ささやきの森の記憶
その記憶は、いつだって冬の朝の、澄み切った陽光の匂いと共にやってくる。
窓ガラスを凍らせるダイヤモンドダストのきらめき、ストーブの上で湯気を立てるホットミルクの甘い香り、そして、部屋の中央に鎮座する、あのドールハウスから漂う、不思議な木の匂い。
冬になると深い雪に閉ざされる小さな田舎町。そこで暮らす6歳の少女にとって、その年のクリスマスは、生涯で最も輝かしい朝として記憶されることになる。枕元に置かれていたのは、サンタクロースからのプレゼント。大きな、しかし驚くほど軽い箱を開けた瞬間、彼女は息を飲んだ。
中から現れたのは、精巧に作られた動物たちのためのドールハウスだった。屋根は苔むしたような深緑色で、壁は白樺の木肌を模している。小さな窓枠には蔓薔薇の飾りが彫られ、煙突からは綿菓子のような煙が顔を覗かせていた。ドールハウスの名前は、その木箱に金色の文字で『ウィスパリング・ウッド』――ささやきの森――と記されていた。
それは、ただの玩具ではなかった。箱の中には、森の住人である動物たちの人形も入っていた。ベルベットのような滑らかな毛並みのウサギの兄妹、ツイードのジャケットを着こなし、片眼鏡をかけた物知りなフクロウの教授、エプロン姿の世話好きなアナグマのお母さん、そして、郵便配達員のかばんを斜めに掛けた、少し慌てん坊なリスの青年。人形の一つ一つが、まるで生きているかのような温もりと、豊かな表情を持っていた。
少女はその日から、ウィスパリング・ウッドの虜になった。学校から帰ると一目散に自室に駆け込み、日が暮れるまで、小さな住人たちとの対話に夢中になった。フクロウの教授には、学校で習ったばかりの算数の問題を教え、ウサギの兄妹とは、ベッドの上をトランポリンにして跳ね回った。アナグマのお母さんが焼いてくれるベリーパイの甘い香りを想像し、リスの郵便屋さんが届けてくれる手紙に胸をときめかせた。
それは、雪の降る静かな夜のことだった。
いつものようにドールハウスで遊んでいた少女は、ふと、フクロウの教授の人形が、ほんの少しだけ動いたような気がした。
「……気のせい、かな?」
彼女が人形に顔を近づけ、じっと見つめていると、信じられないことが起きた。
片眼鏡の奥の、ガラスでできた教授の目が、ちか、と瞬きをしたのだ。
『やあ、こんばんは。今夜は冷えるのう。勉強は捗っておるかね?』
その声は、古びた書物のページをめくるような、少ししゃがれた、それでいて穏やかで、温かい響きを持っていた。少女は、驚きのあまり声も出せずに固まった。
『もう、教授ったら、また難しい話をしてる! ねぇ、一緒に遊ぼうよ! ベッドの上で、どっちが高く跳べるか競争しよう!』
今度は、やんちゃなウサギの兄の声がした。見ると、ウサギの兄妹が、ドールハウスの小さなベッドの上で、本当にぴょんぴょんと跳ねているではないか。
それは、夢ではなかった。ウィスパリング・ウッドの住人たちが、本当に命を宿し、彼女に話しかけ、共に遊び始めたのだ。
その日から、少女の世界は魔法に満たされた。
フクロウの教授は、彼女が学校の図書館から借りてきたどんな難しい本の内容も、分かりやすく解説してくれた。彼の知識は、まるで森の古文書のように深く、尽きることがなかった。
ウサギの兄妹は、最高の遊び相手だった。かくれんぼをすれば、家具の隙間に驚くほど巧みに隠れるし、お絵描きをすれば、木の実や花の汁を使って、誰も見たことのないような美しい色を生み出した。
アナグマのお母さんは、いつも彼女の悩みを聞いてくれる、優しいカウンセラーだった。学校での些細な悩みや、友達との小さな喧嘩の話をすると、『あらあら、それは大変だったわね。でも、大丈夫。温かいココアでも飲んで、元気をお出しなさい』と、その毛皮の手で、彼女の心を優しく撫でてくれるのだった。
ウィスパリング・ウッドでの日々は、少女にとって、何物にも代えがたい宝物だった。そこは、現実世界の理不尽さや、子供特有の孤独感から彼女を守ってくれる、完璧な聖域だったのだ。
だが、時は無情だ。少女が成長し、世界の仕組みを知識として学ぶにつれて、ささやきの森の声は、少しずつ遠くなっていった。いつしか、動物たちは再びただの木片に戻り、あの温かい対話は、少女の豊かな想像力が見せた、甘い幻だったのだと、彼女自身が結論づけていた。
