9-4
──人がいたのか。
園藤は緊張していた。妙な壁画に夢中になっていたとはいえ、こんな近くへ人が来ているのに気づけてなかったとはおかしい。自分はおかしくなっているのだろうか。それとも、目の前の影がおかしいのか。
暗がりに目を凝らす。こちらを見つめているのは、少年のようだった。泥だけでない、黄ばみやシワの目立つ汚れたシャツとズボンを着ている。まともに手入れのされていないのか、髪はぼさぼさで、若者らしいツヤがない。小さな瞳孔は開いており、口元はにやにやとだらしない。なんとなく、声をかけるのが憚られる子どもだという印象を受ける。
だが、悠長なことは言っていられない。園藤は話しかけた。
「君、ここの人かな。出口を知ってたら、どっちにあるか教えてくれる?」
少年はにやにや笑いのまま、答えた。
「今日は、みんな死ぬんだよ」
話の通じる子どもではないのかもしれない。
園藤は考える。出口を教えてもらえなくても、そこをどいてもらう必要がある。この子どもの居住地が洞窟であるなどというバカげたことがない限り、彼はどこかからここへ入ってきたと考えた方が自然だ。出口は、彼の来た方向にある可能性が高い。
園藤は、次に言うことを検討する。その間、少年はへらへらと喋っていた。
「だって、俺ばっかり叱られて酷い目にあう。平等じゃないだろ。ずるいだろ。俺は悪くない。俺に問題はない。ここに生まれただけで、何もしてない。みんな同じくらい苦しむべきだ。そうだろ。俺を知らんぷりしてきた奴らも、みんな死ぬ。いい気味だ。いいザマだ」
「君も一緒に、ここから出ないか」
園藤は提案した。この子どもに気味の悪さを感じているのは変わらないが、彼のひどい服装から、虐待を受けている可能性に思い至ったのだ。それならば、警察や児童相談所などしかるべき施設へ連れていって、保護してもらった方がいい。
ところが、少年の顔つきがみるみる険しくなった。
「出てどこに行くんだよ。俺は地獄を見るんだ。どけよ、おっさん」
少年はこちらへ歩いてきた。足取りは重く、どこからか、ずる、ずる、と引きずる音が聞こえる。
彼の姿がランプの光の範囲に入った。園藤は、息を呑んだ。
少年は、両手に足を握っていた。最初はスニーカーの足裏しか見えなかったが、距離が縮まってくると、後ろに別の少年を引きずっているのだと分かった。引きずられている少年は傷だらけで、目を瞑り、気を失っている。万歳をする腕の片方に、不思議な綱が結ばれているのが見えて、園藤は瞬きをした。綱は透明で、先の方が岩場の中へと吸い込まれるように消えていた。
「その子、どうしたんだ」
「俺がやった」
すぐには、引きずられている少年が被害者であり、引きずる少年はその加害者なのだと理解できなかった。
「こいつ、むかつくから。こいつも地獄に引きずりこむんだ」
園藤は、やっと少年たちの関係を把握した。
「地獄って、どこに」
「おっさんには関係ねぇだろ。どけ」
「君の行く場所は、他にあるんじゃないかな。君を助けてくれる大人のところに行かないか」
「俺は助けなんかいらねぇ。他の奴らが苦しめば、それでいいんだよ!」
少年の目は血走っていた。意識のない少年の足首を強く握り締め、狂った犬が威嚇するように、口から泡を飛ばしてわめく。
「世の中、ウジ虫だらけだ。ウジ虫のくせに寄り集まって、人間みてぇなツラして、俺をバカ扱いする。おかしいだろ。惨めな奴らのくせに、なんで俺を見下すんだ。なんで俺だけが嫌な目に合う? おかしいだろ、正しくねえだろ。俺は復讐するんだよ」
この子は何なのだろう。園藤は困ってしまった。
少年の横をすり抜けて行くべきか。しかし、傷ついた子どもを放っておくわけにもいかない。彼らは祭りの会場で見た、同じ笑顔を浮かべた人々とは違う。意識のない少年については分からないが、この話の通じない少年も普通の人間だと思う。
