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養蝕  作者: 祐川 千
24/44

6-1 よびかけ

 金曜日がやって来た。

 今日もまた、バイトに行かないといけない。

 園藤は渋々車に乗る。空には重い雲が立ち込めており、今にも雨が降って来そうな湿気っぽい風が吹いている。

 老柳から我気逢町とヨシヨシ生体工業の噂を聞いてから丸一日経った。その間今後の自分の立ち振る舞いを悩んだが、美味しいバイトであることに変わりはないので、そう簡単にやめようという気持ちにはなれなかった。

 ──どうせデマだろ。

 園藤は、何度くり返したか分からない言葉を再び自分に言い聞かせた。

 インターネットの掲示板に書き込まれる話なんて、だいたいが作り話だ。暇を持て余した人間や、自分や老柳のような創作好きが、短い間だけでも空想を現実にしようと、遊びで書き込んだものに違いない。

 それに、冷静に考えれば、自分が保育所で見たものに大した事件性はないのだ。前任の先輩の名前は、園児たちが直接本人から名前を聞いているならば、黒板に落書きをするくらい当たり前だろう。カーペットについていた黒い何かも、あの程度の量ならば鼻血ということもありえる。洗剤の種類と色合いで邪推してしまっただけという可能性の方が高いはずだ。

 こうやって妙に気味の悪い方向へ考えがはたらいてしまうのは、このバイトを紹介してくれた先輩と、一切連絡がつかないからだ。

 先輩は社交的な人だった。だから、園藤に何も言わずに辞めたのが奇妙に感じられて仕方ない。それで、保育所のことまで気味悪く感じてしまうのだろう。

 ──今日こそ、シフトが終わったら店長に電話しよう。

 昨日は居酒屋の定休日だった。休みの日に電話するのは悪いと思って電話できなかったが、今日は営業日。店長のシフトも入っているはずである。稼ぎにならない従業員からの電話は嫌がられるかもしれないが、仕方ない。自分の精神衛生のためなのだ。

 ──あいつが代わってくれればいいのに。

 園藤は今日も交通量の少ない国道を走りながら、友人の顔を思い出す。

 彼に疑念を抱かせるきっかけとなった友人こと老柳は、庚申塔の調査をしに行くと言って朝から出掛けていった。多分、夜には帰ってくるのだと思う。数日泊まるという話は聞いていなかったが、老柳は園藤の部屋に昨夜使った寝袋を置いていっていた。数日、いや、もしかすると、X県の用が済む間、ずっと園藤の部屋に寝泊まりするかもしれない。ヤツにはそういうところがある。

 ──もしそうなら、一週間に一度焼肉を奢ってもらおうかな。

 我ながらいい案だと思った。思い返せば、しばらく肉を腹いっぱい食べていない。エネルギッシュな食事をしないから、ちょっとしたことで弱気になっているのかもしれない。

 ──絶対そうだ。帰ってあいつに会ったら、宿泊料として焼肉を請求しよう。

 肉の焼ける景気のいい光景を思い浮かべたら、なんだか気分が上がってきた気がする。

 園藤はその勢いを逃すまいと、アクセルを踏んだ。




 ヨシヨシ生体工業に着いたのと同時に、ぽつぽつと雨粒が落ち始めた。

 保育所を目指して、駆け足で移動する。保育所のせり出した屋根の下へ入り込んだ途端、後ろに鉛のような雨のカーテンが落ちてきた。ギリギリ間に合ったらしい。

 保育所は今日も、静寂と共に彼を出迎えた。玄関へ入っても、聞こえるのは外からの雨音のみ。保育室内には誰の気配もない。

 ──俺に分かる範囲では、誰もいない。

 園藤は頭を振り、悪い考えを振り払う。怖気づく前に、保育室の引き戸を開け放った。

 蛍光灯の白熱が、保育室の隅々まで照らしている。誰の影もない。

 壁の黒板を見る気になれず、なるべくそちらを見ないように心がけながら、はたきで埃を落として床を清掃する。水回りを磨き、物の整理を済ませてしまえば、もう黒板と向き合うしかなくなる。

 ──怖がりすぎじゃないか。

 文字が書いてあるだけなんだから大丈夫だ。

 とにかく、早く終わらせてしまおう。

 園藤は深呼吸する。自分を鼓舞し、ついに黒板を正面から見つめた。

 すぐ、見たことを後悔した。友人から町と企業に関わる噂話を聞かされた頭は、勝手に落書きの内容に意味や法則性や見出した。

 黒板の落書きでまず目についたのは、『のなみだいごろう』の文字だった。

 のなみだいごろう。

 野波大五郎。野波大五郎。野波大五郎。

 ひらがなと漢字で、この名前が何度も書いてある。なぜ先輩の名ばかり書くのだろう。その理由は、西側の黒板を見てすぐに理解できた。

 そこには、でかでかとこう書いてあった。

『のなみだいごろう←よんだ!』

 曲線の滑らかな、えらく弾んだ文字だった。

 「よんだ」というのは、どういう意味なのだろう。

 ──呼んだ、かな。

 野波が彼らを呼んだのか、彼らが野波を呼んだのか。

 意味は分からなかったが、四方へ執拗に書かれた「のなみだいごろう」の文字は、どれもはしゃいでいるような勢いを感じさせる形をしていた。

 なぜそんなことを書くのだろう。

 辞めた清掃バイトの名を、どうしてこんなに書くのだろうか。

 まさか、ここに来ているのだろうか。

 何のために?

