二つの世界の交差点
7-4. 二つの世界の交差点
ニューシティの空は、いつだって借り物のように窮屈だった。高層ビルのガラスの壁が、無感情に空を切り取り、地上に届く光は常に誰かの巨大な影をまとっている。街の喧騒は、まるで巨大な生命体の呼吸そのもので、その中で生きる人々は、赤血球のように目的もなく、しかし絶え間なく流れ続けていた。
ジェシカ・ミラーに指定された待ち合わせ場所は、ミッドタウンの超高層ビルの最上階に近い、会員制のスカイラウンジだった。床から天井まで続く一面のガラス窓の外には、まるで宝石箱をひっくり返したかのような、非現実的なまでの夜景が広がっている。ノエルたちが数時間前まで身を置いていたスープキッチンの、寒さと、ひもじさと、それでも失われない人の温もりが混じり合った世界とは、残酷なほどに対極にある光の海だった。
「すごい場所だね……」
ノエルは、眼下に広がる光の奔流に圧倒され、子供のように素直な感嘆の声を漏らした。隣のリリィも、その壮大なパノラマに息を呑んでいたが、その瞳には感動とは少し違う、複雑な色が浮かんでいた。この圧倒的な光景は、彼女がスープキッチンで目の当たりにした、深い影の存在を、より一層際立たせるものだったからだ。この眩い光の一つ一つが、あの子供たちが手を伸ばしても決して届かない星なのだと思うと、胸の奥がちくりと痛んだ。
約束の時間きっかりに、ジェシカはまるで音もなく彼らのテーブルに現れた。シャープなラインの黒いパンツスーツに身を包み、その手には薄型のタブレット端末だけ。彼女はこの光の海を支配する側の人間なのだと、その無駄のない洗練された佇まいが雄弁に物語っていた。
「待たせたかしら」
その声には、謝罪の響きよりも、時間通りに現れた自分への満足感が含まれているように聞こえた。彼女は席に着くと、テーブルの上に置かれていた「さまよえるトナカイ亭」の特集が組まれたグルメ雑誌を、細く美しい指でトン、と軽く叩いた。
「『都市の迷宮に現れた、心癒やす奇跡のシチュー』。大したものね。このニューシティで、これだけのブームを短期間で巻き起こすなんて。私の番組で取り上げた影響を差し引いても、見事な手腕だわ」
その賞賛には、どこか値踏みするような響きがあった。まるで、興味深い実験の成功を観察する科学者のように。
「私たちの意図とは、少し違う形で有名になってしまったのだけれど」
リリィは、目の前のオーガニックハーブティーのカップを見つめながら、苦笑を浮かべて応じた。彼女の脳裏には、まだ温かいシチューが、写真のためだけにゴミ箱へと捨てられていく光景が焼き付いている。
「たくさんの人が来てくれるのは、嬉しい。でも、私たちの料理が、ただの流行りものとして消費されて、その多くが捨てられていくのを見るのは……正直、つらいものがあったわ。本当に届けたい人には、届いていないような気がして」
「まあ、注目を集めるというのは、常にノイズとの戦いよ」
ジェシカはこともなげに肩をすくめた。「純粋な想いだけで、この街のトレンドは動かせない。大衆は常に、分かりやすい記号と熱狂を求めるもの。重要なのは、その熱狂の中から、いかにして本質を掬い取り、次の行動に繋げるか、だわ。嘆くのは時間の無駄よ。感傷は、時に最大の足枷になるわ」
その言葉は冷たい真実だったが、ノエルにはどこか寂しく聞こえた。ジェシカは肩をすくめると、早速本題に入った。彼女はテーブルの上に置いたタブレットを滑らかにスワイプさせる。すると、テーブルの中央から淡い光が立ち上り、ニューシティの俯瞰図が立体映像として空間に投影された。無数の光点が、街の至る所で明滅している。
「あなたたちがおとぎ話のようなシチューを売っている間、こちらの『魔女』も、なかなか精力的に活動していたようね」
ジェシカは空中に浮かぶ立体映像を指先で巧みに操作した。映像は、ある企業の重役が住む高級ペントハウスの防犯カメラの記録へと切り替わる。深夜、誰もいないはずのリビングの隅の影が、不自然に揺らめき、そこから音もなくイリスが現れる様子が映し出されていた。
