灰色の鑑定士
僕は灰色の街をどこへ行くあてもなく、ただひたすら西へ西へと歩いていた。
石油コンビナート工場からのすすけむった土ぼこりが時折、僕の片方の頬を通りすぎていった。
僕の右肩には、父親が事業で失敗して残して死んだ借金一千万円が、左肩には病気の妹の手術代一千万円のために親戚や大学の友人にまで声をかけてあつめた借金がのしかかっていた。
完済できる見通しがあったのかと言われれば、はっきりそうだとは言えないが、叔父が斡旋してくれた石油コンビナートでの経理の仕事で毎月地道に返していけば、なんとか死ぬまでには完済できる手はずだった。
けれど今朝、工場長は僕にこう言い放った。
「今日からもう工場へ来なくていいよ」
借金返済と母と妹を食わせるだけでやっとな僕のクビを切ったら、一体、僕の生活がどうなるかくらいかは解っておられるはずなのだが、僕がいかに情に訴えようが、生活費と借金返済の請求書を見せて論理立てて説明しようが、工場長は目をぎゅっとつむり、黙ってしまわれたのだ。
僕は仕方なく、とぼとぼと無機質な灰色の工場群に沿った砂利道を歩いていた。
僕はもう、どこかで死んでしまおう。
そんな考えが頭をよぎった時、後ろから鼻をすすり、時折むせぶような声が聞こえてきた。振り返ると、おかっぱ頭の小さな女の子が、泣きじゃくりながら僕のあとをついてきているのが見えた。
僕は道に立っている不細工な電信柱に寄りかかり、女の子が来るまで少し待ってみることにした。
女の子が僕に目もくれず、涙をぼろぼろ流しながら通りすぎようとするので、僕はあわてて、「そんなに泣いて、どうしたんだい」と声をかけた。
女の子の話によると、家が貧しく、もう三日もご飯を食べていない。あまりにひもじいから、ついに母親の唯一の形見をこれから質に出してしまわなければならない。母親の形見以外に売れるものがもうなくなってしまった。それがとても悲しくて、辛くてやりきれないという。
「そうか……。大事にしていた物を質に出さないといけないのか。それはさぞかし悲しいな……」と、僕は言った。
この子は、僕と同じ身の上なのだなと同情して、
「僕も質屋へついていってあげよう。その方が心強いだろう?」と言うと、女の子はコクンとうなづいた。
灰色の雲が分厚く、ずっと辺り一面を覆い隠し、今にも泣き出しそうな空模様だった。
僕たちは、灰色の中心街にまでやって来た。鉄かスチールでできた車輪のついた四角の構造物が鉛色のコンクリを慌ただしく行き交っていた。
六辻街までやってきた。僕は女の子のいう質屋が、どこにあるのか全く見当がつかなかった。しかし女の子は、すたすたと二時の方角の道を進んでいくので、僕はあとをついていった。
そこは、現代的な庭付き住宅街だった。
しばらく歩いていると、煉瓦作りの豪奢な家の間に、廃材を集めてなんとか形にしたようなぼろぼろの小屋が、挟まれて立っていた。
「ここだわ」と、地図を手にした女の子は小さく叫んだ。
「○○鑑定所 何でもお売り下さい 高く買い取ります」という看板は、サビが侵食していて、肝心の○○の部分が読めなかった。
女の子は傾いた扉を叩いた。
「すみません。見てもらいたい物があるのですが」
中はしんと静まり返っていた。
「ここで、本当に合っているのかね。店を間違えているんじゃないかな」
「いいえ」
女の子は、取れかけたドアノブに手をかけた。
ギイ……。
中は薄暗く、段ボールの空き箱や新聞紙の束がうず高く積まれているだけだった。
「ここは空き家に違いないよ。きっと、ずいぶん前に潰れてしまったんだ」と、僕が女の子の手をつかんで引き返そうとすると、「おじさん、嫌なら一人で帰ってちょうだい。私は、どうしてもお金がほしいのよ」と、僕の目をまっすぐ見て言うので、少し圧倒されて、そのまま地下へと続く暗い階段を降りていくことにした。家全体がみしみしと揺れた。
地下には部屋がいくつもあった。そのうち、すりガラスの窓がぼうっと黄色に灯る部屋があったので、きっとこの部屋だろうと思った。
「すみません、どなたかいらっしゃいませんか」と、女の子がさすがに緊張気味に声をかけると、中から「はいはい、どうぞ」と、雑巾を絞ったような声が返ってきた。
「いらっしゃい、そこのソファへかけて待っていて下さい」
部屋は狭いものの、応接セットが置いてあり、観葉植物も一角に飾られていた。
僕たちは、黒革のソファに腰をおろした。ソファの座面があまりに柔らかく、二度と立ち上がれないほど僕の身体は深く沈みこんだ。
声の主はパーテーションの奥からのっそり出てきた。
声から推測するに、てっきり、八十くらいの歯の抜けたよぼよぼの老人を想像していたが、出てきたのは、僕と同じか、むしろ少し若いくらいの青年だった。
彼はタキシードを見事に着こなして、マグカップを三つのせた銀の丸い盆をもっていた。
「すみませんね。お客様が直にいらっしゃることなんて、滅多にありませんから、家はぼろぼろですし、片付けも手をかけておりませんで。まことにひどいもんでしょう」
白い手袋を着けた手をもみながら言った。
「え……いえ」
