幻想混入Daily Life/自転車供養
霧中行/自転車供養
朝ご飯を食べ終わり食器を片付けていると、玄関から声が聞こえてきた。
――行ってきます。
同居人の笹崎圭の声だ。
私は慌てて食器に付いた水気を布巾で拭き取り、軋む音を立てながら食器乾燥機に放り込む。
――ちょっと待ってよ。もう、終わるから。一緒に行こうよ!
エプロンを畳みながら急いで玄関に出る。だが、そこにはすでに圭の姿はなく、閉じられた扉が冷たく鎮座していた。
私はため息を漏らしながらエプロンを力一杯に握りしめる。
皺になる。
皺って漢字は雛に似ているような気がする。
雛とはヒヨコの事で、黄色い鶏の小さな子供だ。ひな祭りとかひな人形とか、そんな連想からそれは女の子であることが浮かんでくる。ならば皺は、何の子なのだろうか? やっぱり女の子なのだろうか? 皺とは何かにとって、幼女に相当する存在である。そう考えると何か萌えて来ないでもない。
……
……
……
……
……
…………えっと?
あ、早く準備を済ませて学校へ行かないと。
まだ遅刻すると言うほどの時間ではない。エプロンの皺を軽く伸ばしてハンガーに掛けておく程度の時間は十分にある。ついでに食器をもう少し丁寧に片付けておく時間も。圭が早く出過ぎなのだ。早起きしてくれるのは同居人として非常にありがたい事だ。けれども、もうちょっとゆっくりしてコミュニケーション取ろうよ、と思う。昔一緒に暮らしていた父は、本当に朝が弱かった。というより、陽の光に弱かった。あの頃は――とはいってもほんの三年ほど前のことではあるけれども――棺桶の中でぐっすり眠る父を毎日叩くように無理矢理居間に連れ出して朝食を食わせたものだった。それに比べると、圭は非常に手が掛からない。手が掛からなすぎて、物足りない。個人主義に重きを置いていて、圭はあまり他人と接触しようとしない。同居人である私に対しても(三大欲求に関わる事例を除き)それは変わらない。
――つまんないの。
私は独りごちる。
私の言葉は私以外に誰もいない部屋を、ほんのりと広がっていく。
風のように流れていくのではなく、泥水のようにひどく何かが淀んでいる感覚。
独り言を繰り返す度に感じる、異質感。
届け先の無い言の葉。行き場の無い言霊の欠片は、きっと人の目には見えない空間の隙間に入り込み、溜まっていくのだ。歯と歯の間に挟まった、食べ滓のように。
私は口元を抑えて洗面所に走る。愛用のコップにうがい薬を三滴放り込み、水を入れて口の中に放り込み、すすぎ清める。
水を吐き出すと、少しだけ気分がすっきりした。
ダメだダメだダメだ。独り言は駄目だ。言葉の滓が隙間にはまり込み、部屋を淀ませ気分を閉塞させてしまう。
独り言を閉鎖された場所で呟くなんて、駄目だ。良いことなんて一つもない。使っちゃいけないんだ。
心に深く刻み込むように、私は今後独り言を使わないことを自らに誓った。
さあ、気を取り直して学校へ行こう。
身支度を手早く済まし、昨日の晩に用意した通学用の鞄を手に取る。玄関を出て、鍵を掛け、戸締まりを確認し、門を出た。
その瞬間、私は立ち止まってしまった。
見慣れたはずの街は、深い霧に包まれていて、隣家の輪郭すら定かではない有様だった。
――何これ!
