因果の奔流
夜のポート・モロウズは、昼間とは全く違う顔を見せる。太陽の下ではただの古びた煉瓦の塊に過ぎなかった廃工場群が、月明かりと、対岸のマンハッタンが放つ間接光に照らされると、まるで古代遺跡のような、荘厳で、しかし不気味なシルエットを浮かび上がらせるのだ。潮風が、割れた窓ガラスの隙間を吹き抜け、まるで亡霊の嗚咽のような、低く長い音を立てていた。
ノエルとリリィ、そしてルドルフは、その亡霊たちの領域に、息を殺して足を踏み入れていた。サミィが指し示したエリアは広大で、どこから手をつければいいのか見当もつかない。ジェシカからの詳細な情報と作戦計画を待つべきだという理性の声と、一刻も早くイリスを見つけ出したいという感情のせめぎ合いの中で、彼らは無謀にも、夜間の探索という危険な賭けに出たのだ。
「本当に、この辺りにイリスがいるのかな……」
ノエルは、懐中電灯の光で足元を照らしながら、不安げに呟いた。錆びて崩れ落ちた鉄骨、散乱する瓦礫、そして闇の奥から自分たちを監視しているかもしれない、得体の知れない視線。その全てが、彼の神経を少しずつすり減らしていく。
「ええ、きっといるわ」リリィの声は、ノエルの不安を打ち消すかのように、落ち着いて、そして力強かった。「サミィの涙は、嘘をつかないもの」
彼女は、闇に慣れた目で、建物の構造や、地面に残された僅かな痕跡を注意深く観察していた。その姿は、もはや料理人ではなく、熟練の追跡者のようだった。
「僕たちも、少しは旅に慣れてきたのかもしれないね」 ノエルは、そんな頼もしい彼女の横顔を見て、少しだけ微笑んだ。 「ねぇ、リリィ。もし、イリスを見つけたらさ、なんて声をかける?」
「え?」 リリィは、暗闇からノエルの方へ視線を戻した。 「そうね……。私だったら、まず、お腹は空いていないか聞くかしら。そして、温かいシチューを作ってあげる。話は、それからでも遅くないでしょう?」
「リリィらしいや」ノエルは笑った。「僕はね、こう言うつもりなんだ」 彼は少しだけ間を置いて、まるで自分に言い聞かせるように、はっきりとした口調で言った。 「アニーも、ビャルキもソーラも、サミィも、船で会った子たちも、みんな笑ってたよって。君が届けたかった笑顔は、ちゃんとここにあるよって。だから、一人で全部背負わなくてもいいんだよって。世界中の子供たちを笑顔にする方法を、もう一度、一緒に探そう、ってね」 それは、感傷的な説得でも、独善的な正義の押し付けでもない。ただ、事実を伝え、未来への道を共に歩むことを提案する、短く、そしてどこまでも優しい、ノエルだけの言葉だった。
リリィは、その言葉に胸を打たれ、何も言えずにただ、強く頷いた。
「ノエル、リリィ。あっちの方から、何か……奇妙な匂いがする」 それまで黙って後方警戒にあたっていたルドルフが、低い声で言った。彼の大きな鼻が、ひくひくと動いている。
「匂い?」
「ああ。鉄錆や潮の匂いとは違う。もっと……空気が焦げるような、それでいて、どこか甘いような……。オゾンの匂いにも似ているが、もっと濃密で、危険な匂いだ。まるで、雷が落ちる直前の空気みたいだ」
ルドルフの言葉に導かれ、三人はより一層警戒を強めながら、地区の最も奥、イーストリバーに面した、ひときわ大きく、そして老朽化の激しい廃工場へと、吸い寄せられるように近づいていった。
────
その頃、イリスは、その廃工場の最上階にいた。 彼女は、窓から差し込む対岸の冷たい光の中で、祈るように、ただ静かに目を閉じていた。 その全神経は、ただ一点、自らの内側で荒れ狂う、膨大な負のエネルギーの奔流を抑え込むためだけに注がれていた。 禁書の力を行使するたびに蓄積されていく「因果の奔流」。それは、彼女の魂を内側から焼き焦がすだけでなく、最近では、ふとした瞬間に昨日の記憶が抜け落ちるような、明確な代償として彼女の肉体をも蝕み始めていた。
ゴオオオオオオッ……! 彼女の周囲では、目に見えない力が渦を巻き、空間そのものがまるで陽炎のように、キィィンという金属音を立てて悲鳴を上げ、歪み始めている。つもりに積もった奔流の制御には、いよいよ限界が近づいていた。 さらに悪いことに、この眠らない都市ニューシティに満ち満ちた、剥き出しの憎悪と、底なしの欲望が、まるで巨大な共鳴器のように作用し、彼女の中の奔流をさらに増幅させていく。
(このままでは、暴走する……!)
