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聖夜の黄昏  作者: 那王
7章 さまよえるトナカイ亭
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守護天使のいる街

ニューシティの空は、いつだって借り物だった。高層ビルのガラスの壁が、無感情に空を切り取り、地上に届く光は常に誰かの巨大な影をまとっている。街の喧騒は、まるで巨大な生命体の呼吸そのもので、その中で生きる人々は、赤血球のように目的もなく、しかし絶え間なく流れ続けていた。


その巨大な生命体の、心臓からは少し離れた、忘れられた血管のような場所――ザ・ブロンク地区、モスヘイヴン。マンハッタンの摩天楼が放つ傲慢な光も、ここまで届けば幾分かその勢いを失い、建物の壁に染み付いた煤や、人々の顔に刻まれた疲労の色に吸収されていく。ここで生きる人々にとって、空は見上げるものではなく、雨を降らせるかどうかを気にするだけの、ただの天井だった。


その天井の下、古い集合住宅テネメントの一室で、「リナ」は暮らしていた。


部屋は、彼女の生活そのものを表していた。必要最低限の、中古の家具しかない、殺風景な空間。しかし、その無機質な部屋の中で、二つのものだけが、彼女の過去と、捨てきれない魂の在り処を静かに主張していた。

窓辺には、この灰色の街には不釣り合いなほど、凛とした白い一輪のフリージアが、小さなガラス瓶に挿されている。それは、彼女がこの街に来て初めて、自分の稼いだ金で買ったものだった。誰のためでもない、自分自身の心のために。

そして、使い込まれたノートパソコンの横には、協会の談話室で誰もが愛飲していた、英国王室御用達の銘柄の紅茶缶が、ささやかな聖域のように置かれていた。


イリスは、いや、この街での彼女であるリナは、決して贅沢を望まなかった。かといって、極端な貧困に喘ぐこともなかった。彼女は、サンタクロース協会という、ある意味で非常に恵まれた無菌室の中で育った。世界の歪みを憎みながらも、その歪みの最も過酷な部分――飢餓や寒さを、身をもって知っているわけではない。その自覚が、彼女の行動に一種の潔癖さをもたらしていた。


生活費は、禁書から紡ぎ出した魔法で、誰かの口座から不正に引き出した金ではない。そんなことをすれば、自分の正義が根底から腐ってしまうことを、彼女は知っていた。彼女は、その卓越した語学力と知識を活かし、匿名のフリーランス翻訳者として、ネット上で最低限の仕事を請け負っていた。専門的な医学論文や、古い文献のデジタル化。それは、彼女の知性を満たす、孤独で、しかし性に合った作業だった。この汚れきった世界に身を置きながらも、自分自身の魂の清廉さを保とうとする、彼女なりの小さな、しかし必死の抵抗だった。


キーボードを叩く指を止め、リナは窓の外に目をやった。通りの向こうで、子供たちが甲高い声を上げてボールを蹴っている。その無邪気な光景に、彼女の青い瞳が、ほんのわずかに和らいだ。この笑顔を守ること。それが、彼女がこの孤独な戦いを続ける、唯一の理由だった。


紅茶を一口すする。慣れ親しんだベルガモットの香りが、彼女の心を一瞬だけ、北極のあの温かい談話室へと引き戻す。ノエルとの他愛のない会話、妖精たちの悪戯っぽい笑い声、聖ニコラス様の慈愛に満ちた眼差し。それは、もう二度と戻れない、清廉だった過去の「原風景」。

今の自分の行いは、あの温もりを自らの手で汚し、踏みにじる「冒涜」に他ならないのかもしれない。だが、彼女は決して過去を振り返って感傷に浸ることはなかった。「私に、あの温もりの中に帰る資格はない」などという、安っぽい悲観に溺れるほど、彼女は弱くはなかった。これは、この現在の選択を成し遂げるための、必要な儀式なのだ。彼女の正義は、あの温もりの中からでは決して生まれない。それを、彼女自身が一番よく知っていた。


『ぼくがわるいこだから、ばくだんがとどいたんですか』


あの日、彼女の心を焼き尽くした少年の言葉。あの問いに、彼女はまだ明確な答えを出せずにいる。だから、進むしかないのだ。全ての子供たちが、自分自身を責めることのない世界を、この手で創り上げるまで。


フード付きのパーカーを深く被り、リナはアパートのドアを静かに開けた。彼女の、もう一つの日常が始まる。


モスヘイヴンの街は、混沌とした生命力の塊だった。スパニッシュ系の家庭の窓から漏れる陽気なサルサの音楽、路上で開かれるチェスの盤を睨みつける老人たちの真剣な眼差し、食料品店ボデガの軒先で交わされる、英語とスペイン語が混じり合った早口の会話。空気には、揚げたプランテンの甘い香りと、ゴミ収集車が残していくディーゼルの匂いが、奇妙なハーモニーを奏でながら混じり合っている。


