに多くのものを犠牲にしなけりゃならないっていうなら、そうでなければ生きられない命だっていうなら、だったらオレは……そんなの、いらないよ」

 それだけを言うと少女は、もうどうしようもない、という顔をして、そっと自らの胸に右手を当て、――どむ、というわずかに腹に響く音を、心臓に向かう爆撃を放った。

 ごう、と一瞬の炎が中空に昇ってすぐに消える。

 びちゃり、と人の焦げる嫌なにおいを残して倒れたその正面の、えぐれた肉から血に染まった胸骨がむき出しになっている。

「ア、――アーティ!」

 折られた左腕の激痛にかまわず、いてもたってもいられず駆け寄ると、苦しげではあるが、まだ息がある。心臓はまぬかれているようだが、傷の深さがわからないので下手に抱き起して動かすこともできず、手の出しようがない。気管に入った血のかたまりを吐いてるんだ、と気づいた。まずい、まずい――と、頭の中で警報がわめいている。

 リアンはいわく言い難い表情をしてその様子を見つめていたが、静かに首を振ると、やがて背を向け自分が築いた屍の山を後にして去っていった。



「あいつは誰の助けも求めずに、全部一人で背負い込んでカタをつけようとしていた……だから、不安なんだ」

「不安?」

 どこか苦しげに青みがかった灰色のまなざしを細めて、ベッドに横たわる少女を見つめるトーナに、シックザールが聞き返した。ごちゃごちゃと商店の雑居する街の喧騒が、部屋の中の静寂にまで伝わってくる。隣接した建物の陰にさえぎられて陽のあまり差し込まない窓枠を背に、黒い毛並みの獣人は、自分の胸の中に鋭いものを吹き込むような調子で続けた。黒マントの男は彼の方を確かめもせずに、幼さの残る、しかし今は血の気の失せている白い横顔に視線を固定させたままである。

「俺は、守れなかった」

「…………」

「あんたが来なければ、俺も、あいつも、今頃どうなっていたかわからない。あんたが何者であれ、どういうつもりで俺達を助けたんであれ、そのことは感謝しているよ」

 この冷静な男は、ひどく慎重な態度を崩さないまま、警戒とは別のためらいを言葉の間に挟んだ。けど、とまるで近づきたくても近づけない何かがあるとでもいうように、苦み走った表情にさらに混迷の険しさを深め、心の奥底を縛る激情を解く糸口を探しながら、そのことごとくを潰しているような様子であった。

「……あんたがコヨーテと知り合いだとは思わなかったが、奴らはまだリアンを追いかけるんだろうな」

 黒マントの男――シックザールは答えない。しかし、それは当然だ。彼らがこの商業都市ガレリアを、そしてまた周辺領域の都市連邦経済圏の諸国を守ろうとする限り、リアンは明らかな脅威であるからだ。これまでに数えきれないほどの人間を手にかけ、傭兵仲間だった者たちを無惨に殺し、そしてこれからも死を撒き散らし続けるだろう彼を、トーナも庇う気はない。

 あの男は、人殺しという以外に呼びようがないのだ。

 放っておけばその分だけ、必ず誰かが犠牲になる。心のどこかでその肉親に対する情を――彼の良心を信じたい気持ちがないわけではないが、やはり自分にはアーティのようにリアンを信じることはできないと思った。

「ふむ……それで、君はどうする? かつて国に誓いを立てたように、今度はこの娘を守るために誓うのか?」

「俺はもう騎士じゃない。誓いだけじゃ何も守れやしないんだ。だが――ここであいつを見捨てるのは、たまらなく後味が悪い」

 瀕死の重傷を負っていたアーティの治療の場所を提供してくれたのはこのシックザールだ。今はフードをうしろによけているその顔からは、いかなる表情も読み取ることはできない。しかしおそらくはリアンから離れたことで、自分たちが脅威の対象から除外されたか、あるいは――アーティに、リアンを倒させるつもりなのか。

 シックザールとつながるコヨーテは、王室騎士団治安維持局ガレリア分室の最高責任者だ。彼が許可したのでなければ、トーナたちは市街の門をくぐることも許されなかっただろう。以前、噴水広場での爆破炎上騒ぎを起こした連れ合いの身としては、その件を一存でにぎり潰した彼の権力をまざまざと思い知るばかりである。そして、彼に許されたということは――すなわち、利用価値があると認められたということである。

 残酷な話だ、とトーナは思った。コヨーテは信頼に値する人物だが、同時に油断のならない相手でもある。トーナにできることは限られているが、いずれにせよ今の時点でアーティから離れることは、あいつを更なる危難にさらすことに等しい。兄妹で殺し合わせることだけは絶対にさせてはならないが、己の無能を嘆いてもどうにもならないというなら、いっそこちらから協力を申し出て、わずかでも主導権を握るほかない。

 平素はニヒル、傭兵の鑑のような情のない人でなし、そう仲間内で通っていた自分がどうしてここまで怒りにも似た苛立ちを抱くのか、自分でもわからない。それ以上にどうしてその感情を自分で引き受けようという気になっているのか。いずれにせよ思惑に乗ってなるものか、とトーナは思う。

「――くそっ」

 正攻法でやって、あの男に勝てるとは思えない。

 奴がどこにいるかは分かっている。ただ、あの圧倒的な力に対してどんな策を立てればいいかわからないから、誰も無理に攻め込まないだけで。コヨーテの情報網を使えば、大陸中に仕掛けられたヒューミントの罠が、たちどころに奴の居場所を上げてくる。利害関係の深い、政権に近い人間や財界の要人を篭絡するような罠を事前に察知して、回避する――あるいは、くわだてが暗渠にあるうちに、動き出す前に闇に葬る。もともとは、そういった志向の為に仕掛けられた網だ。今回ばかりは彼らの世話にならざるを得ない。

 この借りは高くつくだろうな、とトーナは思った。

 元首が、北方のニーズズ家の分派に過ぎない出自のこの商業都市が、古王国とイェルムンレク市――二つの強国に挟まれて絶対中立を保っていられるのはなぜか。それはひとえに、条例・政策に対するスムースな予算付けが行われるよう中央銀行と国債の制度を整えたことでの強大な経済力を背景にした、精強な王室騎士団と、それ以上に安定した取引を行える法制度を守る、治安維持局(要するに暗殺も行うスパイ網)の存在があるからだという。そんなものは軍事同盟を結びたい外国を呼び込むためのプロパガンダか裏商売を隠蔽するための隠れ蓑でしかないと、実際関わり合いになるまでは右から左に聞き流していた彼も、さすがにここまでくると否が応でもこの組織の強大さというものを思い知らされる。

「――リアンは、俺の手で始末する。コヨーテにそう伝えろ」

 彼の宣言を黙って見つめるシックザールのまなざしは、深く、鋭く、どこか底意の読み切れない異様な光を湛えている。それぞれの思惑の動くその中心で、嵐の予兆の中で、炎使いの少女は眠りつづけていた。