あれは、孤独な子供が見る、幸福な夢だったのだ、と。
────
封印された魔法の代償であるかのように、彼女には一つの、しかし特異な才能が残された。
ずば抜けた記憶力。一度見聞きしたことは、写真のように鮮明に、寸分違わず記憶できる、完全記憶能力。
それは、学業においては絶大な力を発揮した。教科書の内容は一度読めば暗記でき、教師の言葉は録音したかのように再生できた。成績は常にトップ。神童、天才、と大人たちは彼女をもてはやした。
だが、その才能は祝福ではなかった。他者が昨日のことさえ曖昧に忘れて生きていけるのに対し、彼女は数年前の些細な会話の矛盾すら、昨日のことのように思い出せてしまう。
同級生たちの目には、そんな彼女の能力は「普通」ではない「異質」なものとして映った。そして、異質なものは、いつだって嫉妬と嘲笑の対象となる。
その嘲笑に、さらに拍車をかけたのが、彼女の容姿だった。
決して、醜いわけではない。だが、彼女は自分の外見に、全くと言っていいほど無頓着だった。分厚いレンズの、度の強い眼鏡。うまく整えられない、生まれつきの強い癖っ毛。そして、人と目を合わせるのが苦手で、いつも俯きがちに本を読んでいる、その暗い表情。
それらの要素が組み合わさり、彼女には容赦のないレッテルが貼られた。
「本の虫」
「ガリ勉」
「瓶底メガネ」
「ブス」
その言葉は、まるで鋭いナイフのように、彼女の自尊心を少しずつ、しかし確実に削り取っていった。ウィスパリング・ウッドを失って以来、彼女の世界から色彩は失われ、まるで古いモノクロ映画のように、ただ退屈で、無味乾燥な時間が流れていくだけだった。唯一の慰めは、図書館の静寂と、本の中に広がる無限の世界だけ。そこでは、誰も彼女の容姿を笑う者はいなかった。
家庭環境も、彼女の心を休ませる場所ではなかった。父親は小さな町工場を経営していたが、時代の波に乗り切れず、その経営は常に火の車だった。母親は、そんな夫への不満と、満たされない自身の人生への苛立ちを、しばしば彼女にぶつけた。
家の中は、いつもピリピリとした緊張感と、諦めの空気に満ちていた。
そんな灰色の時間の中で、唯一の希望の光は、大学への進学だった。この息苦しい町を出て、誰も自分のことを知らない場所で、思う存分、知識の海に溺れたい。それが、彼女の唯一の夢だった。
しかし、そのささやかな夢さえも、現実は容赦なく打ち砕く。
高校の卒業を間近に控えた冬の日、父親の工場が、ついに倒産したのだ。家は差し押さえられ、一家は路頭に迷う寸前まで追い詰められた。大学への進学など、もはや夢のまた夢。彼女は、自分の夢を諦め、働くことを選択させられた。
昼はスーパーのレジ打ち、夜はファミレスのウェイトレスや清掃のアルバイト。複数の仕事を掛け持ちし、身を粉にして働いたが、手元に残る金は僅かだった。そのほとんどが、家計を支えるために母親に吸い上げられていく。
バイト先でも、彼女への嘲笑は続いた。
『おい、あの子、いつも暗い顔してんな』
『まあ、見てみろよ、あの分厚いメガネとボサボサの頭。笑えるよな』
『客商売なんだから、もうちょっと愛想良くできねえのかね』
客からの心ない言葉、同僚からの陰口。彼女は感情を殺し、ただの機械のように働き続けた。心がすり減っていく感覚さえ、麻痺していた。
そして、運命の日が訪れる。
深夜のコンビニでのアルバイト中、休憩室の古びたテレビが映し出していたローカルニュース。それは、地元の有力企業が主催する、大学生向けのインターンシップ壮行会の様子を伝えていた。
画面に映し出された、希望に満ちた学生たちの顔ぶれの中に、彼女は見知った顔を見つけた。高校時代、自分の容姿を「ブス」と嘲笑し、テストの時にはいつも彼女の答えを盗み見ていた、あのクラスメイトたちだった。
彼らは、高価なスーツに身を包み、仲間と自分たちの輝かしい未来を語り合っていた。
自分よりも遥かに勉強ができず、ただ親の七光りと、見栄えの良い容姿だけで世の中を渡っていく彼らが、自分には決して手の届かない、輝かしい未来をいとも簡単に手に入れている。
その一方で、自分は、この油と埃にまみれた場所で、彼らの食べ残しを片付け、嘲笑の視線に耐えながら、時給数ドルのために身を粉にしている。