イリスは、その混沌の中を、まるで水の中を泳ぐ魚のように、音もなく、気配もなく進んでいく。彼女の目的は、買い出しではない。この街に潜む、小さな歪みと、助けを求める声なき声を探す、静かなパトロールだった。サミィのような子供が、他にもいるかもしれないから。


大通りから一本入った路地裏。案の定、それは起きていた。

三人の、見るからに素行の悪そうな若者が、一人の、まだ学生と思われる青年を壁際に追い詰めていた。高利貸しからの取り立てだろうか。脅し文句と、乾いた殴打音が、薄暗い路地に響く。青年の瞳には、恐怖と絶望の色が浮かんでいた。


イリスは、物陰に身を潜めたまま、静かに目を閉じた。彼女の指先が、ポケットの中で微かな光を帯びる。それは、誰かを傷つけるための攻撃魔法ではない。協会で、妖精たちが悪戯に使うような、ささやかな認識阻害と、物理法則の僅かな歪曲を組み合わせた、古の魔法。


「おい、聞いてんのか! 金がねえなら、テメェのその綺麗な指でも一本ずつ…」


リーダー格の男が、下卑た笑いを浮かべ、ナイフをちらつかせた、その瞬間だった。

男の足元にあった、何の変哲もない空き缶が、まるで生き物のように、彼の足に絶妙なタイミングで絡みついた。いや、正確には、男の足が空き缶に吸い寄せられるように滑ったのだ。


「うわっ!?」


男は派手な音を立てて前のめりに転倒し、アスファルトに顔面を強かに打ち付けた。


「な、何やってんだよ、兄貴!」

「しっかりしてくださいよ!」


仲間二人が慌てて駆け寄る。その一瞬の隙。追い詰められていた青年は、何が起きたか分からないまま、本能的にその場から駆け出した。


「あ、こら、待て!」


残された二人も青年の後を追おうとしたが、なぜか急に、目の前にいる仲間の顔が、憎き借金取りの親玉の顔に見えたり、あるいは、幼い頃に自分をいじめていたガキ大将の顔に見えたりした。ごく僅かな記憶の混濁と、認識のバグ。


「て、てめぇ、なんでここに!?」

「お前こそ、俺の金を横取りする気か!」


訳の分からない混乱に陥った二人は、その場で互いに掴みかかり、意味のない殴り合いを始めた。リーダー格の男は、鼻血を流しながら呆然と、その馬鹿げた光景を見つめている。


イリスは、その様子を冷たい瞳で見届けると、音もなくその場を立ち去った。誰にも姿を見られない。感謝もされない。ただ、結果だけが、そこに残る。

サミィが言ったように、彼女はまさしく、この打ち捨てられた街の、名もなき「守護天使アンヘル」だった。この「小さな正義」の積み重ねだけが、巨大な悪と対峙する中で、彼女の心が完全に闇に飲まれるのを、かろうじて防いでいた。


モスヘイヴンを縦断する大通り、グランド・コンコースの近くには、週末になると様々な色のフードトラックが集まってくる、地元民の憩いの場となっている一角があった。リリィたちが情報を集めた通り、ニューシティには常設の屋台街は少ない。だが、こうした公園の脇や、広い歩道がある場所では、許可を得たトラックが自然と集まり、さながら移動式の市場のような賑わいを見せるのだ。コミュニティパークで週末に開かれる、ささやかなフードトラック・ラリー。


その日、イリスは珍しく、その賑わいの中に足を運んでいた。彼女のアパートの質素な食料棚に、塩が切れていることを思い出したからだ。いつもは人目を避けて、深夜の寂れた商店で買い物を済ませるのだが、その日は何故か、人々の活気に少しだけ触れてみたい気分になったのかもしれない。あるいは、翻訳の仕事が一段落し、ほんの少しだけ、心が緩んでいたのかもしれない。


様々な国の料理の匂いが、彼女の鼻腔をくすぐる。タコスのスパイシーな香り、ケバブの香ばしい匂い、クレープの甘い誘惑。その中で、ふと、彼女の足を止めさせる、懐かしい香りがした。それは、ただの料理の匂いではない。雪と、針葉樹と、そして遠い日の暖炉の匂いが、微かに混じっているような、不思議な香りだった。


香りのする方へ、まるで何かに導かれるように視線を向ける。

そこに、一台の、少し古びた真っ赤なフードトラックが停まっていた。


『さまよえるトナカイ亭 (The Wandering Reindeer)』


トラックの側面に書かれた、少し不格好で、しかし温かみのあるその文字を、イリスはフードの奥で、ただ黙って見つめていた。


(……トナカイ、ね)


彼女の凍てついた心の表面が、春の陽光に少しだけ溶かされるような、温かい懐かしさが込み上げてくる。

ルドルフの、賢くて優しい茶色の瞳。ノエルの、少し頼りないけれど、いつも一生懸命な笑顔。

協会での、何でもない、けれど輝いていた日々。


(フフッ……)


