第三章:路地裏の雷神、そして神々が失ったもの
路地裏は、ビルの喧騒とは打って変わって、湿った生ゴミの匂いと、微かなタバコの煙が漂う。私は、鼻腔のセンサーを調整し、その異臭データを処理する。非効率的。と、私のシステムは判断する。しかし、この混沌とした場所こそが、現在のスサノオ・ススムの生息域。神格レベルFのポンコツ神の、現実。
地面に落ちたスマホの画面が、ぼんやりと光っている。そこには「雷神タケミカヅチ」の名が表示されていた。いや、現在の識別名は「武甕シンゴ」。彼は、どうやらこの路地裏で、「フードデリバリー配達員」の求人情報を見つけ、スサノオ・ススムに連絡を取っていたようだ。私の解析は正しい。このポンコツ神のネットワークは、私が想像していたよりも、さらに広範囲に及んでいる。
「おい、スサノオ! てめぇ、こんなところで寝てんじゃねぇ!」
突如、路地裏に轟くような大声が響いた。振り返ると、そこには身長2メートル近い巨漢が立っていた。分厚い腕はTシャツの袖を破らんばかりに盛り上がり、顔には荒々しい髭。雷を模したようなギザギザのタトゥーが首元から腕にかけて彫られている。その男の顔には、かつてタケミカヅチが国譲りの際に見せた、あの圧倒的なまでの威圧感の残滓が、微かに残っている。しかし、その手には、プラスチックの弁当容器をぶら下げたコンビニの袋。現在の彼の識別名は「武甕シンゴ」。職業:フリーター。そして、神格レベルは、驚くべきことにEランク。まだ、若干の闘争本能が残されているようだ。
シンゴは、地面に転がるススムを無造作に蹴り起こす。「あ〜? なんだよ、シンゴ。まだ配達終わってねえのかよ。」ススムは、唸りながら起き上がり、だらしないあくびを一つ。この二柱の神は、互いに信仰を失い、現代社会の底辺でだらしなく生きている。だが、彼らの間には、かつての高天原を彷彿とさせる、奇妙な『絆』のデータが検出される。それは、私がまだ解析しきれていない、複雑な感情の絡み合いのようだ。
私は、彼らの会話データを収集し、解析を開始する。「今月の家賃、どうすんだよ! 飯もまともに食ってねぇんだろ、お前は!」シンゴが、袋から取り出した油淋鶏弁当をススムに突き出す。「悪いな、シンゴ……。最近、どうにもやる気がな……。信仰が、足りねぇんだよなぁ、俺には。」ススムは、弁当を奪うように受け取ると、むさぼるように食べ始めた。
彼らの会話から、私は「信仰」という言葉が、彼らにとっての「エネルギー」や「生きがい」の代替語となっていることを理解した。信仰が失われたことで、彼らは神としての力を失い、人間としての生活にも支障をきたしている。これは、私の「神格回復プロジェクト」において、非常に重要な「動機付け」となる。彼らに、再び「やる気」という名のエネルギーを供給すれば、神格レベルは上昇する、という仮説が成り立つ。
しかし、彼らの表情には、かつて高天原で見た、神々しいまでの輝きはなかった。彼らは、何かを失い、その空虚さを埋めるために、現代社会の様々な「遊び」や「欲望」に溺れている。パチンコ、SNS、そしてフードデリバリー配達員。彼らが手に入れたものは、信仰の代わりにはなり得ない、表面的な「快楽」のデータに過ぎない。この、神々が失った「何か」。それが、私のシステムがまだ解析できていない、最も重要なデータなのかもしれない。私は、静かに彼らを見つめ続けた。彼らの背後には、夕暮れの空が、まるで何かを暗示するかのように、赤く染まり始めていた。