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聖夜の黄昏  作者: 那王
1章 サンタクロースを名乗る少年
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出会いのシチュー

まるで世界が息をひそめたかのような、白く凍てついた森。針葉樹の枝々までダイヤモンドダストを纏い、降り積もった新雪は、踏みしめるたびに囁くような音を立てた。サンタクロースの赤いコートの裾が、風に震えるように揺れ、背負った大きな革袋が、彼の肩にやけに重くのしかかる。吐く息はすぐに白い結晶となり、キラキラと舞っては、冷たい空気の中に消えていった。


彼の名はノエル。サンタクロース協会という温かな巣を飛び出してから、もういくつ夜を越えただろう。大切な友、イリスの影を追い求めて歩き続けているが、彼女の気配は掴めず、広大な雪原に残されたのは、消えゆく自分の足跡だけだった。


「はぁ……」

思わず漏れたため息も、白い霧となって空気に溶ける。ノエルは立ち止まり、鉛色の重たい雲が覆う空を見上げた。北極育ちの彼にとって、この骨まで凍みるような寒さ自体は慣れたもののはずだった。けれど、今は疲労と空腹が、容赦なく体温を奪っていく。


「ノエル、そんな溶けかけの雪だるまみたいに情けない顔をして、どうしたのさ?」

ふいに、隣から温かくも呆れたような声がかかった。見れば、相棒のルドルフが、その賢そうな茶色の瞳でノエルを覗き込んでいる。赤く輝く鼻が、まるで心配しているかのように微かに動いた。彼はただのトナカイではない。特別な力と、ノエルへの深い友情を持つ、かけがえのない存在だ。


「だってさ、ルドルフ……もう何日も、まともなもの食べてないんだよ……お腹と背中がくっついちゃいそうだ……」

ノエルは力なく腹を押さえ、涙目で訴えた。胃袋がキューっと悲鳴を上げているのが聞こえるようだ。


「全く、君の驚くべき生活力の低さと、計画性のなさを甘く見ていたよ。持ってきたのはほとんどお菓子、それも数日で食べきるなんて」

ルドルフは、ふさふさした首を呆れたように振った。「そんな状態でよく『僕がイリスを連れ戻す!』なんて大見得を切れたものだね。いいかい、ノエル。イリスは聡明な子だ。そう簡単に見つかるような轍を残すはずがない。彼女なりの深い考えがあるはずだ。きっと、これは長い長い旅になるよ」


ルドルフの言葉を裏付けるように、ピューと寒風が二人の間を吹き抜けていく。ノエルは空腹のあまり、目がくらみそうになりながら、ふと悪魔的な考えでルドルフを見つめた。


「ねぇ、ルドルフ……すごく言いにくいんだけどさ、トナカイのお肉って……どんな味がするのかな?」


「な、な、何を考えてるんだ、君は!」

ルドルフは文字通り飛び上がって後ずさった。普段の落ち着き払った様子はどこへやら、その大きな体が警戒心で硬直している。「た、確かに僕は大きいけど、非常食になるために君についてきたわけじゃないんだからね!」


「わ、わかってるよ、冗談だってば」

ノエルは慌てて苦笑した。さすがに冗談が過ぎたかと反省する。「そんな、世界の終わりみたいな顔しないでよ」


「全くもう。早く食べ物を見つけないと、ノエルが良からぬ方向に暴走しそうだね」

ルドルフは深いため息をつき、その賢そうな瞳で周囲の雪景色を見回した。

「とはいえ、この白一色の森の中、君が食べられるものがそう簡単に見つかるかどうか」


凍てつく森に、二人分の白い息遣いだけが虚しく響く。万策尽きたかと思われた、その時だった。ふわり、と風に乗って、どこからか信じられないほど懐かしくて温かい香りが、二人の鼻腔をくすぐった。それは、凍った心を溶かすような、優しい魔法の香りだった。