「先週、GOGと癒着関係にあったアグリビジネス企業のCEOが、突然精神に変調をきたし、緊急搬送された。公式発表は『過労による神経衰弱』。でも、私の情報網が掴んだ内部情報によれば、彼は今も『終わらない黒い夢』を見続けているそうよ。搬送される直前、彼は屋上の貯水タンクの水を全て抜き、そこに最高級のワインを満たして泳ごうとしていたらしいわ。現場には、例のメッセージ。『黒き聖夜の審判』」
次にジェシカが映し出したのは、港湾地区の暗いコンテナヤードだった。麻薬密売組織の取引現場を捉えた監視カメラの映像。そこに、再びイリスが前触れなく出現し、彼女の手から放たれた閃光が、取引されていた薬物と、コンテナ数個をまとめて消し炭に変えるまでが、克明に記録されていた。
「港湾マフィアの大きな取引が、何者かによって物理的に『消去』された。現場には高熱で溶けたアスファルトと、やはり同じメッセージだけ。警察は、新型の指向性エネルギー兵器を使ったテロの可能性を疑っているわ」
ジェシカは立体映像を回転させながら、冷静な分析を続ける。
「彼女の動きを追おうと、都市中に張り巡らされた監視カメラのネットワーク――『シティ・アイ』の映像をリレーして追跡を試みたわ。私のコネクションを使えば、この程度の都市インフラへのアクセスは可能よ。でも、見て」
映像の中で、イリスはあるカメラの前から忽然と姿を消し、次の瞬間には、数キロ離れた全く別の地区のカメラに、何の前触れもなく現れる。その間の移動経路を示すデータは、どこにも存在しない。
「瞬間移動、テレポート、とでも言うのかしら。今の画像解析ソフトウェアは、こういう物理法則を無視した動きに対応していないの。全ての監視カメラから、こんな風に神出鬼没に現れる人物をリアルタイムで特定し続けるほどの演算力も、残念ながら現時点のインフラにはないわ。まるで、システムという網の目をすり抜けるゴーストよ」
「防犯カメラの映像を調べられるなんて……」
ノエルは、その圧倒的な情報操作能力に、素直な驚きを口にした。
「ジェシカさんって、ただの記者じゃないみたいだ」
「ジャーナリストは、時に手段を選んでいられないのよ」
ジェシカはノエルの言葉を軽く受け流すと、その鋭い視線を、テーブルの向こうで静かに佇むルドルフに向けた。
「それで、この不可解な現象について、あなたたちの見解を聞かせてもらえるかしら。カイトから、あなたたちが『魔法』と呼ぶ力について少しは聞いているけれど。この瞬間移動は、その『魔法』の一種、という理解でいいの?」
その問いは、ノエルやリリィではなく、明確にルドルフに向けられていた。彼女は、この一行の中で、誰が本質的な知識を持っているのかを、既に見抜いているようだった。
ルドルフは、ゆっくりと干し草を食むのをやめ、その賢明な茶色の瞳でジェシカを真っ直ぐに見返した。
「その通りだね。イリスが使っているのは、我々が『瞬きの回廊』と呼ぶ、人の転送を可能にする魔法だ。本来、サンタクロース協会では固く禁じられている力なのさ」
「禁じられている、ね。その理由と、その魔法が生まれた経緯に興味があるわ」
ジェシカは、まるで待っていたかのように、さらに深く問いを重ねた。その瞳は、未知の技術体系を解き明かしようとする研究者のように、強い探求心で輝いていた。
「すべては、子供たちにプレゼントを届ける、という我々の使命から始まっているのだよ」
ルドルフは、静かで、しかし聞く者の心に染み入るような、穏やかな口調で語り始めた。それは、ノエルでさえも、詳しくは知らなかった、サンタクロース協会の魔法の歴史だった。
「昔は、どの家にも立派な煙突があった。我々サンタクロースは、そこから家の中に入り、子供たちの枕元にプレゼントを置くことができた。だが、時代が変わり、煙突のない家が増え、集合住宅が当たり前になると、我々もやり方を変える必要に迫られたんだ」
