6-5
朝から空が鈍色に濁り、雨の降り続けている日だった。カンカン照りが二日続いたから、梅雨ももう明けたかと思ったのに、追い打ちをかけられた気分だった。
園藤はこの日も居酒屋へ出ていた。出勤の道から傘を大粒の雨が叩いていたが、今は強風が加わり、横殴りの雨に変化していた。ガラス戸から外を眺め、斜線のように雨の降りつけるのを珍しく思う。この辺りでは、夏にここまでの強風が吹くことなど滅多にない。
ひどい天気のせいか、店は閑古鳥が鳴いていた。夕食時にかけて常連客が二、三来た程度で、二十二時になると客足が完全に途切れた。これもまた珍しい。
最後にここを出ていった客の洗い物は片付けてしまった。カウンターやテーブルも念入りに拭き、客が来た時のための準備も整えた。やることがない。手持ち無沙汰だ。
──暇なのは困る。
机や椅子が曲がっている気がして、並べ直す。普段なら気にしないが、暇を持て余しているとちょっとしたことが気にかかって仕方ない。
「この分じゃ客なんて来ねぇな」
厨房へ続く暖簾を持ち上げ、店長がやって来た。エプロンを外した、Tシャツにズボン姿である。
「今日は早仕舞いにしちまうわ。他の二人も上がるって言ってたから、お前も帰っていいぞ」
「えっ」
店先の看板を準備中に変える背中を前に、園藤は立ち尽くす。
それは、困る。
「なんだ。まだ働きたいのか? 変な奴だな」
戻ってきた店長は笑いながら、客席の一つに腰かけた。ごつごつとした手が、持ってきたリモコンでテレビをつける。野球の中継が映る。野外スタジアムのようだ。雨は降っていない。
「最近どうした」
上がるでもなく、テレビを眺めていたからだろうか。店長がそう訊ねた。
園藤はすぐに答える。
「どうもしません」
それ以外の答えは持ちたくない。全部気のせいなのだから。
店長は、そうかと呟く。
「あのバイト、どうなった」
「どの、ですか」
「ヨシヨシ生工の」
「辞められました」
「良かったな」
二人はテレビを眺める。店長は打席や守備陣の様子を見て、時折頷いたり腕組みをしたりする。一方、園藤はまったく動かない。棒立ちでテレビを見上げた形のまま、頭はまったく別のことに囚われている。
早く帰った方が自然だ、と思う。自分には何も起きていないのだから。昨日はあまり眠れなかった。天気も良くないのだから、早く帰って寝た方がいい。
けれど、どうせ帰っても眠れるとは限らない。最近、暑さと湿気のせいか、寝つきがよくないのだ。
──店長も、ヨシヨシ生工のことが気になってたんだ。
園藤は乾ききった唇を湿らせ、口を開いた。
「俺は知らなかったんですけど、あの町は何か変な噂があるらしくて」
「ふうん。どんな」
「もう一人の自分がいる、みたいな」
店長はテレビを見上げたままだ。すぐに返事が来なかったため、やはり話すべきじゃなかったかと後悔する。
「すみません。忘れてください」
「あの辺りはな。もともと水害の激しい地域だった」
急に、店長はそう言った。
「峰迸川は暴れ川だ。この辺り一帯で大雨が降ると、あの川を中心として大水が出た。特に、中流辺りで他の支流と交わると、手がつけられない。ずっと昔からコツコツ河岸整備をして、川の形を変えて工夫して、それでやっと良くなった。それでも稀に大水が出る。一番最近のは、百年前くらいだったかな。随分死者が出たそうだ」
園藤は黙って話を聞きながら、保育所バイトの行き来で眺めた川を思い出す。とてもそこまで激しい様子には思えなかった。園藤があそこに通い始めたのが春だったからということもあるだろうが、いつものどかで心和む景色だったと覚えている。
「それでも、水の豊かな場所であることに変わりはない。峰迸川に限った話じゃねぇが、川は俺たちの生活に欠かせねぇ。たとえ水害が出ようとも、恩恵は計り知れない。だから、そういう地域だと知っていても住む人間はそれなりにいた。百姓が多かったらしい。他はあまりいねぇ。大昔はもっと人の少ない地域だった」
ところが、ある時を境に様子が変わった。
店長の語る声が低くなる。
「人が急に増えた。昔からあそこに住んでいた奴らの大半が、ばたばたと引っ越し始めた。そして、気づいた時にはヨシヨシ生工ができていた」
「どういうことですか」
園藤は首を傾げる。
「工場ができたから人が増える、っていう流れが普通じゃないですか。昔からいる住民が引っ越すのも、工場の排水トラブルがあって、ということなら分かりますけれど、工場のできる前に引っ越すのは早いのでは」
「俺も、そのあたりの前後関係は知らねぇよ。昔、俺の地元の人間が噂してた順番がそうだったっていうだけだから」
店長は、我気逢町と山一つ挟んで隣り合うB町の出身だった。実家がかつてそこにあったが、今は店長も兄弟も出てしまったため、だいぶ前に家を手放したという。
