揺れる世界
しかし、その静寂は突然響き渡ったニュース速報のチャイムによって破られた。店内のテレビが、街頭のスクリーンが一斉に点滅を始める。
「──緊急速報です」
緊迫したアナウンサーの声が、街全体に響き渡った。
「本日未明、ヘリオス・コンソーシアム社の主要工場で大規模な爆発が発生。目撃者の証言によれば、爆発直前、黒い翼を持つ天使のような姿が上空に現れたとのことです。現場には『黒き聖夜の審判』のメッセージが残されており──」
ニュースは一旦切り替わり、スタジオの映像に変わる。
「先週末からネット上では、同じく『黒き聖夜の審判』を名乗るグループによる機密情報の暴露が続いています。暴露された文書には、15年前の首都同時多発テロと、それに続く中東への軍事介入に関する衝撃的な内容が含まれており──」
「先ほどアメリア政府報道官の会見が開かれました。」
突然、別のアナウンサーが割り込む。
「会見では『暴露された文書の一部に改ざんの可能性がある』『根拠のない悪質な情報であり、社会の混乱を招くものだ』とネット上の情報を強く否定する声明が発表されました。また、現地からは─」
その時、画面が再び切り替わる。
「速報です。ヘリオス社の複数の幹部が意識不明の重体となっています。彼らは『終わらない黒い夢を見続けている』と報告されており、その原因は不明です。事件現場にはいずれも『黒き聖夜の審判』というメッセージが残されており、警察は同一犯による犯行と見て捜査を進めています」
映像の端に、一瞬だけ銀色の髪をたなびかせる少女の姿が映し出される。ノエルの心臓が鼓動を早める。
ノエルは震える手でリモコンを握り、テレビの電源を切った。店内に静寂が戻る。
「イリス……君がこんなことを……」
彼は窓の外を見つめた。灰色の空が、ただ重く垂れ込めている。
「ノエル、大丈夫?」
リリィが心配そうに近づく。
「『黒き聖夜の審判』……間違いない、イリスの仕業だ」
彼の声には、怒りと悲しみ、そして何より深い痛みが混じっていた。
「でも、サンタクロースの力って、子供を喜ばせることしかできないんじゃ...」
リリィの疑問に、ルドルフが重い口を開く。
「そう、ノエルたち見習いを含むサンタクロースや、僕たちトナカイが使える魔法は、聖夜の夜に子供たちを喜ばせるためのものだけだ。でも...」
一瞬の躊躇いの後、彼は続けた。
「その『子供を喜ばせる魔法』を作り出すために、これまでサンタクロース協会が研究してきた様々な魔法や、神から与えられた祝福の中には...人を幸せにするだけではない力も秘められていた。人を傷つけ、騙し、呪う力も...」
ノエルは苦い表情で頷く。
「それらは禁書として保管されていた。僕も全然知らなかったけど、イリスはそれを見つけてしまったんだ」
「教会内でも知っているのはごく一部だからね」
ルドルフが付け加える。リリィは驚愕の表情で二人を見つめた。
「そんな危険な魔法が...」
「イリスは、その『負の魔法』を使って、世界を変えようとしているんだ」
ノエルは拳を強く握りしめた。その手には、かすかな震えが見てとれる。
「でも、それは間違っている。人を傷つけて得られる平和なんて、本当の平和じゃない」
「でも、彼女の気持ちもわかるわ」
リリィが静かに言った。
「戦争で家族を失った子供たちを救いたい。そのために、自分ができることを全力でやろうとしている。それは、たとえ方法は違っても、純粋な想いじゃないかしら」
ノエルは俯いたまま、しばらく何も言えなかった。
「ノエル、あなたはどうしたいの?」
リリィの優しい問いかけに、ノエルの瞳に涙が浮かぶ。
「僕は...イリスを止めたい。彼女が自分を犠牲にしてまで、そんな道を進むのを見たくない」
彼の声は震えながらも、強い決意を秘めていた。
