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養蝕  作者: 祐川 千
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9-1 生み落とされた場所

 ついに祭りの日を迎えた。

 ナツメたちは前日に早寝をし、深夜に起きて食事を取ってから家を出た。隣人の棲み家へ繋がる入り口に向かう道で、人混みにぶつかってしまうのを避けるためだった。

「この綱に触っていれば、姿を隠すことができる」

 朱姫葛は、すっかり編みきって長くなった、ホースリールのように束ねられている命綱について、そう言っていた。実際、朱姫葛が一人で綱に触れた途端、ライターの火を消すように姿が消えた。

 檜は目を丸くしていた。

「どうして?」

「どうしてだろうね」

 朱姫葛は興味なさそうに答え、

「でも、気をつけて。私以外の人間が綱を触って消せるのは、姿だけ。物質までは消せない。声を出したら、ばれるよ。危険な道のりになるから、覚悟しておいて」

と、こちらは真剣に言った。

 この日のために編んできた綱を、自分たちを囲うように持ち、役場手前にある、峰迸川に架かる赤い橋──朱姫葛の持つ手書きの地図によると、金板橋こんいたばしというらしい──まで歩いた。その姿が、電車ごっこをしているのに似ていると気づいたのは、橋が見えてきてからだった。子どもと呼ぶには大きい三人が、真剣な表情で幼児のように歩いている様子は、きっと変に見えるはずだ。しかし、それでもいいかと思った。緊張していた。

 橋の下へ潜りこみ、綱を円形に置く。その中に身を寄せ合って座り、時が来るのを待つ。

 祭りの前夜──日付はもう当日になっていたから、早朝と言った方が正しいのかもしれない──とはいえ、深夜の町は静かだった。けれど、東の空が明るくなりはじめると同時に人影が現れるようになり、太陽が顔を見せる頃には、道という道に隣人たちがあふれかえっていた。

 時計を見てみれば、まだ四時半を回ったところだ。こんな早朝の田舎町に、新年でも迎えたかのような人の群れで道が埋まるさまは、異様だった。

 ナツメが慄きながら堤防の上を眺めていると、朱姫葛が肩を叩いた。時間らしい。

 朱姫葛が先に円形の綱を跨ぎ、川の傍へ歩いていく。檜は綱の端の一方を握りしめ、座ったままだ。

 隣人の棲み家へ行って無事に帰ってくるためには、誰か一人がこの場に残り、綱を握っていないといけない。

 一番小柄な自分なら、万が一橋の下を誰かが通りかかっても避けやすい。そう檜は言い、孤独で危険な役割を自分がやると言って譲らなかったのだった。

 姉弟は目を合わせて頷く。青白い弟の顔を目に焼きつけて、ナツメはもう片端の綱を持ち、朱姫葛の後に続いて川へ踏み入った。




 足首ほどの深さの川に足を入れた途端、体が下に引きこまれた。

 叫びそうになるのを間一髪でこらえ、綱を握りしめて目を瞑る。そよ風のようなものが頬を撫でた。朱姫葛の声がする。

「もう喋っていいよ」

 瞼を上げると、世界が一変していた。

 ナツメは、青く透明な回廊にいた。川に入ったはずなのに、呼吸はもちろん、普通に歩くこともできる。空間全体が微かな藍色を帯びており、天上からは霧のようにぼやけた光が射しこんで仄かに明るい。

 ナツメたちのいる道は、左右を流れの速い水の壁に挟まれている。それでも、透明な壁の向こうもまた藍色の世界がはてしなく広がっており、時折七色の泡が浮いては昇っていく様は見えた。

 ──これが、隣人の世界。

 まるで水族館の水槽に入ったようだ。

 そう考えた時、ナツメの背筋を自分でもよく分からない悪寒が駆け抜けていった。隣人の棲み家へと通じる道は、予想していたよりもずっと美しい。なのに、足元の凍えるような感覚が拭えなかった。

