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養蝕  作者: 祐川 千
42/44

9-3

 回廊を抜けた先には、現実とは思えない光景が広がっていた。

 薄く水が流れる、遮るものの何もない、はてしなく続く大地。太陽はないが、全体が薄曇りの日のようにぼんやりと明るく、青い靄がかかっているように見える。上空には無数の木が、上下ひっくり返った天地逆転の形で、点々と浮いている。テレビや写真で見た、低木や高木の入り混じるマングローブの林に似ていた。

 空中のマングローブは、白い房のような小さな花と、豊かな浅葱の葉を蓄え、ささやかに発光していた。その光が時たま雫となって落ち、足元の水に波紋を生む。けれど、音はしない。

 ──静かだ。

 雫の落ちる音だけではなく、自分の足が水面を踏む音すらしない。

 手にした女神が青く輝いている。ナツメは朱姫葛の後に続いて、空を仰ぎながら歩く。木々の細い根は、先へ伸びるにしたがって糸のようになり、色を失って、空いっぱいに張りめぐらされる。その模様を眺めているうちに、かなり前に檜が口にしていた植物雑学を思い出した。

 あれは、こちらに越して来る前だったか。マンション前の花壇と、道路の舗装の間に生えてきた雑草を見て、檜が言った。

 ──植物は、根が大事なんだよ。上の葉っぱや茎をむしっても、根が残っていればまた生えてくる。だから、雑草を抜く時は、根本をしっかりつかんで取った方がいいんだって。でも、それって難しいよね。だって、植物の根って結構細かくて、しかも地中の深いところまで張ってるんだよ。俺たちは、土から出てる部分を見るのが限界で、地中までは見えない。いくら地面から見える根本を掴んで引っ張ったって、根っこの全部を取れるとは限らないよね。

 なら除草剤をまけばいいよ、とナツメは答えた。足元の邪魔な草は除草剤で全部枯らせて、コンクリートで固めてしまえばいい、とも言った。

 すると、檜は呆れた。

 ──それが完璧にできるなら、こうやってコンクリートの隙間から出てくる草なんてないよ。

 ──姉ちゃんは、草一つ生えない土地で生きていけるの? 俺たちが店で買って食べているものだって、草の生える土地がないと作れないんだよ。

 弟の言葉に、どう返したかは覚えていない。

 前を行く朱姫葛は、どこまでも歩いていくかに思えた。しなやかな足取りには迷いがない。まるでこの場所の地図が頭に入っており、どこに行けばいいかまで心得ているかのようだった。

 そのうち、宙にそびえるひときわ巨大な樹が見えてきた。

 他のマングローブとは、規模が違う。これまでに見た木々が五本ほどの幹でできていたのに対して、この巨樹は幹が数えきれないほど分岐し、複雑な螺旋を描いて絡み合っている。そこから伸びる枝葉は当然多く、地面に向かって思い思いに手を伸ばしている様子は、青い花火が開き落ちる瞬間に似ている。その中でも特に長い枝は、ナツメたちのいる地上にまで触れそうだった。

 ナツメは首を限界まで逸らす。巨樹の根は、青く霞む天の彼方に紛れて見ることができない。これだけ枝を伸ばしているなら、その根はどれほど広く深く張っているのだろう。

 巨樹に気を取られて歩みが遅くなるナツメに構わず、朱姫葛は進んでいく。彼女が歩くにつれ、木の姿が大きくなっていく。目指す場所は、きっとあの木なのだ。

 時間をかけて、やっと巨樹の枝葉のすぐ下へたどりついた。遠くから見た限りでは細く見えていた枝も、実際には普通の木と同じくらいか、それより大きい。最も長い、ナツメたちの頭に届きそうな枝の下には、深い泉があった。

 朱姫葛はそのほとりに立ち、枝を仰いだ。ナツメはその真似をして見上げ、息を呑んだ。

 枝の中心に、人間が埋まっている。ナツメより二回りほど年上の女である。枝木と同じく逆さ向きになった体は直立不動の姿勢で、手首から先と膝より下が、樹皮と一体になっていた。目を瞑る顔は安らかであり、まるで布団に入って眠っているかのようだったが、生きていないのはすぐに分かった。頬に血の気がなく、呼吸している気配がなかったからだ。

