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聖夜の黄昏  作者: ナオ
8章 惨劇の夜想曲
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願いの価値

意識が、泥のような微睡みの中から浮上する。

リリィが目を覚ました時、最初に感じたのは、鼻をつく焦げ臭いオイルの匂いと、肌を刺すような冷たい鉄の感触だった。

重い瞼を持ち上げると、そこは薄暗く揺れる箱の中だった。手足はプラスチック製の結束バンドで拘束され、硬い床に転がされている。不規則な振動と低いエンジン音が、自分が輸送されていることを告げていた。


「……っ、ルドルフ!?」


隣を見ると、巨大な毛玉のような影が、太いロープでがんじがらめにされ、苦しそうに荒い呼吸を繰り返している。ルドルフだ。麻酔の影響か、まだ意識は混濁しているようだが、その瞳は微かに開かれ、リリィの無事を確認しようと必死に焦点を合わせようとしていた。


「気がついたか」


頭上から、冷ややかな声が降ってきた。

黒ずくめの兵士たちが数名、荷台のベンチシートに無機質な彫像のように腰掛け、銃口をこちらに向けている。

その中の一人が、壁面に設置されたコンソールを操作した。


ブゥン、という低い起動音と共に、荷台の奥に設置された大型モニターが青白く発光した。


『ふふ、こんな形で再会できるなんて、運命を感じてしまうわ』


高精細な画面に映し出されたのは、洗練されたオフィスの一室と、そこで優雅に脚を組む女の姿だった。

整えられたボブヘア、知的な眼鏡。かつてカフェで親しげに微笑んでいたその顔は、今は氷のような無表情でこちらを見下ろしている。


「……ジェシカさん」

リリィは唇を噛み締め、画面の奥の女を睨みつけた。


「いいえ、今は別の名前で呼ぶべきかしら」


『なんでも構わないわ。名前なんてただのラベルよ』

ヴァレリアの声には、かつてカフェで見せたような親愛の情は欠片もなかった。


「こんなことをしてどういうつもり? イリスさんの居場所なら、私たちも分からないわ!」


『イリス? ああ、あの壊れた玩具のことね。もう興味はないわ』

ヴァレリアは画面越しに、心底どうでもよさそうに手を振った。


『あと、お嬢さん。あなたにも用はないの。……ねぇ、トナカイさん。聞こえているんでしょう? あなたとお話したいの』


ルドルフは重いまぶたを持ち上げ、虚ろな瞳で画面の方を見つめたが、口を開こうとはしない。沈黙だけが、彼なりの抵抗だった。


『……つれないわね。一度、カフェでお話した仲じゃない。また素敵な講義をしてほしいわ』


沈黙が続く。

画面の中のヴァレリアが、すうっと目を細めた。


『お嬢さん、用はないと言ったけど……用ができたわ。トナカイさんのお口を軽くするために、少し協力してちょうだい』


彼女が目配せをすると、兵士の一人が無言で立ち上がり、リリィに近づいてきた。その手には、青白いスパークを放つスタンガンが握られている。


『できるだけ良い悲鳴をあげてね? きっと、優しいトナカイさんの心に響くはずよ』


「やめ……!」


バチバチッ! という威嚇音と共に、スタンガンがリリィの首筋に押し当てられようとした、その瞬間。


「止めるんだ」


低く、威厳に満ちた声が、狭い荷台の中に響き渡った。


「おい、アルファ・スリー、任務中にふざけるな」

別の兵士が、ルドルフの近くにいた男を咎めるが、男は狼狽して首を振る。

「ち、違います! 俺じゃない! ……まさか、本当にトナカイが喋った!?」


兵士たちに動揺が走る中、ルドルフは毅然とした声で続けた。


「彼女に手を出すな。……話なら、僕が聞こう」


『ふふ、やっぱり素敵ね。その知性、その声……。そう、素直にお話してくれたらいいの』

モニターの中で、ヴァレリアが満足げに唇を歪めた。

『私は魔法について知りたいだけ。単刀直入に聞くわ。どうしたら、私たちにもその力が使えるのかしら?』


「ダメよ、ルドルフ!」


リリィが叫んだ。スタンガンの火花が目の前で爆ぜても、彼女の青い瞳は恐怖に屈していなかった。


「話しちゃダメ! それは、ノエルやルドルフ、サンタクロース達の……大切な秘密なんでしょう!?」

リリィは、スタンガンを持つ兵士と、画面の向こうの女を交互に睨みつけた。

「私は平気よ。こんな脅しなんかで、あなたたちの大事なものを売り渡さないで!」


「リリィ……」


ルドルフは、彼女の強さに感嘆し、そして安心させるように目を細めた。

「ありがとう。君は本当に強くて、優しい子だ。だが、心配はいらないよ。話したところで、何も変わりはしない」


「この力は、君たちには使えない」

彼はモニターのヴァレリアに向き直り、きっぱりと告げた。


「前にも言った通りだよ。魔法は、子供の『純粋な願い』を力に変えるものだ。私利私欲にまみれた君たちには、永遠に扱えない代物だよ」


『純粋な願い……。またそれ? 精神論は聞き飽きたのよ』

ヴァレリアの声に、隠しきれない苛立ちが混じる。

