届かぬ願い
馮大人の家には二人の嫁がいた。一人は亡き長男陽明の嫁の陶梨花。もう一人はその弟の煕隆の嫁の沈梅香。二人とも名の通り、白い花のような女性だった。
馮家は大人が健在で、家事は夫人が取り仕切っており、二人の嫁は夫人の指示に従って日常を送っていた。
馮夫人は二人の嫁を分け隔てなく扱っているつもりだ。しかし、どうしても梨花へ腫物を扱うようになってしまうことがある。それは梨花が「望門寡婦」であるからだ。
儒教の影響が強かった地域で、「望門寡婦」と名付けられた無慈悲な慣習があった。結婚は当人たちの意思に関わりなく、親たちが家柄、そして結納金や持参金を含めて様々な遣り取りをしながら決めていく。当人たちが顔を合わせるのは結婚式当日となるのは、ある程度の家柄となれば当たり前であり、野合などとんでもない所業であった。
親たちが結婚の約束を取り交わして、即めでたく挙式となれば、その後の生活は夫婦次第で築けようが、結婚前に男女の片方が不幸にして亡くなってしまう場合も少なくなかった。女性が亡くなったら、男性側はまた次の相手を、となるが、逆が大問題となる。婚約であっても結婚したも同然、そして「貞女は二夫に見えず」の道徳観から、女性は次の婚姻を許されず、顔を見たことのない男性の為に喪に服し、婚家で一生を過さなければならなかった。
陽明と顔を合わせぬまま、結納だけの間柄であったのに、梨花は長男の妻として持参金を持って馮家に入ってきて、この家で未亡人として暮らしていかなければならない。初潮をみたのも馮家に来てからの稚さであったが、梨花は子を生す機会を奪われている。なんと声を掛けたらよいのか、馮夫人は姑として迷ったものだった。
馮大人は当時の女性の務めと当然視しており、息子の嫁たちにはさしたる関心がない。梨花の実家の実母は娘を気に掛けて折に触れ便りを寄越すが、陶家の父親は嫁に行けば他家の者と割り切っているようだ。
馮家で長陽の節句の宴が開かれた。馮夫人と梅香は宴に彩りを添える為に華やかに装い、煕隆とその幼い男児もにこやかに大人と並んだ。梨花一人、化粧気の無い顔に地味にまとめた髪、くすんだ色の服で隅にいた。
招待されている客は事情を弁え、梨花に一通りの挨拶をして去っていく。しかし、今回は事情を知らぬ若い客が一人いた。李泉淵というその男は、梨花の飾り気のない端正な容子と、年齢にそぐわぬ静かな暗さが気になった。
「亡き陽明殿の奥方は二十歳を四つ、五つ出たそうだが、なかなかどうして、まだ若々しい。まだ娘で通じそうだ」
「そりゃあ、娘であるには違いないでしょう。女盛りというのに、寂しい独り寝の夜を重ねていらっしゃる」
「ずっと独りでお休みだろうから、独り寝が寂しいかご存知ないでしょう」
李泉淵は人々の好色めいた会話と、向けられる視線から梨花の境遇をおおよそ察した。
お気の毒にと心底思った。李の叔母も早くに夫を失って後家を通しているが、まだ夫と数年連れ添い、子どもがいる。その叔母の寄る辺ない姿を見知っているだけに、望門寡婦の身の上は更に辛かろうと、想像するのだった。
宴が終わり、梅香が梨花に言った。
「今晩初めていらしたと良人が言っていた李泉淵さんが、お義姉様ばかりご覧になっていましたわ。お気を付け遊ばせ」
「気を付けるも何も、わたしは何もしないし、できないわ」
梨花は月経中で、体も頭も重苦しく、宴の場に居ることさえ耐え難かったので、宴の様子の進行具合しか気に掛けていなかった。
子を生せないのに、子を生せるしるしが毎月現れるこの身が呪わしかった。そして若い未亡人が男の興味をそそるらしい事実も忌々しく、汚らわしかった。夫となるはずの陽明が亡くなった時、自身の身を滅ぼしてしまえば良かったと悔いるものの、もう死ぬ勇気が失せ、ただ時間の流れるまま、馮家に身を置いている。自分は息をして、飲食をしているが、意思を露わにしてはならない人形のようなものだと、梨花は自分を押し殺していた。