この力を、このまま無為に暴走させてはならない。この力で、少しでも世界をより良い方向へ……。 だが、次はどこを狙うべきか。 ヘリオスは、一拠点を潰された程度ではびくともしない、GOGを遥かに凌ぐ世界最大の軍事複合企業だ。アシュフォード長官から聞いた通り、GOGもまた、中東での軍事作戦に裏で深く関与し、暗躍を続けている。どちらも、子供たちの涙を生み出す元凶。だが、今のこの不安定な力で、どちらを叩くのが最善なのか……。
彼女が、荒れ狂う力を必死に抑え込み、次の標的へと意識を巡らせようと、精神を研ぎ澄ませた、まさにその時だった。
閃光。
思考よりも速く、網膜を焼き切るかのような、純白の光が炸裂した。 同時に、鼓膜を突き破るかのような、甲高い衝撃音。
「……ッ!?」
音と光の暴力に、イリスの意識が一瞬、白く染まる。サンタクロース協会の訓練では決して想定されていなかった、純粋な物理的・感覚的飽和攻撃。それは、魔法の詠唱と、何よりも「因果の奔流」の精密な制御に必要な、極限の精神集中を、根こそぎ破壊するのに十分すぎた。
体勢を立て直す間もなかった。 バチッ!という、空気が引き裂かれる音と共に、青白い電光が彼女の体を貫いた。高圧電流による、容赦のない衝撃。筋肉が意思に反して痙攣し、立っていることさえままならない。
「ぐ……あ……っ!」
膝から崩れ落ちるイリスの体に、天井や壁に仕掛けられていた複数の装置から、電磁パルスを帯びた特殊合金のネットが、高速で射出された。それはまるで、蜘蛛が獲物を絡め取るように、抵抗する術を失った彼女の体を、瞬く間に、そして無慈悲に拘束した。
「こちらチームデルタ。ターゲット、無力化を確認。これより確保に移る」 天井のスピーカーから、冷静で、プロフェッショナルな声が響く。
「ヒッヒッヒ……ヒャーッハッハッハッハ!」
続いて、甲高く、歪んだ哄笑が廃工場の闇に響き渡った。工場の壁面に設置された複数の隠しカメラのレンズが、一斉に赤い光を灯す。その視線の先、GOG本部の地下研究室では、Dr.神室が、モニターに映し出される光景に、恍惚とした表情を浮かべていた。
「捕らえたぞ……ついに捕らえた! 我が愛しの魔女よ! 非科学の化身よ! これで、その忌わしくも美しい力の全てが、この私のものとなるのだ!」
モニターの中で、電磁ネットに捕わわれ、身動き一つできずに喘ぐイリスの姿。その苦悶の表情すら、神室にとっては、最高の芸術作品のように映っていた。彼の長年の、狂気的な探求が、ついに実を結んだ瞬間だった。
だが、彼は気づいていなかった。 彼が捕らえたのは、ただの魔女ではない。 いつ噴火してもおかしくない、極限まで圧縮された、世界の歪みそのものだということに。
「……ああ……」
電磁ネットの中で、イリスの意識が、遠のいていく。 奇襲攻撃により、精神の制御が、完全に断ち切られた。彼女が必死に押さえつけていた、体内の「因果の奔流」が、檻を失った猛獣のように、牙を剥き始めたのだ。
ゴオオオオオオッ……!
地鳴り。 いや、それは大地が揺れているのではない。イリスを中心に、空間そのものが、まるで沸騰した水のように、激しく歪み、波打ち始めたのだ。
「な、なんだ!? これは……!?」
モニターの向こうの神室が、初めて狼狽の声を上げた。観測機器の針が、ありえない数値を叩き出して振り切れている。
イリスの体から、もはや制御を失った膨大な負のエネルギーが、黒い奔流となって溢れ出した。それは電磁ネットのパルスを無効化し、特殊合金をまるで飴のように溶かしていく。
空間の歪みは、現実世界に物理的な影響を及ぼし始めた。 廃工場の壁を、青白いプラズマの稲妻が走り、触れるもの全てを瞬時に蒸発させる。 重力場が狂い始め、床に転がっていた瓦礫や、錆びついた巨大な機械が、まるで無重力空間のように、ゆっくりと宙に浮き上がった。
「エネルギー出力が、予測値を、計器の上限を超えているだと!? 馬鹿な! 封じ込めろ! 早く封じ込めろ!」 神室の金切り声が、研究室に響き渡る。だが、もう遅かった。
外で、その異変を目の当たりにしていたノエルたちは、恐怖に凍りついていた。 目の前の廃工場が、まるで内側から巨大な光に照らされるかのように、不気味な明滅を繰り返している。そして、その建物全体が、ぐにゃり、とゼリーのように歪んで見えた。
「イリス?」 ノエルの耳元でイリスの声がしたような気がした、その時だった。
爆発。
それは、ただの爆発ではなかった。 音よりも先に、空間を切り裂くような、純白の光の奔流が、廃工場の屋根と壁を突き破り、天を衝いた。直後、全ての音を飲み込むかのような、腹の底を揺さぶる轟音が、ポート・モロウズの夜を支配した。
衝撃波が、嵐のように吹き荒れる。 ノエルとリリィは、咄嗟にルドルフの大きな体の影に身を隠し、爆風に耐えた。
彼らが再び顔を上げた時、そこには、信じられない光景が広がっていた。 先ほどまでそこに存在していたはずの巨大な廃工場は、その半分以上が、まるで巨大なスプーンで抉り取られたかのように、消滅していた。残った残骸は、地獄の業火を思わせる、赤黒い炎に包まれている。
そして、その炎の中心、かつて工場があったはずの空間に、夜空の星々とは明らかに違う、禍々しく、そしてどこか悲しい光が、陽炎のように揺らめいていた。
「……イリスッ!!!」
ノエルの絶叫が、燃え盛る炎と、遠くから聞こえ始めた無数のサイレンの音の中に、虚しく吸い込まれていった。 イリスを巡る運命の歯車は、最悪の形で、再び大きく、そして激しく回り始めていた。