     2



 つけっぱなしにしていたラジオから流れてくる放送の中で、これからハリケーンが来るというので、私は風とりに開け放していた二重ロックの窓を閉め、同居人にも部屋の窓を閉じるように言った。上陸予定の時間にはまだ早いと言われたが、とにかくこれで街が大水に襲われても部屋の中には水が入らない。このまま大人しく待っていてもいいのだが、たしかに時間が余っていたので外を巡回してこようと思った。

 街には警報が発令され、商店の立ち並ぶ通りは準備のために買い物をする人たちでごった返していた。一昔前に比べて、通信手段の発達したこの街には災害対策の設備も運用制度も整えられており、にわかに色めき立つような雰囲気はあっても、人々は割合落ち着いて行動している。この種の出来事に慣れてきた、というのもあるが、予測技術が発達して時間的な余裕があるというのが一番大きい。

 私は店を閉めようとしていた花屋に適当なブーケアレンジを見繕ってくれと注文して、非常に怪訝な顔をされながら代金を支払い、白いマーガレットにユリというシンプルな花束を包んでもらってその場を後にした。

 そろそろ頃合いか、と私は人の流れを横切って、喧騒から離れ、赤く朱に塗られた巨大な門が石敷きの段々広場を見下ろしている神社の方へと向かった。一人の少女が避難に急ぐ人々の方に目もくれずに社殿の方に歩いていくのが見えた。持っていたペンライトで合図として取り決めていた信号を送り、私は彼女に声をかけ、一緒に社殿の奥へと足を踏み入れる。両脇に朱塗りの円柱が立ち並ぶ板張りの広間を抜けて、御神体の封じられている扉へと続くルートを進む。今この時、警報を無視して外に出ているのは私と彼女だけしかいないはずだ。神主たちもすでに引き払い、敷き詰められた玉砂利に石灯籠と飛び石が案内をする、手入れの行き届いた庭先の松が見える薄暗い縁側の路からやどに上がったときも、そこに人の姿はなかった。

 ――神獣の紋の刻まれた岩扉の前に立ち、右手を当てて開錠の言葉を唱える。その奥に続く狭く細い廊下を抜けると、そこには赤い棺のベッドに横たわる少女がいた。

「具合はいかがですか」

 黒髪の幼女ともいうべき少女は二人が来ると起き上がり、すっかり馴染みになった客人として迎えて「悪くはないわ」と返す。私が以前頼まれていた花束を手渡すと、それを受け取った彼女は、ありがとう、と微笑んだ。それは訳の分からない命令だったが、彼女のことであるから何か意味があるのだろう、そう思いながら本題を切り出そうとした。

「わかっているわ――星の護り人のことでしょう?」

「はい?」

「私は、彼をどうしようかずっと迷っていたの。やりすぎたわけではない、ただ自分の使命に忠実なだけ――だから時代との齟齬が生じた、本当は齟齬ではないのだけれどもね」

「は――齟齬、ですか」

「ヴォイド卿の双子がいたでしょう、あなたが選んで片割れに渡しなさい」

 そう言って彼女は手のひらを天に向けると、その直上の中空にぼうっ、と青白い霧が集まって実体をなし、金の房が垂れる黒塗りの鞘に覆われたその曲刀をはしとつかんで差し出した。私はそれを受け取り、式にのっとり恭しく頭を垂れた。

「御意に」

「ところで、あなたに見せたいものがあるの」

 ぱん、と彼女が両手を打ち合わせると、そこは自分がつい今しがたまで立っていたはずの薄暗い洞穴の中ではなく、人ひとりが住むとは思えない、神殿のように荘厳で、だだっ広い空間だった。部屋を埋め尽くす、無数の彫像、壁画、天井画……彼女にこの部屋をどう思うかと訊ねられて、私はその芸術品の数があまりにも多すぎることを口にした。明るい光の差し込んでくる部屋の中央に配されたグランドピアノに向かう少女を私はエルベと呼んでいたが、彼女の話によればこれは全て石にされた女たちで、彼女の一族の人々なのだという。代々の当主がこの部屋を継いで、石化の呪いを解く方法を探してきたらしいが、この部屋を見渡す限り、その始まりは気の遠くなるほど、それこそ何千年もの昔からの話なのではないかと思われる。少女の背負ったものを知って、私は少しだけ、彼女の心を理解できたような気がした。

「花束のお礼、と言ったらおかしいかしら。けれどあなたには知らせておくべきだと思ったから」

「エルベの使命を、ですか?」

「いいえ――そう、そうだけれど違うのよ」

「それは私が存じてもかまわないことでしょうか」

「今は伝えようがない、けれどその時が来ればあなたはかならず気づくわ」

「……はい」

 彼女の様子に、彼女らしからぬ感情のさざ波を見て取った私は、その時あなたはどうなっているのですか、という問いをのみこんだ。



 傷が癒えるなり行方をくらませたアーティを追って、王室騎士団治安維持局イェルムンレク支局大使であるナツメは、彼女が必ず旅の終わりに訪れるであろう神獣の紋の刻まれた岩扉の前に立ち、適当な岩に腰を下ろした。前時代の遺物である、地下千メートルに六基建造された核融合発電所のひとつへ続く封印であり、――マイナス百度の世界を廻りつづける八軌道四基ずつ、すなわち三十二基の衛星にエネルギーを供給する、この世界の秩序そのもの。その開けた森の高台によじ登って、今頃あの少女はどこにいるのだろう、と思う。

 少女の行く末について考えを巡らせていると、しばらくして、来た道の方から、身の丈二メートルはゆうに超えると思われる、人の肉を食らう鬼がやってくるのが見えた。このエネルギー場に惹かれて形成された、強力な魔物である。まともに戦えば勝てるかどうかわからない。ナツメは、いちかばちか、破魔の法を使って敵が崖を登りきる前に冥府に送り返すことにした。頭を踏みつけてオンの声を唱えると、それは断末魔の叫びをあげて黒い霧へと散った。

「一体倒しただけでこのエネルギー……さすがに、炉に近いだけはあるわね」

 これ以上ここに留まるのは危険と判断し、ナツメは増援を呼び寄せようと城壁内で待機している部下のロクトールに連絡を取った。しかし、その念話が何者かによって妨害され、すり替えられる。ロクトール側は、こちらは特に問題ないというナツメからの報告を受け、「わかりました。では、こちらも引き続き調査の続行を――」と、それが彼女自身の命令であるとまったく疑っていない。なんだこれは、と思ったが、こんな方法で連絡する人間は限られているし、おそらくは声までそっくり同じなのだ。

「まずいな……」

 目を閉じ、見えないネットワークを探って黙想していたナツメは、何者かが外部から割り込んで通信を書き換えている痕跡があることに気付いた。しかしそれは、発信者である自分だからわかることであって、「衛星サーバに割り込んでいる?」下手にこちらから連絡すれば、通信記録は整合性を保ったまま誤った情報が流れるかもしれない。

「頭が痛い、案件がまた一つ増えた」

 大幅な時間のロスではあるが直接出向くしかない。そうさっさと決断を下してしまって一度岩場を降りることにした。



     3



「……ダメだ、回り込まれた!」

 背後の深い森に、次々と火の手があがる。何者かが放った火が乾いた風に乗り、魔の者どもを遮るかがり火の護りすらのみこんで、彼らの生きるサバドの街とステップを、緑の大地を焼き尽くそうとしていた。持ち主の手を離れて叩き落とされる熱波が大地を破砕し、黒い土をえぐる。これ以上広げてはいけない。延焼を防げるだろうか。四方から緊張した声が通り抜けるが、そのどれもが今のアーティには遠いことのように感じられた。

