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養蝕  作者: 祐川 千
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「振津、この後ヒマ? カラオケ行こうよ」

 下校のチャイムが鳴り、カバンを抱えて教室を出たところ、クラスメイトに声をかけられた。曖昧に笑って、首を横に振る。

「ごめん。帰らないといけないから」

「あれ、今日もバイト?」

「ううん。家の都合」

「そっか」

 クラスメイトは家の都合と聞いた途端、ばつの悪い表情になった。

「お姉さんだっけ? 調子良くないのか」

「うん。この時期は体調を崩しやすいんだ」

「いいなあ、お姉さん。振津くんみたいな弟がいて」

 クラスメイトの隣に、また別のクラスメイトがやってきた。アイロンをかけた髪や、アイシャドウで目元をさりげなく目立たせている顔には、どことなく昔の姉に似た雰囲気がある。

 クラスメイトの男子は彼女を睨んだ。

「なんだよ。何しにきたんだよ」

「うちの弟ったら、顔合わせてる時は何も話さないくせに、自分の部屋にいる時は本当にうるさいんだから! 部屋で一人でネトゲやって、ぎゃーぎゃー騒いでるの。子どもっぽくて嫌になっちゃう」

「どうでもいいわ。今は振津の話をしてて、お前の自分語りはいらないの」

「ひどーい。そこまで言わなくてもよくない?」

 色付きリップの唇を尖らせる。

 檜は微笑した。

「ごめん。また今度誘ってくれる?」

「ああ。またな」

「ばいばい」

 クラスメイトたちに見送られて、檜は廊下を行く。角を曲がり、彼らの姿が見えなくなったところで、歩く速度を上げた。

 梅雨前線がなかなか解消されないせいで、窓ガラスの向こうには、連日よどんだ雲が立ちこめている。加えて、十五分ほど前から小雨も降りはじめていた。

 こういう日、檜は何をさしおいても家に帰りたくなる。それはきっと、いまだに暗く影を落とす、四年前の出来事のせいだった。




 偶然出会った二人組のおかげで、檜たち姉弟は我気逢町を脱出することができた。鉈打草汰につけられた傷は多かったものの、どれもすり傷や打撲程度だったので、檜の回復は早かった。おかげで、我気逢町を出て一週間が経つ頃には、気を失う原因になったたんこぶと腕の打撲以外、治っていた。

 しかし、姉のナツメはそうはいかなかった。

 総合病院に運びこまれても、目を覚まさなかった。翌日に連絡のついた父方の祖母がやって来ても、祖母の判断で東京の病院に移ることになっても、まだ眠っていた。

 彼女が目を覚ましたのは、二週間後だった。当時、ほとんど病院に入り浸っていた檜が、ベッドの上で起きあがっている姉を見つけた。布団に乗り上げる勢いで走り寄って、次々質問をした。

 気分はどうか。痛むところはないか。自分のことが分かるか。祖母が見舞いに来たのを覚えているか。何があったか覚えているか。

 ナツメは首を縦に二度振った後、眉をひそめた。そのまま黙っているので、檜は不安になった。

「どうしたの。俺のこと、忘れちゃった?」

 泣きそうになりながら聞くと、彼女は首を横に振った。そして、唇をゆっくり動かした。

 ──か、い。

 目を覚ました姉は、声を失っていた。




 ただいまと言って、傘を畳んで靴を脱いで上がる。祖母はまだ会社にいる時間だから、玄関はもちろん、廊下もリビングも電気が点いていない。今日は太陽も出ていないから、家全体が薄墨に浸したように暗かった。

 檜は廊下の電気をつけ、カバンも置かずに、廊下の行き詰まりにあるドアをノックした。

「姉さん。開けるよ」

 引き戸を開ける。

 色味のない、小さな部屋が現れた。本棚を兼ねる机もベッドも、ほとんどの生活品を収めているクローゼットの扉も、壁紙と同じオフホワイトである。例外は、部屋の住人が今腰かけているロッキングチェアだけだ。檜と祖母が、座り心地やストレスを考えて贈った品で、淡い緑と桃色の小花柄のクッションが、この部屋のたった一つの彩りだった。