その瞬間、彼女の中で、長年溜め込み、押し殺してきた、ありとあらゆる感情のダムが決壊した。
悔しさ。
怒り。
絶望。
なぜ、この世界は、これほどまでに不公平で、理不尽なのか。
才能も、努力も、真面目さも、この世界では何の意味も持たないのか。
結局、全ては「見た目」と「生まれ」で決まってしまうのか。
それは、世界そのものの構造に対する、冷徹で、殺意にも似た、黒い衝動だった。
その夜、アパートの、冷たい床の上で、彼女は声を殺して泣き続けた。ウィスパリング・ウッドを失って以来、初めて流す涙だった。
夜が明ける頃、彼女の涙は完全に乾いていた。
鏡に映る自分の姿――分厚いメガネ、ボサボサの髪、隈の刻まれた暗い顔――を、彼女は初めて、何の感情もなく、客観的に見つめた。
そして、静かに、しかし鋼のような決意を込めて、呟いた。
「――変わってやる」
この、みすぼらしく、無力で、誰からも見下されるだけの自分を、完全に殺し、新しい自分に生まれ変わる。
才能があるのに、それに見合った評価を得られないというのなら、この世界が求めるものを、全て手に入れてやろう。
美貌を。富を。力を。
そして、私を笑った全ての人間を、足元にひれ伏させてやる。
────
その夜を境に、彼女は変わった。
いや、本来の自分を、解き放ったのだ。
武器は、彼女が唯一持っていたもの――ずば抜けた記憶力と、それを支える、鋼の意志だった。
彼女は、バイトを掛け持ちして稼いだ僅かな金で、中古のノートパソコンと、数冊の専門書を手に入れた。情報技術、プログラミング、ネットワーク理論、そして、ハッキング。彼女は、まるで乾いたスポンジが水を吸い込むように、それらの知識を驚異的なスピードで吸収していった。完全記憶能力は、複雑なコードの羅列や、難解な暗号理論を、まるで美しい詩の一節のように、彼女の脳に焼き付けていく。
眠る時間を惜しんで勉強に没頭し、数ヶ月も経つ頃には、彼女は並のエンジニアを遥かに凌ぐ技術を身につけていた。彼女は、自分自身の存在を確かめるように、あるいは、世界への最初の挨拶として、小さなハッキングを試みた。近所のカフェの脆弱なWi-Fiネットワークに侵入し、パスワードを書き換える。大学のデータベースに忍び込み、自分の成績証明書を閲覧する。それは、子供の火遊びのような、ささやかな逸脱だった。だが、その成功体験は、彼女に確かな手応えと、そして禁断の果実の味を教えた。
彼女は、より深く、より暗い世界へと足を踏み入れていく。ダークウェブの奥深く、世界中の腕利きのハッカーたちが集う、匿名のコミュニティ。そこで彼女は、運命的な出会いを果たすことになる。
ある日、彼女がいつものようにコミュニティのログを漁っていると、自分のPCに未知のバックドアが仕掛けられていることに気づいた。血の気が引いた。何者かに監視されている。個人情報も抜かれているかもしれない。しかし、相手は攻撃を仕掛けてくるでもなく、ただ彼女の行動を観察しているようだった。恐怖と屈辱に震えていると、スマートフォンの画面が光り、非通知の着信が入った。恐る恐る電話に出ると、スピーカーから聞こえてきたのは、まだ声変わりも済んでいないような、しかし妙に落ち着き払った、少年の声だった。
『もしもし? 君、面白いね。アプローチは悪くないけど、詰めが甘すぎる。そんなやり方じゃ、すぐに足がつくよ』
声の主こそ、そのコミュニティの中でも伝説的な存在として知られる、正体不明のハッカー『K』だった。彼の正体は、当時まだ小学生だった、天才少年カイト。彼は、自分の遊び場に現れた、未知数の才能を持つ彼女に強い興味を抱き、いとも容易く彼女の防御を突破し、個人情報を掴んでいたのだ。
『いくつか、教えてやろうか? 君なら、すぐに覚えられるよ』
二人の奇妙な師弟関係が始まった。カイトは、まるでパズルを解くような感覚で、自身の持つ高度なハッキング技術を、惜しげもなく彼女に伝授した。サーバーの脆弱性を突く方法、ソーシャルエンジニアリングの手口、痕跡を完全に消し去るための匿名化技術。彼女は、それらの知識を、まるで自身の血肉とするかのように吸収し、その才能を急速に開花させていった。二人は互いの才能を認め合い、競い合うようにして、その技術を高め合っていった。
彼女はより大胆なハッキングに手を染め始めた。オンラインカジノのシステムに侵入し、少額の金を盗み出す。