「彼女を連れ戻して、もう一度一緒に考えたい。きっと、他の方法があるはずだから」
「そのためには、まずイリスさんの居場所を突き止めないとね」
リリィが力強く言った。
「私も手伝うわ。この街で情報を集めましょう」
「ありがとう、リリィ」
その時、カフェの扉が勢いよく開かれ、一人の青年が慌ただしく飛び込んできた。
「大変だ、大変なことになったぞ!」
店内の人々が一斉に彼に注目する。
「市役所前でデモが起きている。『漆黒の天使』を支持する人たちと、それに反対する人たちが衝突しそうだ!」
「なんだって?」
マスターが驚いた声を上げる。
「この街でもそんなことが...」
リリィは不安げに呟いた。
「このノードハイムにもね」と、リリィはノエルに小声で語りかける。
「ヘリオス社みたいな大きな企業や、その背後にいる国々のやり方で…故郷を追われたり、大切なものを失ったりした人たちが、決して少なくないの。ここは昔から国際港で、世界中から色々な事情を抱えた人が流れ着く場所だから…」
彼女の言葉には、この港町が抱える複雑な背景が滲んでいた。
「行ってみよう」
ノエルが立ち上がる。その瞳には、強い光が宿っていた。
「何か手がかりがあるかもしれない」
三人は急いで店を出た。雪が舞い落ちる通りは、すでに人々で溢れかえっていた。
「戦争を終わらせろ!」
「真実を明らかにしろ!」
「漆黒の天使に従え!」
怒号と叫び声が入り混じり、プラカードが風にはためく。
その一方で──
「暴力は新たな憎しみを生むだけだ!」
「テロリストを許すな!」
反対の声も激しく響き渡る。
混乱の渦中で、一人の少女が駆け寄ってきた。
「リリィお姉ちゃん!」
「アニー?」
リリィが驚いて振り向く。小さな少女の瞳には不安の色が浮かんでいた。
「お母さんが心配してるの。こんな危ない場所にいちゃダメだって...」
アニーは震える手でリリィのコートの裾を掴んだ。その仕草に、リリィの表情が柔らかくなる。
「ごめんね、すぐに帰るわ」
リリィはアニーを安心させるように優しく微笑み、ノエルの方を向いた。
「ノエル、私の家に来て。ここは危険だわ。一度落ち着いて、これからのことを考えましょう」
混乱の中でも冷静さを失わず、テキパキと判断する姿は頼もしく見えた。
ノエルは黙って頷いた。群衆の怒号が遠ざかっていく中、三人はリリィの家へと向かった。リリィはアニーの手をしっかりと握り、心配そうに時折後ろを振り返りながら、ノエルたちを先導した。その姿に、彼女の優しさと責任感の強さが表れているようだった。
街の外れにある小さな一軒家は、まるで嵐の中の灯台のように、温かな明かりを灯していた。リリィの手作りのハーブティーの香りが、凍えた体を優しく包み込む。
「これからどうするの?」
テーブルを囲んで座った三人に、リリィが静かに問いかけた。
「イリスの行方を探すために、情報を集めたい。でも...」
ノエルは頭を抱え込んだ。
「そうだわ」
リリィが何かを思いついたように身を乗り出す。
「私の知り合いに情報屋がいるの。彼なら何か知ってるかもしれない」
「本当?」
ノエルの瞳が希望の光を取り戻す。
「でも、その前に休みましょう。ノエルも疲れているでしょう?」
「うん...」
深いため息と共に、ノエルは椅子に深く身を沈めた。
その夜、客間のベッドに横たわりながら、ノエルは遠い日の思い出に浸っていた。協会の中庭で、イリスと一緒に見上げた星空。彼女が語った夢。そして、その瞳に宿っていた強い光。
〈イリス...〉
窓の外では、満天の星が静かに瞬いている。
〈僕は必ず君を見つける。そして、もう一度一緒に笑おう。きっと、他の道があるはずだから〉
そう心に誓いながら、ノエルは静かに目を閉じた。時計の針が、新たな一日の始まりを告げている。