第8話 国境での対峙・修理予約は3年待ち
「……平和ですね」
午後三時。
アトリエ・リリスの店内には、穏やかな西日が差し込んでいた。
今日の予約客(騎士団の装備メンテナンス)をすべて捌き終え、私は帳簿をつけていた。
売上は右肩上がり。
『絶対崩れない君』の増産ラインも安定し、ルーカスからは「軍用防水コートとして正式採用する」との通知も来ている。
「さて、コーヒーでも淹れましょうか」
私が立ち上がった、その時だった。
バンッ!!
入り口のドアが、乱暴に開け放たれた。
繊細な真鍮のドアベルが、悲鳴のような音を立てる。
「ここか! やっと見つけたぞ!」
怒号と共に、土足で店内に踏み込んでくる二人組。
私は眉をひそめた。
「……お客様。ドアは静かに開けてください。ヒンジが歪みます」
「うるさい! 僕だ、レイモンドだ!」
男が叫びながら、カウンターに詰め寄ってきた。
私は眼鏡のブリッジを押し上げ、彼らを観察した。
男――レイモンド。
かつての金髪は油でベタつき、目の下には濃いクマ。着ている服は高級品のようだが、泥と煤で汚れ、あちこち解れている。
手には、どこかの路地裏で買ったと思われる、薄汚れた羊皮紙の地図が握られていた。
女――マリアンヌ。
自慢の巻き髪は鳥の巣のようにボサボサで、厚化粧が汗と埃で崩れてドロドロだ。
彼女からは、数日間風呂に入っていない特有の酸っぱい臭いが漂っていた。
「……ええと。新手のグランジファッションですか? 当店はドレスコードがございますが」
「誰がファッションだ! ここまで来るのにどれだけ苦労したと……!」
「衛生基準を満たしていない方の入店はお断りしています。精密機器にカビ胞子が付着しますので」
私はカウンターの下で、こっそりと『空気清浄結界』の出力を最大にした。
臭い。シンプルに臭い。
「リリス! いい加減にしなさいよ!」
マリアンヌがヒステリックに叫んだ。
「あんたのせいで、私たちの屋敷がどうなったと思ってるの!? お風呂も入れない、夜は真っ暗、ドレスも洗濯できない! 全部あんたが呪いをかけたせいじゃない!」
「呪いではありません。メンテナンス不足による物理的損壊です」
私は淡々と事実を告げた。
「それで? ご用件は何でしょう。私はこれでも忙しいのですが」
レイモンドが地図を床に叩きつけ、カウンターを拳で叩いた。
「迎えに来てやったんだ、リリス。……フン、こんな薄暗い店で、油まみれになって働いているとはな。惨めなものだ」
彼は清潔に整頓された店内を見回し、鼻で笑った。
彼の目には、ホワイトベースの内装が「殺風景で貧乏くさい」と映るらしい。
美的感覚のバグは修正不可能だ。
「手紙にも書いた通りだ。僕の側室として戻ることを許してやる。マリアンヌの世話係兼、屋敷の専属技師としてなら、置いてやってもいい」
「……はあ」
「感謝しろよ? こんな可愛げのない女、本来なら路頭に迷っているところを僕が救ってやるんだからな」
レイモンドは自信満々に泥だらけの手を差し出した。
私が泣いてその手を取ると、本気で思っている目だ。
ここまで認知が歪んでいると、逆に学術的な興味すら湧く。
私はため息をつき、手元の分厚い革表紙のノートを開いた。
「レイモンド様。現状認識のアップデートをお願いします」
「あ?」
「まず、復縁および再就職の件。お断りします。現在の私の時給は、貴方の領地の年間予算を超えていますので」
「は、はあ!? 何を馬鹿な……!」
「次に、屋敷の修理依頼の件」
私はノート――予約台帳を彼に見せた。
そこには、びっしりと予約者の名前が書き込まれている。
「ご覧の通り、当店は大盛況でして。現在、新規の修理受付は『3年待ち』となっております」
「さ、3年!?」
「ええ。しかも貴方方は他国の方ですので、技術流出防止関税として料金は5倍。さらにブラックリスト入りしていますので、特別割増料金が加算されます」
私は電卓を叩き、その非現実的な数字を提示した。
「見積もりはこちら。……アークライト家の総資産を全て売却しても、ネジ一本買えませんね」
「な、な……っ!」
レイモンドの顔が赤黒く変色していく。
マリアンヌが横から台帳を覗き込み、悲鳴を上げた。
「嘘よ! こんなの詐欺だわ! あんたはタダで働けばいいのよ! 昔みたいに!」
「昔の私は死にました。今は『株式会社アトリエ・リリス』の代表です。対価なき労働は提供しません」
「……ふざけるな!」
逆上したマリアンヌが、私の後ろの棚に手を伸ばした。
そこには、完成したばかりの『絶対崩れない君』が並んでいる。
「これ、巷で噂の化粧水でしょ!? もらっていくわよ! 慰謝料代わりに!」
「あ、触らない方が……」
私の警告は遅かった。
マリアンヌがボトルを掴んだ瞬間。
バチィッ!!