企業のデータベースから、インサイダー情報を抜き取り、匿名の掲板にリークして株価を操作し、利益を得る。
それは、紛れもない犯罪だった。だが、彼女に罪悪感はなかった。これは、不当に自分から全てを奪ったこの世界に対する、正当な「徴収」なのだと、彼女は自分に言い聞かせた。
そうして手に入れた金で、彼女はまず、自分自身を「作り変える」ことから始めた。
分厚いメガネを、最新のコンタクトレンズに変えた。扱いにくかった癖っ毛は、最高の美容師の手によって、艶やかなプラチナブロンドのボブヘアへと生まれ変わった。そして、最大のコンプレックスだった顔立ちは、トップクラスの美容外科医の手によって、黄金比に基づいた、非の打ち所のない完璧な美貌へと「デザイン」された。
数ヶ月後、鏡の前に立っていたのは、もはやかつての彼女の面影を一切残さない、全くの別人だった。
冷たく、しかし蠱惑的な光を宿す、大きく切れ長の瞳。すっと通った鼻筋。知性と、そしてわずかな傲慢さを感じさせる、形の良い唇。
それは、誰もが振り返るほどの、圧倒的な美貌だった。
だが、彼女の変身は、それだけでは終わらなかった。彼女は、ハッキングで得た情報と技術を駆使し、存在しない人間の戸籍データを作成。過去の自分を完全に葬り去るため、全く新しい名前と社会保障番号を手に入れたのだ。
かつての、地味で、誰からも見下されていた少女は、その日、完全に死んだ。そして、新しい彼女が、この世に生を受けた。
新しいアイデンティティを得た彼女は、まず、かつて諦めた夢を叶えることから始めた。
独学で身につけた知識と、有り余る資金を使い、彼女は難なく大学の入学資格を手に入れ、国内トップクラスの名門大学へと進学した。
そこは、かつて彼女を嘲笑した同級生たちが、コネを使っても入れなかった場所だった。
大学での彼女は、完璧な擬態を演じきった。
生まれながらの美貌と知性、そして裕福な家庭環境に恵まれた、非の打ち所のない才媛。彼女は、かつての自分とは正反対の、社交的で、誰からも好かれる快活な性格を演じ、あっという間にキャンパスの女王として君臨した。
もちろん、その裏では、膨大な課題や論文を、完全記憶能力を駆使して、誰よりも完璧に、そして容易くこなし続けていた。
数年後、彼女は首席で大学を卒業した。
その手には、数多の企業からの、破格の条件でのオファーが握られていた。
その中から、彼女が選んだ就職先は、一つしかなかった。
――世界ナンバーワン企業、ヘリオス・コンソーシアム。
かつて、自分を嘲笑した同級生が、インターンとして潜り込んだだけで大喜びしていた、あの場所。
彼女は、その遥か高みへと、いとも容易くたどり着いたのだ。
ヘリオス・コンソーシアムの情報部門に配属された彼女は、そこでも圧倒的な能力を発揮した。持ち前の記憶力と、裏で磨き上げたハッキング技術を駆使し、どんな複雑なデータも瞬時に解析し、ライバル企業の動向を的確に予測した。美貌と、それを武器にした巧みな人心掌握術は、男社会の企業の中で、彼女を異例のスピードで出世させていった。
だが、ヘリオスでの成功は、彼女にとって、復讐の第一段階に過ぎなかった。
彼女は、ヘリオスの上層部に、GOGへの産業スパイとして自らを売り込むことを提案する。その大胆不敵な提案に、ヘリオスの上層部は、彼女を最高の切り札としてGOGへと送り込むことを決定した。
こうして、彼女は第二の別人格、『ヴァレリア』を創り上げた。
GOGでも、ヴァレリアの快進撃は止まらなかった。
むしろ、ヘリオスよりもさらに非情で、結果だけが求められるGOGの社風は、彼女の性に合っていた。彼女は、持ち前のハッキング技術と記憶力、そして美貌を最大限に活用し、GOGの内部情報を次々とヘリオスに流す一方で、GOG内でも、誰よりも優れた成果を上げ、瞬く間に情報統括部門の責任者という、重要な地位にまで上り詰めた。
そして、彼女は三つ目の顔を持つようになっていた。
GOGとヘリオス、二つの巨大組織の意向を汲み、時に双方を欺きながら、表の世界でより広範な情報を収集し、世論を操作するためのペルソナ。
IT分野を専門とする、鋭い舌鋒で人気のジャーナリスト兼コメンテーター、『ジェシカ・ミラー』。