馮家の屋敷でまた小さな集まりがあり、それには男性だけで、女性は給仕をする女中しか出てこなかった。李はそっとその場を抜け出し、馮家の奥の家族が宵を過す場所を覗けないだろうかと試みた。
果たして、琴の音が聞こえてきた。音を頼りに、一層用心深く進んでいった。琴の音がはっきりとしてきた。窓辺に菊を飾り、ご婦人方がいる。馮夫人に、梨花が琴を奏でている。
琴の音が止み、気配に気付かれたかと、李は身を縮めた。
「今宵はわたしの耳を楽しませてくれないのかね」
馮夫人が梨花に言った。
「申し訳ございません、お義母様。先刻、小王が駄々をこねていたのが気になってしまって、手が止まりました」
李はほっとして、更に様子を窺った。
「あれは梅香がお菓子で釣って手習いをさせようとするのがいけないのだから、梨花が気にする必要はないのだよ」
「そうですね。煕隆さんが立派な鑑としていらっしゃるのですし、梅香さんだけでなく、お義母様が付いていらっしゃるのですものね。
わたしが何もしなくていいとは判っているのです。でも小王の悪戯振りが可愛らしくてつい、構ってやりたくなるのです。ごめんなさい」
「謝ることはないよ。小王も優しい伯母さんがいて仕合せ者だよ」
「有難うございます、お義母様」
また、琴が奏でられはじめた。李の耳には梨花の琴の腕前が素晴らしいように聞こえた。
李は、梨花の姿を垣間見、楽曲の才を知り、満足した。その声音や家族を思い遣る心根も知った。この屋敷の奥で寡婦の身の上のまま、この瑞々しさを朽ちさせてしまって良いものかと、李は強く感じた。
李は梨花に文を送った。梨花はその文の封を開けず、姑に渡した。馮夫人は文を読み、梨花宛ての恋文と知り、梨花に渡した。
「旦那様が知ったらお怒りになる。読んだらすぐに燃やしてしまいなさい」
梨花はちらりと目を落とすと、文を破り、灯の火で燃やした。
「こんなものをもらっても困ります。お義母様」
「また文を寄越すようなら、旦那様にそれとなく相手を制するように頼むようにしましょう」
「お願いいたします」
姑の言葉に梨花は肯いた。
梨花から返事をもらえないと予想していたので、李はそれから何度も文を送った。一度くらいは迷惑だとでもいいから返しがないかと期待していたが、全てに返事はなかった。
宴で自分を見初めたと文で告げてきていたが、梨花は相手の名も顔もとんと覚えがない。また顔も知らぬ男の為に自分の人生が動かされるのは真っ平だった。
文では埒が明かぬようだと、李は遂に馮大人に正直に希望を申し出た。
「以前お招きいただいた長陽の節句でお見掛けした梨花様のお姿が忘れられません。どうか私めに梨花様を花嫁として迎えさせてください」
「しかし、あれは陽明の嫁」
「失礼ながら、陽明様がお亡くなりになられてから十年経っておられると聞き及んでおります。既に妻として服さねばならぬ喪は明けておられます。無礼を承知でお願い申し上げております」
馮大人は考えさせてくれと、李を帰らせた。馮大人はまず妻に李の申し出を伝えた。
「李さんが梨花に文を寄越しているのは知っていました。梨花は読みもせず、わたしに知らせて、燃やしていました」
「何故儂に知らせなかった」
「殿方の気紛れと思い、無視していればよいと思ったのです」
「無視されて、余計に火が付いたようだ。本気で婚儀を申し込んできた」
「外聞もございますが、確かに十年梨花はこの家の嫁として立派に勤めを果してきています。梨花や陶家の意見もございましょう。わたしたちだけで決められません」
馮大人は梨花を呼び出した。顔を合わせ、話す機会をろくに持たなかったが、この地味な娘が男を惑わす魅力がまだあったかと不思議な気がした。
「李が文を送っていたと妻から聞いたが、内容は知っていたか?」
「一度、お義母様と拝見しましたか、後は封を切らずに燃やしていました。わたしが陽明様以外の殿方から物を与えられるのは咎めになります」
「李はお前を妻に欲しい申し込んできた」
梨花は瞠目し、次いで叩頭した。
