同盟国の皇太子の成人祝いに来たら何故か婚約破棄しようとしだす現場に居合わせる羽目になった王妃の話
飽きもせず婚約破棄ものです。
(私は一体何に巻き込まれている……?)
ラーイ帝国、帝都。プドフキン宮殿。宴の間。
燃えるような赤色の地に白の装飾が美しいローブを纏った、イェルモ王国王妃アヴローラは顔色を変えることはしないまま困惑していた。彼女の前方には帝国の父と母である皇帝イヴァン五世と皇后マルギットが仰々しく控えている。両陛下の服はどちらもこの国において最も美しく、高貴な色とされている白を基調としたもので、縁などが銀や青といった色で刺繍され、身に着けている宝石もそれらと合わせられている。
そして右斜め前には帝国の皇太子エドゥアールドとその婚約者オリガ―――ではなく、何故かどこの娘だか分からない少女の姿。周囲をキョロキョロと見る訳にもいかぬため、魔法でサッと宴の間を見渡せば、皇太子の婚約者であるオリガは後方の壁際で顔を俯かせている。
今何が起きたかをほんの数秒前まで遡ろう。
この場においてアヴローラが代表を務めているイェルモ王国は、ラーイ帝国のある北白大陸から海を渡っておおよそ西の方角に位置する西紅大陸に位置している王国である。全く異なる大陸の国家であるイェルモ王国の一行が、わざわざ遠方のラーイ帝国に来た理由は、友好を示すためだ。此度の場は皇太子エドゥアールドの成人を祝う場であり、その場にアヴローラが出席をすることによって、イェルモ王国はラーイ帝国を重要視していることを帝国に伝えることが出来る。逆にもしこの場にアヴローラが出席しなかったならば、王国は帝国を軽視していると見られ、両国の関係に溝が入るか、距離が出来てしまうこともあるだろう。
ゆえにアヴローラは長期間船に揺られながらも、ラーイ帝国へとやってきた。
同じように帝国へとやってきた国は四大大陸問わず多い。ラーイ帝国は北白大陸最大の国家であり、その不興を買いたいという国は殆どいないのだ。
数多く訪れた使節団は各々国の代表として、皇帝と皇后に挨拶を望む。そのための場として用意されたのが、このプドフキン宮殿だ。
各国が到着した順番で皇帝と皇后へと挨拶をする。勿論そのセリフの中には皇太子成人を祝する言葉を入れるのは忘れない。
そうして幾つもの国が挨拶を終え、イェルモ王国の番が回って来た。アヴローラと彼女に着いて来た使節団十二名が皇帝と皇后の前に並び、跪く。それから代表者であるアヴローラが挨拶をするべく立ち上がったその時、先ほどから姿の見えていなかった皇太子が突如現れた。それだけでなく、アヴローラの挨拶を遮るように前に進み出て、胸を張り、宴の間にいるもの全てに聞こえるように大声で言った。
「今ここに、わたくしエドゥアールドはオリガ・アンドレーエヴナ・ウスティーノフとの婚約を破棄し、レーナ・ニキーティチナ・クリークとの婚約を宣言する!」
(はい?)