 ――自分にしかできないことだ。

 体が熱い。鼓動のたびに、血の巡りが異質な何かを自分の中へ運んでいくのがわかる。よく見知った人間のいない、馴染んだ地でもない、しかしおそらくは自分にしかできないことだ。

「しまっ……」

 体勢を崩した男の脇をすり抜けて、一直線に、地走りのごとく炎が駆ける。虚空より振り払われた赤熱の刃が、闇の住人を引き裂く。視界を潰され、ぎちぎちと蠢く無数の脚。

「おまえたちは、ここにいちゃいけない」

 ――このまま跡形もなく、消し炭となれ。森の捕食者をとらえた腕が、熱を増す。“それ”は苦しみにもがきながら、やがて少年の手の中で完全に命の感触を絶たれた。

「…………」

 理に従い、熱量が霧散していく――ひとつの死は、その熱量を得んとする他の死をひきつける。瞳に映る、揺れ動くこの明かりがいずれ他の敵を呼び寄せるだろう。結界の呪を張り損ね、死を覚悟したはずのアガトは目の前の光景を信じられないという面持ちで見ていた。幾条もの爪痕を残し、いまだくすぶる遺骸を横目に、アーティは“次”を求めて木々の深みへと分け入った。

 走る、走る。この夕闇の隅々まで見渡せそうなほど、思考がクリアだ。風のざわめきに乗ってくる声の位置と、気配の把握。奴らが巣を作りはじめる前に叩き潰さなければならない。炎に隊伍を分断され、散り散りになった森の暗闘の全体図を、頭の中に描く。体が軽い。疾く、疾く、息ひとつ乱さずに駆けることができる。これまで感じたことがないほどに手足の自由が利く――まるで、周囲の世界が手足の延長になったみたいに。

 ――つがえた火矢を、隊伍を組んで張り詰めた弓が、第一列、第二列、と交互に魔物どもへと撃ちつける。アーティはその彼らが向かう、目測でとらえた捕食者の影に、ありったけの熱量を叩き込んだ。ほとんど弾丸のように突っ込んできたスピードと重なって、拳の一撃は鋼の刃を通さない甲殻をあっさりとひしゃげさせ、炭化させながら鈍重な巨躯を吹き飛ばし、群がり伸びた木々の幹へと打ち据えた。

「大丈夫かっ……!?」

 ぶすぶすと白煙を上げ、昆虫類特有の複眼がかろうじて原形をとどめているがもはやそのために獲物を求めてさまようことはないだろう怪物と、言葉通り風のように現れた少年を見比べて、防人たちは目を白黒させている。


 街で延焼する可能性がある火のルートを塞ぐために一通りの破砕消火を終えると、俺の式神が戻ってこない、と合流したアガトが言う。衛星を経由する通信の妨害を避けるため複数の人間に直接魔力を分け与えていたナツメは「使い」の一人としたロクトールの魔力がその命ともども途切れようとするのを感じた。「……あ……ごめん……」それが、最後の応答。彼は何か強力な敵を追跡していて、気づかれてそれと正面から遭遇してしまい、戦いに敗れた。おそらくは。何度その名を呼んでも、もはや返事はない。

「いい、――オレが行く。あんたが出る必要はない」


 ……城の内部に足を踏み入れると、鉄錆びたような、血なまぐさい臭気が鼻を突いた。陽の光の落ちた暗闇の中で、松明の火があかあかと、あるいは壁に打ち付けられ、あるいは重なり合うようにくずおれた兵士たちの死体を照らしている。王城の守護者たち、主君を守るつわものたちは、それでもその惨禍の中心に立つただ一人の敵を防ぐことができなかった。

「やっぱり、あんたが来てたんだな」

 石畳の間に響く、高くもなく低くもない声。少年の嘆息に振り返った男は、その姿を認めて笑みを向けた。

「遅かったじゃないか。今日はもう、お前の出番はないかと思っていたぞ」

 周囲の惨状にそぐわない優しげな、しかしどこか冷たいものを潜めた笑み。その手には、兵士たちから奪ったと思しき刃。身に纏う灰色の外套は、多くの人間の血を吸って所々赤黒く変色している。先ほどまでただただ殺すだけだった男の様子に明らかな変化を見ても、かろうじて生き残った人々は圧倒的な恐怖にさらされたまま、向かい合う二人の挙動を注視することしかできない。

「まだ、殺すつもりなのか」

 少年の幼い端正な顔立ちが、わずかに不快な怒りに歪む。松明の火を映した燃えさかる炎のような双眸は、目の前の男を真っすぐ睨み据えている。

「言っただろう? それが俺だ、と」

「はっ、――冗談はやめろよ」

 話にならない、と首を振って吐き捨てる。なぜこんなことをするのか、と重ねて問う少年に「お前がこのままその道を進むというなら、理解できる時が来る」と男はいう。

「お前の助けたがるその命とやらが、影にどんな真実を潜めているのか――お前にも理解できる時が来る」

「リアン、――オレは」

「行くがいい。お前を待つ人間がいるのだろう」

 それだけを言うと男は背を向けて、その飾り立てられたビロード越しの心臓に刃を打ち付けられて滲んだ血の跡が残る、放り出された人形のように玉座にだらんとうずもれたままの王の遺骸の脇を駆け抜け、テラスへと続く階段から古城の闇に溶け込んで消えた。生き残った兵士の誰も恐怖に凍ったまま、追うものはいなかった。



     4



 俺は夢をみない。いつだったか昔、この現実こそは何より悪夢に近いと言っていたやつがいたが、そうやって目の前にある日々から逃れるだけの感傷を俺は持ち合わせていない。だからいつか命が終わるということは、死は俺にとって救いではないし、およそこの世で救いと呼ばれるあらゆるものは俺にとって救いではない。

 国とは何であるのか。それは土地ではない。土地ではあるが、土地ではない。国とは人であり、彼らの祖先が形成した道、橋、水路、建物、通信拠点網、それらの仕事を運用する法制度と運用し必要なら整備できる人間を育てるシステム、つまりはすべての資産であり、つまりは彼らを十分に養っていけるだけの領土だ。ならば、守るべきものを失った騎士は何であるのか。彼の誓いは何の為にあり、彼の剣は誰の為にあるのか。民を失った領主ほど、この世で無意味なものはない。

 いまだ燃え残りの火がくすぶる焦土と、煤けた瓦礫の原。かつては夏になれば、見渡す限りが美しい緑に覆われ、花を咲かせ、道々は人々の活気で賑わっていたというのに、骨肉相食む権力闘争に敗れ、守るべき騎士たちのことごとくが地に塗れ、領民が苦力として連れ去られた今や、すべてが枯れ果ててしまったかのように見る影もない。いつかこの場所であるいは敵であった誰かが再び人の守りと営みを築くのだとしても、もはや何の感慨もない俺の中では、確かに何かが死んだのだ。

