8-1 ぼんやりとした町
そもそも、老柳が園藤の倒れた時に連絡を取ろうとしていたのは、彼の部屋に滞在していて覚えた違和感について話すためだったという。
「お前の部屋の水回りが匂うって話をしただろ。実はあの後、お前が留守の間に、何度か排水口の掃除をしたことがあったんだ」
部屋へ上がった老柳は、その排水口を開けて持参した割り箸を突っこみながら話す。
「最初に掃除したのは、お前に臭いって言った次の日だったかな。許可ももらえたから、シンクを磨いて、専用の洗剤を一本丸々注いだ。僕だって、きれい好きというわけじゃないけれど、掃除はそこそこやる方だ。勝手なやり方で掃除をしてもいない。それなのに、これだ」
老柳が割り箸を持ち上げる。
先の方に、ずるりと長い黒髪が絡まっていた。しかも何十にも束ねられるほど長い。園藤や老柳の髪でないのは明らかだった。
「何度掃除しても、これが出てくる。最初は、お前の恋人や肉親の誰かのものだろうと思ったんだけどね。でも、僕が間借りしている間、お前の家の周りで一切女の姿を見かけなかった。それで、どうもこれはただ事じゃないかもしれないと思ったわけだ」
「どうしてもっと早く言わなかった」
「あっちに戻ってやらないといけない仕事があったからね。出ていく前にこんなことを話して、お前を脅かしていくのも良くないか、と気を遣ったんだ」
排水口から出てきた髪を、車から出てきた人形と並べてみる。黒の色合いや質感が似ている気がする。
二人は話し合った。話題はこの人形をどう始末したらいいのか、という問題から始まり、園藤の身の周りで起きたこと、見聞きしたことの分析にまで及んだ。
人形は、近くの寺社へ持ちこんで、供養やお祓いをしてもらった方がいいのだろう。
しかし、店長より聞いた話が気にかかる。我気逢町に行き、人が変わったようににこやかになって帰ってきてしまった少女は、地元の老人たちに手遅れだと言われていた。そうなってしまえば、祓っても意味がないという。よく厄除けなどに用いられる札などを使うのも、効かないようだった。
だが、園藤はまだ園藤のままだ。今ならば、供養やお祓いが効くのだろうか。
「これがどういうものなのか、気になるな」
老柳が髪の人形に言及する。
「人毛そのものでできてる人形を見たのは初めてだ。こんなに固まる人間の髪があるか?」
「どうやって固まってるんだろう」
人形を素手で触る気が起きず、園藤は割り箸でつついてみる。まったくほぐれそうにない。内側に強力な接着剤でも入っているかのように固まっている。
下手に寺社に頼るのはよさないか、と言い出したのは老柳だった。
「呪具も祓い方も、いろいろな種類や作法がある。倦んだ傷の表面に消毒薬を塗るような、そういう間違った対処をしたら、余計悪化するんじゃないか」
これの正体が分からないなら、誰に託しても困らせるだけだ。やみくもにそういう所をあてにしても仕方がない。
園藤は同意して、訊ねた。
「今までに、髪だけでできた人形を聞いたことはないか」
老柳は唸りながら考えこむ。間もなく、首を振った。
「日本では、そういう人形の話を聞いたことはないな。人毛を素材にした道具は聞くけれど」
「人毛を道具にすること自体は、別に珍しくない。どこかの寺に、毛を編んで作った綱もあったよな」
「うん。人毛は頑丈だからという理屈で、はっきりとした歴史は分からないまでも、かなり昔から作られていたらしい。各地の寺にある毛綱も、もとは貧しくも信心深い女性が、何かためになればとすすんで寄進したものだとか。それから、頭の寂しくなってきた平安貴族が、烏帽子を美しい形に仕立てて被るために、人毛でできたカツラを帽子の中に入れていたという話も伝わっている。人間が現れてからずっと、毛髪は身近にあるありふれた道具として使われてきた」
老柳は語りの合間に、床に寝そべる黒い人形を見下ろす。
「けれど、そのようにただの道具として使われてきた歴史がある一方で、体の中でも特に扱いやすい一部であるために、人間の存在そのものの代用品として、強い思いや願いを込めて使われることもあった。ヴィクトリア朝の貴族は、遺髪をアクセサリーに仕立てて故人を偲んだ。日本の女性は、夫が遠出したり危険な旅に出かけたりする時に、これまで伸ばしてきた自分の髪を切って、お守りとして差し出すこともあった。そこには、どうか夫が安全に自分のもとへ戻って来られるように、という祈りが込められた」
「今でも、赤ちゃん筆があるよな」
初めて切った乳児の毛を集めて筆にするという、誕生を記念する一品だ。
園藤が言うと、老柳は頷いた。
「ああ。もともとは、中国清王朝の宮廷で行われていた行事だったかな。子どもの髪を筆に仕立てることで、いつか頭の良い達筆な人になれるように、という願いを込めたと聞くよ」
さすがに老柳の方がものを知っている。園藤は興味を持って調べこそするが、知りたいことを知ればすぐ満足して忘れてしまう。こういう点についてもやはり、いまいち深まらないのだった。
園藤は溜息を吐いた。