 女は白く整った顔と、異様に長い紺の髪を持っていた。長く癖のない髪は滝のように落ち、地上の泉の中へと続いている。

 ナツメは手に持った女神を見た。いつの間にか、女の髪と同じ色で煌めいている。

 そして次に、朱姫葛の髪を見た。

 似ている。

「これは約束の木。この人は証人」

 朱姫葛は、巨樹と女を指し示す。

「良々木の祖先、威助とその妻の子どもが流れたって話をしたよね」

「うん」

「そのおかげで、我気逢と隣人がうまく結びついた。逆に言うならば、生け贄がないと我気逢と隣人はうまく結びつかなかった。隣人は空と水の生き物だから、いくら人間の形になって地上にいても、勝手に水を呼んでしまう。そうなると、霧外山から水が溢れて、氾濫が起きる。人として生きるための環境を作るには、最も新鮮な良々木の血を引く体を水源に置いて、堤防にする必要があった」

 新鮮と言っても、幼いものではいけない。隣人が気に入った頃の威助と同じ、自我があり、未来に期待して外を見据えはじめたばかりの血を、隣人は好んで捧げさせた。その体を約束の木に捧げることで、隣人はあらゆる人間の体に降りることができるようになるのだった。

「けれど、せっかく捧げた隣人と良々木の絆の証は、永遠じゃない。五十年も経つと、証人は完全に木に飲みこまれてしまう。だから、五十年に一度、新しい証人を立てるようになった」

 吉木威助がここへやって来たのは、一五〇年ほど前だった。

「はじめの証人は、威助の息子。その次、百年前に捧げられたのは威助の孫の娘。五十年前は、私の祖父の弟。そしてそろそろ、良々木の一族の中で最も若い者が証人に立てられる時期。該当するのは私の母か、叔母のはずだった。けれど、母は逃げ出し、代わりに私を差し出した」

 ナツメは、朱姫葛と木の女性を見比べる。

 目や鼻といった、顔の一部分。なにより、癖のない髪が、よく似ている。

 朱姫葛は言った。

「今年まで待っていれば、私が一番の適任になったはずなのに。私に相談もしないで、死んだんだね」

 いつもの心のうかがえない、淡々と事実を並べあげるような口ぶりだった。

 どこからか、年老いた男の声がした。

「賢い選択だと思ったんだがね」

 ナツメは飛び上がった。

 巨樹の豊かな枝木の向こう側、泉の対岸に、人間の一団がやって来た。そのほとんどが、見飽きるほど見てきた呑気な笑みを浮かべている。人間の一団ではなく、隣人の群れだ。

 しかし、その先頭にいる三人の男だけは、沈んだ表情をしていた。全員、黒の礼服を着ている。車椅子に乗った、かなり高齢の老人。彼の椅子を押す、壮年の男。その隣に付き添う、中年の男。三人とも顔立ちが似ている。

 ──もしかして、良々木の親戚たちなのかな。

 注意深く見つめるナツメに、高齢の老人が声をかけた。

「ようこそ、お客人。それの手引きがあったとはいえ、ここまでやって来るお客は久しぶりだ。当主として歓迎しよう」

 黒服の男たちの後ろに並ぶ隣人の一団が、拍手をする。力のこもった礼儀正しい拍手は、この状況ではかえって不気味に感じられた。

 この老人が、ヨシヨシ生工の名誉顧問、良々木威風か。

 ナツメは彼をまじまじと見る。

 しなびた、小さな老人だった。高齢であること以外、特別なことを見出せない。生きた分だけ歳を重ねただけの、平凡な人間がそこにいた。

 良々木威風は、くぼんだ目を朱姫葛へ向けた。

「お前は、ここに来られないものと思っていたんだが。客人をうまく使ったようだね」

 朱姫葛は答えず、聞いた。

「登梅子さんを証人に立てると決めたのは、いつだったのですか」

「三年前。登梅子が言い出したんだ。隣人が次の証人を指名する前だった。彼らは、時が来れば次の証人を選ぶが、その前にすすんでなりたがる者がいれば歓迎する。登梅子は病気がちだった。病で苦しむのと、お前と引き換えに死ぬのと。あれの性格ならどちらを選ぶか明らかだろう」

