第7話 元婚約者からの手紙と王子の独占欲
「……警告。空腹係数が限界値を突破しました」
正午。
私は作業台の上で、精密ピンセットを持ったまま呟いた。
集中しすぎた。
『自動ゴキブリ追尾レーザー』の照準補正プログラムを書いていたら、朝食のクロワッサンから6時間が経過していた。
これでは脳へのグルコース供給が不足し、計算ミスを誘発する。極めて非効率だ。
「リリス。昼だぞ」
タイミングよく(あるいは盗聴器でも仕掛けているかのように)、アトリエのドアが開いた。
ルーカスだ。今日はラフなジャケット姿だが、素材が上質すぎて逆に目立っている。
「良いところに来ました、オーナー。福利厚生として、カロリーの支給を要求します」
「ああ。そのつもりで来た」
彼はにこりと笑い、私の手からピンセットを取り上げた。
「今日は外で食うぞ。『市場調査』だ」
「市場調査? 新しい魔導コンロの視察ですか?」
「似たようなものだ。……着替える必要はない。その白衣を脱げば十分だ」
彼は私の白衣を慣れた手つきで脱がせ、ハンガーに掛けた。
私の私服は地味な紺のワンピースだが、彼は「君の瞳の色に合っている」と満足げに頷いた。
相変わらず、褒めポイントが独特な人だ。
◇
連れてこられたのは、王都のメインストリートに面した高級レストランだった。
「……ルーカス様。ここ、予約三ヶ月待ちの店では?」
「オーナー権限だ(このビルの持ち主は私だ)」
さらりと権力を乱用する。
案内されたのは、庭園を見下ろす最上階の個室だった。
カトラリーは純銀。テーブルクロスは最高級のリネン。
「何かの罠ですか? もしかして、次の開発案件は『絶対に焦げないフライパン』ですか?」
「素直にデートを楽しめないのか、君は」
ルーカスは苦笑しつつ、給仕に目配せをした。
すぐに料理が運ばれてくる。
メインは『鴨のコンフィ・魔力熟成ソース添え』。
「……美しい」
私は職業病で、まず断面を観察した。
火入れが完璧だ。皮目はパリッと、中はロゼ色。
「頂きます」
一口食べる。
鴨の脂の甘みと、スパイシーなソースが口内で爆発した。
「……高スペックです。素材のポテンシャルを120%引き出しています」
「気に入ったか?」
「はい。このシェフ、熱伝導の計算とタンパク質変性の管理が完璧ですね。弟子入りしたいくらいです」
私がパクパクと食べ進めると、ルーカスは自分の皿には手を付けず、頬杖をついて私を眺めていた。
まるで、小動物の餌やりを楽しんでいるような目だ。
「リリス。……実家(アークライト家)のその後について、興味はあるか?」
彼が唐突に切り出した。
「あまりありませんが……データとして聞いておきます」
「現在、彼らの屋敷の室温は外気温と同じだ。昨夜は冷え込んだから、アンティーク家具を薪にして暖炉を燃やしたらしい」
ルーカスはワイングラスを揺らした。
「魔石の供給を止めたからな。我が国からの輸入に頼っていたガーネット王国は、今やパニック状態だ。街灯は消え、風呂は水、料理は薪火。……文明レベルが100年後退した」
「それは……因果応報ですね」
私は鴨肉を口に運んだ。美味しい。
彼らは「魔法」という便利なスイッチを押すことだけに慣れすぎて、その裏にある「エネルギー供給」と「メンテナンス」を軽視した。
インフラを失えば、生活が崩壊するのは物理法則と同じくらい絶対の真理だ。
「同情はしないのか? 父親だろう」
「私が開発した『省エネ魔道具』を売り払って、浪費していた人たちです。自業自得という言葉しか浮かびません」
冷たいだろうか。
でも、私は彼らに何度も警告したのだ。それを「小言がうるさい」と切り捨てたのは彼らだ。
「……そうか。君が心を痛めていないなら、それでいい」
ルーカスは安堵したように微笑み、身を乗り出した。
「ん」
「はい?」
彼が指を伸ばし、私の口元に触れた。
親指の腹が、唇の端についたソースをゆっくりと拭う。
「……っ」
「ソースがついていた」
「あ、すみません。……ナプキンを使いますので」
「構わない」
彼はそのまま、私の唇をなぞるように触れ続けた。
指先の温度。
見つめる瞳の熱量。
ドクン、と心臓が大きく跳ねる。
(警告。体温上昇。冷却システム、応答なし)
顔が熱い。
私は動揺を誤魔化すために、グラスの水を一気に飲み干した。
氷がカランと音を立てる。
彼の距離感が、最近おかしい。
スポンサーと技術者の距離ではない。まるで、独占したい宝物を愛でるような。
「リリス。君は私の国に来て、幸せか?」
「……はい。研究費は潤沢ですし、ご飯も美味しいですから」
「なら、ずっとここにいろ。君の『居場所』は私が守る」
その言葉には、契約更新以上の重い響きがあった。
私が何か返そうとした、その時。
コンコン。
無粋なノックがあり、黒服の男が入ってきた。
給仕ではない。ルーカスの側近だ。
男はルーカスの耳元で何かを囁いた。
一瞬。
ルーカスの瞳から甘い色が消え、絶対零度の氷河に戻った。
「……そうか。ご苦労」
側近が下がると、ルーカスは優雅にナプキンで口を拭い、私に向き直った。
その笑顔は美しいが、目が笑っていない。
「リリス。デザートの前だが、少し報告がある」
「何でしょう? 嫌な予感がしますが」
「君の元婚約者レイモンドと、その妹マリアンヌが……たった今、王都の検問を通過したそうだ」
「……はい?」
私はフォークを取り落としそうになった。
ラピス王国の国境警備は、鉄壁のはずだ。ましてや制裁中の国の貴族など。
「どうやって入国を? 密入国ですか?」
「いや。私が『通せ』と命令した」
ルーカスは悪戯が見つかった子供のように、しかし邪悪に笑った。
「彼らはなけなしの家財を売って、安馬車で泥だらけになりながら国境まで来た。『リリスを連れ戻せば全て解決する』と信じてな。……そんな面白い道化、追い返すのは勿体ないだろう?」
「……趣味が悪いですね」
「最高の舞台を用意してやるためだ。彼らに、君という『宝石』がどれほど高い位置にあるか、見上げさせてやるために」
彼は私の手を強く握った。痛いほどに。
「会いたくないなら、私が裏で処理(排除)するが?」
「処理……」
物理的に消されそうな響きだ。
私は少し考え、首を横に振った。
「いえ、会います」
「ほう?」
「彼らは顧客です。技術者として、きっちりと『修理不可』と『サポート終了』を説明して差し上げないと、納得しないでしょうから」
それに、逃げ回るのは性に合わない。
私はもう、屋根裏部屋で泣いていた無力な令嬢ではないのだ。
「……分かった。君がそう望むなら」
ルーカスは私の手の甲に口づけを落とした。
騎士の誓いのように。恭しく。
「明後日、王宮で舞踏会がある。そこに彼らを招待しよう。……楽しみだな、リリス」
「私は胃が痛いですが」
私はため息をつき、冷めた水をもう一杯飲んだ。
レイモンド、マリアンヌ。
貴方たちが泥だらけで何を求めてここへ来るのかは知らないけれど。
残念ながら、現在のアトリエ・リリスは「予約3年待ち」だ。
新規の、しかもブラックリスト入りの顧客に対応する時間は、1秒たりとも残っていない。