「この匂い……」

ノエルの鼻が、獲物を見つけた猟犬のようにぴくりと動いた。

「まるで……イリスが作ってくれた、あの日のシチューみたいだ……」


「確かに」ルドルフも驚いたように鼻をひくつかせた。「でも、こんな森の中に人がいるのかな」


「とにかく匂いのする方へ行ってみよう!」

空腹と、そして微かな希望に突き動かされ、ノエルは弾かれたように匂いの源へと駆け出した。


まるで呼ばれるように、ノエルは香りの糸をたどって森の奥へと進んだ。雪を纏った木々の枝をかき分けると、そこには陽だまりのような小さな空き地が広がっていた。古い切り株を利用した手製のテーブルの上には、ほかほかと湯気を立てる大きな鍋。傍らでは、小さな焚き火がパチパチと音を立て、オレンジ色の温かな光を投げかけている。まるで冬の森に迷い込んだ旅人を待っていたかのような、不思議な光景だった。


「おおっ! 森の中に、シチュー鍋が……生えてる!」

ノエルは目を大きく見開き、子供のように輝かせた。空腹は、彼の思考回路を単純化させているらしい。


「生えてるわけないでしょ! どう見ても誰かがここで調理している最中じゃないか。人のものを勝手に食べたらダメだって……あっ、こら! 聞いてるのかい、ノエル! もうスプーン持ってるし!」

ルドルフの呆れた声が、雪の上に虚しく響いた。


ノエルは、まるで宝物を見つけた子供のように目を輝かせ、我慢できずにスプーンを手に取り、そっとシチューをすくっていた。ふうふうと息を吹きかけ、一口、口に運ぶ。

「んんーっ!美味しい! あったまるぅ……! こんなに美味しいシチュー、生まれて初めて食べたよ!」


その至福の瞬間は、しかし、雷鳴のような怒声によって打ち破られた。

「こらーーっ! そこで何してるのよっ!! って、あーっ! 私の特製シチューーー!!!」


弾かれたように振り返ると、そこには腰まで届く金色の髪を、快活そうなツインテールにきつく結んだ少女が、仁王立ちになっていた。彼女は両の拳をわなわなと震わせ、頬をリスのようにぷっくりと膨らませている。年はノエルと同じくらいだろうか。凍てつく湖面のような青い瞳が、正当な怒りの炎でメラメラと燃えていた。


