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聖夜の黄昏  作者: 那王
8章 惨劇の夜想曲
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過去という名の亡霊

マンハッタンの夜景は、神が誤って地上にぶちまけてしまった宝石箱のように、無秩序で、それでいて冒涜的なまでに美しかった。その光は、地上で蠢く無数の欲望と絶望を養分にして、今夜も飽くことなく輝き続けている。


ヴァレリアは、ペントハウスの床から天井まで続く広大なガラス窓の前に立っていた。その手には、年代物のボルドーが注がれたグラス。彼女の完璧にデザインされたシルエットが、眼下に広がる光の海に、まるで支配者のように映り込んでいる。ポート・モロウズで起きた「事故」の残響など、この光の奔流の前では、対岸の川面に投じられた小石ほどの意味も持たない。


GOGとヘリオス、二つの巨大な獣を手玉に取り、その背中の上で危うい綱渡りを演じる日常。ジェシカ・ミラーという、社会正義を振りかざす清廉な仮面。それら全てが、もはや彼女にとって退屈なルーティンワークでしかなかった。この完璧にデザインされた世界で、彼女の心を揺さぶるものなど、もう何一つ存在しないはずだった。


その静寂を、テーブルの上に無造作に置かれていたスマートフォンが、無機質な振動音で破った。


ヴァレリアは、振り返らなかった。グラスを傾け、芳醇な香りを確かめる。通知を見ずとも、誰からの電話なのかは分かっていたからだ。もっとも、ディスプレイに表示されたところで、それは意味のないランダムな数字の羅列に過ぎないだろうが。 この電話は、誰にも教えていない。幾重にもプロキシと暗号化回線を噛ませた、使い捨てのゴースト番号。この番号を特定し、このタイミングで鳴らすことができる人間など、世界に一人しかいない。


彼女はゆっくりと振り返り、まるで億劫そうに、しかしその指先に一切の躊躇はなく、スマートフォンの画面をスワイプした。スピーカーモードに切り替えると、ボイスチェンジャーを介した、男か女か、あるいはそのどちらでもない人工的な響きを持つ、しかし妙に落ち着き払った、彼女の良く知る声が、シルクのように滑らかな室内に響き渡った。


『もしもし? 君、面白いね。アプローチは悪くないけど、詰めが甘すぎる。そんなやり方じゃ、すぐに足がつくよ』


その言葉に、ヴァレリアの完璧にデザインされた唇が、ほんのわずかに、皮肉な笑みの形に歪んだ。


「久しぶりね、K。その口説き文句、本当に懐かしいわ。あなたって、意外とロマンチストなのかしら。一番最初に、私の正体を暴いた時も、そうやって電話をくれたわよね」


彼女の声は、絹のように滑らかで、甘い毒を含んでいた。


電話の向こうで、少年――カイトは、ふ、と息を吐いたのが分かった。ボイスチェンジャー越しの呼気さえ、ヴァレリアには彼の苛立ちの色として読み取れた。


そして、彼は、世界で自分だけが呼ぶことを許された、古い呪文のような名を口にした。


『……アビゲイル』


その響きに、ヴァレリアの笑みが、ほんの一瞬だけ凍りついた。グラスを握る指先に、無意識に力がこもる。


アビゲイル。 分厚い瓶底メガネ、手入れの行き届かないボサボサの髪。誰からも見下され、嘲笑された、過去の自分の名前。 この世の理不尽に打ちひしがれ、アパートの冷たい床で、世界そのものを呪った、あの無力な少女の亡霊。 今ではもう、世界でカイトしか呼ばない、旧世界の残骸。


『あんたは、昔から清廉潔白な聖人様じゃなかった』カイトの声は、感情を押し殺したように平坦だった。『オンラインカジノから金を抜き、自分の社会保障番号さえ偽造した。俺だってそうだ。お互い、善人ぶるつもりはねえ。だがな、俺たちの間には、そういう歪な世界で生きる者同士の、奇妙な信頼があったはずだ。あんたは、俺の信頼を裏切るような真似はしなかった。……なんで、イリスをGOGに売った? なんで、ノエルたちを利用したんだ?』


ヴァレリアは、くすくすと、喉の奥で悪魔が笑うような声を立てた。凍りついた仮面は、完璧な嘲笑の形へと戻っていた。


「あなたって、本当に面白いことを言うのね、K。技術は一流でも、中身はやっぱり子供のまま。あなたのその『信頼』とやらに、一体どれほどの価値があるというの?」


彼女は、窓の外の光の海へと視線を戻した。その瞳には、かつてのアビゲイルが持っていた、世界への憎しみとは質の違う、もっと冷徹で、全てを計算し尽くした、無機質な光が宿っていた。


「教えてあげるわ、坊や。これが、大人のやり方よ」


彼女はグラスに残ったワインを一気に飲み干し、静かにテーブルに置いた。


「いざという時のために、有用な人間関係は、常に築いておくもの。あなたとの関係も、そうだったでしょう? 互いの能力が必要だった。それだけのことよ。そして今回、純粋で、人を疑うことを知らないサンタクロースの見習いの少年、喋るトナカイ、そして……『魔法』」


ヴァレリアは、まるで極上の獲物を舌なめずりするかのように、その単語を口にした。


「これ以上ないくらい、最高のカードが、向こうから私の手の中に、ころころと転がり込んできたのよ。これを最大限に利用しないなんて、それこそ非合理的だとは思わない?」


『……ッ!』


「いざという時のために、有用な駒は、常に手元に揃えておく。そして、最適なタイミングで、最適な場所に配置する。それが、このゲームの必勝法よ。あなたも、少しは学習したらどう? あなたが私に教えてくれた、ハッカーの哲学そのものでしょう?」