思わず独り言を漏らしてしまい、私は慌てて口を押さえる。
しかしもう遅い。一度口にしてしまった言葉は、無かったことには出来ない。
覆水盆に返らず。零れたミルクを嘆くな。
あっさりと破ってしまった誓いに、思わず頭を抱えそうになる。
何かに掛けた誓い。それを意識せずに簡単に破ってしまったということは、自分が内心掛けた対象を軽視していることの現れだろう。この場合、誓いの対象は自分自身。つまり、私は自分自身の存在を意識無く軽視しているのだ。
そんな結論に少なからずショックを受けるも、兎にも角にも私は早急に意識を切り替える必要を感じ、頭を振った。
何も切り替わらなかったので、家の鍵を再び取り出し、玄関へと駆け込み、洗面所へ走り、蛇口を捻り、水を被った。
小さく息を吐く。
タオルで丁寧に水気を切り、人心地付くと、再び玄関に戻り家の外に出る。
霧に包まれた世界は変わらない。
この中を、圭は一人で学校へ向かったというのだろうか。
なんだろう。どうしてこんなに霧が出ているのか。この霧はあまりにも深すぎる。ほんの数歩先も見えないような有様では、普通に歩くこともままならない。だが、結局の所、学校に行くためには霧の中へと乗り出さないといけないのだ。圭が家を出たのはほんの数分前。迷うことなく霧の中へと入っていく圭の姿が頭に浮かび上がる。躊躇無く、少しも戸惑うことなく、余り前のように選択してしまうのだ。選択したという意識もなく。圭とはそういう人間だ。
私にはとてもまねはできない。
ここで、霧の中へと入るかどうか、迷っている時点ですでに圭に負けている。
くすりと。
どうしてか口から小さな含み笑いが漏れた。
圭に負けるという想像はそれほど不快ではなかった。むしろ、ある種の安心感を伴った心地よさすら感じるほどだった。
そんな自分を変だなと思いながら、私は再び小さく笑った。
それでどうにか決心が付き、私は軽い足取りで、霧の中へと足を踏み入れた。
ぎりんと。
鈍い金属のベル音が響いた。
随分と錆び付いているのか、軋んだような低い音が大きく混ざっている。自転車のベルの音のように聞こえた。
霧の中に足を踏み入れたばかりの私は、すぐに家の塀に貼り付くようにして、道路の隅に避ける。
ぎりんぎりんと。やはり軋んだベル音を鳴らしながら、自転車が目の前を走り抜けていく。自転車が走るにしては随分とゆっくりで。しかし歩くよりは幾分か速く。それでもこれだけ見通しが悪い霧の中ならば、危険なのではないかと他人事ながら心配になってしまった。だから、ベルを鳴らしながら走っているのだろうけれども。
ベルを鳴らしていると言うことは、自分が走行していることを視覚ではなく、聴覚によって相手に訴えているということだ。現に、ベル音にて私は警戒心を抱き、道の端に避けた。自転車を動かすという行為が、他者に対して一種の凶器を振りかざす行為になっていると、自覚しているということではあるが、同時に脅威を他者に対して警戒を促す――程度の良心は持っているということになる。
――ええと、なるのかな?
何となく自分の考えが理解できなくて、私は首を傾げた。
単純に考えると――悪いことをしている自覚はあるけれども、自分は悪いことをしているので近寄らない方がいいですよーと、他人に対して訴える程度の分別はある――ってことだろうか?
よくわからない。
偽悪というには、現実に危険な行為をしているし。悪になりきれない悪なのだろうか?
うん。下っ端戦闘員も大変だ。
何とか適当な回答を導き出して思考に決着を付け、私は霧の中を慎重に歩き始めた。
視界は相変わらずない。一軒先の家すらも、ぼんやりと霞んでいて、次の角すらも見えない。
体中にひんやりと湿った空気がまとわりついて離れない。気づくとじんわりと制服のシャツも湿って着ているように思えた。
制服――。ありふれた深い茶色のブレザーが、私の通う学校の制服だった。
そういえば――と思い出す。
うすらと霧の向こうに見えたさっきの自転車の主は、私と同じ学校の制服を着ているように思えた。たぶん、男子学生。
誰だったのだろう。顔は霧に隠れて判別できなかった。知っている人だったのかもしれない。だったら、何か言うべきことがあるような気がして、しかし何を言うべきなのか具体的な言葉が思い浮かばずに、私は首を傾げる。
――自転車は危ないから降りなさい。
何か違うような気がした。
――危ないから降りて歩いた方がいいよ?