「ご、ごめんなさい!」

ノエルは慌ててスプーンをテーブルに置いた。心臓が、早鐘のように鳴っている。

「あ、あまりにも美味しそうな匂いが漂ってきて、その、魔が差したというか、つい……」


「つい、じゃないわよ!」

少女はスタスタと歩み寄ると、両手を腰に当て、ノエルを下から睨みつけてきた。その勢いに、ノエルは思わず一歩後ずさる。

「人の大事な料理を勝手に味見するなんて、非常識にもほどがあるわ! 大体ね、このシチューは特別な……」

彼女は言葉を続けようとして、ふとノエルの奇妙な格好に気づいたようだった。訝しげに眉をひそめ、頭のてっぺんから爪先まで、訝しげに検分する。

「真っ赤な服に、大きな袋……。もしかして、サンタクロースのコスプレ?」


「えっと、コスプレというか、まあ、見習いというか……」

ノエルは申し訳なさで縮こまりながら、しどろもどろに頭を掻いた。


「ふーん、変なコスプレね」

少女は、ふう、と大きな溜息をついた。怒りの炎が少しだけ収まったのか、呆れたような響きが混じる。

「まったく、最近は物好きな人もいるものね。こんな真冬の森の奥まで、そんな格好で来るなんて」


「本当にすみません!」

ノエルは深々と頭を下げた。

「お詫びに、何でもしますから!」


「何でも、ねえ……」

少女は疑うようにノエルの顔をじっと見つめていたが、不意に微笑んだ。

「……じゃあ、ちょうどよかったわ。私の食材集め、手伝ってもらおうかしら」


「食材集め?」


「そうよ。この森にはね、私の料理に欠かせない、とーっても珍しい食材がたくさん眠っているの。でも、一人じゃなかなか集めきれなくて困ってたところなのよ」

少女は、からかうように片方の眉を上げてみせた。

「私の大切なシチューを勝手に食べた罰よ。日が暮れるまで、たーっぷり働いてもらうから、覚悟しなさい!」


「わ、わかった! 僕で力になれるなら、喜んで手伝うよ!」

ノエルは、叱られながらも、なぜか少し嬉しくなって、元気よく答えた。

「あ、でも、その前に…ちゃんと自己紹介させてくれるかな? 僕はノエル。サンタクロース協会から来た、見習いのサンタクロースなんだ」


「サンタクロース協会?」

少女は不思議そうに首を傾げた。その仕草に、先程までの怒りの表情はもうない。

「初めて聞く名前ね。へえ、そんなところがあるんだ。私はリリィ。よろしくね、見習いサンタさん?」


「よろしく、リリィ! こっちは僕の大切な相棒のルドルフだよ」

ノエルは、少し離れた場所で、まるで「やれやれ」と言いたげに、しかし興味深そうに成り行きを見守っていたトナカイを指差した。


「こんにちは。ノエルがご迷惑をおかけしたようだね」

ルドルフが、落ち着いた、深みのある声で静かに頭を下げた。


「ええっ!? ト、トナカイが喋った!?」

リリィは今度こそ目をまん丸くして飛び上がった。ツインテールがぴょんと跳ねる。「しかも、お鼻が……ルビーみたいに真っ赤……!」


「驚かせてしまってすまないね」

ルドルフは、穏やかなバリトンボイスで柔らかく微笑んだ。「私は少しばかり特別なトナカイでね。言葉を解するのさ」


「特別なトナカイ…? サンタクロース協会…? 何が何だか全然わからないけど……でも、なんだかすごく面白そうね!」

リリィの青い瞳が、好奇心でキラキラと輝き始めた。怒りはすっかりどこかへ消えてしまったようだ。

「まあ、いいわ!詳しい話は、後でゆっくり聞かせてもらうとして。今は時間が惜しいわ。日が暮れる前に、森の宝物を探しに行きましょう!」


「うん! リリィ、よろしくね!」


まるで秘密の地図を頼りに進む探検隊のように、三人は深い森の中へと足を踏み入れた。先頭を行くリリィの足取りは、新雪の上を舞う小鳥のように軽やかだ。雪に慣れているのだろう。時折、白い息を弾ませながら立ち止まっては、まるで森の囁きに耳を澄ますかのように、あるいは獲物を狙う小動物のように鋭い観察眼で雪面や木々の枝を注意深く見つめている。その真剣な横顔は、さっきまでの快活さとは違う、凛とした美しさを放っていた。頬が寒さでほんのり上気しているのが、白い肌に映えて愛らしい。


「あっ!」

突然、リリィが雪に覆われた古木の根元で足を止めた。宝物でも見つけたかのように前のめりになった拍子に、ふわりと編み込まれた金色のツインテールが踊る。

「あったわ、見て、ノエル!」


「どうしたの? 何か見つけた?」

ノエルが駆け寄ると、リリィは興奮を隠しきれない様子で振り返った。その時、足元の雪に隠れていた木の根に気づかず、体勢を崩してしまう。


「わっ!」


「危ないっ!」

ノエルは考えるよりも先に手を伸ばし、リリィの細い腕を力強く掴んで、倒れそうになる彼女の体を支えた。厚手のコート越しにも、彼女の温かさが伝わってくる。


「あ……ありがとう、ノエル。助かったわ」

リリィは少し頬を染め、バツが悪そうに俯いた。


「もう、また夢中になりすぎちゃった。しっかりしなきゃ」

さっきまでの探求者のような真剣な様子から一転、少しドジな一面に、ノエルは思わず微笑んでしまった。


「ううん、大丈夫? 怪我はない?」


「ええ、平気よ。それより、これを見てちょうだい。手伝ってくれる?」

リリィはすぐに気を取り直して、プロの顔に戻ると、ノエルの手を借りずに屈み込み、まるで壊れ物を扱うかのように、慎重に雪を払い始めた。真剣な眼差しで雪を払うその白い指先は、寒さでほんのりと赤く染まっている。丁寧に取り除かれた純白の雪の下から姿を現したのは、まるで夜空からこぼれ落ちた星屑のような、青白い幽玄な光を放つキノコの群生だった。それは月の光が凍りついて結晶になったかのようでもあり、深い海の底で発光する生き物のようでもあった。