「地元と我気逢町は、とんと交流がなかった。ただ、たまにどうしても仕事であの辺りを通らなくちゃならねぇっていう人間がいると、そいつが帰ってきてからあの町の噂をしたもんだった。今はどうだか知らねぇよ。これは、俺が本当に小さかった頃の話だから」
もう五十年経つか経たないかというほど前の、昭和の半ばを過ぎた頃の話だ、という。園藤は感心する。
「店長、よく覚えてましたね」
地域の住人の噂話など、自分だったら聞き流して覚えることすらしない。思い出すなんて不可能だったはずだ。
店長はここで、初めてテレビから目を離した。モニターでは良い当たりが出たと実況が叫び、歓声が上がっている。
「俺は全部、年寄り連中から聞いただけだからな。確かなことなんか、何も知らねぇ。言えることも大してない」
だが、と声が沈む。
「俺が若い頃、ひとつだけ、あの町の絡む気味の悪いことがあった」
俺が二十代の時だ。
そう前置きして、店長は語り始めた。
当時、B町に少し目立つ家族がいた。一言で表してしまえば、カタギではなさそうな家だった。父親の、人懐こいようでどこか踏みこみづらさを感じる性格や、夏でも袖の長い着物を羽織ること、母親の硬い表情からそう推察していただけで、実際のところどうだったのかは分からない。何せ、この一家はB町へ越して来たその一年後にまた転居し、そこで行方不明になったのだから。
この一家には、一人息子がいた。寡黙だが自分を強く持った子どもで、おまけに歳の割になかなかの男前だった。同じ中学校に通う少女たちは、この子のことでよく騒いでいた。その騒ぎようもまた、近隣で噂になっていた。
その騒ぐ少女たちの中に、特に熱を上げる子がいた。店長の実家の近所に暮らす子で、小さい頃からおしゃまな女の子だった。だから、娘がよその少年に熱を上げているらしい、と彼女の親が自分の親にこぼすのを聞きながら、ミーハーな年頃の娘が周りにいないタイプの男前な転入生に惹かれるのは仕方ないだろう、と店長は考えていた。
この少女が、店長の我気逢町に絡む思い出の中心人物となる。
少女は転校生に随分熱を上げていた。共に登下校したり、ちょっとした料理を作ってあげたり、出先で土産を買ってきて渡したりしていた。店長も、一緒に田舎道を歩く二人の姿を何度か見かけたことがある。少女はにこにことよく話しかけており、少年は特にこれといって感情もなく相槌を打っていた。学生の、よくある光景である。店長は彼らにとりたてて注目していたわけではなかったのだが、勤めに出る時刻が彼らの登校時間と被っていたから、繰り返しその光景を見かけたのだった。
転校生が再び転校した後、当然そういう光景は見なくなった。彼に関する近隣住民の噂は、「あの家は我気逢町へ越すらしい」という内容を最後に、ぱたりと途絶えた。同年代の少女たちの話題からもまた、彼のことは消えていった。
ところが、彼に熱を上げていた少女だけはそうならなかった。
彼女は彼と文通を始めた。よほど彼を気に入っていたのだろう。彼女の両親は手紙のやりとりを嫌がったが、娘は気にしなかったらしい。一週間に一通ずつ、手紙を交換していたようだ。それを困ったものだと嘆く彼女の両親の声は、やはり自分の親伝てで聞いた。あんな町に越していった子とやりとりをしてはいけないというのに。どうしても聞かないんだよ。
少年の引っ越していった年の、夏になる頃のことだった。
少女が周りにあるお願いをし始めた。自分を我気逢町へ連れていってほしいというのだ。
その頃、交通手段は自転車かバスくらいしかなかった。とは言え、自転車であの町へ行くためには未舗装の峠の道を越えなければならず、骨が折れる。我気逢町行きのバスもない。
だから少女は、当時少しずつ使われ始めたばかりの、車かバイクを持つ近隣住民に目をつけた。彼らに、自分を我気逢町へ連れていってくれと頼み始めた。
店長もまた、貴重なバイク持ちとして、彼女に相談された人間の一人だった。
仕事が終わって家で寛いでいる時に、少女はやって来た。中学校帰りなのかセーラー服姿のままで、どこか思いつめた表情をしていた。
「お願いします。我気逢町へ連れていって」
店長は断った。彼女の親の許可を得ず、子どもを連れ出すわけにはいかない。何より、行き先が良くない。我気逢町のことはよく知らなかったが、あそこが近隣の皆が恐れる忌み地だということは分かっていたから、近づきたくなかった。一見何の根拠もなさそうな迷信に見える事柄に、ずっと昔の経験が息づいていることもあるのだ。
しかし、彼女はなかなか諦めようとしなかった。別に彼女と特別親しくしたことはなかったが、近所の足を持つ者の中で店長が最も年が近かったから、一番可能性を見出されていたのかもしれない。