ちょっと近づいたような気がする。
完全には気分と言葉は一致しない。けれども、完全なる言葉なんてものが存在するのかどうかはわからない。言葉には限界がある。言葉ではすべての事象を言い表すことはできない。その事実の認識こそが、言葉遣い士としてのはじまりの基底だ。私は言葉遣い士ではないけれども。知り合いの言葉遣い士を目指している少年は、以前そんなことを言っていた。言葉遣い士でなくても、それはすべての言語使用者に当てはまる現実なのだと。
だから、こんな所かと私は言葉の落とし所を妥協して、小さくうなずいた。
けれども、その対象が知り合いでなければ、結局私は言葉を掛けることはしないだろう。それに例え知り合いだとしてもあまり話をしたことがない間柄ならば、やはり言葉を掛けることもないだろうし。
うなずきながら、思考を遊びながら霧の中をゆっくりと歩く。
なるべく壁に沿うように。
危険を避けるように。
道程は長く、歩みは遅々として進まない。
この分ならば学校へ着くまで一体どれほど掛かるのだろうか?
全く想像が付かない。
このままだと確実に遅刻してしまう。そうなるとまずい。何がまずいのか、よくわからないけれども何となくまずいような気がする。
――なんでそんなに曖昧なんだろう?
よくわからない。遅刻してまずいことの具体的な理由が思い浮かばない。遅刻すると言ったって、一時間も二時間も遅刻する訳じゃないだろう。それに、この気象状況ならば、教師連中も理解を示してくれるだろうし。一時限目の授業は確か保健体育だったし。保健体育の内容なんて、今時の女子学生ならば誰だって知っている。保険の教科書は、食い入るように何回も見直したから、予習もばっちりだし。一回や二回、飛ばしたところで全然問題はない。強いて言えば、女教師の実地の体験談を聞けないことくらいだろうか? ちょっと残念のような気がする。けどまあ、それは後から「先生! 今日の一時限目の授業、遅刻して受けられなかったんで、ちょっと教えて欲しいんですけどー」と言って、放課後クラスメイトと一緒に押しかければ済む話だし。
霧は相変わらず晴れる様子がない。
そろそろ気温が高くなる頃だろうし、程なく晴れるとは思うのだけれども。
空を見ても真っ白。何も見えない。けれども、暗くはなってないことが救いだ。大気に不純物が少ないのだろう。だから、霧が深くても、陽光を遮ることなく地上に降りてくる。あまりにも乱反射が――それこそ無限と呼べるほどまでに――酷くて、太陽がどこにあるのかわからないけれども。
ぎりんぎりんと。
耳に聞き覚えがあるベルの音が響いた。
また違う自転車が近づいてきたのかなと一瞬思ったが、違うだろう。特徴のある錆びて軋む音は、先ほどの自転車のベルと同じもののようだった。
随分前に追い越していったというのに、なぜか追いついてしまった。やはり自転車でも同じように、霧の中を進むのは困難だったのだろう。自転車から降りて、徒歩で歩いているのかもしれない。ならば、大きな荷物(すなわち自転車)を抱えて歩くのは、普通に歩くよりも余計に困難だろう。
なんだか嬉しくなって、私は心持ち足を速めた。
苦労して霧の中を歩いているというのに楽々と追い抜かれたことを少し根に持っていたのかもしれない。
他人の不幸は蜜の味――ではないけれども、少し意地悪な気分は、私の心を高揚させた。
スキップでもしかねない勢いで足早に、前行く自転車の主へ追いつこうと、道を行く。
その時だった。
ぎぎいいいいっと金属の擦れる不快なブレーキ音。きゅるきゅるきゅると、タイヤが地面を擦る音。びいいいっと、鳴き声のような長いクラクション。がたんと何かが倒れる音。ぎぃちゃっと、つぶれる音。そして「馬鹿野郎っ!」と短く発せられる怒声。ぶろろろおんと、急速に遠ざかっていく自動車のエンジン音。
霧に隠れて何も見えない。
何も見えなかったが、何かとんでもないことが起こったと言うことだけはわかった。
慌てて私は走った。
程なく、霧の向こうにぼんやりと佇む人影が見えた。
人影の足下には何かが倒れている。
人影は、やはり私と同じ学校の制服を着た男子生徒のようだった。
――だ、大丈夫ですか?
何と声を掛けるのか一瞬迷ったけれども、結局出てきたのはその言葉だった。何があったのかはわからない。けれども何かが起きた。言葉を選んでいる余裕はない。ならば、この言葉が一番適当だろう。
言葉を受けて人影はゆっくりと振り向き、私(の影)を認めて、とてもとても沈んだ声で呟いた。
――こいつが……
――こいつ?