「これが『冬光茸』」

リリィは再びプロの料理人の表情に戻り、しかしその声には隠しきれない愛おしさが滲んでいた。彼女はノエルを見上げ、優しく微笑んだ。

「一年で最も寒さが厳しくなる、この時期の、しかも雪の下でしか見られない、特別なキノコなの」


「まるで……氷のランプみたいだ……」

ノエルはただ、その神秘的なキノコの静かな輝きに息を呑んだ。森の奥深くに、こんなにも美しいものが眠っているなんて。


「ねえ、見てて」

リリィは摘み取ったばかりの冬光茸の一つを、そっと手のひらに載せ、優しく息を吹きかけた。すると、まるで魔法のように、キノコから無数の青白い光の粒子がふわりと舞い上がり、冷たい空気の中でオーロラのように揺らめきながら漂った。

「この香りを、かいでみて」

リリィは目を細め、うっとりとした表情を浮かべた。

「冬光茸はね、凍てついた満月の夜の、澄み切った空気の香りがするの。言葉にするのは難しいけれど……。この清らかで神秘的な香りが、私のシチューの味を、特別なものにしてくれるのよ」


それから三人は、まるで宝探しをする子供のように、雪に覆われた冬の森を巡った。リリィの案内で、彼らは次々と自然が隠した不思議な食材を発見していく。氷柱のようにどこまでも透明な『冬芽』、雪の下でルビーのように真っ赤な実をつける『氷結果』、厳しい寒さの中でも枯れることなく深い緑を湛える『永久葉』……。


「この赤い小さな実は、氷結果っていうの」

リリィは雪を優しく掘り起こしながら説明した。その手つきは、土の中の宝物を掘り出す考古学者のようだ。

「不思議でしょう? 普通の植物は暖かい場所で実をつけるのに、この子は氷点下にならないと、綺麗な赤い実を熟させることができないのよ。まるで、冬に恋してるみたいでしょう?」


「寒いところでしか採れない、特別な恵みばかりなんだね」

ノエルは、雪の中から現れた鮮やかな赤色に目を奪われながら感心する。


「そうでしょう? 冬の森はね、一見すると眠っているように見えるけれど、春や夏とは全く違う、静かで力強い恵みに満ちているの。冬にしか出会えない宝物が、たくさん隠されているのよ」

リリィは一つ一つの食材について、まるで古い物語を語る吟遊詩人のように、あるいは長年の親友を紹介するように語りかけた。その仕草や言葉の端々には、厳しい冬の自然と共に生きてきた者だけが持つ、深い知識と、慈しむような優しさが溢れていた。


「こっちの永久葉はね、どんなに厳しい吹雪の中でも、その緑を失わない、生命力の塊みたいな不思議なハーブなの」

リリィは艶やかな深緑の葉を、そっと指先で摘みながら続けた。

「雪の下で静かに眠っている大地のエネルギーを、この小さな葉っぱ一枚一枚に、まるごと閉じ込めているのよ。だから、少し食べるだけで、体が芯から温まるの」


ようやく必要なだけの冬の恵みを籠に詰め、三人は再び陽だまりのような空き地へと戻ってきた。焚き火はまだ温かく燃え続け、彼らの帰りを待っていたかのようだ。リリィはテーブルの上で、まるで音楽を奏でるかのように、手際よく料理の準備を始めた。冷たい空気の中、パチパチと爆ぜる焚き火の暖かさが心地よい。彼女の動きには一切の無駄がなく、一つ一つの食材に対する深い知識と、惜しみない愛情が感じられた。


「何か、僕に手伝えることある?」

ノエルは声をかけた。ただ見ているだけでなく、自分もこの魔法のような料理作りに参加したいと思ったのだ。


「ええ、ありがとう、ノエル。助かるわ。じゃあ、この冬光茸を、なるべく薄ーくスライスしてくれるかしら?」

リリィは悪戯っぽく微笑んで、手入れの行き届いた小さな包丁を手渡した。


ノエルが、少し緊張しながらもおそるおそる包丁を握ると、リリィがふわりと隣に立ち、そっと手元を覗き込むようにしてアドバイスした。

「力を入れすぎちゃダメよ。冬光茸はとても繊細だから、まるで降りたての粉雪に触れるように、優しく、優しく扱ってあげるの」

真剣な表情で助言する彼女の横顔からは、料理に対する純粋な情熱がひしひしと伝わってきた。思いのほか近くで聞く彼女の声は、森の静寂に響く鈴の音のように、柔らかく澄んでいた。