ヴァレリアとしてGOGの暗部を、ヘリオスのスパイとしてその光を、そしてジェシカ・ミラーとして社会そのものを操る。
彼女は、全てを手に入れたように見えた。
美貌を。富を。力を。
かつて自分を嘲笑した者たちは、今や彼女の存在すら知らず、遥か下方の、取るに足らない世界で生きている。
復讐は、果たされたはずだった。
だが、彼女の心は、満たされていなかった。
世界そのものへの根源的な不信感は、どんな成功をもってしても埋めることのできない、暗く、冷たい空洞として、そこにあり続けていた。
そんな彼女の運命を、再び大きく揺り動かすことになる出会いが、すぐそこまで迫っていた。
────
GOGの情報部門責任者として、ヴァレリアは社内のあらゆる極秘情報にアクセスする権限を持っていた。彼女は、日々の業務の傍ら、GOGが水面下で進める、特に秘匿レベルの高いプロジェクトの情報を、常に監視していた。
その日も、彼女はいつものように、深夜のオフィスで一人、膨大なデータの中から、ヘリオスにとって有益な情報を探し出していた。その時、彼女の張り巡らせた情報網のセンサーが、奇妙なデータパケットを検出した。
発信元は、GOGの地下深くに存在する、地図にも載っていない、極秘の研究施設。
受信先は、CEOであるバーンズの執務室直結の、暗号化されたターミナルのみ。
通常の業務報告とは明らかに違う、異常なレベルのセキュリティプロトコル。
ヴァレリアの、ハッカーとしての血が騒いだ。
それは、まるで針の穴に糸を通すような、極めて繊細な作業だった。数時間に及ぶ、息の詰まるような攻防の末、彼女はついに、その鉄壁の守りを突破し、極秘データの核心部分へのアクセスに成功した。
画面に表示されたプロジェクト名を見て、彼女は思わず眉をひそめた。
『Project : Christmas』
クリスマス計画?
あまりにも場違いで、子供じみたプロジェクト名。何かの冗談か、あるいは偽装のためのダミーファイルか。
だが、ファイルを開いた瞬間、彼女は息を呑んだ。
そこに記されていたのは、彼女の常識を、そしてこの世界の物理法則そのものを、根底から覆すような、狂気としか思えない研究記録だった。
非科学的な単語の羅列と、古の伝承、最先端の量子物理学が、奇妙な形で結びつけられた、支離滅裂な研究論文。
『対象:コードネーム "Santa Claus"』
『目的:対象が使用する、未確認エネルギー "魔法" の観測、解析、及び捕獲、軍事利用への転用』
GOGは、本気で「サンタクロース」と、彼らが「魔法」と呼ぶ未知の力を、何年も前から追跡し、研究していたのだ。
そして、その研究を主導しているのが、GOGに所属する一人の、狂信的な科学者であることも記されていた。
『Dr. Kamuro』
「馬鹿げてる……」
ヴァレリアの口から、思わず声が漏れた。
彼女は、即座にデータを暗号化し、ヘリオスの諜報部門へと転送した。
だが、返ってきた反応は、彼女の予想通り、冷ややかなものだった。
『サンタクロース? GOGは何を考えているんだ。CEOのバーンズも、ついに耄碌したのか。こんな非科学的なおとぎ話に、莫大な予算とリソースを注ぎ込んでいるとは』
『面白いゴシップネタにはなるかもしれんが、これを真に受ける株主はいないだろう。もう少し、確度の高い情報を頼む』
ヘリオスの上層部は、それをGOGの奇行としか捉えず、全く相手にしなかった。
当然の反応だった。ヴァレリア自身も、最初はそう思ったのだから。
だが。
彼女の心の奥底、固く封印されていたはずの宝石箱が、この報告書に触れた瞬間から、カタカタと、微かな音を立て始めていた。
その夜、ヴァレリアは、マンハッタンの夜景を一望できる、彼女のペントハウスのベッドの上で、眠れずにいた。
忘れかけていた、遠い日の記憶の扉が、軋みながら、ゆっくりと開かれていく。
冬の朝の、澄み切った陽光の匂い。
ホットミルクの甘い香り。
そして、あのドールハウスから漂ってきた、不思議な木の匂い。
ウィスパリング・ウッドの、甘く、懐かしい香り。
物知りなフクロウの教授の、穏やかな声。
ベッドの上をぴょんぴょんと跳ね回る、やんちゃなウサギの兄妹。
夢ではなかった。
孤独だった少女が見た、ただの幻ではなかった。
あの温もりは、あの声は、確かに、そこに存在したのだ。
――魔法は、実在する。