視線を落とした人影につられるように彼の足下へと目を向ける。フレームがあり得ない方向に大きく曲がった自転車が倒れていた。
チェーンが外れたのか、ちりちりちりと小さく音を鳴らしながらタイヤが回っている。タイヤの回転は少しずつゆっくりになっていく。次第に間隔を広げていく、ちりちりという小さな擦過音が、死に近づいていく生物の心音を連想させた。だんだんと弱っていく。小さくなって、消えていこうとする。そうして最後に、小さく、本当に小さく、ちりっと、音を立てて、タイヤの回転は止まった。
私は――私と彼は、ずっと黙って、その様子を見ていた。
ああ、今私は、この人の考えていること、感じていることがわかる。
ちらりと横目で男子学生の表情を盗み見た。しかしすぐに傍に立っているというのに、深い霧は男子学生の表情を私の目から隠す。
やがて彼はつぶやいた。
――死んだ。
そう、死んだ。
その言葉は、私の気分にぴったりと重なり、重くのし掛かってきた。
私はこの自転車とは無関係だけれども。看取った者として、ひどく神妙な気分で彼の言葉を受け入れていた。
彼にとってはこの自転車とはパートナーであり、ずっと毎日を共に過ごしてきたのだろう。その死を想う、彼がどんな気持ちなのか。それは想像しても決して想像しきることはできない――ひどくひどく有り余るほどの感情に溢れているだろう。彼の感情の嵐を思い、私は静かに彼の言葉を聞いていた。
――供養しなければ。
そうだ。死んだ者は供養しなくてはならない。そうしないと浮かばれないどころか、最悪の所、悪霊として蘇り人々に害をなす存在へとなりかねない。民間信仰だと、おおむねそんな感じだ。だから、供養は適正に行われなくてはならない。
ゆっくりとした動作で彼はしゃがみ込み、中央のフレームと前輪が大きく曲がった自転車を起こした。中央のフレーム。人間だったら、背骨に当たる所だろうか? 普通ならば真っ直ぐに伸びていなければいけない部分がひん曲がっている。明らかに再起不能。ご愁傷様。私は合掌した。
彼は自転車を運ぼうとして――ふらふらと、二、三歩動いて、すぐに止まった。
ハンドルを持って運ぼうとすると曲がったフレームが胴体を大きく左右に振り回し真っ直ぐに進めない。かといって胴体を持てばハンドルが好き勝手に動き回り非常に運びづらい。
大変そうだと他人事のように思っていると、不意に彼が振り向いて声を掛けてきた。
――ああー君。ちょっと悪いんだけど、この自転車、丘の上の光隆寺まで運ぶの手伝ってくれないかな?
確かに一人で運ぶのはかなり困難だろう。ましてやこの深い霧の中だ。
――うん、いいよ。
返事をして傍まで近づいて、さてとどこを持とうかと、考えた。
――あれ、お前ひょっとして。
けれども訝しげな彼の声で、考えを止めて彼を見た。不思議そうに見る彼の顔に、見覚えがあるような気がする。
あるような気がしたので、私はぐっと顔を近づけて彼を見る。彼の方が頭一つ分背が高いので、背伸びしたように成ってしまったけれども。
近づくと、彼は逃げた。
――なんで逃げるの?
――なんでって……お前。
――近づかないと、顔がよく見えないじゃない?
ぐいっと再び顔を近づけると、彼は今度は逃げなかった。堅く引きつった表情は、記憶にあるものだった。どことなく頬の辺りが赤く染まっている。熱でもあるのだろうか?
――あ、蜜柑箱くん?
クラスメイトだった。あまり話をしたことはないけれども。蜜柑箱なんちゃら。下の名前は覚えていなかったけれども、特徴的な姓を持つ彼のことは記憶に確りと刻まれていた。
私は彼から離れて、地面に確りと足を着ける。
――ああ、やっぱりそうか。よかった。
ひどく安堵の表情で蜜柑箱くんはうなずいた。何が良かったのだろう? 助力を頼んだ相手が知っている人物だったからだろうか?
しかし、改めて知り合いだとわかったところで、私はふと、さっき何があったのか、非常に気になってきた。
――ねえ、さっき何があったの? 車の音が聞こえたけれど? ひょっとして、当て……いや、轢き逃げじゃないの?