リリィに教えられた通り、ノエルは息を止め、慎重に、慎重にキノコに刃を入れる。すると、切断面から、まるで内側から照らされているかのように、淡い青白い光が溢れ出した。その神秘的な光景に、ノエルは思わず息を呑んだ。光は鍋の中へと吸い込まれるように溶け込んでいき、シチュー全体がほのかに輝き始めたかのようだ。

「わぁ、すごい……光ってる……」


「ふふ、綺麗でしょう?」

リリィは自分のことのように満足そうに頷き、少し得意げな、子供っぽい笑顔を見せた。


やがてテーブルの上には、冬の森からの贈り物が並んだ。湯気を立てる冬光茸のクリームシチューは、まるで月明かりそのものが溶け込んだかのように優しく輝き、永久葉のサラダは力強い生命力を感じさせる深い緑色、デザートの氷結果のタルトは宝石のように艶やかな赤色を放っている。


ノエルは、感謝の祈りを捧げるように思わず目を閉じ、ゆっくりとスプーンを口に運んだ。舌の上に広がるのは、単なる美味しさだけではない。それは、厳しい冬を耐え抜いた生命の力強さ、澄み切った空気の清らかさ、そして作り手の温かい心が混ざり合った、まさに森の神秘そのものの味わいだった。優しさと不思議さが溶け合い、冷え切った心と体にじんわりと染み渡っていく。


「美味しい……! 本当に、美味しいよ、リリィ!」

ノエルは目を大きく輝かせた。言葉にならない感動が、胸いっぱいに広がっていく。

「リリィの料理には、なんだか本当に、人を元気にする魔法みたいな力があるね!」


「ふふ、それはきっと、この森がくれた素敵な恵みと、ノエルが手伝ってくれたおかげよ」

リリィは少し照れくさそうに、しかし嬉しそうに笑った。焚き火の光が、彼女の笑顔を柔らかく照らしていた。


────


夜が静かに更けていく。満腹になったルドルフは、焚き火のそばで気持ちよさそうにうとうとしている。リリィは手際よく食器を片付け始めた。ノエルは、燃え残った焚き火の揺らめきをぼんやりと見つめながら、イリスのことを思い返していた。


イリスの部屋に残されていた短い手紙。『私にはやらなければいけないことがある。ノエル、ごめんなさい。そしてありがとう』。それだけだった。どこへ行ったのか、何をするつもりなのか、手がかりは全くない。広大な世界の中で、たった一人の親友を探し出すことが、どれほど困難なことか。ノエルは改めてその重さを感じていた。


「本当に、僕は……何も役に立たないなぁ……」

ノエルは、消え入りそうな声で自嘲気味につぶやいた。


「何が役に立たないの? 何か悩みがあるなら聞くわよ?」

片付けの手を止め、リリィが心配そうに尋ねる。焚き火の光が彼女の真剣な表情を照らした。


「ううん……ありがとう。あのね、サンタクロースの力のことなんだ」

ノエルは苦笑いを浮かべ、いつも背負っている、少し古びた白い大きな布袋を膝の上に置いた。「この力は、外の世界じゃ、本当に困った時には何の役にも立たないんだなって、改めて思って……」


「サンタクロースの力……。そういえば、ノエルは協会の見習いだって言ってたわね」

リリィは少し首を傾げた。彼女はまだ、ノエルの言葉を額面通りには受け取っていなかった。赤い服も大きな袋も、彼が所属するという協会のユニフォームか何かだろう、と。先ほどルドルフが喋った時も驚きはしたが、よく訓練された芸と腹話術くらいに考えていた。


「その大きな袋が、何か関係あるの?」


「うん。これは『魔法の袋』なんだ。心の中でお願いすれば、子供たちが喜ぶ素敵なプレゼントのおもちゃが出せるんだけど……」

ノエルは袋の口を少し開いて見せた。


「おもちゃが出てくる魔法の袋?」

リリィはまだ半信半疑といった表情だ。「手品か何か?」


「ううん、違うよ。本当に魔法なんだ。信じられないかもしれないけど……試してみる?」

ノエルは袋をリリィの方へ差し出した。


「え? いいの?」

好奇心を抑えきれない様子で、リリィは恐る恐る袋に手を差し入れた。中は思ったよりも深く、温かいような気がした。何か柔らかいものに指先が触れる。

「……!?」

その瞬間、袋の口から淡い金色の光が溢れ、リリィの手の中に確かな「何か」が現れた感触があった。驚いて手を引き抜くと、そこには……温かみのある木で作られた、愛らしいペンギンの人形が握られていた。それは、リリィが幼い頃、肌身離さず大切にしていたペンギンのぬいぐるみに、驚くほどよく似ていた。


「……っ!」

リリィは息を飲んだ。目の前で起きた、あまりにも不思議で、個人的な奇跡に、言葉を失う。手品? トリック?