そして冒頭のアヴローラの困惑へと、話は戻る。
突然の皇太子の発言、それ以上に一瞬理解が拒絶する内容。アヴローラは顔も変えず首をかしげず、しかしながら心の中では皇太子の信じがたい発言に耳を疑っていた。聞き間違いかと思ったが、どうやら聞き間違いではないらしい。皇太子は晴々とした顔をしているし、他の使節団たちもアヴローラの内心と同じように困惑している空気が伝わってくる。
しかし、内容もであるが、いくら皇太子だろうと人が皇帝夫妻への挨拶を行っている横に割り込んできて発言するとか非常識にもほどがある。アヴローラはまだ皇帝と皇后への挨拶を述べておらず、また向こうからの言葉もいただけていない以上、跪く体勢を取っている使節団十二名は立ち上がることができない。こちらが勝手に行動をすれば、皇帝を軽視したと見られかねないのだ。
彼らはただ粛々と頭を下げ、代表であるアヴローラが挨拶をし、皇帝と皇后がそれに返事をするのを待つしかないのだ。
代表として挨拶をすべく立ち上がっていたアヴローラが唯一人、おそらく横にいる皇帝を除いて誰よりも近くで(しかもほぼ真正面から)皇后の表情の変化を見た。
五人の子持ちで最年少である皇太子が今年十八になるということを考えれば、信じがたいほどに若く見える美しい顔が、凍りつき、そしてほんの僅かに口角が上がっていく。晴れ渡る空の色のような美しい青の瞳が、嵐へと変わっていく様を間近で見せられたアヴローラは今すぐ退出したくなった。せめて挨拶だけさせてもらい、下がらせてほしい。何故これほどの距離で怒る皇后(ただし傍目にはそれと見えない)というレアなものを見なければならないのか。
「エドゥアールド、それは、一体、どういう、意味、です、か?」
ゆっくり。正確に。とても落ち着いた声で。
皇后マルギットの発言から、皇太子の宣言が彼の独断であることが窺えた。少なくとも皇帝皇后を始めとした、そちらに近い場所に立っている重鎮たちは知らなかったらしく、皇帝と皇后の座る玉座の左右辺りに立っている重鎮たちは疑う、或いは軽蔑、失望した眼差しで皇太子を見ている。
皇后に問われた皇太子はその不穏な空気を感じ取らなかったのか、或いは高揚感から気づけなかったのか、先ほどと同じような強い明るい声で返事をした。
「今申し上げたとおりです! 母上、オリガは恐ろしいことに、このレーラに数々の悪行を働いていたのです! 自分よりも低い位の人間を、痛めつけるような人間は国母には相応しくありません! よってオリガとの婚約を白紙にし、レーラと婚約したい!」
アヴローラは皇太子エドゥアールドの横で震える少女を見た。様子からして彼女の方が、現在の恐ろしい状況を理解しているようにも見える。彼女が何者であるのか、アヴローラは知らない。けれども一目見ただけでも、彼女が特になんの力もない少女であるということが分かった。
そのような少女と婚約したいということは、つまりは彼女を次の皇后として担ぎ上げようということだ。
オリガが働いたという数々の悪行。……でも。それが事実だとしても、それをここで言うか? とアヴローラは言いたい。
なぜなら繰り返すことになるが、この場にはラーイ帝国のある北白大陸の諸国を始め、西紅大陸、南銀大陸、東碧大陸の四大大陸の主要国家の殆どから使節が集まっているのだ。使節のメンバーに王族や皇族がいるかは国それぞれであるが、例え配下の貴族等だけで構成されているとしても、この場に集っている者は皆、それぞれの国を背負ってきている重要人物ばかりである。
確かに彼らが集った理由はラーイ帝国の皇太子の成人を祝すためだ。つまりは、まあ、確かにエドゥアールドは主役なのだ。それは間違いない。だがどれほど彼が主役である場であろうとも、同じ場に皇帝と皇后が居るのならば、最大権力を持つのは彼らだ。
そんな場所で、両陛下に断りもなく、しかも真実だとしても嘘だとしても国の恥であるような内容を大声で言うというのは、非常識なんて言葉では収まりきらない。
広大な領土を持つラーイ帝国の未来を脅かしている。現在進行形で。
しかしどうやら主役様はその事実に気がついていないらしい。