前ハンドルを蜜柑箱くんが抱えるように持って、私は後ろの胴体を真っ直ぐ進むように支える。
――ああ。自転車で霧の中を走ってたんだが……さすがに危ないと思って、押して歩いていたんだ。交差点を曲がったところで急に車が後ろから来て、こいつは俺を庇って逝ってしまった。
哀しそうでいて苦しそうな視線を自転車に向けながら蜜柑箱くんは語った。
語りながらハンドルに備えられたベルを鳴らそうと、つまみを親指で弾いた。
ぎぎぎっと。
軋んだ音だけを立てて、ベルは鳴ることがなかった。
――ああ、こいつはもう、鳴くことはないんだな。
そう言う蜜柑箱くんの表情を、私はとてもではないけれど見ることができなかった。
私は両腕に力を込めて、ただ自転車が曲がって進まないようにとだけ注意して、歩いた。お寺へと向かう道すがら、ほとんど会話は無かったけれども、蜜柑箱くんは時折思い出したように、この自転車の思い出を語ってくれた。
従姉のお下がりだとか。小学校の頃からの付き合いだとか。遠出して隣の県の遊園地にまで行ったとか。去年の夏休みは日本一周に挑戦するつもりだったが、両親に反対され断念しただとか。
私は適度に相づちを打つのみで、蜜柑箱くんの話したいように話させていた。
質問することもなく、会話を誘導することもなく、ただ語りたいように語らせて、その言葉をじっくりと聞いていた。
時折調子に乗った蜜柑箱くんが、自転車を貰った従姉が初恋の相手だとか、その相手に二年前の夏に童貞を奪われただとか、何か聞いてはいけないことまで話し始めたりもしたけれども、私はただ黙って聞いていた。
だんだんと霧も晴れてきて、前を歩く蜜柑箱くんの後ろ姿も確りと見えるようになってきた。
普段歩くよりももっと遅く。
とっくにもう学校は始まっていて。
遅刻も確定で。
一時限目も半ばが過ぎ。
もう、霧を遅刻の言い訳にできないほど遅れた、けれども。
今はそんなこと、全然気にならなかった。
やがて丘の上の平台に辿り着き、私たちは右から左へと読む光隆寺の看板の下を潜っていく。
――ちょっとここでこいつと待ってて。
木の下。水飲み場の近くで蜜柑箱くんは離れて、お寺の中へと入っていった。
だいぶ薄くなったとはいえ、霧はまだ深い。蜜柑箱くんの行方も、何となくお寺の中に入っていったように感じただけで、はっきりとはわからなかった。このまま蜜柑箱くんが霧の中に消えてしまい、還ってこなくなるんじゃないのか? そんな錯覚がなぜだか浮かんできて、薄ら寒くなり私は両腕で自分の体をぎゅっと抱きしめた。
――そんなことはないと、わかってはいるんだけど。
自動的に沸き上がる感情は、時に言葉に出来ない力となって私に襲い掛かってくる。多くの場合、ただ翻弄されるだけで、うまく付き合えた例しがない。付き合わず、受け流せば良いのだというのは、同居人である圭の言葉。言葉ではそんなことを言うものの、圭はその受け流し方を教えてくれたことは一度もなかった。いや、一度はあるように思う。
――ええとほら、あれ、こうだよ。んと、ほら、ここをこうやってこんな感じで……
身振り手振りを交えて説明しようとするのだが、さっぱりわからなかったのだ。圭自身も自分が何を言ってるのかわからなくなったのか、ぶすっと不機嫌そうに黙り込んで、以来一度も教えてくれない。
蜜柑箱くんは、こういう時、どうしているのだろうか?
私はすぐ側にいる自転車を見る。
真ん中の、背骨に例えたフレームだけが赤く、他の装飾はすべて銀。塗装が剥がれて錆びになっている部分は数知れず。
けれども、蜜柑箱くんの話を聞いて、大切に、共に生きていた、ということだけは間違いなくわかった。あの時蜜柑箱くんは身の内から沸き上がる感情を、ただ静かに耐えているように見えた。けれども押さえつけているようには見えなかった。私に対して語るこの自転車との思い出は、とても優しさに溢れていたから。
私は自転車を守るように、木の下に立っていた。
程なく、私を呼ぶ声が聞こえる。
寺の入り口の方で、誰かが大きく手を振っている。
――おおうい。略式だけど、供養してくれるってさ!