いや、違う。そんなものではない。この温もり、この形……。目の前のノエルの真剣な眼差し、そして隣で静かに佇むルドルフの存在。


「……本当に……サンタクロース、なのね……?」

リリィの声は、驚きと、畏敬の念でわずかに震えていた。おとぎ話だと思っていた存在が、今、確かに目の前にいる。その事実に、彼女の世界観が根底から揺さぶられるような衝撃を受けていた。


「うん。まだ、見習いだけどね」

ノエルは、リリィの反応を見て少し驚きつつも、頷いた。そして、再び力なく肩を落とした。

「でも……僕には、これくらいしかできないんだ。この力じゃ、僕が本当に助けたい人は、見つけられない……」


「助けたい人? そういえば、さっきも誰かを探してるって……」

リリィは、まだ魔法の衝撃から完全に立ち直れてはいないものの、ノエルの翳った表情に気づき、心配そうに尋ねた。


ノエルは、リリィの真剣な眼差しに、今度こそ全てを打ち明けようと決心した。彼女は、自分の秘密を受け入れてくれたのだから。

「うん……。僕には、イリスっていう、大切な友達がいるんだ。銀色の髪をした、とても優しくて、しっかり者の女の子なんだ。僕にとっては、家族同然で……」

彼の声には、深い親愛と、そして切実な心配の色が滲んでいた。


「僕たちは、協会でずっと一緒にサンタクロースの見習いとして頑張ってきた。でも、あることがきっかけで……彼女は、一人で協会を飛び出してしまったんだ。どこへ行ったのか、今どうしているのか、何も分からない。ただ、彼女が何か、とても危なくて、そして自分自身をも傷つけるような、悲しいことをしようとしている気がして……。僕は、どうしても彼女を見つけて、話をしたい。連れ戻したいんだ。僕が協会を出て、こうして旅をしているのは、そのためなんだよ」


リリィは、ノエルの切実な告白を、黙って聞いていた。喋るトナカイ、魔法の袋、そして行方不明の親友を探す旅……。あまりにも現実離れした話の連続。けれど、目の前のノエルの必死なまでの真剣さと、彼の瞳の奥にある深い悲しみ、そして先ほどの魔法の袋の出来事が、それが紛れもない事実であることを物語っていた。彼が背負っているものの重さと、彼の純粋な想いが、リリィの胸に強く響いた。


「そう……だったのね」


「私ね」リリィは、少し間を置いて、今度は自分のことを話し始めた。ノエルの告白を聞いて、彼女もまた、自分の心の奥にあるものを打ち明けたくなったのかもしれない。「実は小さい頃、体が弱くてね。食べたいものが自由に食べられない時期があったの。美味しいお菓子も、みんなが食べているようなご馳走もダメ。おまけに、苦い薬ばかり飲まなくちゃいけなくて……」

彼女の声に、ほんの少しだけ影が差した。

「病院にいることも多くて、ずっと一人で……ううん、一人っていうのは少し違うかな。両親や周りの人は親切にしてくれたけど、心の底では、ずっと寂しい思いをしていたの」


リリィは、手の中のペンギンの人形に目を落とした。その木の温もりを名残惜しそうに確かめ、そっとノエルに返す。

「この子……すごく懐かしい。昔、これとそっくりなペンギンのぬいぐるみを持っていてね。病室で、あの子だけが私の友達だった。私が食べられないチョコレートのお菓子を、おままごとで作ってあげたりして……」


「でもある日、病院の近くの森で、薬草摘みのおばあさんに出会ったの」リリィの表情が少し和らぐ。「その人がね、私が食べられる数少ない材料と、森のハーブや薬草で、私だけのために特別なスープを作ってくれた。見た目はなんてことなかったんだけど……」