ペラペラと喋り続ける皇太子を、皇后は「御黙りなさい」としかりつける。途端口を閉ざした皇太子に横の少女は彼の顔を縋るように見上げ続けるだけだ。皇后が横の重鎮の一人に視線をやった。重鎮は一歩前に進み出ると、美しいテノールの声を宴の間に響かせた。
「オリガ・アンドレーエヴナ・ウスティーノフ」
名を呼ばれ、先ほどまで壁際にいたオリガが人の間を縫って皇后の前に姿を現す。現れたオリガは美しい白のドレスのまま、跪いた。跪くのは、帝国における礼の一つだ。
「御前、失礼致します」
「顔を上げなさい。皇后マルギット・テレーゼ・アンドリアーノフが問う。皇太子エドゥアールド・イヴァーノヴィチ・アンドリアーノフの述べたことは真実か?」
「事実無根で御座います。わたくしは皇太子の婚約者という身分ゆえ、エドゥアールド様と過度な接触を行うレーナ・ニキーティチナ・クリーク男爵令嬢への苦言を呈しておりました」
男爵令嬢という言葉で空気が冷え切った。
帝国において、男爵という位がどれほどのものであるかをアヴローラは知っている。貴族階級ではあるが、このような場には来ることなど到底出来ないようなものだ。
皇太子はオリガの発言の内容に異を唱えたいようだが、皇后が彼の発言を促していない以上、喋ることなど出来ない。どうやらまだそのぐらいの認識力は残っているようだ。
皇后はその言葉を聞き、静かに息を吸い……そして吐いた。
「下がってよろしい」
オリガが言葉通り、礼をしたのち後方へと下がる。
「エドゥアールド」
「はっ」
「先ほどの言葉は真実か」
「母上はオリガを信じるのですか!?」
そういう問題ではない。
その言葉を聞いた瞬間、アヴローラは体から力が抜けて倒れてしまいそうになった。大国を将来担う皇太子としては、あまりに子供のような発言であると彼は気付いているだろうか。
宴の間にいる他国の使節団の中であまりよくない空気が立ち始めているのを感じる。それは皇太子への侮蔑であり、同時にそのような男に次期皇帝として立場を与える皇帝や皇后への不満と不安と、疑念。
それは同盟国としても良くないものではあったが……けれども、アヴローラたち個人から言わせてもらえば、その話を続ける前に、未だ跪いた体勢から動けていない使節団の立ち位置を何とかしてほしい。その一点に尽きた。事実、限界らしい使節団の一人である女から、テレパシーという魔法の一種でアヴローラの脳内へと直接声が響く。
(アーラ!)
魔法で背後の様子を確認すれば、テレパシーを使ってきた女に限らず、他の使節団のメンバーの身体も跪く態勢が辛いのか小刻みに震え始めている。イェルモ王国では正式な礼であっても、跪く習慣がない。
使節団の一人である女が、跪く姿勢が辛いのか体が小刻みに震えている。アヴローラたちが代表を務めている国では跪く習慣がないのでこの体勢が辛いのだろう。
一人がテレパシーを使ったこともあり、他のメンバーである女たちも次々に訴えて来る。テレパシーを使うことの出来ない男たちは必死に体が震えるのを耐えていた。
(頼む、なんとかして)
(無理でございます王妃、もう限界です)
アヴローラとしてはもちろんこのままではなく、何とか挨拶を済ませて穏やかにこの場を去りたい気持ちで一杯だ。しかしどうするのが最善か、測りかねている。と、耐え切れないとばかりに使節団の女が、叫んだ。
(こちらの方々は、貴女の母君と弟君でしょ!)
それを言われてしまうと、心苦しい。
――王妃アヴローラにとって、眼前のラーイ帝国皇帝は実の父であり、皇后は実の母であり、皇太子エドゥアールドは実の弟であった。
その関係から考えればアヴローラの立場は皇后よりも下である。けれども現在アヴローラは正真正銘、一国の王妃となっている。ゆえに彼女と皇后の立場は簡単にどちらが上とは言えない状況だった。それを決めつければ戦争が起きかねないのだ。そのような高い立場だからこそ、使節団は彼女が現状の打開をしてくれることを期待しているという訳だ。
彼女は腹をくくった。そして、皇太子や皇后の会話が途切れた瞬間を狙って、声を張り上げた。
「皇帝イヴァン・イヴァーノヴィチ・アンドリアーノフ陛下! 皇后マルギット・テレーゼ・アンドリアーノフ陛下! 本日は皇太子殿下のご成人、真におめでとうございます」