彼の言葉は、遠い日の工房の風景を思い起こさせた。緑の帽子を被った妖精の長老たちが、頭を悩ませ、ああでもないこうでもないと議論を重ねる姿が目に浮かぶようだ。
「外から、鍵のかかった家の中へ、どうやって安全にプレゼントを届けるか。妖精の長老たちや、歴代のサンタクロースたちは、様々な魔法を研究・開発した。その過程で、偶然生まれてしまったのが、人を丸ごと転送するという、強力すぎる魔法だったのだよ。初期の魔法はあまりにも不安定でね。プレゼントを枕元に届けようとしたら、誤って子供部屋の壁ごと吹き飛ばしてしまったり、プレゼントの代わりに、開発者である妖精のグレン爺さん自身が、見知らぬ家のベッドサイドに転送されてしまった、なんて笑えない逸話も残っているくらいだ」
「僕、そんな話、初めて聞いた……」
ノエルが、驚きの声を上げた。自分たちが当たり前のように教わってきた魔法の背景に、そんな歴史があったとは。
「君は授業中、よく居眠りしていたからねぇ。まったくノエルは、昔から肝心なところで話を聞いていないんだから」
ルドルフは親しみを込めた呆れ顔でノエルを見た後、再びジェシカへと視線を戻した。
「試行錯誤の末、彼らはついに、人を一人、安全に転送させるほどの強力な魔法を完成させた。だが、力があまりに大きく、悪用される危険性も高かった。人を運ぶほどの力は、プレゼントを届けるという我々の目的には、あまりにも過剰だったんだ。だから、その魔法は改良が重ねられ、最終的には『小さなプレゼントだけを、枕元へ安全に転送する』という、より効率的で安全な形に落ち着いた。そして、原型となった人の転送魔法は、危険な力として、その開発経緯の記録と共に『禁書』の中に封じられたのだよ」
「なるほど。技術開発における、意図せぬ副産物…スピンオフのようなものね。私たちの世界でもよくある話よ。危険すぎるプロトタイプ技術を、封印した、と」
ジェシカが知的な好奇心に満ちた目で相槌を打つ。
「それにしても、そもそも『魔法』とは何なのかしら。エネルギーの一種? それとも、まだ私たちが観測できていない、未知の物理法則?」
ジェシカの問いは、核心に迫っていた。ルドルフは、まるで最も大切な秘密を打ち明けるかのように、静かに、しかし確信に満ちた声で答えた。
「――想い、だよ」
「想い?」ジェシカが訝しげに眉をひそめる。
「そう。子供たちが、サンタクロースはきっといると信じる、純粋で、無垢で、そして何よりも強い『想い』の力。それが、我々の魔法の全ての源泉なのだよ。それは、君たちの世界の言葉で言うなら、一種の膨大な精神エネルギーの集合体、とでも言うべきものかもしれない」
「想いの力か……」リリィが、恍惚とした表情で小さく呟いた。「私のシチューも、きっとそうだわ。食べた人の心を温めるのは、ただの食材の味だけじゃない。ワン老師のスパイスも、マンマ・ソフィアのチーズも、ジャクソンさんのガンボも、みんな同じ『想い』の味がした。作り手の、食べる人への温かい想いが、最高の魔法なのかもしれないわね」
リリィの言葉に、ジェシカは一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。だが、すぐに元の冷静な表情に戻る。
「……なるほど。非常に興味深いわ。つまり、その観測不能なエネルギーを汲み上げ、この世界で『現象』として具現化できるのが、サンタクロースの素質を持つ者、ということかしら」
「理解が早いね」ルドルフは少し感心したように言った。「その通りだ。そして、その強大すぎる力を安全に制御し、特定の目的に指向させるための道具が、我々の使う『魔法の道具』なのさ。ノエルの持つ魔法の袋は、想いの力を『物質生成』や『次元収納』という形に、そして我々のソリは『飛行』という形に変換・増幅する、言わば触媒であり、制御装置のようなものなのだよ」