 既に決定的なものが死んでしまった後で、それでも生きている人間がいるとすれば、それを亡霊といわずに何といおう。失われたものに対して俺が何の感慨も抱かないのは、俺という存在がもはやただの肉身を覆う殻にすぎないからだ。そこに悲しみはなく、喜びはない。今の俺は魂の核を失った獣人にすぎない。

 そして――世の中の風が変わったとして、人はその中で生き延びねばならない以上、常に何かを切り捨てることによって何かを選び、振り返ることの許されない隘路へ進まざるをえないが、その業に対する報いは必ずしも一定・等価であるとは限らない。

 少しばかり支払いが多いからといって理不尽を憤ってみても、底意地の悪いディーラーがそれで賭け金を返してくれるわけではない。だから自然と“そういうもの”なのだと思うようになっていた。明日の食い扶持を得るための賭け金が生命だとして、嘆かわしいと説教を垂れるのは僧籍にある人間の仕事であって、人の命がパンひと切れほどの価値もない戦場の中では、冷静さだけがあればいい。

 その意味では俺の生業に高尚な誇りなど必要ない。大局を操る者からすれば消耗品に過ぎないのだから、飼い慣らされない意志さえあれば、いいように使い潰されて切り捨てられることもなく生きてゆける。もはや落としどころの見えなくなった乱世の泥沼の中で(だからこそそれを生業にして生きているわけだが)、誰がどんな大義を掲げようと、渦の中にあるのは善悪ではなく生死のみである。欲望、野心、憐憫……情の揺らぎを見せたものから真っ先に裏切られる。自分はそれをしない。誰の側にもつかない。だから、トーナは冷酷と呼ばれた。



 すべての調度品が同じ色合いに統一された部屋。整いすぎてむしろ味気ないと感じるその部屋に、二人の男が立っていた。書きかけの書簡と、双頭の獅子の記章が彫られた印形、インク瓶と羽ペン入れの立った執務机を挟んで、一人は窓際に、もう一人は入り口の扉に背を持たせかけて。

「何故あいつを行かせた?」

「彼女が、君を死なせるべきではない、とそう言ったからだ」

 君では何もできずに殺されるだけだろう。無謀な賭けは君らしくないし、するべきではない。そう、彼はただ事実だけを述べた。

「だからといって、」

「トーナ」

 低く、静かな、落ち着いた声。それは、この空間にこれ以上ふさわしいものは存在しないというような。

「この街を守るのが、私の役目だ。私はそのために存在する」

 窓越しに一望できる景色は、石の街。その窓を背にした男は、見た者の瞳を捉えて離さぬような存在感を放つ冷厳な瞳は、扉を背にした男と向かい合う。どちらも互いの視線を受け止めたまま、逸らすこともせず、空気が張り詰める。

「なら、俺は俺で、いつものように勝手に動く。それでいいんだろう?」

 そう吐き捨てて、扉を背にした男は扉を開けて出ていった。わずかに置かれた沈黙の後、残された男は、留め金を外して窓を開け放つ。ばたばた、と勢いよく吹き込んできた風に、合わせた襟元があばれ、薄い色合いの金の髪を翻弄する。そのまま彼は空を仰ぐと、天頂に昇った太陽をまぶしげに見つめ、深い紅の双眸を細めた。

「そう……幸いにもまだ、時間は残されている」



 どこまでも広がるステップを見下ろす台地の上を、どこまでも吹き抜けていく短い夏の風の中に、彼はたたずんでいた。神獣の紋の岩戸を守るが如く、抜き身の剣を下げたまま、静かな覇気を湛える彼に、

「あんたは戦いに来たんじゃないだろう? なら、オレに戦う理由はない」

 そう告げるアーティに、遠い時代をも見透すようなまなざしの男――ハインリヒは、ふ、と笑んで剣を収める。

「では、行こう、炎の御手よ」



     5



 俺は、幾つもの間違いを犯しながら光の中を進む。影となって重ねられた死霊たちを引きずりながら……俺は俺の足跡を夜に染める。暗く、遠く冷たい星ばかりが導き手であった、あの頃の自分を闇の中に呼び起こす。

 俺はこの世に必要とされない人間ではなく、存在してはならない人間だった。この身が滅ぶべきであったというなら、それが正しいというなら、最も正しい選択は俺が始めから存在しないことだった。

 ……だが、それがなんだというのだ? それでも俺は生きているんだ――今、ここに。

 誰を殺しても許されるというのか? 何を壊しても許されるというのか?

 そんなはずはない、そんなはずはないさ。

 冷酷な人殺しは、いつか自分が殺してきた相手の類縁に殺される。俺の罪は、罰を以て裁かれねばならない。自分が自分の信じるものの為に戦うなら、その結末もまた受け容れねばならない。

 ――いつか俺の聖戦が、神の手によって粛清されるときがくるのだろうか?

 俺は孤独を恐れない。戦場跡に残された、無数の屍の一体になることは怖れても。もはや永遠に癒えることのない渇きを抱き、ひとり夜道を進む。



     *



 ――この魂の奥つ城では相対する両者の最も深く記憶に焼きついている風景が表れるのだと、ハインリヒが別れ際に言っていたことを思い出す。

「……ようやく来たな、アーティ」

 そこには、少年の目の前で既に二度死んだはずのリアンの姿があった。懐かしさや郷愁にふける暇すらなく、ただ晴れ渡る空、明るい陽差しの降り注ぐ下で、鮮烈な風の吹き抜ける草原だけが二人の前に広がっていた。

「リアン……どうして?」

「ここで待っていれば、そのうちお前に会えると思った。俺はもう疲れた……お前の手で葬られるなら、俺は安らかに逝ける」

「……殺されたかったから、殺した?」

 唐突に喉元まで浮かびあがる答えを愕然と呟く。男は、頷きもしないが否定もしない。鈍い刃先で臓腑をえぐられるような重苦しい冷たさが、奥底から広がっていくような気がした。

「そんな――なんで、リアン、そんな」

「お前でなければ終わらせることができなかったからさ。この星が存在する限り、死の瞬間に力をそそぎ込まれ、俺は何度でも蘇る。永久に巡る不死の地獄を断ち切れるのはお前の炎だけだった」

 ――俺は最初からすべてを知っていたんだ、アーティ。

 淡々と語る男の表情には、狂気の欠片も見当たらない。まるで懺悔をするように自分はお前を利用するために近づいたのだと告白する彼の姿から、眼を逸らすことができなかった。

「最初に出会ったとき、お前は暗い水晶の中で眠っていた。誰も訪れるもののない地下深く、幾重にも機械によって封じられた筒の中で、結晶となってな。俺は、思ったよ。そんなふうにずっと一人で、こんな暗い場所で、何千年も眠りつづけるってのはどんな気分なんだ、ってな」

「…………」

「……おたがい、少しばかり愛しすぎた。俺も、お前も。愚かな賢者が定めた未来も、筋書きも、俺はどうだっていい。随分と長いこと生きてきたが……結局、お前のいた数年が俺には一番良かったのかもな」