園藤は迷い、吠え続ける少年と道とを見比べる。少年の左は壁。右の方は深そうな水たまりがあるが、歩けないこともない。行くならその道からだろうだが、しかし。
ためらう園藤の視線の先で、水たまりの表面が大きく揺らいだ。天井から落ちる雫もない。
園藤が見つめていると、揺らいだ波紋の中心から頭が現れた。長い髪。細い肩。少女だ。
少女は水から上がると、あたりを見回した。水から出てきたのに、髪も服も濡れていない。しかし、全力疾走してきたかのように肩で息をしていた。
彼女はぱっちりした目で、園藤を見、小汚い少年を見た。最後に意識を失った少年を見て、はっとしたようだった。
「檜?」
確かめるように呼ぶ。
園藤は、意識のない少年の手首に結んであるあの透明な綱が、少女の手の中に続いているのを見た。
「弟に何をしたの」
少女は怒りを滲ませて言った。
汚い少年は、またにやにや笑いを浮かべる。
「お前らだけここから出て行くなんて、おかしいだろ」
「あんたみたいな人は、ここにだって居場所はないよ!」
彼女はなじった。
「ひどい。朱姫葛ちゃんが逃がしてくれたのに。約束したのに、これじゃ帰れないじゃない!」
約束、という少女の言葉が洞窟に響いた時、園藤は見た。
少年たちの背後。ほんの少し目を離した隙に、紺の和装に身を包んだ子どもの集団が現れていた。だった。園藤は、子どもたちの手足に、夢で見た細い糸がついているのを見つけた。
「約束を破った子は、だあれ?」
そう言ったのは、一番前に立つ子鹿のような少女だった。
彼女らを見た途端、水たまりから出てきた少女の顔がこわばった。小汚い少年もまた、飛び上がって振り返る。
子どもたちは素早かった。小汚い少年を掴み、意識のない少年から引き剥がす。髪をふり乱して少年が絶叫すると、子鹿に似た少女はその鼻先を拳で殴った。
「草汰くんは、大事な式のお客さんのはずだよね? 式はまだ途中だよ。抜け出してこんな所にいたらダメでしょ」
なごやかに諭す。四人の少年少女に捕まった草汰は、叫んでいた時の勢いが嘘のように、ぐったりしていた。鼻からぼたぼたと血が垂れている。
「しかも、私たちとララちゃんとナツメちゃんの約束まで破ろうとした。ダメだよね? 感傷なんかに囚われて、隣人失格だよ」
何か言いなよと、少女はもう一度殴る。ためらいのない拳骨が、また足元の岩場に血を散らす。
「志乃ちゃん、どうする?」
草汰を掴む少年の一人が言う。
志乃というらしい少女は、小首を傾げた。
「まず、捜索隊の人数分の罰は受けてもらおうかな。それからは、どうしよう」
「どうしちゃう?」
「どうしたい?」
「どうしようね」
五人の少年少女は笑い合う。
くすくす。
けらけら。
げらげら。
笑いはだんだんと大きくなり、洞窟中にぐわんぐわんと反響する。
呆然とする園藤をよそに、四人の子どもたちは草汰の体を神輿のようにかつぎ上げた。彼らはわあっ、と歓声を上げ、ナツメの出てきた水たまりへと飛びこみ、消えた。
志乃という少女だけが、そこに残った。彼女は、ずっと石になったように立ちつくしているナツメに言った。
「出口はあっち。一本道だから、まっすぐ進めば教会の地下に出られる」
指さしたのは、やはり園藤の考えた通り、草汰という少年のいた方の道だった。
「じゃあね、ナツメちゃん」
志乃は笑顔で手を振って、友人たちの飛びこんだ水たまりを踏み、姿を消した。
急に、洞窟は静かになった。
ナツメは倒れている弟に駆け寄り、揺すった。檜がうめく。まだ目を覚ましはしないようだったが、ナツメは安堵の息を吐いた。
──この子たちの手足には、糸がない。
園藤は声をかける。
「君たちは、ここの住人かな」
少女は、硬い顔で園藤を見上げた。ありありと警戒を浮かべながら、小さな声で言う。