突然の割り込みに皇太子が不機嫌そうに背後を振り返り―――アヴローラの顔を見てキョトン、とした。その口からポロリと言葉もこぼれる。
「姉上……?」
あまりに幼すぎる様子に、弟は一体どうしてしまったのだろうとアヴローラは思う。最後に会ったのは嫁ぐ前であったからもう何年も前のことであるが、そのころはもっと聡明な子供であったはずだ。
アヴローラの挨拶は非常識か、常識か、大層微妙なラインだ。司会進行役の貴族が、この茶番とも言える出来事が起こる前に、アヴローラたちの国の名前を読み上げ、アヴローラの名前を途中まで読んでいる。本来挨拶は名前を全て読み上げられてからするものであるが、有耶無耶になっていることからアヴローラは既に己の名前が読み上げられているとして挨拶した。なので見方を変えれば客人であるとはいえ、アヴローラが勝手に挨拶をしたようにも見える。
皇后マルギットはその視線をアヴローラたちに移すと僅かに微笑んだ。
「ありがとう」と皇后。
「よくぞ参られた」と皇帝。
それは二人がアヴローラの挨拶を正式なものとして認めたという返事だった。両親の対応に心から感謝をしながら、アヴローラは深々とお辞儀をする。それに合わせて背後の使節団もより深く頭を垂れ、アヴローラが顔を上げるのに合わせて立ち上がった。立ち上がる際にややふらついたものがいるのはご愛嬌ということにしてほしい。
イェルモ王国使節団一行は、ようやっと皇帝と皇后の御前から退出した。が。アヴローラだけはその場にとどまった。何せ退出しようとした所を、皇后に呼び止められてしまったのだ。ほんの少し甘えるような声で「そこへいて下さいますか」などと訴えられては動けるものも動けない。
目線とテレパシーで他の使節団の面々には下がるよう指示し、アヴローラだけが残った。
アヴローラとの会話が終わり、皇后と皇帝はまた視線をエドゥアールドに戻す。その声には先ほど灯った温かさなど既に消え失せていた。
「エドゥアールド。その娘にはなんの力もないようですが」
例えエドゥアールドの訴えが真実であり、オリガが相応しくない女性だったとして。
そうであろうとも、エドゥアールドがつれてきた少女は皇后にはなれない。それを一番よく分かっている筈の皇太子は皇后の言葉の意味は察したようで、しかし何故か笑顔で答えた。
「はい。ですが問題ありません、レーラは素晴らしい心根の持ち主です」
「馬鹿者」本日初めて、挨拶以外で皇帝が言葉を発した。「魔女ではないものに、皇后など務まるものか」
びくりと少女の身体が震えた。
―――魔女とは、文字通り魔力を持ち魔法を扱うことの出来る女性のことだ。
四大大陸全てに共通して、この世界には魔力を持った女性がいる。理由は不明だが、男性で魔力を持った存在は過去に存在したことがない。魔力とは、女性にのみ宿ることがある力なのだ。
多くの国では彼女たちを、国を挙げて魔女として育成、保護している。魔女がどのぐらいその国にいるのか、それはほぼイコールでその国の国力を表しているからだ。
戦場に赴くのは男性だが、彼らが使う武器は魔女が作り出す。国を守る防壁を張るのも魔女。病気を治すために医師と共に薬を研究するのも魔女。治水工事を人力による作業ほどの労力を使わずすむように簡単に行うのも魔女。建築を行う魔女だっている。
ラーイ帝国が広大な領土、そしてそこで暮らす多くの民を纏められているのはひとえに初代皇帝の御代から現在まで、皇后は魔女であり御自ら国を護っているからだ。
他国から嫁いできた皇后マルギットへの民からの信頼が厚いのも、毎年皇后が国中を護り防壁へ魔力を注ぎ、国を護っているから。
魔女ではないものに、皇后は務まらない。――勿論、長い歴史がある以上、過去に皇帝が魔女ではない女性を娶ることもあったが、それはあくまで愛人、第二夫人としてだ。国母たる皇后は必ず魔女でなくてはならない。
そのことを、まさか皇太子が忘れたのか。それとも、それが分かっている上でそう言っているのか……。
自身も魔女であるアヴローラはあまりに無責任な皇太子の発言に、呆れてしまった。
先ほどまで事の次第に口を挟まなかった皇帝が言葉を発したため、流石の皇太子も言いよどむ。そこへ畳み掛けるのは皇后だ。