女の子は、すぐさまスカートのポケットから布にくるんだ物を取り出し、男に差し出した。
男はなれた手付きで品物を受け取ると、ゆっくり布をのけた。
それは、真っ赤な石のついた指輪だった。男はふむふむと、あらゆる方向から指輪を眺め回し、しばらくうなった後、口を開いた。
「なるほど。これは、本物のルビーの指輪です。しかも、限られたところでしか採れない稀少なルビーの原石ですね。価値にすると、百万円」
「百万円!!」
僕は思わず立ち上がろうとした。けれど、柔らかすぎる座面のせいで、腰は半分も浮かなかった。
「しかし、本当にこちらを売ってしまってよろしいんですか? こちらは、あなたの大切な宝物とお見受けしますが」
男は丁寧に指輪を女の子に返した。
「ええ。母の唯一の形見に違いありません。本当は売ってしまいたくないけれど、弟や妹たちを食べさせていかなければならないんですから、仕方がありません。百万円もあれば、充分ですわ」
男はコーヒーを一口すすると、口元を歪ませ、ほんのり笑みを浮かべた。
「たった、百万円ぽっきりでいいというんですね」
ぽっきり……
父親が残していった借金一千万円と、妹の手術代一千万円、そして日々の生活に必要な経費と、少しばかりの貯蓄とを考えると、百万円では足りないのだ……。
僕の頭の中では、お札が目まぐるしく飛び交っていた。
せめて、五千万円……。
男は手にしたマグカップをテーブルに置いた。
「では、一億五千万円でどうでしょう」
「い、いち……おく」
僕の頭の計算機は、ぼんっと黒いすすを上げてしまった。ソファに沈みこんだ僕の喉は、からからに乾き、ウーウーという低いうなり声しか出せなかった。
「それでお願いします」
女の子はぺこりとうなづいた。
「では、こちら、きっかり一億五千万円です。お確かめ下さい」
古雑誌を入れるのにちょうど良さそうなしわしわの紙袋に、ぎっしりと札束が積まれてあった。
僕は思わず、お札を一枚一枚光に透かしてみたが、どれも本物らしかった。
男は一人掛け用の椅子に腰かけると、僕の方を見て言った。
「私のことをたいそういぶかっておられますね。トリックでも詐欺でもありませんよ。鑑定士の私の目利きは絶対ですからね、信頼と実績にかけては十分保証させていただきますよ」
ようやく僕が札束を袋に戻すと、男は口を開いた。
「それはそうと、あなたも何か売りに来たのでしょう。さっそく見せていただけますか」
僕の売り物と言えば、着ている灰色のすすけた作業着、薄っぺらい鞄だけだった。これらは僕の全てだから、売ってしまうわけにはいかなかった。
「私には売り物になるようなものはありません」と答えると、男は僕の全身をなめ回すかのようにして見た後、ふむふむと頭を上下に振った。
「なるほど、なるほど。これは、これは」と、驚いたような顔をした。
「1342兆円……」
「……え」
「あなたには、1342兆円の価値があります。いかがでしょう。この際、ご自身をすっかり売り払われては。蒸発されたお父様の借金も、妹さんの手術代の借金も、全てまかなってあまりあるほどではないでしょうか。あなた自身を手放したら、これ以上とないくらいに身軽になれるのではないでしょうか」
男はコーヒーをまた一口すすった。
「私の何がそんな値段がつくんですか」と、僕はまだ呆気にとられたまま聞いた。
「あなたの才能。あなたの今後の人生の価値に対する値段です」と、男は淡々と答えた。
「僕が言うのも変な話なんですがね、僕の未来に、それだけの価値があるとは到底思えないのですが」と、僕は言わなかった。ただ、身軽になりたかった。そうして、僕は僕を質に出すことにした。
少女は札束のつまった紙袋を両手で大事そうに抱え、帰っていった。僕の方は、1342兆円もの大金を抱えて帰ることはできないので、僕の銀行口座に分割して入金してもらう手はずになった。
半分ウソで、半分期待して待っていた。
ほぼ底をついていた僕の通帳の、ゼロのなんと多いことよ。
きっかり、1342兆円が入金されてあったのだ。
僕は三畳の汚い部屋で、いつまでも笑った。
この国の借金、1342兆円。
これは、正真正銘、僕のお金だ。
僕はこのお金を使ってこの国の借金を全て返してしまおうか。
そんな途方もない考えが僕の脳内をぐるぐる駆け巡った。この国の救世主になることを、もしかして彼も見抜いていたのではないだろうか。
事業で失敗した父親と、重い病を抱える妹のために、借金返済に血へどを吐きながら、地道に働いたこの僕が、いかに徳の高い善人であることを、見抜いていたに違いない。
もしかして、工場長が僕のことを、彼に話してくれていたのかもしれない。だから、こんな工場なんかに僕を置いておくのはもったいない。もっと、有益な人生の用い方があるだろうというお考えで、僕をクビにしたに違いない。
僕は国会議事堂へと走っていた。そうして、僕は本当に、この国の借金を完済した。
……
僕の財布には、ひときわ輝く五百円玉が一つ入っている。なにより、これがいくぶん高価に見えた。
〈終〉
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