「……なら、もう一度やり直せばいいじゃないか。今からだって遅くはないだろ?」

 縋るような願いに、しかし彼は首を振る。

「そいつは駄目だ、アーティ。お前の兄貴でいつづけるには俺の手はあまりに汚れすぎた。世界の秩序が俺たちを許さない」

 そんなの、と右足から一歩前に進み出て距離を縮めようとするが、静かな制止の瞳を受ける。

「最後のわがままだ。お前は生きろ。もしもお前が、俺をまだ兄貴と思ってくれているなら。お前が俺を殺さなければ、今度は俺が殺した奴らがお前を殺しにくるだろう。――血で血を贖ってはならない。お前は、俺と同じ道に堕ちるな」



     *



 リアン、オレは、と言い淀む少年。

 ――どこまでも素直で、真っすぐで、お人好しのアーティ。どうせあいつには、無抵抗の人間を殺すことなんざできやしない。

 俺は右半身を引き、左足を一歩前に出して構え、何もない宙空から電離させた刀身を成して蒼くきらめく雷霆の剣を振り上げた。ぶん、と力を誇示するように切っ先を払い、そのまま斜め上方へ、遠い喉元に向かいぴたりと突きつける。

「さあ――命を賭けた決闘といこうじゃないか。今度は本気で来い。でないと、俺はお前を殺す」



     *



 悲しませるなよ、と男が一歩目を踏み込んだ。明緑色を芯とした青白い炎の輝きが鼻先まで迫る。さっと身を引き、袈裟がけの一閃をかわし、自分も腕に炎の輪をまといながら、逆袈裟、払いとつづく男の激しい連撃を防いで後方に大きく跳びすさる。

「いい動きだな。だが――甘いっ!」


 ――燃えあがる紅蓮を刃となせ。


 大上段に振りかぶる男が跳躍し一息に間合いを詰めてくる。振り下ろされた剣を、しかし膝を地に落としながらも間一髪で成された合わせ十字の刃で受け止めた。ばぢばぢ、と凄まじい熱量の火花が撒き散らされ、やがて力のかぎり徐々に男を押し上げて、そうして反発しながら膨れあがる質量に二人は互いの刃を中心として吹き飛ばされ、再び遠く対峙する形で向かい合う。

 体勢を立て直しながら、息がわずかに荒くなったのを感じる。急速に日が暮れて、星は落ち、世界は暗転する。燃えあがる野辺は暗く、夜空は深く、淡い緑の幻光が羽虫のように立ちのぼり、宙を舞い、そして消えていく。照り返すオレンジの光が地獄の底を包むように二人の姿を闇より離し、描き出す。

 少年が静かに呟いた。

「オレは、あんたが大好きだったよ。今でもな」

 二振りの、つがいの双剣。その刃先に、描くべき軌道に意識を集中する。――覚悟を決めろ、アーティ。

 腕を振るって放った炎弾が堅い地を掘り起こして火柱を上げ、熱波と共に大気を薙ぐ。その一瞬前に舞い上がり、闘いの合図をかわした男は、そのまま高みへとおどり出て足場のない虚空に歩をとりつつ朗々と呼びかけてくる。

「さあ、決着をつけよう、アーティ。ここなら誰を巻き込むこともない。お前も存分に本来の力で戦える。俺が勝つか、お前が勝つか、答えは二つに一つだ」

 その男の言が終わらぬうちに少年は彼の後を追い、地を蹴った。煌めく火の粉とともに、燃えさかる翼を背に負って。



     6



「――待て! 君ではその先には進めない!」

 宿から忽然と姿を消したアーティを追って、迷宮のように入り組んだ地下遺跡を駆け抜けたトーナは、タキシードの猫の姿をした亜人の制止を振り切って果敢に暗がりの奥へと飛び込んだ。周囲の壁から沈む深い闇が黒い獣人を呑み込んでふるえる。ちろちろと幽かにゆらめく不気味な虹の世界をくぐり抜け、魔と人との意識が混ざりあう境界面を越えた。途端に、痛みもなく全身が引き裂かれえるような得体の知れない怖気をおぼえる。

 おおおぉん、と嘆きとも呻きともつかない無数の声が傍らをすり抜けてゆく。それはもはや言葉ですらない。すべての季節を失った世界……たとえわずかでも意識の軸がぶれれば細胞ごとほどけて消えて、自分が《彼ら》になってしまう。そうなればもう二度と自分が生きていた世界に戻ることはできないことを察する。

(一番強い光を――一番強い光を、探せばいい)

 風哭きのような幽鬼たちの存在をかい潜り、残されたわずかな本能を頼りに薄闇の奥の暗闇へ、ともすれば今にも途切れてしまいそうな生命の気配を辿った。

 遠くから、ぼんやりと青白く光る何かが近づいてくる。細い糸のように見えていた姿が次第に鮮明になるより前に、それが何か恐ろしいものだということだけはわかった。肉体を失った巨大な骸骨の龍が、トーナの頭上すれすれをかすめて通り過ぎた。心臓が早鐘のように鳴っている。青白い炎に覆われた巨躯は、ゆるやかな波のようにうねりながら辺りを回遊し、やがて去っていく。

 無数の星が、虚空の海に瞬いては消えていく。誰のものとも知れない感情、痛み、思考、イメージ――そんなものが全身に流れ込んできて天地を奪おうとする。一瞬、方向感覚を掻き乱され、息に詰まる。

(ぐっ――どこにいる、アーティ)

 記憶の海と混ざり合った虚空の景色が、トーナの心を解いて導く……彼が捨てたもの、失わざるをえなかったもの、戦士の誓い、騎士の誇り。かつて生きていた場所、まだ守れるものがあった頃の自分、家族、仲間、友人――。

今ではもう取り戻せないすべての先に、炎使いの姿があった。



     *



 闇を吹き払い、あかあかと閃く炎の星が、真っすぐに尾を棚引かせながら男に迫る。銀の髪の雷帝は荒々しくさえずり猛る電圧を手のひらにまとい、投擲の体勢から解き放たれた雷柱が矢のごとくに走り、かすめゆく大気を震わせる。ゆるい曲線を描きながらそれを避け、さらに追撃として浴びせられたすれ違いざまの一刀を辛くも受け止めた少年は、すぐさま空中で後ろ回りに重心をとってブレーキをかけ、炎の羽を漆黒の夜に散らして飛び出す。

 打ち合うたびに凄まじい衝撃で腕ごともっていかれそうになるが、剣を失うことは即座に死につながる。瞬きひとつで確実に頭を割られ、肩を落とされる。そして力押しは無理でも下手に間合いをとればリーチで劣るこちらは一方的に切り刻まれるだろう。意を決する。男の斬撃の隙をついて、その懐に飛び込んで斬りつけた。脇腹からた走る鮮血を意に介さぬ激しい撃剣にタイミングを合わせ、打ち返す。するどい刃の一閃が目前をかすめる――。


 二つの星が衝突するたびに、空は激しくまたたき、無辺の闇を一瞬の光が照らす。

 あおあおと生い繁っていた緑はあたり一面焼きつくされて不毛の荒野と化し、すでにこの夢幻世界が戯れに産み出す魔物たちでさえ彼らのそばに近づこうとするものはなくなっていた。