「願いを込められた人毛で、しかも人形となると、どうしてもあれが思い浮かぶ」
「丑の刻参りの藁人形か」
言い当てられて、頷いた。
なるべく目の前の人形と結びつけたくはなかったのだが、共通点が多い以上、結びつけないわけにはいかない。
「まあね。願いも、誰かを傷つけたいという形を取るならば、立派な呪いだからね」
「こう見ると、逆になぜ藁人形が藁でできているのか不思議に思えてくるな」
園藤は、人毛の人形をまじまじと見つめる。
よく練った黒い水飴を固めたような人形は、見た目からして並々ならぬ威圧感を発している。誰かを呪おうとするなら、素朴な藁より、これの方が強く呪うことができるのではないかと思えるほどだ。
浮かんだ考えを口にすると、老柳は呆れた。
「何言ってるんだ。呪いたい相手の髪を、こんなにたくさん、しかもこの長さで集められるわけないだろ」
「あ、そうか」
「稲は天からの授かり物。その稲の乾いてできた藁は、神との繋がりを得たいという願いの現れなんだと思うよ」
実際、注連縄や正月飾りなど、古くから作られる神事の道具の素材には、藁が含まれることが多い。
「そもそも、藁人形は本来、丑の刻参りのために編み出されたものじゃない。古来中国の頃から副葬品として入れられたり、虫送りの儀式のために農村で使われたりしてきたんだ。丑の刻参りでの使い方は、その延長にあるだけ」
「へえ、そうなのか」
感心する園藤をよそに、老柳は真剣に人形を見つめる。
「そう考えると、なおさらこの髪の持ち主と製法が気になってくるね。誰がこれだけの量の髪を提供して、誰がこれを作って、誰がお前の車に仕込んだのか。そして、その目的は何なのか」
老柳は訊ねた。
「最近、恨みを買うようなことをしたかな」
「こんなのを仕掛けられるほどのことをした覚えはないよ」
「女性関係は?」
「卒業してからしばらくない」
「なら、女性関係の線は薄いか。お前は未練を持たれるような奴でもないからね」
最後の方に、ぼそぼそと聞き捨てならないことを言われたように思う。
問いただそうとしたが、その前に老柳は思いがけないことを言い出した。
「仕込んだのはきっと、ヨシヨシ生工の関係者だろ」
「なんでそう思うんだ」
園藤は驚いた。
ここ最近で、強いて恨まれるようなことをしたと言えるとしたら、あの保育所のアルバイトを急に辞めたことくらいしかないとは思っていた。だが、まさか老柳の方から断言されるとは予想外だった。
老柳は首を横に振る。
「大した根拠はないんだけどね。このあたりは山が多いだろ」
「そうだな。山しかない」
「なら、山籠りする修行者が多くいてもおかしくない。東京に戻った時、調べてみたんだ。実際、X県には長い間そういう者が多くいたらしい。そのほとんどは、明治の頃に坊主や神主になってしまったけれど、かつていた彼らがどんな山を拠点にしていたのか、という記録は残っていた」
「そこに、ヨシヨシ生工の縁者がいたのか」
園藤は思わず大きな声を出す。
老柳は首を横に振った。
「いや、そうじゃない。現在ヨシヨシ生工の工場があるあの山には、誰もいつかなかったんだ」
「なんだって?」
眉をひそめる園藤の前で、老柳が腕を組む。
「我気逢町周辺は、どうもおかしい。どこをどう調べても、あの地域の記録が異様に出てこない。しかも見つけることができたほんの少しの手がかりは、どれも近隣の地域の手でついでのようにつけられたものばかりで、あの土地そのものが残した記録が一切ないんだ。町なんだから町誌の一冊、いや、町報の一枚くらい発行していてもおかしくないのに、それすらない。時代を遡れば、なおさらない。あの土地の記録は、本当に何もないんだ」
──そんなことがありえるのか。
園藤は疑問に思う。この、地元地域を起こそうという声の上がるようになった時代に、行政や民間の誰もが何もしようとしないことがあるのか。都会ならともかく、人のいない田舎こそ、他から人を呼ぶための工夫が必要なのに。
「あの土地には、はっきりしない噂以外、何もないんだ」
老柳は、呟くように言う。
──我気逢町を形作るもの。
園藤は思い返す。
一人じゃないと思える町。
もう一人の自分がいる町。
姿形の似た従業員をたくさん抱えた、謎の企業。
人間のような落書きだけがある、子どものいない保育所。
一度行ったきり、人の変わってしまった女学生。
つきまとう影。
「まるで、ドッペルゲンガーだ」
園藤はこぼす。
他人からしか観測できない、正体不明の幻影。
それはまさに、我気逢町そのものだった。
「この人形も、ここまで髪だけで作っているとなると、案外複雑な呪具なんかじゃないのかもしれないな」
老柳が突然、床の人形を見下ろしてそんなことを言い出した。
「どうしてそう思う?」
「神に願う藁じゃなくて、人の存在の代わりとして使われる髪をこれだけ集めて、人の形にしてるんだ」
老柳は笑った。その左の口角だけを、変に引き攣らせて、言う。
「もう、ただの人の依代──分身みたいじゃないか」