『私たちにも再現できるように、もっと論理的に、科学的な言語でお話してもらえるかしら? プロトコルさえ分かれば、再現不可能な現象なんて存在しないはずよ』


「……やれやれ」

ルドルフは深くため息をついた。

「等価交換の『等価』とは何だと思うかね?」


『……は? 何の哲学問答よ』


「力を、別の力に変える。これが物理学だ」

ルドルフは、出来の悪い生徒に教える教師のように淡々と続けた。

「原子の組み合わせを、別の組み合わせに変える。これが化学だ。君たちが考える『等価』とは、そういう質量保存やエネルギー保存の法則に基づいたものだろうね」


『それが世界の真理でしょう?』


「では、紙切れ一枚の紙幣を、店で果物に変えるのは?」


『……経済学ね。紙幣という信用を、商品という価値に変える。これも等価交換だわ』


「その通り。物理的にはただの紙切れが、人々の『信用』という概念によって重みを持ち、実体ある果物と釣り合う。魔法も同じだよ」


ルドルフの瞳が、薄暗い荷台の中で静かに、しかし強く輝いた。


「子供の願い。この、物理的には重さも形もない、ただの想い。この『価値』に重みを見出し、その価値に見合った奇跡と交換する。……これが、サンタクロースの魔法だよ」


『ッ!?』

モニターの向こうで、ヴァレリアが言葉を失う。


彼女の脳裏には、封印していたはずの記憶があふれ出していた。


冬の朝の、澄み切った陽光の匂い。

ホットミルクの湯気。

そして、古びた木のドールハウスから聞こえてくる、優しいフクロウの教授の声と、跳ね回るウサギたちの笑い声。


『魔法はね、君が信じてくれるから存在するんだよ』


あの日の「奇跡」は、孤独だった少女アビゲイルの「願い」が生み出したものだったのか?

あの温もりには、物理的な質量以上の「価値」があったというのか?


(……バカな。ありえない)


彼女は、震えそうになる指先を、太腿に爪が食い込むほど強く押し当てた。


『……願いに、価値を見出す? 願いの価値を、見合った奇跡と変える?』

彼女の表情が、理解不能なバグに直面したように揺らいだ。


『馬鹿馬鹿しい、全く解析不能だわ。願いの価値とは何? 質量? カロリー? それともビット数? どんな願いなら価値が高いというの? 数値化できないパラメータなんて、存在しないも同然よ!』


その背後で、作戦を指揮していたケルベロス部隊のグレイヴス総指揮官が、『こんなおとぎ話のために、我々の予算と人員が注ぎ込まれているとは……』と頭を抱える声が漏れ聞こえてきた。


「数値化できないからこそ、尊いのだよ。すべてを数字でしか測れない君たちには、永遠に理解できない領域だろう」

ルドルフは静かに、しかし冷徹に宣告した。


『……構わん。理解できなくても、こいつらが何らかの軍事的な力を持っていることは明らかだ。解析はできる。バラバラにして、その脳や体の構造をスキャンすればいい』

グレイヴスの声が割り込み、場を氷点下まで冷え込ませる。

『トラックを急がせろ。神室に連絡して解剖の準備を進める』


『ちょっと、待ちなさい。勝手に進めないで。まだ話の途中よ』


『あんなおとぎ話いくら聞いても時間の無駄だ。魔法科学班に引き渡す』


言い争うヴァレリアとグレイヴス。

兵士たちが再びリリィたちに詰め寄ろうとした、その時だった。


ガクンッ!!


唐突に、世界が傾いた。

トラックの巨大な車体が、ありえない角度で跳ね上がり、無重力のような浮遊感に包まれたかと思うと、次の瞬間には天地が逆転していた。


「な、何事だ!?」

「敵襲か!?」


兵士たちが体勢を崩し、壁に激しく叩きつけられる。リリィとルドルフも床を転がり、凄まじい衝撃音と水飛沫の音が響き渡った。トラックは横転したまま滑走し、川に突っ込んで停止したのだ。


薄暗い荷台の中は、上下が反転し、完全なカオスと化していた。

「ぐうっ……総員、状況を報告せよ!」


「フゥゥゥーッ……!」


暗闇の中で、怒れる野獣の荒い鼻息が響いた。

衝撃で固定具が外れたのか、自由を取り戻したルドルフが、その巨体を跳ね起こしていた。


ドガッ!


狭い荷台の中で、丸太のような前足が唸りを上げ、硬い蹄が兵士を壁に蹴り飛ばす。

さらに、鋼鉄のように硬く大きな角が、起き上がろうとした別の兵士を容赦なくなぎ払った。

最新鋭の装備に身を包んだ精鋭たちも、逃げ場のない閉鎖空間で暴れる数百キロの巨獣の前では、あまりに無力だった。


一瞬にして場の制圧を終えたルドルフは、鼻を一つ鳴らすと、リリィを庇うように仁王立ちした。


「ううっ……」


リリィが痛む体を起こすと、頭上にある、かつて右側のドアだった鉄の天井から、コンコン、と礼儀正しいノックの音が聞こえた。


ガァン!!


ド派手な音と共に、重い装甲ドアが外側から蹴り開けられ、川の冷たい風が吹き込んだ。

そこに立っていたのは、ボロボロになりながらも、太陽のような笑顔を浮かべた赤い服の少年。


「メリークリスマス! 特別配送のお届け物です!」


「ノエル!!」

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