 火花が、無数の火花が大地に降り注ぐ。

 戦いの嵐がすべてを薙ぎ払い、そうして二人は血みどろになりながら互いに不器用な言葉を交わす。すべての動作に、一撃一撃に、想いを込めて。

「あんたは自分のすべてをかけて、人間と、この世界と戦ってきたんだ。ならオレも、オレのすべてをかけてあんたの前に立たなくちゃならない――そうだろう? リアン!」

 時の経過とともに少年の気迫が増してゆく。洗練されすぎた連撃に慣れ、傷を負いながらも隙をつくタイミングを徐々につかみはじめていた少年に男のペースが譲られていき、突きを繰り出す一瞬をすり抜けて浴びせた両の抜き打ちに勝敗は決した。

 リアンは敗れ、朱く軌跡を残しながら地に落ちてゆく。強かに打ちつけられ、剣の炎が消え去ったあとも、ごろりと仰向けのまま大の字に倒れて荒い呼吸を繰り返す彼のまわりで残り火のようにぱちり、ぱちりと青い雷電がはじけている。

「本気で闘ったのに、負けちまった――」

 割れた額から流れ出した血が、水銀と同じ色合いの彼の髪を赤く染めていた。そして彼は、足元から淡い蛍火となって消えていく彼は……笑っていた。

 リアン、と降り立ったアーティは、駆け寄ろうとして躊躇って、途中で立ち止まる。そして片膝をついて、彼の前にかがむ。

「まったく、大したもんだな。さすがは俺の妹だ――でもな、お前はもうちょっと、女の子らしくしたほうがいい」

 軽口を叩くリアンに、涙が溢れ出しそうになるのをおさえながらアーティは答えた。

「……それは、兄ちゃんのせいだろ?」

「ははは、ちがいない。そうだな、悪かったよ。……だが、さすがに今度ばかりは疲れたな」

 苦しげな素振りも見せず、しかし掠れた声で応じるリアンは、ふう、と長く深い息をついた。

「アーティ、俺は少し、眠る――」

 そう言って目を閉じる彼の身体は、抱きしめようと伸ばされたアーティの手をすり抜け、完全に飛散して、やがて虚空の闇へと消えた。



     7



「あの人は……何が正しくて何が間違っているのかをオレに教えてくれた人なんだ。今でもオレには、あの頃のリアンが間違っていたなんて思えない」

 ぼんやりとした、夢の中の風景にも似た場所。トーナは、酒場の壁に背を凭せて腕組みをしたまま、他に誰もいない薄暗い照明のカウンター席の隅に肘をつく少年の話を黙って聞いている。

「風吹く草原を駆け抜けたあの人の剣に、人の心がこめられていなかったなんてどうしても思えない。どうして、リアンの悲しみが本物じゃないって言えるんだ? 時おり見せる寂しそうな横顔を、オレは忘れたことなんか一度もなかった」



     *



 商業都市ガレリアから東のイェルムンレクに渡る貿易商人の編隊を、列の中腹から襲ってきた火の粉たちを払ったとき、殺さなかった敵に向かってリアンは大声で呼ばわった。

「その気があるならまた来い! いつでも相手をしてやる」

 並みの盗賊であれば、二度とそれで彼のそばには寄りつかなくなった。

「しかし、どうして逃がしてやるんです? 所詮あいつらは、生計を立てるためなら何でもやる連中だ。生かしておいてもロクなことをせんでしょうに」

 路銀を稼ぐためにリアンが護衛としてついていた隊商のリーダー格が、不審に思い、そう訊ねた。はじめのうちこそ馬車の横でその成り行きを戦々兢々と見守るだけだった彼らであるが、徒党を組んだ盗賊団を散り散りにさせる圧倒的な実力差を目の当たりにして今は少々興奮気味だ。

「なに、やつらはどうせ、絶対に俺には勝てないんだ。たとえどんな手を使っても、な。なにせ俺は強い。そいつを思い知らせるには、四、五人叩っ斬りゃあ十分なのさ」

 とん、とんと剣の背で肩を叩きながら乾いた顔で自負心を披露する男に、しかし人々は嫌悪どころか頼もしさすら抱いた。治安の悪い時世が続けば用心棒というものに対してそういった態度をとる者も珍しくなくなる。彼らは、自分の命がなくなっても商売が続けられるなどという夢はみていない。街道の端に倒れる者を横目に誰もが明日は我が身であると痛感しているからこそ、強く力ある者を必要とし、その強者に憧憬のまなざしを向けるのである。

「……これでやつらも少しは懲りただろ。ま、そんなに早く諦められても、こっちはやることなくて退屈なんだがな」

 リアンは戦いを楽しんでいるが、血を流すことに良い意味でも悪い意味でもこだわりを持っていない。その点は、潔いほどに無欲であった。まるで傍らの少年に自分の戦いを見せることで生き抜くことの意味を教えようとするかのように。



     *



「誰も彼もがあんたをののしる……あの男こそが人間の敵だ、って。だけど、今でもオレには信じられないよ。あんたが本当に、何の理由もなく、こんなひどい事をするなんて。何故オレのそばを離れた? これが、こんなものが、あんたの言う力の掟なのか?」

 目の前にいるリアンは、あの頃といささかも変わりがないように思える。たとえ彼が人間とは違う異質な何かだと知ったあとでも、その想いには変わりがなかったのに。

「子供たちは、あんたを慕っていた。なぜ殺した? あの村は、あんたのおかげで立ち直ったんだ。何故壊した?! 答えろよっ、リアン……!」

 アーティはリアンに馬乗りになったままナイフを振りかぶり、悲痛に叫んだ。彼の襟元をつかんで握りしめた指先がぶるぶると震えている。そのナイフもこの男からもらったものだった。

 ――戦いの刃をどう使うべきか知っているか。

 少年はかつて兄と呼んでいた男に、生きる為の術を教わった。生きる為のすべてを。

 燃えあがる炎のはぜる音と悲鳴がこだまする中で、二人の時間だけが静止している。少年の心は、判断を下すことをためらっていた。振り下ろせないままの刃は、あかあかと映り火に照らし出されているというのに。

「それでもお前は俺を殺せない、か」

 男が皮肉っぽく笑う。

「……なあ、知ってるか? 悪魔ってのは、契約の代価としてその人間の最も貴重な宝を欲しがるんだそうだ。だが生憎と……お前には俺しかいなかった」

 猛りも興奮もまったく感じられない、哀れみを含んだ穏やかさでリアンが言う。そして唐突に上に乗っていた少年を真横に払いのけ、そのままの動作で少年もろとも彼を斬ろうとしていた男の心臓を一突きにした。

 街の衛士らしいその男は、両刃の剣を振りかぶったままの姿勢で、前のめりにどうと倒れた。リアンがそれを払いのける一瞬、恐怖に歪んだままの虚ろな瞳が、少年の目に入る。

「相手が俺じゃなかったら、今のでお前は死んでいた。教えたはずだがな……死を招くものが油断だと」

 ただ事実を述べる冷淡な言葉が、かっと熱くなるだけだった胸に刺さる。突き放したような宣告にいつかの面影はない。そしていつの間にか周りを囲まれていたことに気づいて、アーティは起き上がろうとする。