「そして、そのシステムから外れた力…例えば、子供たちの純粋な想いだけでは発動せず、別の何かを代償とするような禁忌の術や、開発過程で生まれた危険な副産物が、『禁書の魔法』というわけね。イリスが使っている治癒の魔法は他者の生命力を、そして彼女が起こす破壊的な魔法は、世界のどこかに歪みを生み、術者自身をも蝕む『因果律の代償』を伴うと聞く」
ルドルフは静かに肯定した。深い森の静けさを思わせる彼の瞳と、摩天楼の頂点で情報を支配する彼女の瞳が、テーブルの上で交錯する。二つの異なる世界の常識が、初めて一つの言語で結ばれようとしていた。
重厚な魔法の講義が終わると、今度はノエルたちが情報を提示する番だった。
「ジェシカさん、イリスの居場所に、心当たりがあります」
ノエルは、ポケットから大切に折りたたんであった一枚の紙を取り出した。それは、リリィがサミィの話を聞きながらスケッチした、廃墟の工業地帯の簡単な見取り図だった。彼は、スープキッチンでの日々、誰にも心を開かなかった少年サミィとの出会い、そして、彼がイリスを「天使アンヘル」と呼び、涙ながらに指し示した場所について、一言一言、丁寧に説明した。
「彼がくれたんです。イリスが、彼を守るために」
ノエルは、サミィから託された、古びた毛糸の星のお守りをテーブルの上に置いた。それは、この巨大な都市の片隅で起きた、小さな、しかし確かな奇跡の証だった。
ジェシカは、ノエルの話に黙って耳を傾けていた。彼女はテーブルに置かれた星のお守りと、リリィが描いた地図を、これまでイリスの行動データを見ていた時とは全く違う、複雑な表情で見つめていた。
「ザ・ブロンク……モスヘイヴンと、ポート・モロウズの境界線……」
ジェシカは、ノエルたちが突き止めた地名を呟き、自身のタブレットで即座にその地区の衛星写真と、最新のストリートビューを呼び出した。
「確かに、このポート・モロウズのウォーターフロントには、再開発から取り残された古い倉庫街や、閉鎖された工場が点在しているわ。人目につかず潜伏するには、格好の場所ね……」
彼女はしばらくの間、何も言わなかった。ただ、その鋭い瞳は、タブレットの画面と、テーブルの上の小さな星のお守りの間を、何度も往復していた。やがて彼女は、ふう、と一つ息をつくと、これまで見せたことのない、わずかに自嘲的な、それでいてどこか人間らしい表情を浮かべた。
「……記者顔負けの情報収集能力じゃない。驚いたわ」
彼女は、ノエルとリリィの顔を交互に見た。その視線には、もう以前のような値踏みするような響きはない。
「ハイテクな監視網よりも、瓦礫の中の子供の涙の方が、よほど雄弁に真実を語ることもある、か。……少し、自分のやり方を反省させられた気分よ」
ジェシカはそう言うと、静かに立ち上がった。
「分かったわ。ターゲットエリアは、ポート・モロウズの廃工場地帯。私も独自のルートで、このエリアのさらに詳細な情報を収集し、突入計画を立てる。準備ができ次第、連絡するわ。それまで、軽率な行動は慎みなさい。相手は、今のあなたたちが思っている以上に、危険な力を手にしているのかもしれないのだから」
その言葉には、ジャーナリストとしての冷静な忠告と、ほんの少しだけ、彼らの身を案じるかのような響きが混じっているように、ノエルには感じられた。
ジェシカが颯爽とカフェを後にすると、テーブルには再び、ガラス越しの静寂が戻ってきた。しかし、その静寂は、以前のものとは全く違っていた。
ジェシカが颯爽とカフェを後にすると、テーブルには再び、ガラス越しの静寂が戻ってきた。
リリィは、ジェシカが去った空間を眺めながら、ふと小さく鼻をひくつかせた。
「……気のせいかしら。今、一瞬だけ……すごく甘くて、少しむせ返るような花の香りがしたような……」
ノエルはきょとんとして首を傾げる。「そう?僕は何も。コーヒーの匂いしかしないけどな」
リリィは少し考え込むが、やがて小さく首を振る。「…うん、きっと気のせいね。このラウンジの芳香剤かしら」
ついに掴んだ、イリスへと続く確かな道筋。
それは、嵐の前の静けさにも似て、彼らの胸に、緊張と、そして揺るぎない決意を、深く刻み込むのだった。