「違います。東京に帰りたいんです」
「なら、俺と同じか。俺は隣のA市に住んでいるんだ」
園藤は少女の警戒を解こうと喋る。現れた瞬間こそ不思議だったが、やっと見つけた普通そうな人間を前に、気が急いて早口になっている自覚はあった。
「弟くんをかつごうか。早くここから出よう」
「大丈夫です。背負えます」
ナツメは気を失った弟をおぶった。少しよろけたが、すぐに持ち直して歩きだす。
丁寧に拒絶され、園藤はおろおろしながら後に続いた。
「あの、信じてもらえないかもしれないけど、俺は怪しい人間じゃないんだ。なんでここにいたのかは分からないけど、誰かに連れてこられたみたいで」
ナツメは黙っている。
彼女と弟は、何歳なのだろう。受け答えや背丈から、小学校の高学年以上であるとは分かるが、それ以外ははっきりしない。髪や服の着こなしに、田舎らしくない垢抜けた印象を受けるので、よそから来たというのは本当なのだろう。しかし、車でもないとたどり着けないこんな所へ、子どもだけでやって来られるはずがない。
「この町に住んでいないなら、家族は? ここへはどうやって来たんだ。君たちも、連れてこられた?」
「東京に家族がいます」
やっと返ってきた答えは、それだけだった。
──今はダメだな。
園藤は諦めた。助けてあげたいのは山々なのだが、話しかければ話しかけるほど、自分が嫌がる子どもに絡もうとする不審者のようになってしまう。様子を見守って、さりげなく助け舟を出すくらいの方がいいだろう。自分にそれだけのことをできる力があるのかは、微妙なところだが。
彼らは黙って並んで歩いた。少女は、文句も言わなければ立ち止まりもせず、弟をおぶったまま歩を進める。彼女の今時らしい形に前髪を垂らした顔には、年頃らしからぬ警戒や緊張、覚悟がうかがえた。
──何があったんだろう。
聞きたかったが、怖がらせたくなかったので、口をつぐんでいた。園藤も姉弟の一員だから、こういう状況の姉の考えそうなことは、なんとなく察しがつく。
しばらく行くと、洞窟の前方に鉄骨の階段が見えた。あそこから、外に出られるようだ。
園藤は足早に先を行き、階段の周囲に危険がないことを確かめると、一段飛ばしで上ってドアを開けた。
ドアは最近まったく見かけない、古い鉄製のものだった。押すと、大きく軋みながら開いた。
現れた空間は、また珍妙なものだった。木目の床に白い塗装のされた木製の壁。木をふんだんに使ったシンプルな内装と物の配置はプロテスタントの教会に似ているが、左右対称に並ぶ長椅子の上には、すべて緋毛氈が敷いてある。特に個性的なのは、祭壇だ。他の飾りを削ぎ落とした分をすべて集めたかのように、蓮や鳳凰、竜などの彫刻の飾りが盛られている。しかも金色に輝いており、縦には鏡面が埋めこまれていた。嫌な記憶が蘇り、園藤は目を逸らした。
──教会とは違うな。寺の飾りがついた、公民館みたいだ。
知っている部品を知らない法則で組み立てることに徹底した宗教施設は、居心地が悪かった。早く出て行きたい。
長椅子の間を抜け、観音開きの扉を開ける。あとは、姉弟が上がってくるのを待つだけだった。
絹を切り裂くような悲鳴が上がった。
「どうした。大丈夫か」
扉から外を見ていた園藤は駆け戻った。階段の続く扉を抜けたところで、前のめりに崩れ落ちたような姿勢で倒れているナツメを発見した。
背中に負われていた弟が上体を起こし、頭をさすっている。きっと、ナツメが倒れるのと同時に床に落ちて、目が覚めたのだろう。怪訝そうな目をあたりに向け、姉がすぐそばに倒れているのを見つけると、飛びついた。
「姉ちゃん!」
ナツメにすがり、揺さぶる。
園藤は聞いた。
「何が起きたんだ」
「分からない」
弟は、うつ伏せに倒れていた姉を仰向けにする。頑なに視線を合わせなかった目は閉じ、顔から血の気が失せていた。