「ボウズ、早くその男から離れろ!」

 顔見知りの衛士だった。

 親切な人で、この街に来たときにいろいろと世話を焼いてくれて、今は――鋭く剣を構えたまま自分を助けようと顔を真っ赤にさせて叫んでいる。

「たしかに俺は強い。だが、お前は……その気になればいつだって、俺を殺すことができるんだぜ」

 動けずにいたアーティを差し置いて、何かを言うより早くリアンが動いた。一人、二人、三人。すっ、と影のように近づいて、目にもとまらぬ速さで刃を振るう。鉄の鎧に固められた包囲網がまるで細い糸の断ち切られるように次々と崩れていく。即座にあがる悲鳴と混乱。しかしリアンは攻撃の手を休めない。

「くそっ、滅茶苦茶だ!」

「誰か、早く援護の要請を――うわっ!」

「ちいっ、狂ってやがる」

 あっという間に仲間の大半を叩っ斬られた衛士の一人が、リアンに向かって毒づいた。負け惜しみともとれるが、その額には脂汗が浮いている。肩からだらりと垂れ下がった右腕は、四肢の根元とほとんどつながっていない。

「狂っている、か。本当にそうなら良かったんだろうがな。俺はいつだって正気だよ……いつだって、な」

 気のない素振りで応じるリアンは、言いながら、ちらりと少年の方に視線を流した。立ち直れずにいたまま、うっ、と言葉に詰まる。

「この、化け物め!」

 隙ができたと踏んだのか、それを見て背後から斬りかかった相手の剣を、しかし男はひらりとかわし、そのまま体をひねった勢いに任せて胴を横殴りに払った。吹き飛ばされた衛士は、脇腹から胸骨にかけて開いた裂傷で、倒れ伏したまま息も絶え絶えにあえいでいる。

「ぐっ、うう……」

 ぽつり、ぽつりと雨が降りはじめた。

 雲行きの怪しかった空は太陽を完全に覆い隠して、やがて本降りへと変わるだろう。埃っぽい路地裏の空気と、濃い血の臭いが、次第に混じり合っていく。煙だか雲だかわからない燃え残りのきな臭い風が、いやな冷たさを帯びはじめた。

 ああ、あの人はもう助からない……少年の心はそう思っても、身じろぎひとつできない。やめてくれ、と叫ぶ。しかし声が出ない。

 ぶ厚い鎧の裂け目から流れ出した血が、地面に赤い吹き溜まりとなって広がっていく。男の剣が、その苦しげな呻きを断ち切った。

「…………」

 残された最後の一人が、彼を激しい怒りの形相で睨み据えている。装束はボロボロで、髪は乱れ、傷もけして浅くはない。だが、死を前にしても衰えない戦意と、敵への怒りだけが衛士の足を支え、脅威に立ち向かわせていた。

「人間というのは所詮、自分のテーブルでものを考える以外に能のない連中だ。理解できないことは、どんなに重要なことだろうと切り落としてしまって見向きもしない。まるで、そんなものは始めからそこにはなかったかのように、な」

 リアンの戯言を無視して、衛士は構えをとり直した。

「お前……いったいこれまで、何人殺した? 俺は大概の悪人の面を見てきたが、こうも怖気立つような奴に出会ったのは初めてだ」

「そう思うんなら退け。どのみちお前に勝ち目はない。こんなところでわざわざ死に急ぐこともあるまい」

「いいや、そういう訳にはいかないな。お前のような奴を逃がしたら、ロクなことにならないのは目に見えてる。命に代えても、ここは通さん」

 衛士の言葉に、ふ、と静かに目を閉じて彼は微笑む。そして、敬意を表するように剣を差し向けた。

「そうだな……戦士はことごとく、みなお前のようであるべきだ」

 ――勝負は一瞬で決まった。衛士は倒れ、リアンは腰に得物を収めた。

「口を閉じて黙っていろ……誰に聞かれても、何も言うな。お前の命と引き換えにすべき時でないのなら」

 俺の心など、お前は知らなくてもいい。そう言い残し、ざあざあと地を叩く雨のうちけぶる中を彼は少年の前から去った。



     8



 かつて硬直しきった日本の医療界に失望し、国境なき医師団としてシリア、イラク、レバノン、スーダン、リビア、中近東や北アフリカといった激戦地を渡り歩いていた。本国の人々からはもっと安全な国に行けばいいのにと言われてきたが、私は医者だから、ただ救うべき命がそこにあるから、誰かが行かなくちゃならない場所だから私が行くんですとそういつも返していた。

 帰国するといつも穏やか過ぎる空気の中で困惑するのは、緊張感がほどけていってしまうことにだったろうか、そのことに危うさを覚える自分にだったろうか――懐かしく遠くもある故郷の人々の顔が脳裏をよぎった。


 病院代わりに借りているモスクを出ると、埃っぽい乾いた風に日差しが降り注いでいる。空爆で二階部分の鉄骨がむき出しになったビルの横を通り、カフェへ入る。

「アッサラーム・アライコム」

 街になじむために過激派のメンバーと昼食を取る。

 人手も予算も限られている中でできることをする――信頼関係とはいかずとも、不信感を抱かれては仕事ができなくなるからだ。不慣れなペルシア語を交えて簡単なコミュニケーションを、油断のならない相手だとは思いながら、彼らも生身の人間であることを感じる。

 ――ふいにフラッシュバックする最前線の復讐劇。

「仲間を戦車でひき潰したから我々はお前を同じようにする」

 砂埃で汚れたベストの肩口を両サイドからつかまれ、乱暴に引き立てられていく戦車兵によって、繰り返されるアラー・アクバルの聖句。地に投げ出され、キャタピラの進路上に頭を押し付けられた彼は――

 殺す側も殺される側も同じように同じ神に祈る。その矛盾と無力を強く感じているから私はここにいるのか。



     *



 それはどこにでもあり、そしてどこにもない。あの愚かな賢者は、この魂の奥つ城のことをそう呼んでいた。見えざる届かざる世界、と。あの男は扉を開いたにすぎぬ。それははじめから人の中に、いや、この世に存在するあらゆる生命の中に予め在ったものなのだ。ただ、誰もがそうとは気付かなかっただけで、な。

 君は、この宇宙ですら一つの生命であると考えたことはあるかな? 目覚めて生まれ、死して眠る、永久の季節をたゆたう萌芽。この地は、まさしくその生命としての宇宙を体現する鏡なのだ。神聖なる領域、数学世界、決して触れ得ざるもの、水面の向こう側――どんな名前で呼ぼうと、人がその本質までを知ることは決してない。たとえどれほど多くを手に入れ、多くを知ろうともな。あの男が足を踏み入れたのは、そういう場所だった。


 ――そして、《鍵》を手に入れたのだと彼は言う。自らをシックザールと名乗る、全身を黒ずくめのマントとフードで覆っていたその男は、静かに目を細め、鋭い眼光をさらに厳しく虚空の闇へと向けた。するとその先にかつて少年が見たこともない風変わりな、しかし高度な文明が発達していることを思わせる街並みが視界いっぱいに広がって、暗幕の空にとって代わった。

