瓦礫の中の小さな星
フードトラックの熱狂が、まるで遠い世界の出来事のように感じられる、静かな夜だった。営業を終え、ホテルへの帰り道を歩いていたノエルとリリィは、ハーレム地区の、観光客向けの華やかな大通りから一本外れた、薄暗い路地裏で足を止めた。
ごう、と音を立てて清掃車が通り過ぎた後、ビルの影から、小さな影が二つ、三つ、そろそろと現れた。まだ十歳にも満たないであろう子供たちが、レストランから出されたばかりの、大きな黒いゴミ袋に駆け寄り、慣れた手つきでその口を開け、中身を漁り始めたのだ。
「……!」
リリィは息を飲んだ。ノエルも、その光景に言葉を失った。
子供たちは、少しでも食べられそうなものを探しては、汚れた手で口へと運んでいる。その姿は、この眠らない大都市が放つ、眩い光のすぐ裏側で、確かに存在する、深く、そして冷たい闇そのものだった。
自分たちが、食べきれないほどの売れ残りに心を痛めている、まさにその一方で、今日を生きるための僅かな食料さえも手に入らない子供たちがいる。そのあまりにも残酷な対比が、二人の胸に、鋭いナイフのように突き刺さった。
「……行こう、ノエル」
リリィは、唇を強く噛み締めながら言った。その声は、震えていた。
「私たちのやるべきことが、分かったわ」
翌日、リリィはフードトラックの営業を休むと告げた。そして、昨夜の売れ残り…まだ十分に食べられる大量のシチューを寸胴鍋ごと抱え、ノエルとルドルフと共に、ブロンクス地区を目指した。そこには、古い教会が運営する「スープキッチン」があると、市場での聞き込みで知っていたのだ。富と流行の中心地マンハッタンから地下鉄を乗り継ぎ、降り立ったブロンクスの街は、空の色からして違って見えた。建物の壁は落書きで埋め尽くされ、道端にはゴミが散乱している。人々の目には、希望よりも疲労と諦めの色が濃く浮かんでいた。
目的の教会は、再開発から取り残されたかのように、ひっそりと佇んでいた。石造りの壁は黒ずみ、ステンドグラスのいくつかは割れたままになっている。しかし、その扉は、助けを求める全ての人に開かれていた。
彼らを迎えたのは、シスター・アガサと名乗る、一人の修道女だった。年はまだ若そうだが、その目には、長年の苦労と、神への諦念が、まるで氷河のように深く刻まれている。彼女の纏う空気は、鋼のように冷たく、硬質だった。
「…何? 流行りのフードトラックの、売れ残りの処分にでも来たのかしら」
シスター・アガサは、寸胴鍋を抱えたリリィたちを一瞥すると、吐き捨てるように言った。
「お遊びの慈善事業なら、他所でやってちょうだい。ここは、あんたたちのようなお嬢ちゃんが、自己満足のために来るところじゃないのよ」
その言葉は、氷のように冷たく、リリィの心を突き刺した。
しかし、リリィは怯まなかった。彼女は、アガサのその瞳の奥に、絶望と同じくらい深い、捨てきれない責任感と、人々への愛情が隠されていることを見抜いていた。
「見ていてください、シスター」
リリィは、寸胴鍋をキッチンの調理台に置くと、アガサを真っ直ぐに見据えた。「この限られた食材から、最高のスープを作ってみせますから。私の料理は、お遊びなんかじゃない」
リリィの「魔法」は、スープキッチンの淀んだ空気を一変させた。
彼女は、寄付された、少し古くなった野菜の皮や芯、鶏の骨などを丁寧に集め、大きな鍋でじっくりと煮込み始めた。チャイナタウンで手に入れたスパイスをほんの少し加えるだけで、単なる野菜くずが、黄金色に輝く、香り高い極上のスープストックへと生まれ変わっていく。固くなってしまったパンは、ニンニクとハーブで香り付けしたオリーブオイルを塗り、オーブンでカリカリのクルトンに。寄付されたツナの缶詰は、タマネギとマヨネーズで和え、簡単なディップにする。
そして、彼女が持ってきたシチューを温め直し、その魔法のスープストックで伸ばし、最後に、隠し味として、あのソフィアのチーズをほんの少しだけ溶かし入れた。
厨房に、信じられないほど豊かで、優しい香りが立ち込める。いつもは無表情に、ただ空腹を満たすためだけに列に並ぶ人々が、その匂いにつられて、ざわめき始めた。
「なんだ、今日のスープは、いつもと匂いが違うな…」
「ああ、腹が鳴っちまうぜ…」
リリィは、一人ひとりに「熱いから気をつけてね」「たくさん食べてね」と声をかけながら、愛情を込めてスープを注いでいく。
いつもは無言で食事を口に運ぶだけだった人々の顔に、一口、また一口とスープを味わううちに、驚きと、そして少しずつの笑顔が戻り始めた。
「…うめぇ…」
「ああ、温まる…こんなに美味いスープ、何年ぶりに飲んだだろうか…」
その光景を、シスター・アガサは、信じられないものを見るような目で、ただ黙って見つめていた。彼女の鋼のような表情が、ほんのわずかに、揺らいだように見えた。
一方、ノエルは、厨房でリリィを手伝う傍ら、ホールで食事をする子供たちの相手をすることに、自分の役割を見出していた。
サンタクロース見習いとして学んだ、子供たちの心に寄り添う方法。それは、言葉だけではない。