「どうして、私に隠したのですか」

「本人の希望だった」

 答えたのは、車椅子を押す男の方だった。きっと、彼が威風の息子なのだろう。

 威風はうなだれる。そうすると、老人は余計に小さく見えた。

「分かっておくれ、朱姫葛。私には、自分より長く生きるはずだった者に死なれる苦しみが、よく分かる。私だって、かなうことならば、息子より自分を先代の証人にしてしまいたかった。けれど、良々木の嫡子はそれを許されない。自分の見出したはずの輝かしい未来を生かすことも、広がり持続することしか目的のないこの無意味な共同体を変え、終わらせることも。決断すればできたはずなのに、私はできなかった」

 老人の懺悔を、朱姫葛は例の仮面のような顔で受け止めた。そして、言った。

「私は責めません、ひいお爺様。地獄は生きる私たちの中にあるものですから」






 会話を聞くだけのナツメに、朱姫葛が声をかけた。

「登梅子さんの髪を──女神を、泉に返してあげて」

 言われるままに、女神を泉へ放つ。二体の女神は水へ落ち、星のように煌めきながら水底に沈んでいった。

 それを見届けると、朱姫葛は顔を上げて言った。

「この客人たちは、私たちを丁重に扱い、約束を守って根のもとへ還してくれました。客人の話を聞いてください」

 気配を感じた。

 巨樹の上から──ナツメたちの方向感覚からすれば上だが、木の視点で見れば根本の方にあたるので、下からとも言えるが──白い影が降りてきた。

 白い影は話に聞いていた通り、逆さまのてるてる坊主に似ていた。だがそれは、遠目に見た限りの話で、近づくにつれてまったく違う姿が明らかになった。

 白い傘に見えたのは、鱗に覆われている巨大な翼のせいだった。完全に広げると、ナツメの背丈の五倍はあるように見える。頭は丸く、その半分を占める大きな黒目は昆虫めいている。口はない。胴体は細く、トカゲの手足の生えた蛇のようだった。

 鳥と昆虫と爬虫類をかけ合わせたような、その異様な生き物は、三体舞い降りてきた。翼を広げ、ナツメと朱姫葛の頭上をぐるぐると旋回する。

 三体はなめらかに、完璧な円を描いて舞う。それを眺めるうち、頭の中に映像と概念が流れこんできた。


 彼らが生まれた時、世界には海しかなかった。暗雲立ちこめる空、荒々しく駆けめぐる稲光と共に、彼らはやってきた。激しい波をゆりかごとして、彼らは育まれた。


 彼らは原始的な海に飽き、空へ移り住もうとした。そのために翼を発達させ、体を捨てた。雷と共にやってきた彼らには、それが可能だった。

 長い間、空をあちこち飛んで過ごした。彼らが大地へ降りれば山が火を噴き、空で激しく踊れば嵐を呼んだ。

 激しい天変地異を何度も経験した。しかし、体のない彼らにとっては、心躍る刺激でしかなかった。彼らは退屈を嫌っていた。


 しばらく経ち、彼らは刺激を求める空中生活にも飽きた。そこで、地上に降りようとした。

 しかし、その頃はまだ、太古の大いなる生者たちが息づいていた時代だった。大いなる生者たちは彼らの本質を見抜き、戦い、世界のずれた所へ彼らを追いやった。

 彼らは、この地に縛りつけられた。


 気の遠くなるほどの年月が過ぎ、彼らは富を求めてやってきた小さな生き物と約束を交わした。小さな者は刹那的かつ即物的で、無から有を生む彼らの性質をたやすく崇めるのが面白かった。また、小さな者は肉体があるくせに中身が空いており、彼らが降りてみるのにちょうどよかった。