「直接には、前の時代が滅びたのはあの男が原因ではない。だが、にもかかわらず、《鍵》を手に入れてしまったからという理由だけで、すべてを自分一人だけで背負って死んだ。血は争えないということだな……あれは愚かだ。その父と同じく、研究対象に情を移して死んだのだ」

 救えない、とシックザールは苦い嘲笑を浮かべて首を振った。

「だけど、そうやって笑うあんただって今じゃこっちの世界の住人だろ? どうして?」

 少年は訊ねた。それこそ、彼の言う《研究対象》に取り込まれた証拠ではないのか。彼がこうして、人間の意識と生命をバラバラに砕いて溶かしてしまうというネットワークの中で、実体を保っていられるということが。

「その通りだよ。だから救えない。あれは死ぬ間際、とんでもないものをあちらとこちら、両岸の世界に残していったんだ。それこそ、言葉通りの冥土の土産をな」

 ――そのひとつが君だ、アーティ。シックザールは淡々と言葉をつなぐ。そこにはいかなる責めも存在せず、したがっていかなる赦しも存在しない。ただ冷厳に事実を述べる、そんな調子だった。

「あの男がどうやってそこまで辿り着いたかは知らぬ。私ですら、この世界のことを知り尽くしてはいないのだ。暗い魂の深淵から、この地で最も遠いその場所から、君という一つ星を連れ去って再び人の世界で眠りにつかせた……崩壊をまぬかれぬ歴史の混沌が終わり、目覚めるべき日が訪れるその時までな」

 ――そして世界は確実に変容した。

「あの愚かな賢者が何をしたのか、本当のところは誰も知らぬ。何を望み、何を見たのか……だが、そのために私は、御覧のとおり人間ではない何者かになってしまった。いったい、何が起こったのかもわからぬままに、な」

 少年が、何かを思いついたかのように顔を上げた。

「じゃあ、あんたもこの世界に囚われたまま死ぬことができない存在なのか?」

「いや、私は死ねないわけではない。死なないだけだ。私は、この世界の行く末を見届けなければならないからな……だから死なずにいる」

 それは自分の意志だ、とシックザールは言った。

「自分で選んだからこそ、たしかにこの世界に囚われていると言えるのかもしれんが、私はそこまで皮肉屋ではない。われら三柱、シックザール、エルベ、ツォイクニスと特別な役目を課された者たちは、宿る肉体が滅びれば、その魂も記憶も溶けてなくなる。そして、やがて現れる新たな者たちが我らを引き継ぐ。新たな我々、柱人となってな。私以外の二人もそうやって何度も代替わりを重ねてきた。――リアンは特別なのだ」

 黒マントの男は、少年が最も聞きたかったであろうことを口にした。精悍な雰囲気を漂わせるシックザールの横顔はフードの陰になってよく見えない。

「特別?」

「リアンは、星の守護者に選ばれてしまったからな。あの愚かな賢者によって……そしておそらくは、君を目覚めさせるという、その目的の為に」

 少年は沈黙した。

「自然な生命のサイクルから外れ、ただ一人彼だけは崩壊と死を経るたびにもとの魂と記憶を持って甦りつづけ、やがて歪みを免れなくなった。私も、随分と長いこと彼を見てきたが――あの男に残された最後の友人として、私は君に感謝している」

「でも……だけど、結局リアンが苦しんだのはオレのせいなんだろ? オレがいたから、そんな守護者なんかに選ばれて、だから」

 だからあんな、と少年は苦い罪悪感をにじませながら言った。しかし男は首を振る。

「君がいたから、リアンは幸せだった。あの男が生きた長い時間の中で、私が見てきた彼の中で、君が隣にいた時のリアンが最も幸福そうで、人間らしい人間だったよ。それに、苦しんだのは彼ばかりではなく、君だって同じだろう?」

「……オレのは、そんなんじゃない」

 戦乱と、とりつかれた人間から生まれる魔物たち。つかの間に訪れる平和な時代。変転してゆく世界を虚空の闇に見ながら、少年は呟いた。何も知らなかったから、理解できなかったから、苦しめただけだ。

「なるほどな。ならばせめて、あの男の最後の願いを叶えてやってくれないか」

「生きろ、と?」

「そればかりではない。彼の友人を、助けてやってくれ。私が憎みつづけた愚かな賢者を、彼は助けたがっていた……今もこの世界の牢獄に囚われている、クレアの魂を」

 ――あの愚かな賢者は自分の存在を媒介として、人の世とこの夢幻世界とを繋げたのだ。シックザールは言う。リアンは、クレアがもうこの世界のどこにもいないと思っていたよ、と。

 アーティは、はっと顔を上げて振り向く。しかしもうそこに黒マントの男の姿はなかった。八方をとりかこむ人の街の幻影も、次第にもとの虚空の闇に、天と地との区別がない、夜空の風景に戻ってゆく。

「待ってくれ! あんたは何を知っていたんだ!?」

 シックザール、とその名を呼ぶが、もはや返事はない。三柱の一人としてこの世界のネットワークを自在に操れる彼は、すでにそこを通って何処か別の場所へと移動してしまった。



     9



「――歩くしかないか」

 とりあえず進む。後の事はそれから考えよう。一人取り残されて途方に暮れていたアーティは、決心して足を踏み出した。何処へ行けばいいのかわからなくても、この場所でじっとしているよりはましだろう。心に空いた空虚な穴が、こんなわけの分からない目的によって埋まるわけではない。だが、今ここで立ち止まってしまうと、多分もう歩けなくなる。

 この広大な夢幻世界のどこかにいる、クレアを見つけ出す。シックザールがどうしてそのことをリアンに教えてやらなかったのか、あるいは彼自身がどうにかしようとしなかったのか、そんなことはどうだっていい。

 オレは、こんなところで倒れるわけにはいかない。リアンとの約束を、無駄にするわけには。

 オレはあがく。どれほど醜く、無様だろうと、あがいて闘う。

 気休めでもいい。今は、生きてやるんだ。



     *



「……アーティ!」

 どこからか自分を呼ぶ声に、少女が振り返った。明るい、陽の光のような髪の色と、黒に近い深紅の双眸。その瞳が映した先には、初めて見る、しかしよく見知った顔があった。

 かすかな驚きとともに、トーナ、と少女が青年の名を口にする。ややあって、青年が言った。

「行くのか?」

 少女は答えない。すべてを振り切ってしまったような、振り切れないでいるような。懐かしくて、ひどく遠い。青年は、この場で次々と浮かんでは消える言葉を、何ひとつ口にすることができなかった。

 その横顔が、どこか届かない遠い場所へ行ってしまうような気がして、叫んだ。

「俺を、置いていくな!」

 それは紛れもなく人の姿をしていた青年に、少女は優しく微笑んだ。大丈夫、オレはどこへも行ったりしないよ、と。

「生きていればまた会えるからさ……だから、そのときまで、さよならだ」

 そして少女は、闇の奥へと歩み去った。

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