中でも、彼の心を捉えて離さなかったのは、サミィという名の、小さなメキシコ系の少年だった。彼はいつも一人で、誰とも目を合わせようとせず、フードで顔を深く隠すようにして、壁際で黙々と食事をしていた。その姿は、まるで世界から自分を隠しているかのようだった。彼が話すのは、ノエルには分からないスペイン語だけ。周りの子供たちとも、うまくコミュニケーションが取れていないようだった。
ノエルは、そんなサミィの姿に、かつての自分を重ねていた。誰にも心を開けず、孤独だった自分を。
彼は無理に話しかけず、ただサミィの隣にそっと座った。そして、妖精たちが作ってくれた、オーロラ色に輝く折り紙を取り出し、黙々と動物や星を折って見せた。言葉は、いらなかった。ただ、あなたのことを見ているよ、あなたは一人じゃないよ、という、静かで、しかし確かなメッセージ。
最初は警戒していたサミィも、ノエルが毎日隣に座り、何も求めず、ただ静かに寄り添ってくれることに、少しずつ心を許し始めた。時折、ノエルが折った折り紙の鳥を、フードの隙間から、ちらりと盗み見るようになった。
変化が訪れたのは、ボランティアを始めて一週間が経った日のことだった。
その日、ノエルはルドルフを教会の中庭に連れてきていた。ルドルフの穏やかで賢そうな姿は、子供たちの人気者になった。サミィも、遠巻きながら、興味深そうにルドルフを眺めていた。
ノエルは、いつものようにサミィの隣に座ると、ルドルフの鼻が、まるで宝石のように赤く輝く様子を指差して見せた。
「きれいだろ? ルドルフは、特別なトナカイなんだ」
ノエルがそう言うと、サミィは初めて、こくりと小さく頷いた。
その時、サミィがおずおずと、ポケットから何かを取り出した。それは、古びた毛糸で丁寧に編まれた、小さな星の形をしたお守りだった。彼はそれを、ノエルに見せるように、そっと手のひらに載せた。
ノエルは、その星の形を見て、はっとした。息を呑む。
それは、サンタクロース協会の見習いたちが、誇りとして身につけているバッジの形に、酷似していたのだ。
「サミィ、その星……」
ノエルの胸の鼓動が、速くなるのを感じた。まさか。そんなはずはない。でも、もし。
彼は震える手で、懐から、ずっと大切に持ち歩いていた、イリスとルドルフと一緒に写っている、色褪せた写真を取り出した。そして、それをサミィに見せた。
「この人に、会ったことはないかな?」
サミィは、写真の中のイリスを見た瞬間、その小さな体をびくりと震わせ、今まで見たことのないほど、大きく目を見開いた。フードがずり落ち、露わになったその瞳から、堰を切ったように、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
彼は、初めて、はっきりとした声を発した。
それは、ノエルには分からない言葉だったが、その響きに込められた感情は、痛いほど伝わってきた。
「……¡Ángel!(アンヘル!…天使!)」
彼はイリスの写真を指差し、そう叫んだ。
「……Ayuda...(アユダ…助けてくれた)...」
彼は、自分が街の悪者に絡まれ、暴力を振るわれそうになった時、イリスがどこからともなく現れ、その手から放たれた眩い光で、悪者たちを追い払ってくれた様子を、必死のジェスチャーで伝えた。
「……Me dio...(メ ディオ…これをくれた)...」
彼は、星のお守りを強く、強く握りしめた。イリスが、怯える彼を慰めるように、そのお守りを手渡してくれたのだという。
「……Allá...(アヤ…あっちへ)...」
そして最後に、サミィは窓の外を、震える指で指し示した。その先にあるのは、再開発から取り残され、今は廃墟となった古い工場が、墓標のように立ち並ぶ、寂れた工業地帯だった。
「イリス……!」
ノエルは叫んだ。間違いない。イリスは、この街の光の当たらない場所で、彼女なりのやり方で、人々を救おうとしていたのだ。ついに、ついに彼女へと続く、具体的な手がかりを掴んだのだ。
ノエルは、泣きじゃくるサミィの小さな体を、強く、優しく抱きしめた。
「ありがとう、サミィ。教えてくれて、本当にありがとう。僕たち、そのお姉ちゃんを、必ず助けに行くから」
サミィは、ノエルの腕の中で、声を上げて泣き続けた。それは、恐怖と孤独から解放された、安堵の涙だった。
別れの時、シスター・アガサは、教会の入り口まで二人を見送りに来た。
「……行きなさい」
その声には、もう以前のような冷たさは微塵もなかった。彼女の瞳には、諦念ではなく、リリィとノエルの姿に見た、確かな希望の光が宿っていた。
「あなたたちが信じるものが、あなたたちを守ってくれますように」
それは、信仰を失ったはずの彼女が口にした、心からの「祈り」だった。
ついに掴んだ、イリスへと続く道。その先には、どんな危険が待ち受けているか分からない。だが、二人の心に、もう迷いはなかった。
サミィという、瓦礫の中で見つけた小さな星の光が、彼らの進むべき道を、確かに照らし出していた。ノエルとリリィ、そしてルドルフは、廃墟の工業地帯へと、力強く足を踏み出した。