窓の女性
部活の朝練があるので、私はいつも早めに家を出ることが多い。
肌寒いこの季節は外もまだ暗く、私のように道を歩く人の数も少なかった。
冷たい風から身を守るように背中を丸めて学校へ向かっていると、ある家の窓に、人影が見えた。
見上げれば、それは私よりも1つ、2つは年上だろう、綺麗な女の人だった。
長い黒髪に、遠目でもよく分かる白い肌。
女の人は窓の外をぼう、と眺めており、私の視線に気付いていないようだった。
この家の人だろう、と特に何かを思うこともなく、私はすぐに意識を学校へと向けることにした。
それから毎朝、私はその女性の顔を見ることになった。
女性は毎朝、同じ部屋の同じ窓の前に座り、何をするでもなく、外の景色を眺めている。
彼女の目は常に、薄暗い空へと向けられていた。表情は無く、何を考えているのかも分からない。
登校途中で、その家の窓を見上げるのが日課となってしまった私は、いつしか彼女が何を考えているのか、彼女はどういう人なのか興味を覚えていった。
朝の時間以外、私は彼女の姿を見たことがない。外出している様子もなく、帰宅する時間には、窓はカーテンでぴったりと閉め切られている。
病弱な人なのだろうか。
それとも私が学校にいる時間に、外に出ているのだろうか。
そうやって妄想を続け、私の頭の中には彼女の勝手なイメージが作り上げられていく。
私はいつしか、彼女に恋をするようになった。
ある夜、私はついに件の女性について母に尋ねることにした。
ここからあまり離れていない家に住む、毎日早朝にのみ顔を見せる女の人。
私の話を聞いた母は、ああ、あそこの人ね、と言った。どうやら時々あの家の人と顔を合わせることがあったらしい。
母は言った。
「でもおかしいわねえ。あそこに住んでるのはおじいちゃんが1人だけで、そんな女の人が住んでるなんて聞いたこともないんだけど」
首をかしげる母の言葉を聞きながら、私の中では疑問が渦巻いていた。
母の話によればあの家には初老の男性が住んでいるだけ。若い女性が住んでいるという話は、全く聞いたことがないという。
どういうことなのだろう。
……いやいや、きっと母が知らないだけだ。きっとその人の親戚か何かが一緒に住んでいるだけだ。
そう無理矢理納得させて、私は湧き上がった違和感を捩じ伏せた。
翌日、私はいつものようにあの家の前にやってきた。
カーテンの開いた窓にはやはり、女の人の姿。
あれ?
女の人の顔が、此方を向いていた。恐ろしいほど均整のとれた顔が、私を見下ろしていた。
私の心臓が一瞬跳ねる。
が、それは直ぐに止んだ。
私へとまっすぐ向けられた彼女の顔は、いつものように無表情。だが、その中にある違和感に、私は気付いてしまった。
そして、思い出してしまった。
まばたき。
今まで私は、彼女がまばたきをしたところを一度も見たことがないということに。
此方を見つめる彼女の澄んだ瞳は――生きた人間のそれではないように見えた。
まるで人形のような。
そこで私は考えるのを無理矢理止めた。心臓がさっきとは別の意味で激しく動悸するのを感じながら、窓を視界に映さないように、学校へと足をひたすら動かした。
それから、私は二度とあの窓を見上げることはなかった。
一度目を向ければ、光も生気も無い2つの視線に気付いてしまいそうな気がして。