思わず、フードの奥で、本当に小さく、笑みが漏れた。

誰かが、自分と同じ場所を想っているのだろうか。あるいは、ただの偶然か。

どちらでもよかった。ただ、この殺伐とした街の片隅で、遠い故郷の欠片に偶然出会えたことが、乾いた心に染み渡る、一滴の清水のように感じられた。


彼女は、それ以上トラックに近づこうとはしなかった。

懐かしさは、時に人を弱くする。自分にはもう、あの温もりの中に帰ることは許されない。

彼女の正義は、あの温もりの中からでは決して生まれない。

ただ、その店のシチューを一口味わってみたい、という小さな欲望が胸をよぎったが、彼女は静かにその想いを振り払った。ノエルがこの店の関係者だなどとは、もちろん微塵も思っていない。ただ、トナカイという名前に、協会を思い出しただけだ。


その時、イリスが立っている場所からほんの数十メートル先、市場の八百屋で、ノエルとリリィが、今夜のシチューに使うタマネギの値段を、店主と陽気に交渉していたことを、彼女は知る由もなかった。

そして、ノエルとリリィもまた、彼らが追い求める親友が、ほんの目と鼻の先に、自分たちの店の名前を、愛おしげに、そして少しだけ寂しそうに見つめていたことなど、想像だにしていなかった。


運命は、まだ彼らを引き合わせることを許さなかった。

イリスは背を向けると、再びモスヘイヴンの雑踏の中へと、その姿を溶け込ませていった。


夜。ポート・モロウズの廃工場地帯は、昼間のモスヘイヴンとは対極の、死んだような静寂に包まれていた。イーストリバーの向こう岸に見えるマンハッタンの夜景だけが、この場所が世界の中心に隣接しているという事実を、皮肉っぽく主張している。


イリスは、錆びついた鉄の階段を上り、彼女の「聖域」であり、孤独な戦場である、工場の屋上へとたどり着いた。

そこには、彼女がどこからか運び込んだ、巨大な水晶玉――「世界を見渡す目」が、不気味な光を放って鎮座している。壁には、ニューシティの巨大な地図と、GOGの複雑な組織図が、無数の付箋と共に貼り出されていた。


彼女は、水晶玉の前に静かに座り、その冷たい表面に手をかざした。

「……見せて。GOGの、最も黒い心臓を」


水晶玉が、低い唸り声を上げる。その表面に、アメリア中西部に位置する、厳重に警備された巨大な軍事施設の映像が浮かび上がった。GOGが、政府との密約のもと、非人道的な次世代兵器の開発を行っている、秘密の研究施設だ。


「ここね……」


彼女は、次の「裁き」の標的を定めた。

だが、その前に、やらなければならないことがあった。


イリスは立ち上がり、工場の広大な空間の中央へと移動した。そして、深く息を吸い込む。

彼女の体内に、禁書に手を出して以来、その力を行使するたびに蓄積されていく、黒い渦のようなエネルギー。それは、世界の因果律を歪めたことへの「代償」として、彼女の魂を蝕む、負の奔流だった。

頭蓋の内側で、キィィン、という金属的な不協和音が鳴り響く。全身の血管を、粘度の高い氷が流れるような、耐え難い苦痛と悪寒。


(このままでは、暴走する……。ヘリオスの時のように、ただ破壊を撒き散らすだけでは、意味がない。あの時は、私の未熟さが、意図せぬ悲劇を招いた)


彼女は、この身の内なる破壊衝動を、飼いならさなければならなかった。

いつ噴火するとも知れない火山を、その噴火の方向と威力を、自らの意志で制御するのだ。それは、ニコラス様も、協会の誰もが思いもよらなかった、禁書の新たな、そして最も危険な解釈だった。


「……集え」


イリスの呟きに応えるように、彼女の周囲の空間が、陽炎のように歪み始めた。

体内の黒い奔流が、彼女の掌に集束していく。それは、闇よりもなお暗い、光さえ飲み込むかのような、小さな黒い球体へと姿を変えた。


「……制御、可能……。指向性も、維持できる」


汗が、彼女の額を伝い落ちる。全身が、まるで巨大な万力に締め付けられるように軋んでいた。

だが、その瞳には、恐怖の色はなかった。

あるのはただ、この身を蝕む苦痛さえも武器に変え、自らの正義を完遂しようとする、鋼のような、そしてあまりにも孤独な決意だけだった。


彼女は、この溜め込んだ膨大な負のエネルギーを、次の裁き――GOGの軍事施設への、一点集中の精密攻撃に利用しようと考えていた。

廃工場の中で、一人の少女が、世界そのものを敵に回すための、危険で、苦しい検証を、たった一人で繰り返していた。

その姿は、あまりにも痛々しく、そして、神々しいほどに、美しかった。

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