 小さい者の短い人生に乗り移って生きてみるのは、暇つぶしにちょうどいい、新しい刺激だった。ミニカーを走らせるのに似た楽しみを、彼らは人間に見出していた。

 どう動かせば、もっと効率良く走るのか。

 どのくらい活動させると、壊れるのか。

 彼らはどちらに転んでも構わない。ただ、譲り受けた人間の体が壊れるまで、スリルを楽しむだけだ。


 彼らは今、ナツメに訊ねている。

 ここから離れることを望むのはいい。

 しかし彼らは、ナツメに見こんでいた楽しみを失うことになる。

 その分の楽しみを与えてくれるのなら、ここから出て行っても構わない。与えられないなら、お前の後をどこまでもついていく。お前のこれから見聞きするもの、手に入れるもの。すべてがお前のものでなく、彼らのものになる。代わりに、暮らしに困らないよう、なんでもくれてやる。

 お前は、何ができるのか。


 ──これが隣人なんだ。

 ナツメの足が震えだした。

 人の理屈の通じる相手ではないというのは、本当だった。生きてきた時間と次元が違う。隣人は、そんなものなどいるはずがないと思ってきた、圧倒的な上位生物だった。

 彼らは、体も言葉も、他生物とのコミュニティも必要ない。彼ら隣人は、ナツメたち人間にとっての万物に通じていた。そんなものに与えられるものを、ナツメは思い浮かばなかった。

「大丈夫」

 朱姫葛が囁く。

 ナツメは泣きそうになりながら言い返した。

「何も大丈夫じゃないよ。これじゃあ帰れない」

「まともに取り合わないで。私に任せておけばいい」

 朱姫葛は、ナツメの前に立つように出た。

「あなたたちの要求は通らない」

 毅然と言う。

「あなたたちは、約束によってここに縛られている。だから約束を結んだ相手でないと、縛ることができない。この子は女神を丁重に還した。あなたたちとこの子の父親の交わした約束は、終わっている。あなたたちのこの子への要求は、約束の木を穢すことになる。あなたたちがここに縛られる時間が伸びるだけ」

 隣人たちは、旋回を続けている。概念は送られてこない。ナツメは息を殺すようにして、様子を見る。

「それでも納得できないなら、私と約束しよう」

「朱姫葛」

 中年の男──朱姫葛の叔父だろう──が押し殺した声を発した。朱姫葛は無視する。

「母は私に、あなたたちを封じた血を遺した。万物の上を走ると言われたあなたたちの失った足を、私は私自身を通して、ほんの少しだけ味わわせてあげることができる。周りにあなたたちの力を振るうことはできないけれど、悪くない提案だと思う。どうかな」

 頭上の旋回がゆるやかになり、止まった。隣人たちの大きな目が、じっと朱姫葛を見下ろしている。

 青い大気に、彼らの失われたものに対する寂寥と切望がにじみ出ていた。

 朱姫葛は声を張った。

「私はあなたたちの娯楽のために、あなたたちの足となって、永遠に居場所を持つことなくさまよってあげる。だから、私を人間から遠ざけることと引き換えに、この子とその弟を人間たちのもとへ返して。自由にさせてあげて」

「朱姫葛ちゃん」

 きっと、彼女は良くないことを言っている。

 ナツメは止めようとした。しかし、朱姫葛は小声で囁いた。

「今のうちに行って。綱があれば、戻れるから」

 ──最初からこのつもりだったんだ。

 唇を噛みしめる。

 朱姫葛が自分を利用したことに変わりはない。そう分かっていても、彼女が共に帰るつもりがないのだと知って、無性に悔しかった。

「でも」

「絶対に振り返っちゃダメ。私があんたを利用したのと同じように、帰り道であんたに声をかけるものは、みんなあんたを利用しようとする。だから気をつけて。よそ見しないで、あんたの弟の所へ帰って」

 ナツメは、勇気を振り絞って言った。

「あっちだって、もっと広い所へ行けば楽しいよ。あたしは、朱姫葛ちゃんと本当の友達になりたい」

 朱姫葛は振り向いた。凍りついたような美しい顔立ちが、初めて綻んでいた。

「なら、私の望みを汲んでくれるよね」

 隣人たちが、大きく翼を羽ばたかせる。

 たちまち体を持っていかれそうになるほどの暴風が起こり、よろける。対岸の人間になった隣人たちが、喉の破れるようなおぞましい歓声を上げる。

「走って!」

 ナツメはその場に背を向け、綱をたどって走りはじめた。隣人の羽ばたく音も、不吉な喜びの声も、やっとできた友達がありがとうと呟く声も、何も聞かないようにして走り続けた。

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