リリィは、遠い日の味を思い出すように、ふっと息をついた。

「……一口飲んだら、本当にびっくりした。今まで食べたどんなご馳走より美味しくて、体が芯からぽかぽか温まって……苦い薬のことなんて、すっかり忘れちゃった。薬草が入っているはずなのに、少しも苦くなくて、ただひたすら優しくて……気づいたら、涙が止まらなかった。そして、私、久しぶりに心の底から笑ってたの」


「その時、強く思った。『私もいつか、こんな風に料理で誰かを幸せにしたい』って」

リリィは穏やかに目を伏せた。

「特別なことじゃなくていい。ただ、心を込めて作った料理で、人の心を温める。それが、私の選んだ道なんだって」


彼女は顔を上げ、ノエルに向き直った。その青い瞳には、先ほどの魔法にも負けない、温かく力強い光が宿っている。

「だからね、ノエル」リリィは、心からの笑顔でノエルの肩をそっと叩いた。「あなたの魔法だって、ただおもちゃを出す力じゃない。子供たちの心を温めて、笑顔にする力でしょう? その笑顔が、きっと誰かの未来を照らす。それって、すごく尊くて素敵な力だと思うわ」


リリィの言葉は、温かいスープのように、ノエルの冷え切っていた心にじんわりと染み渡った。そうだ、自分の力は無力なんかじゃない。イリスを探す直接的な力にはならなくても、子供たちの未来を照らす、大切な力なんだ。


「……ありがとう、リリィ。なんだか、すごく……元気が出てきたよ」

ノエルは精一杯の笑顔で感謝の言葉を口にした。


「ふふ、よかった」

リリィは満足そうににっこりと笑うと、名案を思いついたように言った。

「ねぇ、ノエル、ルドルフ。もしよかったら、私と一緒に西の街まで行かない? ノードハイムっていう、私の故郷なの」

彼女は立ち上がり、改めてノエルに手を差し伸べた。その手は、先ほどよりもずっと頼もしく見えた。

「そこなら知り合いもたくさんいるし、情報も集めやすいと思うの。イリスさんを探す手がかりも、きっと見つけられるはずよ。私、そういうの得意なんだから!」


「ほ、本当に!?」

ノエルの顔が、希望の光でぱっと輝いた。差し伸べられたリリィの手を、彼は力強く握り返した。

「ありがとう、リリィ!」


「それじゃあ、早速出発しましょうか」


「うん! そうだ! ねぇルドルフ、起きて、起きて!」ノエルはうとうとしていたルドルフを揺り起こした。「ルドルフなら、一瞬で街まで飛べるよね? ね、お願い、街まで乗せていってよ!」

期待に満ちた目でノエルが頼むと、


「ん……ああ。残念ながら、ノエル。それはできない相談なんだ」

ルドルフはゆっくりと身を起こし、ノエルに向き直ると、優しく、しかしきっぱりと首を振った。


「協会で習わなかったかい。僕の飛行能力は、子供たちの純粋な願いに応える時にだけ、発揮される特別な力なんだ。大人の都合や、ましてや移動を楽にするための便利なタクシー代わりの力じゃないんだよ」


「子供の願い…」


「そう。困っている子供を助けたい、悲しんでいる子供を励ましたい、そしてもちろん、聖なる夜にプレゼントを届けたい……そんな清らかで強い想いに共鳴した時だけ、奇跡は起こる。決して、個人的な目的のために使える力ではないのさ」


「ふーん、サンタクロースの世界にも、色々とルールがあるのね。ちょっと残念だけど、仕方ないわ」

リリィは納得したように頷き、そして明るく笑った。

「まあ、私の特製シチューで、もう元気いっぱいでしょう? 歩いていきましょうよ。」


こうして、凍てつく冬の森に、三つの新たな足跡が刻まれ始めた。星明かりが、まるで彼らの未来を照らすかのように、静かに降り注いでいる。ノエルは、リリィという頼もしい仲間を得たことへの感謝と、魔法の袋に込められた力の意味を改めて胸に刻みながら、ふと思った。どこか遠い場所で、孤独な戦いを続ける親友、イリスもまた、同じこの星空を、どんな想いで見上げているのだろうか、と。答えのない問いを抱きしめながら、彼は仲間と共に、力強く新たな一歩を踏み出した。

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