「先に進もう」

 声をかけてきた朱姫葛を見て、驚いた。

 彼女の一つに束ねた長い髪が、青く透けて煌めいている。

「その髪、どうしたの?」

 朱姫葛は自分の髪をすくい見て、大したことなさそうに、

「追々分かるよ」

と言って歩きはじめた。ナツメも後を追う。

「きれいな場所だね」

 能天気な言葉を口にしたのは、得体の知れない悪寒を払拭したかったからかもしれない。

 前を行く朱姫葛は、首を回して景色を見渡したらしかった。

「そうだね。こういうきれいな一瞬を見ている時だけは、この世界も悪くないんじゃないかって錯覚する」

「ここから出ることさえできれば、普通の世界に戻れるよ」

 ナツメは励ましたつもりだった。だが、朱姫葛は答える。

「ああ、そうか。あんたは外から来たから、外のことも普通に感じるんだね」

「おかしい?」

「ううん。おかしいのは私」

 水流の壁の向こうで、天上から大きな影のようなものが落ちてきた。影は沈みながら、わっと色のついた糸にほどけ散り、ナツメたちの行く先へ向けて流れていく。

「朱姫葛ちゃんは、我気逢町で生まれ育ったの?」

「私に親はいない」

 温度のない声が返ってきた。

 驚いて言葉を失うナツメを、朱姫葛は振り返る。青く透ける髪も相まって、余計作り物めいて見える美貌が微笑している。

「今のうちに、話しておくよ。私の生い立ちのこと」




 朱姫葛は、親というものに馴染みが薄い。自分を生んだ母親が、良々木威風の息子の長女登良子(とらこ)であること、自身がA市の病院で生まれたことは、家系図や母子手帳といった記録があるから知っている。また、登良子が中学校の卒業を待たずに出奔したこと、その五年後に朱姫葛を産み、籍を良々木の本家へ移させたこと、その間登良子自身は一切我気逢町に寄りつこうとしなかったことも、曽祖父から聞いて知っている。そしてその後、勤めていたクラブの客に刺されて死んだらしいことも、本家のスクラップした新聞記事を読んで知っていた。

 つまるところ、朱姫葛にとって生みの母親とは、昔話の人物と同じだった。父親の情報にいたっては何もなかったため、父親は架空の存在に近しかった。

 良々木家には、隣人との約束に従い、生きた人間を捧げて土地を豊かに保ち続けるという使命がある。登良子は、自分もまた捧げられることを嫌がって、我気逢町から逃げ出した。そのことを朱姫葛は、やはり登良子の遺品として残っていた日記帳を読んで知った。

 登良子の日記帳は、色あせた安っぽいピンクのノートだった。そこに、上手いとは言えない丸い癖字でこう書いてあった。

『死なないですむ方法を見つけた。あたしにしかできない逃げ方。金板橋の下からあいつらのところに行って、お願いする。特別な子どもを産んで、あたしの代わりにしちゃえばいい』

 ──自分が奇妙な生まれ方をしたらしいことは、母子手帳の記録を見たり、親族から聞いたりして把握していた。

 母親の腹の中に二年近くいた。生まれた時から、髪と歯が生えそろっていた。羊水が口に入ったわけでもないのに咳をくりかえし、産声を上げなかった。

 登良子が──良々木と我気逢から唯一逃げた子どもが朱姫葛を手放したのは、家と故郷への手切れ金代わりというのが一番の動機だ。だが、不気味な子どもから早く離れたかったという気持ちも、きっとあったに違いない。なぜなら、彼女は生まれた子どもに名前をつけようとせず、母乳も与えようとしなかったというからだ。朱姫葛の名をつけたのは曽祖父だと聞いている。

 朱姫葛は戸籍上、本家の一員になった。しかし、資金の援助こそ受けても、その家で育てられることはなかった。朱姫葛を育てたのは、本家から離れて建つ古い平屋で暮らす、生まれつき体の弱い叔母──登良子の妹登梅子(とめこ)だった。

 朱姫葛は登梅子のことを、ずっと自分の姉か何かなのだと思っていた。登梅子は朱姫葛に、自分を「梅ちゃん」と呼ばせたからだ。登梅子が叔母であること、世間の子に両親というものがいることを知ったのは、小学校に上がってからだった。

 それでも登梅子は、親しみを持って朱姫葛を育てた。共に遊び、本を読み、旅行に連れて行き、ほどほどに甘やかしたり叱ったりした。朱姫葛に家族と呼べるものがいるとしたら、それはこの叔母だけだった。けれど、よく発熱して調子を崩し、朱姫葛に看病されることがあったので、やはり親という感じはしなかった。

 その登梅子も、朱姫葛が十二歳になる年に病で亡くなった。ある日、重い咳をして病院へ行くと言って出かけたきり、会えなくなった。葬儀も執り行われず、本家の人間には死んだとだけ聞かされた。

 以来、朱姫葛は一人で暮らし続けている。




「そんな感じだったからか、どこも自分の居場所って気がしないんだ。みんなが好きになる人気の町も、素敵な観光地も、どこも同じに見える。我気逢の子どもとも、外に遊びに行って話した子どもとも、大人とも話が合わない。合わせようとも思わない。そんな感じ」

 朱姫葛はいつものように、さらりと締めくくった。

 ナツメは、どう感想を言ったらいいのか分からなかった。考えに考えて、かろうじて思い浮かんだのは、彼女の叔母についての疑問だった。

「叔母さんは、人に伝染る病気で亡くなったの?」

「違うよ。不治の病だって、叔父が言ってた」

「なら、亡くなったのに会えないなんて、おかしくない?」

「おかしいんだろうね」

「朱姫葛ちゃんが確かめたいのって、もしかして叔母さんのこと?」

「それも一つ」

 朱姫葛は行く手を指さす。流水の壁が、しばらく先で終わろうとしていた。

「ほら、話してたらもう着きそう。女神を返すのを忘れないで」

 ナツメは腑に落ちないものを感じた。しかし、本来の目的の方が重要だ。

 背負った鞄から女神二体を取り出し、手に持つ。そして、緊張の面持ちで、開けていく行く手を見据えた。


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