『俺が教えたのは、情報の非対称性を利用して、巨大な権力構造に風穴を開けるための技術だ! 人を駒として弄び、裏切るための道具じゃない!』


カイトの感情的な声に、ヴァレリアは心底楽しそうに、そして少しだけ哀れむように笑った。


「あら、綺麗事を。あなただって、私の能力が必要だったから、私と組んでいた。私がアビゲイルだった頃、まだこの世界で生きる術も知らなかった私を、あなたが見つけ出し、その技術を叩き込んだ。なぜ? 私の才能が、あなたの退屈しのぎのゲームに『有用』だったからでしょう?」


彼女は、カイトの言葉を冷ややかに遮った。


「私たちは共犯者。それ以上でも、それ以下でもないわ。いつまでも過去の感傷に浸っているなんて……感傷はバグよ、K。最強のハッカーであるあなたが、そんな簡単なプロトコルも理解できないの?」


電話の向こうで、カイトが歯ぎしりをする音が、微かに聞こえた気がした。


『……そうだな。あんたの言う通りだ』 カイトの声が、一度、すうっと温度を失った。 『俺は、あんたを買い被っていた。俺のミスは、単なる情報不足じゃない。過去の感傷に囚われて、あんたという人間の本質を見誤ったことだ。あんたが、俺の知っていたアビゲイルじゃなく、ヴァレリアという化け物になってたってことにな』


「ええ、そうよ」ヴァレリアは満足げに頷いた。「それでこそ、私の知るKだわ。ようやく、理解できたようね」


『……ああ、理解したよ、アビゲイル。いや、ヴァレリア』


電話の向こうで、カイトが深く、重い息を吐くのが分かった。そして、彼は、まるで訣別を告げるかのように、静かに言った。


『……お前がそういう奴だってことは、よく分かった。いや、ずっと前から、分かってたのかもしれない……』


通話は、一方的に切られた。 プツリ、と途切れた電子音だけが、広すぎるペントハウスの静寂に吸い込まれていく。


ヴァレリアは、沈黙を取り戻したスマートフォンを、まるで興味を失った玩具のようにテーブルに放り投げた。彼女の表情からは、先ほどまでの愉悦の色は消え、再び冷たい無表情が支配していた。 窓の外の夜景は、変わらず美しく輝いている。だが、その光の海を見つめる彼女の瞳の奥に、ほんの一瞬、誰にも気づかれることのない、深い孤独の影がよぎったのを、彼女自身は気づいていなかった。


────


『そして、GOGをあの場所に呼び込んでしまったのは、俺のミスだ。……すまない』


「GOG……? あの、GOGが?」 リリィが、信じられないといった表情で受話器に向かって叫ぶ。 「どういうことなの、カイトさん! GOGって、家電製品やスマホ、それに食品を作ってる、あの大企業でしょう? なんでそんな普通の会社が、軍隊みたいな真似をしてイリスさんを襲うのよ!?」


『……俺も、ついさっきまでそう思っていた』 カイトの声には、苦渋と、そして自分自身への激しい怒りが滲んでいた。


『あいつらはただの巨大な複合企業だ。電気、水道、ネット、物流、金融、エンタメ……すべてに顔を出す、ただの「社会システム」そのものだと思ってた。 だが、奴らの企業ネットワークの最深部に侵入してわかった。まさか裏で「魔法」なんてオカルトを本気で研究し、それを兵器にしようなんて狂った計画を進めてるなんて、夢にも思わなかった』


「じゃあ、ジェシカさんは……」


『ああ。あいつは最初から魔法を狙っていたんだ』


カイトは、一度、言葉を詰まらせた。


『……ジェシカが、ヴァレリアというGOGの幹部だってことは知っていたさ。だからこそ、都市中の監視網を持つGOGのインフラを借りるのが、イリスを見つける一番の近道だと判断したんだ』


「知っていたの!? なのに、どうして……!」


『あいつとは長い腐れ縁だ。企業のスパイだろうが何だろうが、俺たちの「信頼」までは裏切らないと思っていた……。いや、違うな』


カイトは自嘲するように言った。


『俺は、巨大企業の「力」を利用したつもりで、逆にその巨大な「悪意」に利用されたんだ。ただのインフラ屋だと思っていた相手が、世界の裏側で何を食らって肥え太っていたのか……俺は見誤っていた』


『俺のミスだ。すまない』


「―――っ!!」


ノエルの頭の中で、何かが、ぷつりと切れた。 思考が、停止する。耳鳴りが、世界から全ての音を奪っていく。

「僕のせいで。僕たちが、彼女の場所をジェシカさんに伝えたから。」


「イリスは……死んでなんかないッ!」


気づいた時には、フードトラックのドアへと駆け出していた。


「どこへ行くの、ノエル!」 リリィの悲痛な声が、背中に突き刺さる。


「イリスを探しに行くんだ! あの場所にまだいるかもしれない! 生きてるに決まってる!」


その言葉が、どれだけ非現実的な希望的観測でしかないのか、彼自身が一番よく分かっていた。だが、そう叫ばずにはいられなかった。じっとしていることなどできなかった。


「待つんだ、ノエル!」


ルドルフの制止の声も耳に入らない。ノエルは、嵐の中の小舟のように、ただ闇雲な衝動に突き動かされ、夜の闇へと飛び出していった。


「ノエル!!」


リリィの絶叫が、遠ざかっていくサイレンの音に掻き消される。 そして、受話器の向こうではカイトの苦々しい沈黙が残されたのだった。

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