よりによってその日、家には説得してくれそうな両親と祖父母がいなかった。いるのは店長と、年の離れた兄夫婦だけである。結局、長いこと玄関で話しこむ自分たちを見かねた兄嫁が出てきて、一緒に彼女と話をしてくれた。その中で、我気逢町へ行きたい理由が、やはりあの転校していった少年のためであるということを知った。
「彼が怖がっているんです。このままあの町にいたら、自分はまずいことになる。逃げたいって言うんです。だからあたし、迎えに行きたいの」
「迎えに行くって、ねえ」
兄嫁は不思議そうに言った。
「本当に嫌なら、その子一人でどこへでも逃げ出せると思うけれど。それこそ、あの子の前住んでた家はまだ空いてるんだから、こっそり忍びこんで暮らすくらい、どうにかなるでしょう。どこかで働き口を見つけたっていいんだし」
おおらかな時代らしい台詞だった。
けれど、少女は首を横に振った。
「駄目よ。彼一人だと、出られないんだって」
「どうして」
「ついてくるから」
「誰が」
少女の返事に間が空く。ややあって、彼女は小さな声で言った。
「神様が」
発言の真意は分からない。この直後に、少女の兄が連れ戻しにきたからだ。兄妹は激しく口論しながら、家へ戻っていった。
しかし彼女はその後、町へ行ってしまったらしい。店長がまた彼女の噂を耳にしたのは、玄関先で話してから大して日の経たないうちのことだったが、その時にはもう、事が起きてしまった後だった。
噂は、近隣の老人たちと祖父母が、縁側でぼそぼそと声をひそめて話すのを聞いて知った。
彼女は我気逢町へ歩いていったらしい。そのまま丸一日消息がなく、探していた家族が、峠より歩いて降りてくる彼女を見つけた。
顔を一目見て、両親は、もうこれは自分の娘ではないと悟った。顔立ちは確かに娘なのだ。けれど、妙になごやかな顔で笑う。たとえるなら、年頃の娘らしからぬ菩薩のような笑みだったという。
そして、探しにきた両親と顔を合わせるなり、言った。
「あたし、あっちの町で暮らしたいな。みんなもどう?」
その指は、今来たばかりの峠の道を示していた。
「素敵なお社があるから、そこで神前式を挙げたい」
老人たちは、他にもぼそぼそと囁き合っていた。
帰ってきてしまってはもう遅い。
祓っても駄目だ。変わってしまった。
あの子が夕方、庭先にいたのを見たかい。影が二つあったよ。
だから、あそこに近づいちゃいけないんだ。
可哀想にね。
結局彼女は、それからほどなくしてB町から消えた。残された家族は町を離れ、ずっと遠い県外の地へと越した。その後の消息は、どちらも知れない。
一人で話し続けて疲れたのか。店長はカウンターにあった湯呑みを二つテーブルに置き、茶を注いだ。
湯呑みの一つを園藤の方へ置き、もう一つを飲み干す。
「俺も一度、いなくなる前にあの子を見かけたことがある」
店長は空になった湯呑みを持ったまま、そう言った。
「飯が足りなくて、屋台にラーメンを食いに行く途中だった。あの子の住む家の前を通った。二階の一室に明かりがついていて、あの子が外を見ているのが見えた」
その家はカーテンもないような、古い木造家屋だった。だから、夜に障子を開けてしまえば、外から中の様子がよく見える。
開け放たれた障子から見えたのは、札のべたべたと貼られた一室と、その中にじっと佇む少女。札は壁を埋め尽くすように貼られており、とてもくつろげるような空間には見えなかったが、少女は気にしていないようだった。穏やかな笑みを浮かべ、外を眺めている。
その身体は黒く、二重にぼやけて見えた。まるで水に波紋が生じるように、ゆらゆらと、細い身体が分裂しては一つになるのを繰り返していた。
「見てられなくて、すぐ逃げたよ。目の錯覚だと思ってるんだけどな。錯覚だとしても、あまり思い出したくない景色だった」
店長は肩をすくめた。
「気味の悪い話を聞かせて、悪かったな。この話は滅多にしないんだが、お前があの町でのバイトをやめられたっていうから、つい話しちまった」
園藤は何も言えない。黙ってその場に立ち尽くし、こちらを窺う店長の顔を見返していた。
「どうした」
「いえ」
「いえ、ってことはないだろう。顔色が悪いぞ」
節くれだった指が、対面の席へ置いた湯呑みを指す。
「お前もまだ帰らねぇなら、のんびり茶でも飲んでいったらどうだ。まだ、終電には時間があるだろ」
「ありがとうございます」
園藤はひとまずほっとした。普段ならこんな風に、仕事の後いつまでも職場にいる事はしない。だが、今は一人が耐えられそうになかった。
勧められるまま、席につく。湯呑みに注がれているのは冷たい烏龍茶だ。最近よく出る飲み物である。
ずっしりとした湯呑みを持つ。この店の湯呑みは大きくて茶がたくさん飲めていいと、常連の年配たちがよく喜ぶのを思い出す。
湯呑みを傾ける。広い縁の中を覗きこむ。
茶の満ちてできた水面に、自分の顔と、その後ろに佇む誰かの胴体が映っていた。