え? 今からだろうか?
――丁度予定が空いてるそうなんだ。
それは良かった。けれども、生前親しくしていた者を呼んだりするものではないのだろうか?
――ああ、従姉ちゃんは今、海外だしな……俺だけで十分だろう。あ、いや、できればお前も参加してくれると嬉しい。
――私? いいの?
――看取ってくれたからな。ここまで運んでくれたし。お願いする。
準備は即座に行われた。
簡単な打ち合わせが、蜜柑箱くんとお坊さんとの間で交わされて、その間、自転車は本堂へと運び込まれて安置された。
気づくと私と蜜柑箱くんは隣に正座して、目の前のお坊さんの有り難い説経を聞いていた。
――みゃんぎょーぼーじぃーつーねーばーぎゃー。
なんかさっぱり意味のわからないお坊さんの呪文を聞いたりして。
気づくと供養の儀は終わっていた。
足のしびれをほぐしながら、私はお寺を出た。
大きく伸びをすると、肩の辺りが小さくぱきっと鳴った。
知らずの内に緊張していたみたいだった。仏教とかお寺とか。今まで縁がないものだったからだ。何か粗相があったかなとも思ったが、蜜柑箱くんもお坊さんたちも特に何も言わなかったから問題はないだろう。
いつの間にかすっかり霧は晴れていて、青空が覗いていた。空が高い。魚の背のような、鱗雲が真っ直ぐに東西に延びている。
眩い日差しが暑く感じられて、私はブラザーの上着を脱いで脇に抱える。
――おおぅい!
声を掛けられた。
――はあい!
元気な蜜柑箱くんの声に気分良く振り向くと、なぜか彼はぎょっとした表情で硬直した。
どうしたのだろうと首を傾げると、彼は戸惑った様子で、提案してきた。
――こ、これから学校だろ? お、送っていくよ。
――送っていく? どういうこと?
学校に行くのは同じだろうに。
どうしてそこで送るとかいう表現が出てくるのかと不思議に思っていると、蜜柑箱くんはお寺の裏の方に駆けていき、視界から消えてしまった。何をしに行ったのかと、唐突とも思える行動に戸惑っていると、蜜柑箱くんは真新しい自転車を引っ張って出てきた。黒一色のフレームの、どことなくスポーティな雰囲気を持った自転車。
――どうしたの、その自転車? お寺の人が貸してくれたの?
聞くと、蜜柑箱くんはどこか気まずそうに表情を歪めて、応えた。
――いや、今日、朝、霧が濃かっただろう? だから、間違えたんだ。
――何を?
――古い自転車と、今の自転車を。
――へ?
――従姉ちゃんに貰った自転車は、音も軋んでだいぶ古くなったから、最近はずっとこっちを使ってたんだ。
――その自転車が、なんでお寺の裏から出てくるの?
蜜柑箱くんは照れ臭そうに言った。
――ここ、俺ん家だから。
……なるほど。
謎ってほどのことでもないけれども。
些細な疑問は解けた。
――う、後ろに乗って行けよ。
なぜか怒ったように言う。
さっきから何なのだろうか?
妙に挙動不審だ。お寺が自分の家と言うことを黙っていた、と言うことだけじゃない。何か蜜柑箱くんの様子はおかしかった。私の方をちらちらと見ながら、それでいて視線が合うと、慌ててそらす。どうしたというのだろう?
――何か、企んでる?
聞いてみた。すると、蜜柑箱くんの表情は青ざめた。少しびっくりした。本当に何か企んでいたのか。
――あ、いや、悪い。じゃなくて、黙っててごめん。その、それだ。
挙動不審はさらに顕著になり、蜜柑箱くんは私を指差して目を閉じたり開いたり口をただ意味もなく動かしたりと百面相を繰り広げている。
代名詞と身振りだけを振り回す様子は、言葉で説明しようとして出来ずにいらついている、同居人の圭とそっくりだった。
男の子ってこういう時、皆同じことをするんだなーと、のんきに感慨に浸っていると、蜜柑箱くんは顔を真っ赤に染めて、言った。
――いや、その……透けてる。
何が? と思って自分が指差されていることに気づき、私は自分の体を見下ろした。
――あら。
その通り。おそらく深い霧によって水を吸ったのだろう。濡れたブラウスが肌に貼り付いて、下のブラジャーが確りと浮き出ていた。
――ええと、ああ、そっか。
いそいそと私はブレザーを着直して、ボタンを確りと留め直す。意味もなくスカートの埃を払う動作をして、くるりとその場で一回転。身だしなみチェック終了。
――さあ、学校へ行きましょう!