「早く病院に連れて行こう。ここから少し離れた所に、車がある。一緒に乗っていこう」
歩けるかと園藤が聞くと、檜は頷いた。
傷だらけの少年に姉をかつがせるわけにもいかない。今度は園藤がナツメを背負い、檜が並走する形になった。
教会を出てヨシヨシ生体工業の敷地前を通り、坂を下って役場の裏を目指して走る。貝塚や妙に動きの統一された人々に会うのを恐れていたが、その心配はなかった。帰る道には、まったく人がいなかったのだ。
道路の両脇を屋台が固めているのは変わらない。だが、屋台はどれも空いていた。それどころか、溢れかえるほどいた祭りの客たちも、忽然と姿を消している。しかし、祭りを行っていた痕跡は残っていて、焼きそば屋の店先には白い湯気のこもった焼きそばのパック詰めが置いてあり、ボール掬いの屋台前にあるビニールプールの中には、スーパーボールが夕日を反射して煌めきつつ回っていた。
来た時にはまだ東寄りの空にあったはずの太陽が、すっかり傾いていた。役場前の広場も、祭りの装いのまま空になっている。祭囃子の音は、止んでいた。人の姿の代わりに、物影が増えている。あらゆるものの影が濃くなる様子が、不吉な予感をもたらす。
──老柳はまだいるだろうか。
園藤は祈るような気持ちで役場裏から細道を走り、空き地へつながる階段を下りた。
あった。いた。
自分の車はまだそこにあった。老柳は車の助手席に座っていたが、園藤の姿を見つけるなり、目を丸くして車を降りた。
「どうしたんだ。連絡してもまったく繋がらないから、山で遭難したかと思って警察を呼ぶところだったぞ」
「悪い」
謝罪もそこそこに、背負ったナツメを後部座席へ下ろした。檜は姉の隣へ座る。
園藤は運転席へ乗りこみ、手早くシートベルトをして発進した。訝しそうな様子で助手席に座った老柳が、後部座席にいる姉弟をちらちらと見ている。
「この子たちは」
「分からない。けど、姉の方は急に倒れて、弟の方は傷だらけだ。A市の病院に連れていく」
「分からないって」
老柳は何か言いたそうだった。
しかし、先に檜が言った。
「すみません。俺たち、近くに頼れる人がいなくて。とにかく、この町から出たいんです」
少年の萎れた態度に、老柳は声を和らげて言った。
「謝ることはないよ。僕はただ、状況を知りたいだけなんだ。君たち、親御さんは?」
檜の表情が暗くなる。
俯いて答えないかと思われたが、やがて硬い声で言った。
「父と母は、別のものになってしまいました」
老柳は言葉を失ったようだった。けれどすぐに我を取り戻し、保険証の有無や連絡の取れる大人の存在を確かめはじめた。ひとまず、保護して手当てする方針に同意したらしい。
その間、園藤は教会でナツメが倒れているのを見つけた時のことを思い出していた。
彼女は地下階段に繋がるドアより、少し離れた位置で倒れていた。教会の中には、園藤たち三人しかいなかった。地下階段を誰かが上ってきた様子もなく、階段を下りていく音もしなかった。そもそも、いくら教会の入り口と奥という離れた位置にいても、その距離はせいぜい二十五メートル程度で、視界を遮るものもなかった。姉弟に危害を加えた者が逃げようとする姿を見られないはずがない。
ならば、彼女はおそらく出口へ向かおうと歩き出して、ひとりでに倒れたのだ。
しかし、何かにつまずいて転んだにしては、あのあたりの床に障害物は見当たらなかった。
──悲鳴を上げていた。
あれは痛みの声ではなかった。驚きや恐怖を覚えた時にあげる悲鳴だった。
──まさか。
園藤は、おそらく自分にしか考えつかないだろう可能性を思いつく。
倒れた彼女の体は、正面を向いていた。
その正面には、縦面に鏡の埋めこまれた祭壇があった。
彼女はまさか、鏡の中に映る、《《背後》》の何かを見たのだろうか。