 そういえば、自分が来ていない日の清掃バイトはいるのだろうか。

 保育所の清掃は隔日というわけにはいかないだろう──園藤はまた手を止めて考えこんでいる自分に気づき、慌ててカメラを構えた。

 余計なことは考えない方がいい。自分は言われた仕事をして帰ればいいのだ。

 園藤はシャッターを切る。落書きを見たくないので、黒板の輪郭や置いてある備品を頼りに、撮り残しがないよう必要最低限を捉えようとする。

 ──え?

 それでも目に飛び込んでくるものがあって、また手が止まった。

 それは、人間の落書きだった。

 頭から膝までが描かれている。ちょうど、園藤と向き合うようにして立っている姿のようだ。短い髪や無表情な吊り目は、写実的ではないがきちんと何を描きたいかが分かるような、最低限のデフォルメであらわしてある。チョークを複数色使って、少しよれたシャツとズボン、会社の貸してくれた古いエプロンの色合いを器用に表現しており、手にしたカメラの形もシンプルながら正確だった。

 向き合う絵の彼に、目が釘付けになった。目線がぴったり合う頭の位置。見覚えのある吊り目の形。今朝鏡で見てきた服装。手に持つカメラの構える位置。

 どう見ても、今の自分と同じ体勢、同じ背格好をしている。

 これは、俺だ。

 園藤は気づいた。この絵は、よくできた自分の似顔絵なのだ。

 まるで、カメラを構える自分を鏡で見る様だった。

 ──もう一人の自分に会える町。

 ヨシヨシ生工の、そっくりな営業マン達。

 ドッペルゲンガー。

 一昨日耳にしたこの町の噂が蘇り、肌が粟立つのを感じた。

 ──嘘だ。

 デマだ。作り話だ。

 再度自分に言い聞かせ、次の落書きを撮ろうと足を動かしかけた時、似顔絵の自分の頭の横に矢印つきの文字が書いてあるのに気づいた。

『←おなまえ ____』

 まるで、この人物の名前を書けとでも言わんばかりの落書き。

 園藤はぞっとした。

 ──こんなものを、未就学児が描けるか?

 自分の顔立ちや背格好を知っているのは、まだ分かる。自分が気づいていなかっただけで、行き帰りのどこかでこの保育所を利用する子どもとすれ違っていた可能性を否定できないからだ。

 しかし、自分が黒板の記録を撮る時にこの位置に立つこと、今日の服装を把握していることは、どう理解すればいいのだ。

 園藤は黒板を撮る作業を続ける。一度目に付きはじめると、些細なことでも意識するようになってくる。

『きょうの文字のかわいさ→ひょうか____』

 可愛さ。

 初回の清掃時に言った記憶がある。彼らの文字を見て、可愛いと呟いた。

『もっとなにかしゃべって』

 これは無関係だろうか。自分が喋らず掃除をしていることについて言っていると思えなくもない。

『ち、こわい?』

 一昨日だ。カーペットの黒い染みを血だと思った。

 ──俺の行動を把握してる。

 園藤は黒板をカメラに収めながら、さりげなく瞳孔だけを動かして部屋を見回す。

 防犯カメラは見つからない。自分が把握していないだけで、どこかに設置してあるのだろうか。

 一見して見つけにくいよう、カモフラージュして置くこともあると言う。それでも部屋を監視しやすい位置は限られるだろうし、レンズは隠せないはずだ。怪しい場所を見ても、まったくそれらしいものが見つからない。

 ──どうやって俺を見てるんだ?

 前回来た時、誰かに尾行されていなかったか。いなかったと思う。

 音を聞かれているようだから、盗聴器が仕込まれているのではないだろうか。仕込める場所が色々ありそうで、自分には探しようがない。

 いったい、いつ、どこから。

 誰が、何のために。

 考えるほど、恐怖が足先まで下りていって、動けなくなりそうだった。

 ──これを書いているのは、子どもじゃない。

 意味の分からないことだらけだったが、それだけは確信した。

 前々から、おかしいとは思っていたのだ。いくら何でも、利用者を見かけなさすぎる。施設の職員にまったく会わないのも、おかしい。気前よく報酬を即日現金払いしてくれるのは、きっとこの異常に耐えられなかったアルバイトたちが、逃げ出すことが多かったからだ。

 野波も同じ目に遭ったに違いない。

 決定的な根拠はないものの、今の園藤にはこの仮説が事実であると感じられてならなかった。思い返せば、彼はこのバイトを紹介する時、少し後ろめたそうにしていた。あれは、自分のケガのせいではなかったのだろう。園藤が不気味な目に遭うと分かっていて──それでもこのバイトから逃げたくて──紹介したのだ。

 彼は、逃げないといけないと考えたのだ。

 園藤はカメラにこの光景を収め、さっさと用具ロッカーにしまった。

 まだ自分の目にしているものの正体は分からないが、何かとんでもないものに触れてしまった気がした。

 従業員のいたずらという可能性もなくはないが、そうだとしたら、園藤の今日の服装をどうやって当てたのだろう。あの絵に使われたチョークの乾き具合、クリーナーでの消しづらさから考えるに、園藤が来る直前に描いたとは考えにくい。特に今日は、雨に濡れないよう、駐車場から走ってきたのだ。どんな画伯でも難しいだろう。

 これまで同じ服ばかり着てきた記憶もない。

 どう考えても、人の技では不可能だった。

 園藤は足早に保育室を横切り、出口へ向かった。こんな所に長居したくない。一刻も早く立ち去りたかった。

 保育室の引き戸を開け、靴を履き、玄関の戸を開けた。

 隙間から風が入り、園藤の後ろへと吹き抜ける。

 戸の閉まる直前に、くすくす、という笑い声が聞こえた気がした。

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