「あぎゃっ!?」
紫色の電撃が走り、マリアンヌの手が弾かれた。
彼女は床に尻餅をつき、痺れた手を抱えて震えている。
「マリアンヌ!?」
「言ったでしょう。当店の製品には、未精算の持ち出しを防ぐ『盗難防止スタンガン機能』がついているんです」
「き、貴様……! 妹になんてことを!」
レイモンドが私を睨みつけ、掴みかかろうとした、その時だった。
「――私の店で、何をしている?」
奥のラボから、氷点下の声が響いた。
「あ……」
レイモンドの動きが止まる。
ゆっくりと姿を現したのは、ルーカスだ。
腕組みをし、ゴミを見るような目で二人を見下ろしている。
「だ、誰だ貴様は! リリスの新しい男か!?」
「男、ではないな」
ルーカスは冷酷に微笑み、私の隣に立った。
そして、当然のように私の腰を引き寄せる。
「私はこのアトリエのオーナーであり、ラピス王国第二王子、ルーカス・フォン・ラピスだ」
「……は? 王、子……?」
レイモンドの顔から血の気が引いていく。
ラピスの第二王子。その名は他国にも轟いている。冷徹で残忍な、影の支配者として。
「リリスは我が国の国家機密だ。彼女への暴言、脅迫、および窃盗未遂……。外交問題に発展させてもいいのだが?」
ルーカスが指を鳴らすと、店の外に控えていた近衛騎士たちが一斉に窓から中を覗き込んだ。
「ひっ……!?」
「さあ、選べ。このまま投獄されるか、ゴミのように消えるか」
勝負ありだ。
レイモンドは震える手でマリアンヌを引きずり起こし、後ずさった。
だが、その目はまだ死んでいない。
追い詰められたネズミのような、粘着質な光が宿っている。
「……覚えてろ。リリス、お前は僕のものだ……必ず、連れ戻す……」
「はいはい、お気をつけて。出口はあちらです」
私は扉を開けてやった。
二人は這うようにして店から逃げ出していった。
「……やれやれ。店内の空気が汚れましたね」
私は『空気清浄結界』の出力を最大にした。
「『必ず連れ戻す』か」
ルーカスが面白そうに呟いた。
「まだ懲りていないようだな。……帰り際、懐に手を入れていた。おそらく、裏ルートの連絡用魔道具だ」
「裏ルート?」
「ああ。金で何でも請け負う『掃除屋』と接触するつもりだろう。……愚かなことだ」
ルーカスは私の髪を指で梳いた。
その目は、逃げた二人を狩る捕食者のそれだった。
「リリス。今夜の夜会、最高のドレスを着てこい。……私の『婚約者』として、彼らに引導を渡してやる」
「……は?」
今、とんでもない単語が聞こえた気がするが。
私は思考停止し、とりあえず床に落ちた泥を掃除することにした。
非効率なトラブルは、もうたくさんだ。
……でも、心臓が少しだけ早く脈打っているのは、きっと掃除の運動負荷のせいだろう。