「わたしはこの家で陽明様の妻として、お義父様とお義母様に孝行を尽くしていきたいと存じます。どうかわたしをこの家から追い出すようなことはなさらないでください」
望門寡婦の再婚は馮家だけでなく、陶家も望んでおらず、特に梨花が嫁ぐ気がないと判れば、返事は決まっていた。
李は「否」の返事に落ち込んだ。梨花からの直接の言葉は一切聞いていないので、馮大人が全てを決めてしまったのではと疑い、諦めきれなかった。
李は馮家の間取りを召使を通じて調べ、梨花の居室を確かめた。冬が過ぎゆき、春に今少しの時節に、李は日暮れの慌ただしさに紛れて、屋敷に忍び込んだ。
李は違わず梨花の居室に入った。梨花は見知らぬ男が窓から姿を現したので、悲鳴を上げ、昏倒しそうになった。
「申し訳ございません。私めは李泉淵と申す者です。一声なりとも貴女の声を聞きたいとここまで忍んでまいりました」
梨花は動悸のする旨を押さえ呼吸を整えながら、これが文を送りつけていた男かと初めて、李を間近に見た。
「私の気持ちや貴女を妻にしたいと馮様に申し込んでいたのはご存知でしたか?」
「はい」
「貴女の口から直にお返事を聞きたいのです」
梨花はまた驚かなくてはならなかった。
「お義父様が返事をなさったはずです」
「もしや貴女の意思が無視され、体面にこだわったご判断でお返事をいただいたと疑う訳ではございませんが、諦めきれないのです。どうか貴女の口から返事をお聞かせください」
梨花と李は気付いていなかったが、梨花の悲鳴を聞きつけて、馮夫人が男衆を連れて居室に入ろうとしていた。二人の会話が耳に入り、耳を澄ませた。
「お義父様がお返事したとおりです。わたしは二度と嫁ぎません」
「それは貴女の意思ですか? 強いられたものではございませんか」
馮夫人たちは物陰で緊張した。
「わたしの意思です。
強いられたのは貴方への返事です。
わたしの心は疾うに死んでしまいました。赤い衣装を着て嫁入るのをどんなに待ち遠しく、夢に焦がれたことでしょう。その日が来ないと判り、夫の喪に服して生き続けると決まってから、わたしは希望を捨て、喜びを捨てました。貴方の求める女は睦み合う悦びを知らず、家族との円居の慶びを知らぬ、心の死んだ女です。何故死人のような女をお求めになるのです」
「貴女は死んでいません。人と言葉を交わし、こうして手の触れられるほど近くにいます。今、目を怒らせ、頬を紅潮させて、生き生きと私に反論なさっています
望めば暗い場所から明るい日差しの許に出て、笑えるのですよ」
梨花は李の言葉に揺さぶられた。知らぬうちに涙が流れた。李は涙を喜びへと誘うものと感じた。しかし、それは梨花の生への執着に気付かせた印だった。
「貴方のお気持ちは判りました」
梨花は言った。そして近くにあった裁縫道具から鋏を取り、鋏の刃を顔に向けた。
「もっと早くにこうすれば良かったのです。もう世の中の理や男の方の言うことに振り回されたくありません。
自らの望むままにさせてください。尼になります」
李は止められず、梨花は鋏の刃を頬に当てて、ゆっくりと引いた。赤い筋ができ、血が筋に沿って盛り上がりってきた。
馮夫人は涙が零れそうになりながら、やっと二人の前に出てきた。
「悲鳴を聞きつけてきていました。ごめんなさい、話は聞かせてもらいました。
李さん、事を荒立てたくありません。このまま黙ってお帰りください。梨花は鋏を離しなさい」
家人が駆けつけてこられては何もできない。慮外者として捕縛されてもおかしくない状況で刀自から言われて、李はすごすごと屋敷を去った。
その後、春の到来を待たず梨花は世を捨て、尼寺に入ったと聞き、李は消沈した。梨花の望みは男のいない生活だったのかと、今更ながらに悔しくなる。
一体自分は梨花のどこに心惹かれて求婚したのだろう。男の押しや情熱に女はなびくものと世の人は言うが、李の恋情はかえって梨花が世捨て人になるのを手助けしたようなものであった。
望門寡婦の身の上に同情したのか、飾り気のない清らかさか、琴の音からか、梨花が手の届かぬ存在となり、李には全く判らなくなってしまった。