 姉はこのイスに座り、窓辺で外を眺めていた。檜が照明のスイッチを入れると、顔がこちらを向いた。

「外を見てるのは分かるけどさ。電気くらい点けなよ」

 檜がとがめるのを、ナツメは微笑して聞いている。改める気はなさそうだ。

 上向きのまつ毛の目立つ大ぶりな瞳が、檜の左手を見た。檜は、持っていた甘い香りを漂わせる紙袋を差し出した。

「はい。いつもの店のクロワッサン。焼きたてだったから買ってきた」

 ナツメは紙袋をじっと見つめると、檜を見上げて唇を動かした。

 ──パンばかり食べると、太るから。

「姉さんはもっと太ったほうがいいよ」

 むくれたような表情に構わず、膝の上に置いた。

 姉はこの店のクロワッサンが好きだから、何のかんの言っても、最終的には食べるだろう。檜の読みは当たり、紙袋を開けたナツメはクロワッサンをちぎって口に入れる。噛み締めてすぐ、小さな唇を綻ばせた。

 姉は、小さくなった。姉の身長が縮んだわけではなく、檜の背が姉を越したせいでもない。筋肉量が落ちたのだ。きっと、歩けない期間が長かったのが影響しているのだろう。

 我気逢町から出て目を覚ましたナツメが失っていたのは、声だけではなかった。ベッドからまともに立ち上がれなくなっていた。

 三年ほど、車椅子生活を送りつつ、病院に通ってリハビリをしていた。去年の冬にようやく歩けるようになったが、前のように活発には動けない。早足で歩くだけで汗をかくといった調子である。

 声と歩く力をなくした原因は不明だ。検査をしても異常を見つけられず、医師は心因性のものだろうという診断を下した。祖母は他にも原因があるに違いないと疑ったが、檜は医師の所見に納得していた。

 あの町での体験は、心に大きな傷を負わせるには十分すぎるものだった。檜でさえそう感じるのだから、弟を庇っていたナツメが心だけでなく体まで損なってしまうのは、悔しいがありえる話だった。

 姉は、我気逢町で見聞きしたものについて訊ねても、首を横に振る動作しかしなかった。もし原因を探るなら、我気逢町に行くしかないのだろう。

 しかし、いまさら行った所で、あそこにはもう何もない。




 あの出来事の後、檜は父方の祖母と、彼女の連絡を受けて同じように駆けつけた母方の祖父母に、何があったのかという説明を求められた。

 起こった出来事を話そうとして、困った。

 ありのままに経験したことを話したところで、信じてもらえる気がしなかったからではない。檜はあの町で起こっていたことの全貌を、理解できていなかった。檜は母の死を見ておらず、隣人と接する機会も少なく、あの町の奥地に何があったのかも知らない。どれも姉が触れたものだった。

 だから三人の祖父母には、理由はよく分からないが両親がいなくなってしまった、と話した。嘘ではない。

 しかし、それで大人が納得するはずがない。行かないでほしいという檜の懇願を聞かず、姉弟が病院にいる間に、祖父母たちは我気逢町へ両親を探しに行ったらしかった。

 けれど、彼らが失踪することはなかった。その日の夕方に、何も変わらない様子で帰ってきた。

 当時の檜は、祖父母たちが勝手に町へ行ってしまったことに怒り、帰ってきたことに安堵し、詳しいことは何も聞かなかった。だが後になって、帰ってきた祖父母たちの困惑しきった顔が気にかかった。そのため、翌年の中学校の夏季休業中に、母方の祖父のもとへ遊びに行って訊ねてみた。すると、とんでもないことが起きていたと分かった。

 檜たちが我気逢町から出た三日後、両祖父母は両親を探して町へ行った。

 そこで見たのは、ヨシヨシ生体工業株式会社の廃業に伴って閉鎖された工場と、跡形もなく取り壊された社宅だった。

 廃業の理由は、新事業開拓のため。閉ざされた正門の張り紙に、そう書かれていたという。窓口はなく、ホームページも消えていた。周辺に人気はなく、通りかかった町の住人も、分からないと首を傾げた。

 諦めきれず、警察に相談した。我気逢町には警察署がない。A市の警察署まで行って両親のことを話し、捜索願を出した。しかし、いつまで経っても発見の知らせは来なかった。

 四年経った今も、両親の行方は分かっていない。分からないままでいいとも、檜は考えている。




 檜は床に座った。

 ナツメはクロワッサンを食べ終えた後、また窓の外を眺めている。

 外を見たところで、幅三メートル程度の狭い庭しかない。祖母が、ささやかでもいいからガーデニングをしたいという強い希望で作ったという空間である。今の花壇ではちょうど桔梗の花が開き、見頃を迎えていた。