「その娘が貴方の后となったとして、では一体誰が防壁の魔術を維持するのですか? わたくしが行うと? それではわたくしが隠れた後は? 姉たちにやらせるつもりですか。日夜この国から不治の病を消すべく仕事をしているスヴェトラーナに? 夫と共に国境を護っているファイーナに? まさか他国へ嫁いだミーリツァやアヴローラを呼びつけてやらせるつもりではないでしょうね」
エドゥアールドがまるで縋るかのようにアヴローラの顔を見た。助けを求めているのか。味方になることを求めているのか。分からないがどちらも不可能だ。アヴローラは確かに帝国で生まれ育った。しかし今は既に嫁ぎ先の国に骨を埋めると決めている。生物学上は家族だとしてもこの身は既に夫のものであり、彼の治める国のものだ。
なんの反応も示さない姉に、エドゥアールドは酷くショックを受けたようだったが、当然のことだ。たとえ少女がエドゥアールドの后になり、国を護る仕事は姉たちの力を借りるとして。アヴローラには手伝えない。嫁ぎ先からここへ来るのが一苦労だ。それに加えて夫がそんなことを許すとは思えない。
「――下がれ、エドゥアールド。今、この時を以てお前を皇太子という身分から外す」
皇帝が、感情の無いような声で言った。その言葉に宮殿全体が揺れた。
呆然とするエドゥアールドは、皇帝としてはふさわしくない。その判断を、下されてしまったのだ。
「待っ」
エドゥアールドが玉座に座る父親の前に出る。横にいた少女は信じがたいことがおきたといわんばかりの顔をしている。
「待ってください、父上。どういうことですか……?」
「聞こえていなかったと?」
対するイヴァン五世の声は冷たい。
立ち上がったイヴァン五世は自分へと伸ばされていたエドゥアールドの腕を払い落とした。呆然と傍らで皇帝を見上げるエドゥアールドは酷く脆い。
イヴァン五世は数歩進み、会場へと訪れた人々を見渡す。
「今宵は真つまらぬものを見せてしまったことをラーイ帝国皇帝として謝罪する。本来ならば此度の祝宴はわが皇太子エドゥアールドの成人を祝う素晴らしき場である筈だった。しかしエドゥアールドは自らその魂が皇帝に不相応であることをさらした。――真、恥ずかしい限りであり、我が帝国の恥である」
イヴァン五世はそこで言葉を区切った。その視線はエドゥアールドには注がれない。可哀想に。同情はできないがエドゥアールドは顔を真っ青にして涙を耐えていた。
「代わりといってはなんだが、この場にて先ほどおきた素晴らしき事を語ろう。我が娘スヴェトラーナがつい先ほど、男子を産んだ」
会場を祝福の声が包み上げた。それは同時に、エドゥアールドへの死刑宣告に等しい。
皇帝イヴァン五世の血を引く男児は、今の今までエドゥアールドただ一人だった。長女スヴェトラーナには今の今まで子供がなく、アヴローラ同様他国へ嫁いだ次女ミーリツァと帝国の将軍へと嫁いだ四女ファイーナには女児しかいない。三女のアヴローラにもまだ子供はいない。たった一人、血を引く男児であったからこそエドゥアールドの立場は完全に護られていたのだ。皇帝の歴史の中で今まで女帝がいなかった訳ではないが、やはり優先されるのは男児だ。
その最後の砦はいままさに崩れ落ちた。
イヴァン五世はまだ六十二。今年生まれた孫が成人して八十。現在の所、目立った病気もなく、体は健康そのものだ。生まれた孫息子が一人前となるまで十分な時間がある。次の当てが生まれてしまったのだから、エドゥアールドが皇太子でなくなってもなんの問題もない。
アヴローラは縋るような弟の視線を無視し笑顔を浮かべた。
「おめでとうございます、皇帝陛下。皇后陛下。イェルモを代表してお祝いの言葉を贈らせていただきます。帝国の素晴らしき未来に幸が御座いますよう」
他の国の使節も、先ほどの挨拶に代わって祝いの言葉を述べたいはずだ。スッとアヴローラは下がると案の定次々に使節の代表者が周囲の様子を窺いながらイヴァン五世に祝いを述べるべく中央に集まってくる。
イヴァン五世に近づこうとするエドゥアールドが側にいた兵士に押さえられた。何故、どうして、とか細い悲鳴がアヴローラの耳まで届く。その体が引きずられていくのを横目にアヴローラは羽織っているローブを整えた。