にっこりと微笑んで、蜜柑箱くんの肩を叩く。
――お、おう。行くか。
蜜柑箱くんが自転車に跨るのを待って、私はその後ろのステップに足を掛ける。蜜柑箱くんの声からはまだ戸惑いが抜けていないようだった。
だからか、私は悪戯心が湧いてきて、自転車をこぎ始めた蜜柑箱くんの背中に向けて、抱きつくようにしてぎゅっと胸を押しつけてみた。
――のわっ!
とんでもない大声を上げて、自転車は急停止。
予測していた私は、とんっとステップから飛び降りる。
――何をする!
顔を真っ赤にして照れながら、蜜柑箱くんは抗議の声を上げる。
私は少し考えて応えた。
――ええと、嬉し恥ずかしエロイベント?
――お、おまっ!
口を大きく開けて、私を指差す蜜柑箱くん。私は思ったことを、そのまま口にする。
――何これくらいで驚いてるの? 童貞じゃない癖に。
――って、どうして知ってる!
――どうしてって……さっき、自分で話してたじゃない。年上の従姉のお姉さんに教えられたって。
まさか、忘れちゃったのだろうか?
自転車の死に動転してて。覚えてないとでもいうのだろうか?
そのようだった。
蜜柑箱くんは驚いた表情のまま、何かを考えるように宙に視線を向けた後、苦虫を噛み潰したような表情になり、固まった。
――呆れた。本当に覚えてないのね。
嘆息と共に言うが、蜜柑箱くんはまだ渋面のまま固まっていた。
これじゃ、話が進まない。
だから私は蜜柑箱くんに近づき、若干逃げるように引いた蜜柑箱くんに軽いショックを受けるも、耳元に口を寄せて、囁くように言った。
――代わりに私の処女喪失話を教えてあげる。
ぎょっと蜜柑箱くんは飛び退いた。
自転車がガタンと倒れる。
あまりにも滑稽な様子に、私は声を上げて笑った。
――あははははっ。えっとね、あれは確か一八三年前のスイスの高原で……
――って、女の子が軽々しくそんなことを話しちゃいけませんって……ひ、ひゃくはちじゅうさん年前?
――うん。一八三年前。
軽やかに断言してみせると、蜜柑箱くんはからかわれたと思ったのか、憮然として自転車を起こしていた。
その様子にまた笑いが誘われる。
けれども今度は我慢する。
――ごめんごめん。もう、言わないわ。内緒ね。
言いながら、自転車を起こす蜜柑箱くんを手伝おうとする。
ハンドルを持ち上げて、ふと目の前に奇妙な物が飛び込んできて、疑問の声を上げた。
――あれ? これは?
物自体はそれほどおかしなものじゃない。むしろ当然のものだ。それが、一つだけだったら、ならば。
けれども、二つ並んだ自転車のベルは、奇妙としか言いようがない。
一つは真新しく、元よりこの自転車に付いていた物だろう。フック式ではなく、ボタンで鳴るもののようだった。
もう一つは錆び付いたフック式のベル。
――ひょっとして?