 旬の花が咲いているから、外を見るのが楽しいのかもしれない。しかし、それにしても毎日のように眺めていて飽きないのかと思う。

「姉さんは、雨の日が怖くないの?」

 ナツメはこちらへ顔を戻して、言った。

 ──半分。

 そしてまた、外を見る。

 この四年で唇を読むのに慣れた。だが、今のは読み取れても意味が分からなかった。

 姉は変わった。四年前は子どもなりに自分を華やかに飾るのが好きだったのに、今は飾り気をなくしていた。

 しかし、容姿のことをないがしろにするようになったわけではない。外出が減ったせいか抜けるように白くなった肌も、痛ましさを覚えるほどにか細い足も、長く伸ばした髪も、丁寧に手入れをする。化粧やアクセサリーをしないだけだ。

 四年前の檜は、まさかあの溌剌とした幼なげな姉が、佳人薄命を絵に描いたような容姿になるとは思いもしなかった。

 また、以前は友達に囲まれていないと不安だったのに、今はまったく気にしなくなっていた。スマホで常に誰かと繋がっていたがる癖もなくなった。学校でも家でも、一人で過ごすことを好む。檜が声をかければ微笑んで答え、一緒に出かけようといえば喜んで出かける。逆はあまりない。

 こういった変化は、きっと声や歩行の問題に伴ってのものなのだろう。しかし、それだけではないような気がしてしまう。

 ナツメは雨が降る度、こうして、窓辺に座って景色を眺める。

 その唇がいつ見ても綻んでいるのは、なぜなのだろう。

 たまに窓に顔を近づけ、まるで誰かと話をするかのように表情を動かすのを、見て見ぬふりをしたかった。窓に映った姉の唇が、あの日忽然と消えた人間の名前を形作るのも、読み違いなのだと思いたかった。

「姉さん」

 檜は姉の正面へ回りこんだ。ナツメは、やっと窓から顔を剥がした。

「バイト代が貯まったから、新しいゲームを買ったんだ。俺の部屋で一緒にやろうよ」

 本当は、買ったばかりのゲームではない。かなり前に買うだけ買って、放置していたものだ。ものすごくやりたいわけでもなかったが、姉の気を雨から気を逸らせるなら何でも良かった。

 ナツメは眉根を寄せた。

 ──難しいのはできないよ。

「難しくない。謎解きだから、操作は簡単」

 ──謎解きが好きなくせに苦手だから、手伝ってほしいだけでしょ。

「そんなことないよ。ただ、暇かなって思って」

 姉は大ぶりな瞳をからかうように狭めて、笑った。こういう変わってないところを見ると、無性に安心した。

 立ち上がるのに手を貸してやり、ゆっくりとした足取りに歩調を合わせ、転ばないよう見守る。だいぶ歩くことに慣れてきたようだが、雨の日には関節が痛むのか、うまく歩けない時があった。

 おぼつかない細い背中を眺めていると、最後に自分を背負った時の姉を思い出す。あの町の教会から、姉は自分を背負って逃げようとし、転倒した。目が覚めた時、倒れて動かなくなった背中を見て血の気が引いた。あの時の自分の体の冷たさと、すがった姉の背中の温もりを、今でも忘れられない。

 あの町に引っ越したのが、せめて今だったならよかった。

 十四歳の時の身長から変わらないまま、年を取るにつれ儚げになる姉を見る度、檜は過去の自分の非力さを恨む。せめて、姉やあの頃の父よりも背が伸びた今の自分だったなら、姉ばかりに庇われることにはならなかった。そう思われてならない。

 自分の部屋のドアを開ける。室内へ注がれたナツメの眼差しが、一瞬ぼやけた。視線の先を見ると、窓がある。姉がまた雨の窓に張りつきに行く前に、大股に部屋を横切り、カーテンを閉める。

「大丈夫?」

 確認すると、ナツメは微笑して頷いた。

 ──本当は、我気逢町で見たものを、覚えてるんじゃないのか。

 そう思えてならない。姉はあの町でのことを何度訊ねても、首を横に振る。しかし、筆談や唇で、忘れてしまった、と言ったことは一度もないのだ。

 ──窓の外には、何が見えるの。

 ずっと抱いている疑問を口にできない。答えを聞くのが怖かった。

 いったいいつまで、この漠然とした不安と付き合い続けなくてはいけないのだろう。

 雨の日の檜は、いつも憂鬱になる。

 それでも、どんな時も自分を守ろうとしてくれた唯一の姉から離れようという気には、どうしてもなれないのだった。

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