尋ねると、蜜柑箱くんはうなずいた。
――ああ。あの自転車のベルだよ。
それだけ言って、自転車に跨る。私も今度は何も言わず、後輪のステップに足を乗せて立って、蜜柑箱くんの肩に手を添えた。
丘を下る自転車は、すぐにスピードに乗り出した。霧もすっかり晴れて、視界を邪魔する物はない。風は気持ちよく、日差しも暖かい。濡れたブラウスも、学校に着く頃にはすっかり乾いているだろう。
けれども、速いスピードはそれだけで危険だ。
警告のベルを鳴らそう。
蜜柑箱くんもそれをわかっているのか、彼の手がゆっくりとベルへと伸びていくのを、私はじっと見ていた。
親指がつまみに掛かり、一気に弾かれる。
ぎりっぎりっ。
軋む金属の音。ほとんど響くことはない。
けれども彼は諦めなかった。
何度も、何度も、つまみを弾くことを繰り返す。
愚直に、一定のリズムを保ち。何度も、何度も弾く。
消えてしまった音を、再び鳴らそうと。
途絶えてしまった鼓動を、再び動かそうとするかのように。
蘇生術。心臓マッサージ。
そんな単語が私の頭を過ぎっていった。
そうすれば、失われた物を取り戻すことができると、信じているかのように。
ぎりっ……ぎりっ……ぎりっ……
儀式は続いていく。
終わることのない儀式。けれども、何の偶然だろうか。
ぎりっ……ぎりりっ……ぎりりっ……
幽かに、音に、違う物が混じり始めた。私の手には、自然に力がこもり、彼の肩を強く掴む。圧される彼の行為にも益々熱意が籠もっていく。
ぎりりりっ……ぎりりりっ……ぎりりりりっ……
今や、その音には明らかに、金属の響きのようなものが混ざってきていた。
彼の頭の中には今、何が渦巻いているのだろう。
どんな衝動が蠢いているのだろう。
自転車との思い出か? 従姉との思い出か?
部外者である私には、推し量ることなんてまったくできない。
けれども、何かを手伝うことは、できる、のだろうか?
後ろから見た蜜柑箱くんの表情は、なんだか泣いているようにも見えた。
肩は少しも震えていない。けれども。
ぎりりりりっ……ぎぎ、りりりりっ……
そして、ついに。
ぎりりりりりっ……りりっ、ぎ、りん……ぎりりりりりいん――
ベルの音は、鳴り響いた。
最初の弾けるような響きを耳にした瞬間、蜜柑箱くんの肩がびくりと震えた。
そして、蜜柑箱くんの親指は、止まった。
自転車は軽快に道を進んでいく。
丘を下りきり、平坦な道に入っても同じだった。
蜜柑箱くんの親指は震えていた。
震える指は、ゆっくりと、再びベルのつまみへと伸びていく。
そして、指がつまみへと添えられた瞬間、再び力強く、弾かれた。
ぎりりりぃんっ
高らかに奏でられるベル音は、金属の軋みを多く残していたものの、確かに広く鳴り響き、広がっていった。
それは私が一番始めに聞いた、蜜柑箱くんの――蜜柑箱くんが従姉のお姉さんから貰った――自転車が奏でていた音と同じ物だった。
――よかったね。
余韻が空気に溶けるように消えたころ。私は蜜柑箱くんの耳元に口を寄せ――胸が彼の背中に当たらないように少々苦労しながら――囁いた。
――うん、うん……
彼は子供のように頷いていた。
彼の横顔に涙の痕があったことは、自分だけの秘密にしておこうと、こっそり決めた。
微笑ましげに彼を見つめていたら、彼は軽く頭を振って姿勢を正した。
おや、と思っていると。
――ようしっ!
いきなり声を上げたかと思うと、猛烈な勢いで自転車のペダルをこぎ始めた。
――あわわっ。
姿勢を崩していた私は慌てて、さらに姿勢を崩してしまい、意図せず彼の背中に抱きつく格好になってしまった。彼の背中はぴくりともしない。意外とがっしりとした感触に、今度は逆に私の方がどぎまぎしてしまった。
――はやぁ……
息を吐いて、姿勢を整える。
気を取り直すように頭を振り、蒼い空に向けて号令を掛ける。
――よし、一気に学校まで駆けるよーっ!
――おおう!
力強い声と共に自転車は駆けていった。
学校まであともうすぐ。
空を見上げると、北の方に、どことなく自転車っぽい形の雲が浮いていた。
ただの偶然だろうけれども。
蜜柑箱くんに教えてあげたらどんな反応をするだろうかと、楽しくなってきた。
そうして、私は口を開いた。
――あのね、蜜柑箱くん……
学校へ着いた後。
一限と二限をさぼり、揃って登校してきた私たちに対して、クラスメイトの間で在ること無いこと色々騒がれることになるのだが。
それはまた、別のお話。
いつか続きを書くことが無きにしも非ずかもしれません。
この短編の、幻想と日常の混在具合は、わりと個人的に理想的です。
この話はわりと大人しめですが、同じ舞台でもう少しぶっ飛んだ話もいつか書くかもしれません。




